ブルックリン

ブルックリン(2015年/アイルランド・カナダ・イギリス合作)
原題:Brooklyn
公開日:(英)2015年11月6日 (日)2016年7月1日
配給:20世紀フォックス映画
時間:112分

監督:ジョン・クローリー
原作:コルム・トビーン
脚本:ニック・ホーンビィ
出演:シアーシャ・ローナン(エイリシュ・レイシー)
   ジュリー・ウォルターズ(キーオ夫人)
   ドーナル・グリーソン(ジム・ファレル)
   エモリー・コーエン(トニー・フィオレロ)
   ジム・ブロードベント(フラッド神父)
   フィオナ・グラスコット(ローズ・レイシー)
   ジェーン・ブレナン(メアリー・レイシー)
   アイリーン・オイヒギンス(ナンシー)
   ブリッド・ブレナン(ケリー)
   エミリー・ベット・リッカーズ(パティ)
   イブ・マックリン(ダイアナ) ほか
製作:フィノラ・ドワイヤー、アマンダ・ポージー
製作総指揮:クリスティーン・ランガン
      ベス・パティンソン
      トーステン・シュマッカー
      ジギー・カマサ
      フセイン・アマーシ
      アラン・モロニー
撮影:イブ・ベランジェ
美術:フランソワ・セグワン
衣装:オディール・ディックス=ミロー
編集:ジェイク・ロバーツ
音楽:マイケル・ブルック

鑑賞日:2016年7月21日
場所:シネマイクスピアリ シアター1 C11


■ ストーリー
アイルランドの小さな町に暮らすエイリシュ・レイシー(シアーシャ・ローナン)─
姉ローズ・レイシー(フィオナ・グラスコット)と母親メアリー・レイシー(ジェーン・ブレナン)との3人で静かな生活を送っていた。
エイリシュはミス・ケリーの店で働いていた。店主のミス・ケリーは偏見が激しく、エイリシュは常にミス・ケリーから小言や嫌みを浴びせられていた。
エイリシュの姉ローズは会計士で、自らの地位や場所を確立しつつある。小さな町の中で抑え込まれ、出口も将来の希望も見いだせないでいた妹を不憫に思っていたローズは、エイリシュにチャンスを与えようと大都市アメリカ・ニューヨークへ送り出すよう手配する。
希望と不安を胸にニューヨークへと旅立つエイリシュ─待っていたのは孤独と郷愁…。周りと溶け込んでいくことで徐々に孤独は解消されていくが、ホームシックだけは強まる一方だった。そんな彼女を見かねたフラッド神父(ジム・ブロードベント)─彼はアイルランド系移民の手助けをしていた─神父のすすめと援助で、働きながらブルックリン大学へ通い出したエイリシュは、姉と同じ会計士になるという新たな目標を持つことで、次第に気持ちも晴れていく。
そして、彼女の前にイタリア系移民のトニー・フィオレロ(エモリー・コーエン)が現れ、彼と恋に落ち、心が開放され、新天地に自らを確立していく。
すべてが順調に流れ出したとき、エイリシュのもとに故郷から悲報がもたらされる。
再び強い郷愁に駆られたエイリシュは、一度だけアイルランドへ戻ることを決意する。必ず戻ることをトニーと固く誓い、エイリシュはブルックリンをあとにする。
故郷に戻ったエイリシュは、懐かしさとともに心の安らぎと居心地の良さを噛み締める。旧友との出会いで新たな男性の存在も気になり出す。生まれ育ったこの地で身を固め、再び共に暮らしていくことを周りから求められていると強く感じるようになったエイリシュ─、果たして彼女はどこへ行くのか─。

第88回アカデミー賞、作品賞/脚本賞/主演女優賞ノミネート
ゴールデン・グローブ賞(ドラマ部門)主演女優賞ノミネート

▶ 映画館環境
シネマイクスピアリのシアター1は座席数120、スクリーンサイズ不明。
前方のブロックと後方ブロックとに分かれている構成。C列は後方ブロック最前列。C11席はスクリーン向かって右端。C列であればどこでもいい。
平日の最終上映。20時以降は割引きになるので、それ狙い。非常に空いていた。

▶ 作品レビュー
古い時代を扱い、なおかつ郷愁というテーマを扱っているにもかかわらず、色彩豊かで美しい映像が印象的な作品。見た目の印象としては、背景の色彩と登場人物の衣装を含めた色彩とのコントラストがよく練られていたように思う。画面に現れる色味と展開されるストーリーが見事に絡み合い、あらゆる感情をつくり出しているように見えた。
真新しい映像ばかり続くのを音楽が補っていく。アイリッシュの響きで郷愁を誘い、その音の出し入れで見事にノスタルジーをコントロールしていく。それはあまりに分かりすぎるというか、単純な演出。しかし、音と映像がはまってしまうとどんなに単純であろうとも、不思議と自然に感情に訴えかけてくるし(─あくまで私見ではあるが)、狡猾さなどは微塵も感じない。ただ、その映像と音を融合させることこそ難しいことなのだけれども…。

アカデミー賞をはじめ、あらゆる映画賞で評価されているこの映画、どんな賞を取っているのか眺めていると、作品賞、主演女優賞、美術賞が中心であり、納得するところ。美しい色彩と美しい音色がシアーシャ・ローナンの繊細な演技と融合し、美しい結晶を創り上げている。

ブルックリン

このキービジュアルこそが、まさに映画そのものを表しているように思う。ぱっと見、右端のクラシックカーがなければ、時代背景が現代なのか過去なのか曖昧なところがある。
公式HPなどには“ロマンティックでリアル、現代に通じる永遠のテーマに絶賛の声!”などと記されている。確かに“現代に通じる”ということを意識した作品だと感じる。ということで、安易ではあるが、現代の日本に置き換えて捉えてみると、地方から大都市へと向かう潮流、悲しみ、ノスタルジー…といったところだろうか。
新たな希望に向かっていく潮流を称えるのか、廃れてゆく小さな存在を憂うのか、どちらか一方だけを肯定することはなかなか難しい問題。
結論を言ってしまうと、この作品は廃れてゆく過去のしがらみを捨て去り、新たな希望に向かって歩んで行くという物語。だからのエンディングも美しく、いわゆるハッピーエンド。しかし、敢えてその裏を読むと、そこには残酷で冷たく辛い選択というものが潜んでいるわけで、エンディングに嫌悪感を持つ者もいることだろう。
とはいえ、この作品にはその残酷さや冷酷さといったものはそれほど感じないし、終始、汚れなく美しく物語が展開していき、気持ち良く幕を閉じる。きれい事でしかない一つの寓話に過ぎないかもしれないが、それは意図されたものだと思うし、それを楽しむことも映画観賞の一つの醍醐味だとも思える。“現代に繋がるテーマ”なるものが潜んでいるかもしれないけど、そんなことは意識せず、純粋に、過去のきれい事を楽しんで、現実での嫌な思いをリセットしたいものである。

TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ

TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ(2016年・日本)
公開日:2016年6月25日
配給:東宝、アスミック・エース
時間:125分

監督:宮藤官九郎
脚本:宮藤官九郎
出演:長瀬智也(キラーK)
   神木隆之介(大助)
   尾野真千子(なおみ)
   森川葵(ひろ美)
   桐谷健太(COZY)
   清野菜名(邪子)
   古舘寛治(松浦)
   皆川猿時(じゅんこ)
   シシド・カフカ(修羅)
   清(鬼姫)
   古田新太(えんま校長)
   宮沢りえ(手塚ひろ美)
   坂井真紀(よしえ)
   荒川良々(仏)
   瑛蓮(神)
   みうらじゅん(MOJA・MJ)
   Char(鬼ギタリスト)
   野村義男(ジゴロック挑戦者)
   ゴンゾー(ジゴロック挑戦者)
   マーティ・フリードマン(じゅんこA)
   ROLLY(じゅんこB)
   福田哲丸(地獄の軽音楽部)
   一ノ瀬雄太(地獄の軽音楽部)
   藤原一真(地獄の軽音楽部)
   柳田将司(地獄の軽音楽部)
   木村充輝(歌うたいの小鬼)
   関本大介(鬼警備員)
   ジャスティス岩倉(緑鬼)
   烏丸せつこ(牛頭)
   田口トモロヲ(馬頭)
   片桐仁(鬼野)
   平井理央(アナウンサー)
   中村獅童 ほか
プロデューサー:宇田充、長坂まき子、臼井央
撮影:相馬大輔
照明:佐藤浩太
美術(地獄)桑島十和子美術(現世)小泉博康
装飾:西尾共未
録音:藤本賢一
VFXスーパーバイザー:道木伸隆
カラーグレーダー:齋藤精二
音響効果:岡瀬晶彦
編集:宮島竜治
音楽:向井秀徳
主題歌作曲:KYONO
スクリプター:北濱優佳
スタイリスト:伊賀大介
衣装:荒木里江
ヘアメイクディレクション:山崎聡
ヘアメイク:百瀬広美、風間啓子
特殊メイク:中田彰輝
造形:中田彰輝
振付:八反田リコ
スタントコーディネイター:小池達朗
演:島尻忠次
動物プロ:馬場光弘、内藤教夫
助監督:高橋正弥
製作担当:大田康一

鑑賞日:2016年7月19日
場所:TOHOシネマズ新宿 スクリーン6 H20


■ ストーリー
宮藤官九郎が監督・脚本の学園地獄コメディー映画。

ある高校が修学旅行のバス移動の途中に、転落事故に遭い、乗車していた高校生の大助(神木隆之介)含めほとんどの者が命を落としてしまう。
自分だけが地獄へ落ちてしまった大助は、その理不尽さに納得いかないまま、地獄農業高校にて地獄についての教育を受けることになる。そこではクラブ活動が義務化されていて、大助は軽音学部に入った。
顧問のキラーK(長瀬智也)の厳しい指導の下、地獄専属ロックバンド・地獄図(ヘルズ)のCOZY(桐谷健太)と邪子(清野菜名)と共に、自らを鍛え上げていく。そうすることで再び現世へと生まれ変わることが可能となり、大助の最大の目的、恋い焦がれていたひろ美(森川葵)に再び会うことを目指し、ひたすら努力を繰り返す。
努力の成果をえんま校長(古田新太)の前で披露するものの、許されるのは人間以外の動物や虫に生まれ変わることばかり…生まれ変わりには限りがあり、徐々にその限界も近づいてくる。限界値を超えると、鬼と化して、二度と地獄から出られなくなる。
追い込まれた大助は、ギターバトルやバンド対決というあらゆる困難を乗りこえて、ついに奇跡を起こす。それは、青春の至らぬ欲望というものを超越したもので、大助含め地獄の者だれもが予想もしていなかった結果を生む─。

▶ 映画館環境
TOHOシネマズ新宿 SCREEN6 座席数119 スクリーンサイズ4.6×11.0m
H20は最後列、スクリーン向かって右端の席。やはりこの劇場は最後列が狙い目だった。
平日でしかも上映4週目にもかかわらず、かなりの観客数で正直驚いた。20代が中心だったろうか。若者中心の客層だった。

▶ 作品レビュー
あくまで面白エンターテインメント映画。しかしそこに確固たる輪廻の思想があるわけで(それが宮藤官九郎の思想・信仰かどうかは分からないけれど、みうらじゅんが出演している時点で、なんとなくバックグランドを示すようなやり口が狡猾─)、一見おバカなお話しも実は知性溢れる物語のような気がしてくるわけで、決して優れた絵や明確な主義主張があるわけではないけれども、何だか凄くいい映画に思えてしまった。
もっとも、この映画を心底楽しむためには、メタルやギターに興味がありそれに精通しているということが条件であるような気がする。とはいえ、それらを取るに足らないものと見做していたとしても、雰囲気で楽しめるとは思う。が、それだけではもったいない。
かく言う自分は、メタルファンでギター小僧であったわけで、同じような過去を持つ数多くのオッサンどもを見事に魅了する。デスメタル調から始まり、今は亡きランディー・ローズ、ゲーリー・ムーア、カート・コバーン、ジミヘンにSVR、ロバート・ジョンソン等々あらゆるプレイと“腕”が登場、その上さらにCharとよっちゃんのギターバトルやマーティン・フリードマンとローリーの登場等々、さすがはギターマガジンを愛読書として挙げる宮藤官九郎だと関心・感化されつつ、もやはこみ上げてくる笑いを抑えることができない自分がいた。
そもそもこの映画のタイトルこそがメタルの影響丸出しで、相当前に見たであろうトレーラーだけでこの映画にはまってしまったと言っても過言ではない。Too young to〜 とくると自分のメタル魂が 〜Fall in love と呼応し、頭の中でモトリー・クルーでいっぱいになる。そんなのは自分だけ…いや、結構いるはず。でも、モトリーはLAメタルだから地獄とは無縁…むしろ、ストライパーとかクリスチャンメタル的な要素を入れ込んだらもっと面白かっただろうに…などと、勝手に夢想する有様。事情により公開が遅れたわけだが、その分、変な期待も膨らんでいったような気がする。まぁ、あんなにメタルキッズ寄りとは想像もつかなかったわけだが…。
申し訳ないが、映画に芸術性とかメッセージ性のようなものを強く求める人にとっては、最悪の映画かもしれない。青春を面白おかしく描いただけのエンターテインメントでしかないわけだから─。
確かに、生と死とか輪廻とか人生、あるいは青春といった事柄がテーマとなっているように思ったりするが、私見でこの映画を表現するならば、メタル魂、これ以外にない。これに賛同する輩は星三つ、賛同できないけれども映画を楽しめたという輩は星二つか一つ、残りの輩は多分クソ映画とけなすだろう。
適当な絵、適当な設定、適当な展開、適当な演出、適当な音楽…あらゆるところに緩さを感じてしまうわけで、それをどう捉えるかは、クドカンや出演陣に好感を持っていないとすればあとはメタル魂にかかってくる。そのどれも持っていなくとも、最終盤のシーンなどには思わず感情移入してしまいそうになるけれども、最後のカットもまぁ適当なわけで、その適当さかげんを受け入れないと予想する者はこの映画は見ない方がいいだろう。2時間無駄な時間を費やすだけだ。
メタル魂を持っている(または持っていた)オッサンは、ぜひとも見るべき映画だ。笑うもけなすもどちらでも、有意義なツッコミとなることは間違いないだろう。
死というものをベースにした映画であるが、決して死をテーマにしているわけではなく、むしろそれをも笑い飛ばしたコメディーにすぎない。個人的には、あくまでメタル魂の映画だと主張するが─。だから、興味がないままにふらっと見て酷評するような醜くて無意味なことはやめてほしい。映画への愛とか、アートといった重々しいものは捨て去って、メタル魂だけでもって臨んだのであれば、人生の中の2時間を謳歌できるかもしれない。

教授のおかしな妄想殺人

教授のおかしな妄想殺人(2015年・アメリカ)
原題:Irrational Man
公開日:(米)2015年7月17日 (日)2016年6月11日
配給:(米)ソニー・ピクチャーズ・クラシックス (日)ロングライド
時間:95分

監督:ウッディ・アレン
脚本:ウッディ・アレン
出演:ホアキン・フェニックス(エイブ)
   エマ・ストーン(ジル)
   パーカー・ポージー(リタ)
   ジェイミー・ブラックリー(ロイ)
   ベッツィ・アイデム(ジルの母)
   イーサン・フィリップス(ジルの父) ほか
製作:レッティ・アロンソン、スティーブン・テネンバウム、エドワード・ワルソン
共同製作:ヘレン・ロビン
製作総指揮:アダム・B・スターン、アラン・テー、ロナルド・L・シェ
共同製作総指揮:ジャック・ロリンズ
撮影:ダリウス・コンジ
美術:サント・ロカスト
衣装:スージー・ベンジンガー
編集:アリサ・レプセルター

鑑賞日:2016年7月4日
場所:新宿ピカデリー シアター4 J-15


■ ストーリー
小さな町の大学に若い頃から天才と謳われてきた哲学者エイブ(ホアキン・フェニックス)が哲学科の教授として赴任してきた。悲惨な過去を抱え酒に溺れていたエイブは、厭世的で何事にも無気力─、今や彼は変人として周りから見られるようになっていた。

エイブに憧れていた女子学生ジル(エマ・ストーン)は、世捨て人のようになっていたエイブに対し、その才能は変わっていないと確信を抱き、彼にどんどん近づいていく。

ある日、エイブは偶然に悪徳判事の噂を耳にする。判事のことを詳しく調べ、その悪事は疑いのないものと確信したエイブは、ひそかに判事を殺害しようと決意する。それが世の中のためであると思い込んでしまうと、いかにバレずに殺害できるか、そのことに向かって綿密な計画を立て、妄想にのめり込んでいく。

完全犯罪へと集中することで、生きる目的を失っていたエイブに生気がみなぎっていく。悩み続けていたEDも解消され、倫理的という言い訳で拒み続けていたジルからの求愛も受け入る。

すべてが順調に歩み始めたエイブ。果たしてその歯車は狂うことなく順調に回り続けるのだろうか─。


▶ 映画館環境
新宿ピカデリーのスクリーン4は座席数129。スクリーンサイズは不明。箱のサイズに対してスクリーンサイズは大きい。J-15は最後列のスクリーン向かってやや右寄りの席。最後列でもスクリーンは大きく見える。個人的にはJの14か15が狙い目。
平日の朝イチの上映にもかかわらず、結構人がいると思った。根強いファン層がいることを物語っている。年齢もやや高めだったし─。

▶ 作品レビュー
設定や配役、大枠の展開など満足いくものだし、ブラックな笑いを堪能できる。
イケメンで知性溢れるエイブ(ホアキン・フェニックス)は社交を拒み、しかも“出来ない”。それだけでも何だか笑えるけれど、殺意を持つと突然“出来て”、若いジル(エマ・ストーン)をもモノにしてしまうという展開にも笑える、けど多少むかつく…。がしかし、最終的なエイブの運命こそが最高に笑えるわけで、そう思ってしまう感情をつくり出すウッディ・アレンは紛れもないペシスト!?と思ってしまう。
ホアキン・フェニックスの演技にもエマ・ストーンの演技にも満足─というよりも、演技という感覚を持てないくらいにナチュラルに彼ら彼女らは会話を展開するし、映像も普通にナチュラルに展開していくわけで、感情と笑いだけでスクリーンを魅了させているウッディ・アレンはさすがとしか言いようがない。
とはいえ、そのナチュラルさがあだとなっている部分も少なくない。まずは、ジルがダメダメのエイブに接近していく所以がよく分からない・納得いかない・説得力がない…まぁ、主演2人、男と女だから惹かれ合っていくのは当然、と言われればそれまでかもしれないが、そこに不自然さを見てしまうと普通は問答無用に駄目!と思ってしまうところ─。まぁその不自然さもアレンの笑いだと思わせるだけの歴史があるわけだから、少しの違和感などはアレンファンを素通りしていく。
しかし、素通りできない最大の違和感が物語のメインに存在する。それは、エイブが悪徳判事の噂を耳にするところ。あまりに不自然で、エイブが完全犯罪へと向かうきっかけとしてあまりにも弱過ぎると感じてしまった。後から聞こえてくる話し声がエイブを妄想へと駆り立てるという設定は、あまりに安直すぎる。ウッディ・アレンのことだから観客を下に見て製作していることだろうと(いじわるく)思ったりする。それにしても、ちょっと簡単にし過ぎだなーこれは…。もう少しきっかけの積み重ねが欲しかったというのが個人的な見解。
その後の非現実的な“妄想殺人”部分がとてもナチュラルに展開していく故に、そのきっかけとなった地点がより一層違和感極まりなく見えてきて、そう思ってしまうと、エイブの変貌ぶりはあくまで演技というか劇だな…としか認識できなくなってくるわけで、色男復活のエイブには嫌みしか感じなくなる。とはいえ、この感情が後々スカッと大笑いという結果を生むことになるわけで、それを目論んでの脚本なのかと深読みして考えてたりして、そうやって勝手にアレンの意図を読み取って勝手にアレンに感服するばかりなのである。
人の死を嘆き悲しむという行為こそがマナーであり礼儀だというのが一般の常識。古代中国においても、葬儀の作法として幾重にも泣くことをちりばめられている。すなわち、この映画のように死というものを笑い飛ばすということは笑止千万、非礼も甚だしいこと。そんなこと言わずもがな、それでも軽やかなジャズの調べに乗せられるかのように、劇中の死に笑いを抑えられない。
死を笑い飛ばすことを目的としたこの映画を見た後でも、死を悲しむという感覚は変わらないし、既存のモラルを揺さぶることもない。全般的に死というものを単に笑い飛ばすということではなく、死を笑い飛ばせられるよう知的にストーリーを組み立てているところが狡猾であり、それがウッディ・アレンにニヒルとかペシズムという冠を与える所以なのだろう。
派手さもないし淡々としていて、最後は(悪く言えば)陳腐に終わってしまうわけで、アラも目立つだけに、あまり多くの人を楽しませることはできない映画だろう。確かに、ウッディ・アレンらしいブラックユーモアとか知性は大いに感じるけれども、「ミッドナイト」とか「ブルー・ジャスミン」などと比べると明らかに見劣りしてしまう。それでもアレンの作品を見続けるというこの感情こそが、アレンの実績のひとつと言えるのかもしれない。



日本で一番悪い奴ら

日本で一番悪い奴ら(2016年・日本)
公開日:2016年6月25日
配給:東映、日活
時間:135分

監督:白石和彌
原作:稲葉圭昭「恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白」
脚本:池上純哉
出演:綾野剛(諸星要一)
   YOUNG DAIS(山辺太郎)
   植野行雄(アクラム・ラシード)
   矢吹春奈(田里由貴)
   瀧内公美(廣田敏子)
   田中隆三(猿渡隆司)
   みのすけ(岸谷利雄)
   中村倫也(小坂亮太)
   勝矢(漆原琢馬)
   斎藤歩(桜庭幸雄)
   青木崇高(栗林健司)
   木下隆行(加賀谷力)
   音尾琢真(国吉博和)
   ピエール瀧(村井定夫)
   中村獅童(黒岩勝典)
   白石糸(沙織)ほか
エグゼクティブプロデューサー:田中正、柳迫成彦
企画:千葉善紀、赤城聡
プロデューサー:高橋信一、田中誠一
撮影:今井孝博
美術:今村力
照明:金子康博
録音:浦田和治
音響効果:柴崎憲治
編集:加藤ひとみ
音楽:安川午朗
音楽プロデューサー:津島玄一
主題歌:東京スカパラダイスオーケストラ、Ken Yokoyama
装飾:京極友良
衣装:宮本まさ江
ヘアメイク:小山徳美
キャスティング:杉野剛
助監督:是安祐
制作担当:宮森隆介

鑑賞日:2016年7月4日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン2 C5


■ ストーリー
日本警察史上最大の不祥事といわれる、実際にあった稲葉事件を題材にした劇映画。
北海道警察の稲葉圭昭(いなば よしあき)警部をモデルにした劇中の諸星要一(綾野剛)が、1976年に道警に入り、数々の事件に関わり、最終的に2002年に覚せい剤取締法違反(所持)の疑いで逮捕されるまでの物語。

大学で柔道で名を馳せた諸星要一は、その実力を買われ道警に入署する。すぐに暴力団捜査に携わり、麻薬の取り締まりや拳銃の押収などを重ねていくうちに、次第に自らの捜査手法も暴力団まがいのものになっていく。女を囲い、裏社会の人間との絆も生まれ、いつしかチームとして、手段を選ばない捜査手法を繰り返すようになっていた。
1993年ごろ、警察が銃器摘発キャンペーンを敷き、それに合わせるように道警では銃器対策室が設けられた。諸星もそこに配属され、銃器摘発のエースとして期待を集める。それにこたえるように、裏取引をしてまで、あたかも大量の銃を押収したかのように装うっていく。それが常態化していき、どんどんエスカレートしていった。
大量の銃を手にするために、諸星は資金を必要とした。そのために覚醒剤の密売などにも手を染めていく。
当初、それは順調に見えたが、徐々に思うようにいかなくなり、そしてついに大きな失敗をして諸星の栄光は終焉を迎える。そして、諸星は、決して自ら手を染めることがなかった薬物にはまっていってしまう。

▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン2は座席数112で、スクリーンサイズが9.1×3.8m。前方2列、後方7列の構成。後方最前列には手すりなどの柵がなく、スペースでいうと魅力的。C列は後方列の最前列で、若干近すぎて見上げになってしまう。ただ、これぐらいのスクリーンサイズであれば、それほどつらさは感じない。むしろ、非常に迫力を感じるベストな席。C5は左端の席。画面にかなり近いだけに、真ん中よりもむしろ端の方が見やすいような気がする。

▶ 作品レビュー
いま流行の(?)過去を描く際に映像をわざと古く見せる手法を多用していたように見えた。多少の効果は感じるけれども、そのこだわりは少し弱いように見えた。というのも、急にその画質が今風に変わってしまうところが多々見受けられ、映画の世界観に入っていこうとする上で明らかに妨げになっていた。極悪な諸星が、やんちゃな綾野剛にしか見えない、といったように─。(まぁ古ぼけた映像をわざと作ろうとしているところはなかったのかもしれないし、単に過去の事物を画面内に配置しただけで映像そのものが古ぼけて見えたのかもしれない。個人的に感じたのは、映像的な統一感のなさといったところ)
そしていま一つ批判的なところを挙げさせてもらう。それは、役者を本業としない演者が何人か登場してくる点においてであり、彼らの演技にごとく嫌悪感を持ってしまう。映画には役者しか出演しては駄目だなどと頭の硬いことは言わない。しかし、本業ではないからと、拙い演技を許容しなければならない義務もない。そうはいっても、彼らは自らの能力を自覚しつつ、できる限りの演技をしていただろうし、それを生かすも殺すも演出次第だったと思うわけで、それが上手い具合にはまっていなかったというのが個人的な見解。
正直なところ、演技にも映像そのものにも全く魅力を感じなかったわけで、映画としてみた場合、あまり芳しいものではなかった。(あくまで個人的見解)
それでもこの映画を“良し”とする。その最たる理由は、やはりもとになっている話が凄すぎるというところにある。
治安のよい国日本、安全な国日本、そう呼ばれているのは幻想で、そしてまた、その治安と安全を警察が保障していると思うことがいかに恐ろしく、それは非常に危険なことだと思わされる。
描かれ方があまりにも過剰に感じてしまうところもあるし、もとになっている原作もあくまで個人の告白によるもので客観性に欠けるとも思ってしまう。しかし、描かれているものは嘘とは思えないし、これを役者が演じている虚構だと認識した上で観賞しつつも、むしろ、これこそが真実だ!とも思ってしまう。表層的な格好良さなど度外視してでも、リアルな感じとか生々しさといったことを表現したい、そういう思いが伝わってくる。それがこの作品の評価にも繋がっていく気がする。
史上最悪とも言われる警察の不祥事なのだから、もっと真面目な大作を、と思ったりしたけれど、もしかしたら、そんな堅物を作られたところでその事実をしっかりと受けとめられたかどうか疑問に思ってしまう。過度にも思えるこの作品のような劇的演出があればこそ、社会に対する危機感というものなどを喚起させられるのかもしれない。
エンターテインメントとし楽しめる映画であると思うし、同時に、広く世に知らしめるといった啓発という意味でも意義深い映画だとも思える。ただ、個人的には再び見たいとは思わないし、そう思わせてくるだけの魅力はなかった。しかしながら、この映画への強烈な記憶はいつまでも消えることはないだろう。