教授のおかしな妄想殺人(2015年・アメリカ)
原題:Irrational Man
公開日:(米)2015年7月17日 (日)2016年6月11日
配給:(米)ソニー・ピクチャーズ・クラシックス (日)ロングライド
時間:95分
監督:ウッディ・アレン
脚本:ウッディ・アレン
出演:ホアキン・フェニックス(エイブ)
エマ・ストーン(ジル)
パーカー・ポージー(リタ)
ジェイミー・ブラックリー(ロイ)
ベッツィ・アイデム(ジルの母)
イーサン・フィリップス(ジルの父) ほか
製作:レッティ・アロンソン、スティーブン・テネンバウム、エドワード・ワルソン
共同製作:ヘレン・ロビン
製作総指揮:アダム・B・スターン、アラン・テー、ロナルド・L・シェ
共同製作総指揮:ジャック・ロリンズ
撮影:ダリウス・コンジ
美術:サント・ロカスト
衣装:スージー・ベンジンガー
編集:アリサ・レプセルター
鑑賞日:2016年7月4日
場所:新宿ピカデリー シアター4 J-15
■ ストーリー
小さな町の大学に若い頃から天才と謳われてきた哲学者エイブ(ホアキン・フェニックス)が哲学科の教授として赴任してきた。悲惨な過去を抱え酒に溺れていたエイブは、厭世的で何事にも無気力─、今や彼は変人として周りから見られるようになっていた。
エイブに憧れていた女子学生ジル(エマ・ストーン)は、世捨て人のようになっていたエイブに対し、その才能は変わっていないと確信を抱き、彼にどんどん近づいていく。
ある日、エイブは偶然に悪徳判事の噂を耳にする。判事のことを詳しく調べ、その悪事は疑いのないものと確信したエイブは、ひそかに判事を殺害しようと決意する。それが世の中のためであると思い込んでしまうと、いかにバレずに殺害できるか、そのことに向かって綿密な計画を立て、妄想にのめり込んでいく。
完全犯罪へと集中することで、生きる目的を失っていたエイブに生気がみなぎっていく。悩み続けていたEDも解消され、倫理的という言い訳で拒み続けていたジルからの求愛も受け入る。
すべてが順調に歩み始めたエイブ。果たしてその歯車は狂うことなく順調に回り続けるのだろうか─。
▶ 映画館環境
新宿ピカデリーのスクリーン4は座席数129。スクリーンサイズは不明。箱のサイズに対してスクリーンサイズは大きい。J-15は最後列のスクリーン向かってやや右寄りの席。最後列でもスクリーンは大きく見える。個人的にはJの14か15が狙い目。
平日の朝イチの上映にもかかわらず、結構人がいると思った。根強いファン層がいることを物語っている。年齢もやや高めだったし─。
▶ 作品レビュー
設定や配役、大枠の展開など満足いくものだし、ブラックな笑いを堪能できる。
イケメンで知性溢れるエイブ(ホアキン・フェニックス)は社交を拒み、しかも“出来ない”。それだけでも何だか笑えるけれど、殺意を持つと突然“出来て”、若いジル(エマ・ストーン)をもモノにしてしまうという展開にも笑える、けど多少むかつく…。がしかし、最終的なエイブの運命こそが最高に笑えるわけで、そう思ってしまう感情をつくり出すウッディ・アレンは紛れもないペシスト!?と思ってしまう。
ホアキン・フェニックスの演技にもエマ・ストーンの演技にも満足─というよりも、演技という感覚を持てないくらいにナチュラルに彼ら彼女らは会話を展開するし、映像も普通にナチュラルに展開していくわけで、感情と笑いだけでスクリーンを魅了させているウッディ・アレンはさすがとしか言いようがない。
とはいえ、そのナチュラルさがあだとなっている部分も少なくない。まずは、ジルがダメダメのエイブに接近していく所以がよく分からない・納得いかない・説得力がない…まぁ、主演2人、男と女だから惹かれ合っていくのは当然、と言われればそれまでかもしれないが、そこに不自然さを見てしまうと普通は問答無用に駄目!と思ってしまうところ─。まぁその不自然さもアレンの笑いだと思わせるだけの歴史があるわけだから、少しの違和感などはアレンファンを素通りしていく。
しかし、素通りできない最大の違和感が物語のメインに存在する。それは、エイブが悪徳判事の噂を耳にするところ。あまりに不自然で、エイブが完全犯罪へと向かうきっかけとしてあまりにも弱過ぎると感じてしまった。後から聞こえてくる話し声がエイブを妄想へと駆り立てるという設定は、あまりに安直すぎる。ウッディ・アレンのことだから観客を下に見て製作していることだろうと(いじわるく)思ったりする。それにしても、ちょっと簡単にし過ぎだなーこれは…。もう少しきっかけの積み重ねが欲しかったというのが個人的な見解。
その後の非現実的な“妄想殺人”部分がとてもナチュラルに展開していく故に、そのきっかけとなった地点がより一層違和感極まりなく見えてきて、そう思ってしまうと、エイブの変貌ぶりはあくまで演技というか劇だな…としか認識できなくなってくるわけで、色男復活のエイブには嫌みしか感じなくなる。とはいえ、この感情が後々スカッと大笑いという結果を生むことになるわけで、それを目論んでの脚本なのかと深読みして考えてたりして、そうやって勝手にアレンの意図を読み取って勝手にアレンに感服するばかりなのである。
人の死を嘆き悲しむという行為こそがマナーであり礼儀だというのが一般の常識。古代中国においても、葬儀の作法として幾重にも泣くことをちりばめられている。すなわち、この映画のように死というものを笑い飛ばすということは笑止千万、非礼も甚だしいこと。そんなこと言わずもがな、それでも軽やかなジャズの調べに乗せられるかのように、劇中の死に笑いを抑えられない。
死を笑い飛ばすことを目的としたこの映画を見た後でも、死を悲しむという感覚は変わらないし、既存のモラルを揺さぶることもない。全般的に死というものを単に笑い飛ばすということではなく、死を笑い飛ばせられるよう知的にストーリーを組み立てているところが狡猾であり、それがウッディ・アレンにニヒルとかペシズムという冠を与える所以なのだろう。
派手さもないし淡々としていて、最後は(悪く言えば)陳腐に終わってしまうわけで、アラも目立つだけに、あまり多くの人を楽しませることはできない映画だろう。確かに、ウッディ・アレンらしいブラックユーモアとか知性は大いに感じるけれども、「ミッドナイト」とか「ブルー・ジャスミン」などと比べると明らかに見劣りしてしまう。それでもアレンの作品を見続けるというこの感情こそが、アレンの実績のひとつと言えるのかもしれない。
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