君の名は。(2016年・日本)
公開日:2016年8月26日
配給:東宝
時間:107分
監督:新海 誠
原作:新海 誠
脚本:新海 誠
声:神木隆之介(立花 瀧)
上白石萌音(宮水三葉)
長澤まさみ(奥寺ミキ)
市原悦子(宮水一葉)
成田 凌(勅使河原克彦)
悠木 碧(名取早耶香)
島崎信長(藤井 司)
石川界人(高木真太)
谷 花音(宮水四葉)ほか
製作:市川 南、川口典孝、大田圭二
共同製作:井上伸一郎、弓矢政法、畠中達郎、善木準二、坂本健
企画:川村元気
プロデュース:川村元気
エグゼクティブプロデューサー:古澤佳寛
プロデューサー:武井克弘、伊藤耕一郎
制作プロデューサー:酒井雄一
音楽プロデューサー:成川沙世子
キャラクターデザイン:田中将賀
作画監督:安藤雅司
音響監督:山田 陽
音響効果:森川永子
音楽:RADWIMPS
制作:コミックス・ウェーブ・フィルム
鑑賞日:2016年8月30日
場所:TOHOシネマズ新宿 スクリーン9 G13
■ ストーリー
自然に囲まれた小さな田舎町で暮らす女子高生の宮水三葉(cv.上白石萌音)──彼女は、いつも都会に憧れている──ある朝、目を覚ますと、体に違和感を覚える。あるはずのない胸があり、あるべきはずの下の部分がない…。
その日の三葉の行動は、周りから見ても、全くの別人であり、まるで男子であるかのような振る舞いをする。
翌朝、三葉はいつも通りの三葉に戻っていた。周りも安心して、皆が昨日の異常な行動を指摘するが、三葉には全く身に覚えのないことだった。
一方、ビルが建ち並ぶ大都市に住む男子高校生の立花瀧(cv.神木隆之介)──ある朝、目を覚ますと、下半身の違和感に慌てて鏡を見る。そこには身に覚えのない男子の顔が…見知らぬ部屋…そこに見知らぬ親が起こされて、せかされるように見知らぬ学校へと向かう。そこには憧れ続けていた都会の風景が広がっていた。
瀧の中身が三葉になって、そして、三葉の中身は瀧になっていた。
瀧と三葉は入れかわっては戻り、戻っては入れかわることを繰り返す。入れかわりの原因もタイミングも分からないまま、互いにルールを決め、そして記録を常に残していくことで、入れかわっても違和感なく生活を送る術を確立していく。
だいぶ入れかわりに慣れた頃、三葉がテレビで千年ぶりの彗星が近づいているというニュースを目にし、肉眼でもその煌びやかな姿を目にするようになると、突然、入れかわりが起こらなくなってしまう。
目の前に広がる自然がどうしても頭から離れない瀧は、三葉として見ていた風景を記憶だけで描き出す。そしてそれを頼りに、三葉に会いに行こうと決意する。
かすかな手がかりだけだったが、瀧は徐々に三葉に近づいていく。そして、真実を知ったとき、彼女はそこにいなかった…
しかし瀧は諦めず、なおも三葉を追い続ける。失われた時を取り戻そうと、必死に──。
▶ 映画館環境
公開1週目、どの劇場どの時間帯、良い(と思われる)座席は埋まっている。しかも、TOHOシネマズ新宿などでは夕方以降はほぼ満席状態。平日の朝一、事前のネット予約で、なんとかほぼ個人的に望ましいと思われる座席をゲット。
TOHOシネマズ新宿スクリーン9TCX(TOHO CINEMAS EXTRA LARGE SCREEN)スクリーンサイズ8.0×19.2m、音響環境ドルビーアトモスという、よく分からないけれどもなんだかすごいんだろうと思われる環境下での上映。
若い人中心にたくさんの人が観賞していました。
▶ 作品レビュー
絵の拘り、音や音楽への拘り、そういう触れ込みがあったかどうか分からないけれど、新海誠監督作品はそうなのだろうとの思い込みで、なるべく大きな画面で良い音での観賞を求め、ベストな劇場・座席を選択した(つもり)。
音・音楽と絵に対する率直な感想を言ってしまうと、期待し過ぎた感がある。優れた設備に作品が追いついていないといった印象。光りの表現に対する拘り、音楽と映像をリンクさせる拘りなどは非常に良く理解できたし、そういった細部における拘った表現は優れていたとは思う。しかし、予想以上に大画面で映し出される映像は、明らかに明瞭さに欠けるところがあった。それは制作環境のせいなのか、絵作りそのものがまずかったのか、一観賞者による一瞥では測りかねるところがあるけれども、絵だけで魅了される作品ではなかったように思う。
音・音楽自体においても、それほど魅了されず──音そのものに拘りを感じることができなかったし、ミュージックビデオのごとく展開する映像音楽にも、特段斬新さを感じることはなかった。悪くいってしまえばよくあるもの──ただ、音楽も絵の展開も、よくできていたので、RADWIMPSのサウンドに好意を抱く者が見れば感動できるのかもしれない。
仮に、RADWIMPSのライブを見に行って、生でその音楽を聴きながら、ステージ上に設置された大画面でこの映画の一場面を見るという状況であったのであれば、門外漢の自分などでも大きな感動を覚えたかもしれない。まあ、それは映画観賞という趣旨を外れてしまうのだけれども──。
いきなり批判めいた書き出しになってしまったが、映画として非常に楽しく観賞できたし、優れたアニメーションだと断言できる。
徹底したリアリティーの追求が背景の隅々まで行き届いていて、画面の中にはひとつの世界が構築されていた。
そこには我々が普段目にする世界が広がっていて、同時に、それが現実以上に煌びやかであり、それはまさに桃源郷というにふさわしいもの─それでいて、あくまでリアリティーを損なわないその世界にすんなりと入り込んでいくことができるわけで、しかも穢れのないその世界に気持ち良く浸ることすらできる。自分たちの世の中を美しく再構成することも、ゼロから全てを創り上げるアニメーションの醍醐味だということを知らしめられた思い。
現実世界に溢れる美しいもの、面白いもの、興味深いもの等々、それら全てを掛けあわせて出来上がっている作品だという印象が強い。悪くいってしまえば、革新的な事柄は皆無であり、オリジナリティーという面においては弱々しいものを感じてしまうものの、全てをコラージュし再構成することで、理想的な創造物を構築しようという意志を感じる。
あらゆる拘り、細部にわたる拘りなどは、あくまで理想とするもの、面白い作品、面白い世界を創り出そうとするための手段であって、そのためにはどんなことでも厭わないといった気概を感じる。
新しさということよりも、面白さ・美しさというものを創り上げたかったのだと容易に想像がつく。
とはいえ、キャラクターも物語の設定もどこかで見たと思ってしまうわけで、何かの焼き写しのように感じてしまう人も少なくないはず。何か新しいものを求めて、映画やアニメーションを見る人にとっては、全く評価できない作品なのかもしれない。そして、もしかしたら、その見解は正しいのかもしれない。あらゆるものを借りて出来上がった作品に過ぎないのかもしれない。
しかし、結果的に生み出されたものは、どこにも存在しない新海誠作品だと断言できる。面白くて、美しいアニメーションが確実に生み出されている。まだまだこれから新海作品は進化し続ける予感すらする。いわゆる、伸びしろっていうものを感じずにはいられない。
とかく地味で、いきなり注目を浴びるような作品はつくらないけれども、美しくて楽しい世界の構築に拘り続けて、淡々と自分自身を信じた作品を発表し続けて、ついには非常にたくさんの人が見るように至っている──そう新海誠というアーティストを評してよいのかどうか分からないが、この作品は発展途上であって、まだまだ理想には程遠いようにも思ってしまう。それが、面白くても絶賛できないわだかまりなのだろうか…。
新海誠というアーティストが本当に理想とするものを創り上げたとき、そこに新海誠のオリジナリティーというものを感じることができるだろうと勝手に期待してしまうのだが、まあ、オリジナリティーが出たからといって、とてつもなく面白くなるとは限らないと一抹の不安も覚えている。
とにかくも、これからもぶれることなく、美しくて楽しいリアルな世界を構築していってほしいものである。
私的映画鑑賞記録 Private movie recording 私人电影录音 Enregistrement d'un film privé 私人电影录音 La grabación de películas privada 사적 영화 감상 기록 Отдельный записи видео تسجيل الفيلم الخاص
傷物語Ⅱ 熱血篇
傷物語Ⅱ 熱血篇(2016年・日本)
公開日:2016年8月19日
配給:東宝映画事業部
時間:69分
監督:新房昭之
原作:西尾維新
声:神谷浩史(阿良々木 暦)
坂本真綾(キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード)
堀江由衣(羽川 翼)
櫻井孝宏(忍野メメ)
入野自由(エピソード)
江原正士(ドラマツルギー)
大塚芳忠(ギロチンカッター) ほか
キャラクターデザイン:渡辺明夫、守岡英行
音響監督:鶴岡陽太
音楽:神前 暁
アニメーション制作:シャフト
鑑賞日:2016年8月30日
場所:TOHOシネマズ新宿 スクリーン3 E9
■ ストーリー(公式HPより)
高校二年の春休みに、美しき吸血鬼キスショット・アセロラオリオン・
ハートアンダーブレードと出会った阿良々木暦。四肢を失い、瀕死の状態に
あった彼女を助けた暦は、しかし自らも吸血鬼になってしまう。
人間に戻るためには、奪われたキスショットの四肢を取り戻さなければならない。
怪異の専門家・忍野メメの助言を受けた暦は、過酷な戦いに乗り出していくことになる。
彼の前に待ち受けているのは、
身長2メートルを超える巨漢である吸血鬼を狩る吸血鬼・ドラマツルギーと、
巨大な十字架を自在に操る半吸血鬼(ヴァンパイア・ハーフ)のエピソード。
そして、吸血鬼退治を専門にする、物静かな人間・ギロチンカッター。
はたして暦は、3人の「敵」から、キスショットの四肢を奪い返すことができるのか?
雨がそぼ降る3月最後の夜、血戦の幕が静かに上がる―。
▶ 映画館環境
TOHOシネマズ新宿 SCREEN3 座席数130 スクリーンサイズ4.5×10.8m
E9はちょうど劇場の真ん中。特に真ん中のメリットを感じなかったので、後とか通路側とか端など、落ち着いて座るところを選ぶべき劇場かもしれない。
平日でにもかかわらず、意外と座席が混んでいた。公開されている場所も少ないし、劇場も小さめなところがほとんどだから──と勝手に分析。
客層は極めて偏っているように見受けられた。やっぱり、独特な人が好むような作品だと確信した、いまさら…
▶ 作品レビュー
もともとモノノ怪の類いを扱っているわけだから、血が飛び散るグロテスクな表現は数多く見られる作品ではあるのだが、その中にも、笑いやエロさといった要素により軽やかになっていたように思う。そして、そこが個人的には非常に気に入っている部分なのだが、ここまでの劇場版においてはその軽やかさが少しだけ削ぎ落とされているような印象を持つ。笑いやエロとった要素は失われていないものの、絵自体がどす黒い。重々しい赤を基調とされた画面構成に、視覚的ストレスをもろに受けてしまうような印象を受けるのだ。それでも、化物語へと繋がる伏線が展開されていると認識できる者ならば、楽しみ所は満載なのだが、仮に劇場版から阿良々木暦や忍野メメ、羽川翼などの名を知るに至ったという可哀想な人にとっては、単に酷いものと映る危険性が大だと感じてしまう。もっとも、順番的にはこの映画から見ることこそが時間軸に沿ったもので間違ってはいないのだが、如何せん全てがあまりに唐突すぎる。まあ、そもそもの話の展開自体が突然の出来事の連続であり、テレビアニメとして放映された化物語に至っては、情報が欠落したままどんどん物語の情報が与えられ、(めくるめく映像と難解な文字情報がどんどん提示されて)真剣に全てを把握しようとすると、かえって対峙している作品を放棄したくなる気持ちになってしまう。とはいえ、たいていの場合、いつの間にか自分の理解を超えた事柄は自然とスルーしてしまっていて、それでもこれは楽しいと感じることができて、理解できなくても何だか楽しいという、まさに怠惰なアニメファンを虜にしてしまう作品なのである。だから、映画の中で展開する過去というか現在─、その未来はすでに提示されているわけであり、半ば不安を抱えることなく、何の感情も思考も持たなくとも、いずれはそこに繋がるだろうという安心感を持って作品に臨むことができるわけだ。
確かに安心感はある。しかし、画面のどす黒さとともに、何かが物足りない。さて、それは何なのか?個人的な印象として、やり過ごす運命にあるような小難しい知識や説明不足の物語などが足りない印象を持つ。具体的にいうと、難しい漢字や文字、<Ⅰ鉄血篇>で頻繁に差し込まれたフランス語、NOIRとかROUGEといった文字が、今回は極力抑えられており、展開においても淡々と物語を時間軸に沿って流しているだけのものだった。キャラクターの名前の遊びは非常に興味深いものではあったが、その言葉遊びもあくまで台詞回しだけに終始しており、その魅力的なキャラクター名が決して自律的になることはなかった。その意図するところは、分かりやすさというところなのかどうかは分からないが、(といいつつ個人的にはほぼそうだろうと決めつけているのだが──)そうすることによって単なる心霊現象を扱った恐怖モノアニメでしかない。といっても別に恐怖を感じる映画ではないけれど──。
アニメーションの質としては申し分ないものだと思うし、なるべく大きな画面で見たいと思わせてくれる。膨大な(無駄な)情報量を盛り込まれていたのであれば、後々DVDやブルーレイ等でじっくりと止めたり繰り返したりしながら堪能しようかと思っていたところではあるが、今回の作品はそれほど後でじっくりと見返したいという感情が起こらなかった。分かりやすいアニメ映画にしたことによる善し悪しが出ているのかもしれない。
ただでさえ高校生だとは思えなかった阿良々木暦(─小説においてもテレビアニメにおいても─)、物語シリーズにおいて最も若い頃のだと思うのだが、テレビアニメで見ていた頃よりも老け込んで見えてしまうところに適当さ加減を感じてしまう。もともと登場人物全員が年相応には見えないわけだし、どーでもいいことなんだろうけど、具体的に見える形で表現するならば、それなりに考えてほしいところではある。その辺のこだわりや細部への気配りの欠落というものが、もしかしたら、今回の作品の中では露見してしまっているのかなーなんて生意気にも思ったりするところです。
何はともあれ、最後の<Ⅲ冷血篇>を待つばかり。
公開日:2016年8月19日
配給:東宝映画事業部
時間:69分
監督:新房昭之
原作:西尾維新
声:神谷浩史(阿良々木 暦)
坂本真綾(キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード)
堀江由衣(羽川 翼)
櫻井孝宏(忍野メメ)
入野自由(エピソード)
江原正士(ドラマツルギー)
大塚芳忠(ギロチンカッター) ほか
キャラクターデザイン:渡辺明夫、守岡英行
音響監督:鶴岡陽太
音楽:神前 暁
アニメーション制作:シャフト
鑑賞日:2016年8月30日
場所:TOHOシネマズ新宿 スクリーン3 E9
■ ストーリー(公式HPより)
高校二年の春休みに、美しき吸血鬼キスショット・アセロラオリオン・
ハートアンダーブレードと出会った阿良々木暦。四肢を失い、瀕死の状態に
あった彼女を助けた暦は、しかし自らも吸血鬼になってしまう。
人間に戻るためには、奪われたキスショットの四肢を取り戻さなければならない。
怪異の専門家・忍野メメの助言を受けた暦は、過酷な戦いに乗り出していくことになる。
彼の前に待ち受けているのは、
身長2メートルを超える巨漢である吸血鬼を狩る吸血鬼・ドラマツルギーと、
巨大な十字架を自在に操る半吸血鬼(ヴァンパイア・ハーフ)のエピソード。
そして、吸血鬼退治を専門にする、物静かな人間・ギロチンカッター。
はたして暦は、3人の「敵」から、キスショットの四肢を奪い返すことができるのか?
雨がそぼ降る3月最後の夜、血戦の幕が静かに上がる―。
▶ 映画館環境
TOHOシネマズ新宿 SCREEN3 座席数130 スクリーンサイズ4.5×10.8m
E9はちょうど劇場の真ん中。特に真ん中のメリットを感じなかったので、後とか通路側とか端など、落ち着いて座るところを選ぶべき劇場かもしれない。
平日でにもかかわらず、意外と座席が混んでいた。公開されている場所も少ないし、劇場も小さめなところがほとんどだから──と勝手に分析。
客層は極めて偏っているように見受けられた。やっぱり、独特な人が好むような作品だと確信した、いまさら…
▶ 作品レビュー
もともとモノノ怪の類いを扱っているわけだから、血が飛び散るグロテスクな表現は数多く見られる作品ではあるのだが、その中にも、笑いやエロさといった要素により軽やかになっていたように思う。そして、そこが個人的には非常に気に入っている部分なのだが、ここまでの劇場版においてはその軽やかさが少しだけ削ぎ落とされているような印象を持つ。笑いやエロとった要素は失われていないものの、絵自体がどす黒い。重々しい赤を基調とされた画面構成に、視覚的ストレスをもろに受けてしまうような印象を受けるのだ。それでも、化物語へと繋がる伏線が展開されていると認識できる者ならば、楽しみ所は満載なのだが、仮に劇場版から阿良々木暦や忍野メメ、羽川翼などの名を知るに至ったという可哀想な人にとっては、単に酷いものと映る危険性が大だと感じてしまう。もっとも、順番的にはこの映画から見ることこそが時間軸に沿ったもので間違ってはいないのだが、如何せん全てがあまりに唐突すぎる。まあ、そもそもの話の展開自体が突然の出来事の連続であり、テレビアニメとして放映された化物語に至っては、情報が欠落したままどんどん物語の情報が与えられ、(めくるめく映像と難解な文字情報がどんどん提示されて)真剣に全てを把握しようとすると、かえって対峙している作品を放棄したくなる気持ちになってしまう。とはいえ、たいていの場合、いつの間にか自分の理解を超えた事柄は自然とスルーしてしまっていて、それでもこれは楽しいと感じることができて、理解できなくても何だか楽しいという、まさに怠惰なアニメファンを虜にしてしまう作品なのである。だから、映画の中で展開する過去というか現在─、その未来はすでに提示されているわけであり、半ば不安を抱えることなく、何の感情も思考も持たなくとも、いずれはそこに繋がるだろうという安心感を持って作品に臨むことができるわけだ。
確かに安心感はある。しかし、画面のどす黒さとともに、何かが物足りない。さて、それは何なのか?個人的な印象として、やり過ごす運命にあるような小難しい知識や説明不足の物語などが足りない印象を持つ。具体的にいうと、難しい漢字や文字、<Ⅰ鉄血篇>で頻繁に差し込まれたフランス語、NOIRとかROUGEといった文字が、今回は極力抑えられており、展開においても淡々と物語を時間軸に沿って流しているだけのものだった。キャラクターの名前の遊びは非常に興味深いものではあったが、その言葉遊びもあくまで台詞回しだけに終始しており、その魅力的なキャラクター名が決して自律的になることはなかった。その意図するところは、分かりやすさというところなのかどうかは分からないが、(といいつつ個人的にはほぼそうだろうと決めつけているのだが──)そうすることによって単なる心霊現象を扱った恐怖モノアニメでしかない。といっても別に恐怖を感じる映画ではないけれど──。
アニメーションの質としては申し分ないものだと思うし、なるべく大きな画面で見たいと思わせてくれる。膨大な(無駄な)情報量を盛り込まれていたのであれば、後々DVDやブルーレイ等でじっくりと止めたり繰り返したりしながら堪能しようかと思っていたところではあるが、今回の作品はそれほど後でじっくりと見返したいという感情が起こらなかった。分かりやすいアニメ映画にしたことによる善し悪しが出ているのかもしれない。
ただでさえ高校生だとは思えなかった阿良々木暦(─小説においてもテレビアニメにおいても─)、物語シリーズにおいて最も若い頃のだと思うのだが、テレビアニメで見ていた頃よりも老け込んで見えてしまうところに適当さ加減を感じてしまう。もともと登場人物全員が年相応には見えないわけだし、どーでもいいことなんだろうけど、具体的に見える形で表現するならば、それなりに考えてほしいところではある。その辺のこだわりや細部への気配りの欠落というものが、もしかしたら、今回の作品の中では露見してしまっているのかなーなんて生意気にも思ったりするところです。
何はともあれ、最後の<Ⅲ冷血篇>を待つばかり。
ハイ・ライズ
ハイ・ライズ(2015年・イギリス)
原題:High-Rise
公開日:(英)2016年3月18日 (日)2016年8月6日
配給:(英)StudioCanal (日)トランスフォーマー
時間:119分
監督:ベン・ウィートリー
原作:J・G・バラード
脚本:エイミー・ジャンプ
出演:トム・ヒドルストン(ロバート・ラング)
ジェレミー・アイアンズ(アンソニー・ロイヤル)
シエナ・ミラー(シャーロット・メルヴィル)
ルーク・エバンス(リチャード・ワイルダー)
エリザベス・モス(ヘレン・ワイルダー)
ジェームズ・ピュアフォイ(パンクボーン)
キーリー・ホーズ(アン・ロイヤル)
ピーター・フェルディナンド(コスグローヴ)
シエンナ・ギロリー(ジェーン)
リース・シェアスミス(スティール)
エンゾ・シレンティ(タルボット)
オーガスタス・プリュー(マンロー)
ダン・スキナー(シモンズ)
ステイシー・マーティン(フェイ)
トニー・ウェイ(管理人ロバート)
レイラ・ミマック(ローラ) ほか
製作:ジェレミー・トーマス
製作総指揮:ピーター・ワトソン
トーステン・シュマッカー
リジー・フランク
サム・ラベンダー
アンナ・ヒッグス
ガブリエラ・マルチネリ
クリストファー・サイモン
ジュヌビエーブ・ルマル
撮影:ローリー・ローズ
美術:マーク・ティルデスリー
衣装:オディール・ディックス=ミロー
編集:エイミー・ジャンプ、ベン・ウィートリー
音楽:クリント・マンセル
鑑賞日:2016年8月23日
場所:ヒューマントラストシネマ渋谷 シアター3 D-6
■ ストーリー
ある高層マンションに引っ越してきたロバート・ラング(トム・ヒドルストン)、彼は医師であり、大学で教鞭も執っていた。
ジムやプール、スーパーマーケットなどあらゆる施設を兼ね備えたマンション──それは羨望の的であり、ラング自身もこの新たな生活に満足感と希望で満たされていた。
しかし、マンションの内状を知るにつれて漠然とした不安がよぎる。
マンションの上下関係は何階に住んでいるかで決定されていた。上層階の住民は裕福な生活を送り、低層階の住居では電気や水道などの供給が滞ることもあった。
ラングは最上階に住むアンソニー・ロイヤル(ジェレミー・アイアンズ)と会う機会を得る。アンソニーこそがこのヒエラルキーマンションの設計者でありオーナーだった。彼はこのマンションのシステムは完璧であり、住民は満足していると考えていた。
一方でラングは、低層階に住むリチャード・ワイルダー(ルーク・エバンス)がマンショへの不満を抱いていたことも知っていた。そこには確実にヒエラルキー闘争が存在していた。
マンション内では連日のようにパーティーが開催される。低層階でも上層階でも階級に合わせたようなお祭り騒ぎが繰り広げられる。そんな贅沢を繰り返す彼らの生活は徐々に破綻し始める。借金まみれのこのマンションへの流通、ライフラインの供給さえも止まるようになる。
物が腐敗し、ごみが溢れ、さらに階級闘争が激化することにより、マンション内部は崩壊の一途をたどる。酒、ドラッグ、セックス、そして殺人──死体とごみの中、ラングもまた欲望とともにハイ・ライズでの生活を営んでいく。
▶ 映画館環境
ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3は座席数60と小さな劇場。スクリーンサイズも(ビスタサイズ)2.9×1.6m /(シネスコサイズ)3.7×1.6mと大きくない。座席は縦長に配置されているため、最後列だとやや迫力にかけるかもしれない。
今回ゲットした座席D−6は前から4列目の右端。段段がD列から始まっているので、D列以降を選択するべき。前の3列はかなりの見上げ。試しに最前列に座ってみたら、首がやばかった。ぱっと見はGの7、8が良さそうに思うが、少し遠過ぎで端過ぎるかも。
平日の昼間の上映にもなかなかの入り。E列は埋まっていて、Fも結構座っていた。その2列が真ん中でベストポジションとの触れ込みが多い。
▶ 作品レビュー
なにかと話題のトム・ヒドルストンでありますが、不思議と騒がれるほどのオーラは感じません(あくまで個人的意見ですけれど─)。とはいえ、「こいつがあいつを…」と勝手に失礼な妄想が膨らみ、無駄に体ばかりを見ていたような気がします。半ば、こういった無駄な楽しみを持って臨まないと、なかなか最後まで集中が続かない映画かもしれません。
内容は特別難解でもなく、設定も分かりやすくて興味深いもの。ただ、展開というか流れがかなり荒っぽい印象で、多少自分の頭の中で修正というか折り合いみたいなものをつけながら見ていかないと、途中で筋を見失うはずです。
マンション内のヒエラルキーという設定自体、現実社会にも少なからず存在するわけで、明らかに文明への警鐘、あるいは非難といった意図が盛り込まれているとすぐに分かります。
贅沢をくり返し督促状が届く状況、贅沢をくり返しマンション内にゴミがたまっていく状況、さらにはマンション内へのあらゆる供給が滞り上層階が優先され下層階がないがしろにされる状況、まったくもって他人事だとは思えません。この社会の行き着く先は、この映画のような階級闘争による殺し合いになるのかもしれない、と一瞬だけ思ってしまいました。
つまり、この作品は鋭い視点で描かれた社会派映画であるかのような印象を受けたりもするのですが、なかなかそうだと言い切れないところがあります。「もしかしたらそんな未来もあるかもねー」と軽い気持ち──半ば鼻で笑ってしまうぐらいな軽やかな仕上がりです。その軽さ捉え方にかなりの個人差があるかもしれませんが、私的な感情でいうと、英国らしい──あのモンティ・パイソンを彷彿とさせるような近未来に、言い知れない魅力を感じてしまいます。
ただ、世界観の構築がいま一つであり、中途半端な映像美──半端な格好つけ観が画面から滲み出ていて、手放しでこの作品を称賛することに躊躇いを覚えてしまいます。しかも、ストーリーテリングが荒々しいため、雑な作品とまで貶められてしまう可能性も秘めています。
ヌーヴェルヴァーグのような新風を巻き込もうとしたのか、ヌーヴェルヴァーグに対する憧憬でしかないのか……。はまればイカしてスタイリッシュな格好いい作品になったと想像できるだけに、やや残念に思ってしまうところもあります。
個人的な(酷い)意見を吐露してしまうと、トム・ヒドルストンの見た目と映画の見栄えが非常に似通っているように思ってしまいます。まぁ、この映画を見出したときから認識に偏りがあったわけで、結果それを最後まで引きずってしまった形です。できることなら、邪念が刷り込まれる前に見たかった映画です。もっとも、有名俳優にはあらゆるしがらみがつきまとうものであり、それでも作品の中に染まっていくのは、役者の力量と優れた演出によるものだと思うわけで、そうなると、この作品はそれほど褒められたものではないのかもしれません。
それでも個人的には結構好きな映画です。
ゴミと死体の中で廃れていくマンションは、自分がボロアパートでゴミにまみれて貧乏生活をしていたものと重なり、カネがないくせにタバコや贅沢な暮らしをやめようとしない姿は若かりし頃の自分と重なり、金持ち優先で電気や水道が供給されているところはまるで震災時の計画停電のようであったし、唯一セックス三昧というところは(残念ながら)自分とダブるところはなかったものの、その欲望はそれに近かったわけで──、自分としては非常に沁みてくる映画でありました。
といいつつ、映画の最後は全てを放置したような流れで(─原作がそうなのかどうかは分からないけれど)、最後の最後まで半端な作品だったという印象が拭えず、結局自分のこの作品への評価も最後にきて批判的にならざるを得ませんでした。
いい映画とは言えないかもしれませんが、繰り返しになりますが、好きな映画ではあります。でも、おすすめはできません。
原題:High-Rise
公開日:(英)2016年3月18日 (日)2016年8月6日
配給:(英)StudioCanal (日)トランスフォーマー
時間:119分
監督:ベン・ウィートリー
原作:J・G・バラード
脚本:エイミー・ジャンプ
出演:トム・ヒドルストン(ロバート・ラング)
ジェレミー・アイアンズ(アンソニー・ロイヤル)
シエナ・ミラー(シャーロット・メルヴィル)
ルーク・エバンス(リチャード・ワイルダー)
エリザベス・モス(ヘレン・ワイルダー)
ジェームズ・ピュアフォイ(パンクボーン)
キーリー・ホーズ(アン・ロイヤル)
ピーター・フェルディナンド(コスグローヴ)
シエンナ・ギロリー(ジェーン)
リース・シェアスミス(スティール)
エンゾ・シレンティ(タルボット)
オーガスタス・プリュー(マンロー)
ダン・スキナー(シモンズ)
ステイシー・マーティン(フェイ)
トニー・ウェイ(管理人ロバート)
レイラ・ミマック(ローラ) ほか
製作:ジェレミー・トーマス
製作総指揮:ピーター・ワトソン
トーステン・シュマッカー
リジー・フランク
サム・ラベンダー
アンナ・ヒッグス
ガブリエラ・マルチネリ
クリストファー・サイモン
ジュヌビエーブ・ルマル
撮影:ローリー・ローズ
美術:マーク・ティルデスリー
衣装:オディール・ディックス=ミロー
編集:エイミー・ジャンプ、ベン・ウィートリー
音楽:クリント・マンセル
鑑賞日:2016年8月23日
場所:ヒューマントラストシネマ渋谷 シアター3 D-6
■ ストーリー
ある高層マンションに引っ越してきたロバート・ラング(トム・ヒドルストン)、彼は医師であり、大学で教鞭も執っていた。
ジムやプール、スーパーマーケットなどあらゆる施設を兼ね備えたマンション──それは羨望の的であり、ラング自身もこの新たな生活に満足感と希望で満たされていた。
しかし、マンションの内状を知るにつれて漠然とした不安がよぎる。
マンションの上下関係は何階に住んでいるかで決定されていた。上層階の住民は裕福な生活を送り、低層階の住居では電気や水道などの供給が滞ることもあった。
ラングは最上階に住むアンソニー・ロイヤル(ジェレミー・アイアンズ)と会う機会を得る。アンソニーこそがこのヒエラルキーマンションの設計者でありオーナーだった。彼はこのマンションのシステムは完璧であり、住民は満足していると考えていた。
一方でラングは、低層階に住むリチャード・ワイルダー(ルーク・エバンス)がマンショへの不満を抱いていたことも知っていた。そこには確実にヒエラルキー闘争が存在していた。
マンション内では連日のようにパーティーが開催される。低層階でも上層階でも階級に合わせたようなお祭り騒ぎが繰り広げられる。そんな贅沢を繰り返す彼らの生活は徐々に破綻し始める。借金まみれのこのマンションへの流通、ライフラインの供給さえも止まるようになる。
物が腐敗し、ごみが溢れ、さらに階級闘争が激化することにより、マンション内部は崩壊の一途をたどる。酒、ドラッグ、セックス、そして殺人──死体とごみの中、ラングもまた欲望とともにハイ・ライズでの生活を営んでいく。
▶ 映画館環境
ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3は座席数60と小さな劇場。スクリーンサイズも(ビスタサイズ)2.9×1.6m /(シネスコサイズ)3.7×1.6mと大きくない。座席は縦長に配置されているため、最後列だとやや迫力にかけるかもしれない。
今回ゲットした座席D−6は前から4列目の右端。段段がD列から始まっているので、D列以降を選択するべき。前の3列はかなりの見上げ。試しに最前列に座ってみたら、首がやばかった。ぱっと見はGの7、8が良さそうに思うが、少し遠過ぎで端過ぎるかも。
平日の昼間の上映にもなかなかの入り。E列は埋まっていて、Fも結構座っていた。その2列が真ん中でベストポジションとの触れ込みが多い。
▶ 作品レビュー
なにかと話題のトム・ヒドルストンでありますが、不思議と騒がれるほどのオーラは感じません(あくまで個人的意見ですけれど─)。とはいえ、「こいつがあいつを…」と勝手に失礼な妄想が膨らみ、無駄に体ばかりを見ていたような気がします。半ば、こういった無駄な楽しみを持って臨まないと、なかなか最後まで集中が続かない映画かもしれません。
内容は特別難解でもなく、設定も分かりやすくて興味深いもの。ただ、展開というか流れがかなり荒っぽい印象で、多少自分の頭の中で修正というか折り合いみたいなものをつけながら見ていかないと、途中で筋を見失うはずです。
マンション内のヒエラルキーという設定自体、現実社会にも少なからず存在するわけで、明らかに文明への警鐘、あるいは非難といった意図が盛り込まれているとすぐに分かります。
贅沢をくり返し督促状が届く状況、贅沢をくり返しマンション内にゴミがたまっていく状況、さらにはマンション内へのあらゆる供給が滞り上層階が優先され下層階がないがしろにされる状況、まったくもって他人事だとは思えません。この社会の行き着く先は、この映画のような階級闘争による殺し合いになるのかもしれない、と一瞬だけ思ってしまいました。
つまり、この作品は鋭い視点で描かれた社会派映画であるかのような印象を受けたりもするのですが、なかなかそうだと言い切れないところがあります。「もしかしたらそんな未来もあるかもねー」と軽い気持ち──半ば鼻で笑ってしまうぐらいな軽やかな仕上がりです。その軽さ捉え方にかなりの個人差があるかもしれませんが、私的な感情でいうと、英国らしい──あのモンティ・パイソンを彷彿とさせるような近未来に、言い知れない魅力を感じてしまいます。
ただ、世界観の構築がいま一つであり、中途半端な映像美──半端な格好つけ観が画面から滲み出ていて、手放しでこの作品を称賛することに躊躇いを覚えてしまいます。しかも、ストーリーテリングが荒々しいため、雑な作品とまで貶められてしまう可能性も秘めています。
ヌーヴェルヴァーグのような新風を巻き込もうとしたのか、ヌーヴェルヴァーグに対する憧憬でしかないのか……。はまればイカしてスタイリッシュな格好いい作品になったと想像できるだけに、やや残念に思ってしまうところもあります。
個人的な(酷い)意見を吐露してしまうと、トム・ヒドルストンの見た目と映画の見栄えが非常に似通っているように思ってしまいます。まぁ、この映画を見出したときから認識に偏りがあったわけで、結果それを最後まで引きずってしまった形です。できることなら、邪念が刷り込まれる前に見たかった映画です。もっとも、有名俳優にはあらゆるしがらみがつきまとうものであり、それでも作品の中に染まっていくのは、役者の力量と優れた演出によるものだと思うわけで、そうなると、この作品はそれほど褒められたものではないのかもしれません。
それでも個人的には結構好きな映画です。
ゴミと死体の中で廃れていくマンションは、自分がボロアパートでゴミにまみれて貧乏生活をしていたものと重なり、カネがないくせにタバコや贅沢な暮らしをやめようとしない姿は若かりし頃の自分と重なり、金持ち優先で電気や水道が供給されているところはまるで震災時の計画停電のようであったし、唯一セックス三昧というところは(残念ながら)自分とダブるところはなかったものの、その欲望はそれに近かったわけで──、自分としては非常に沁みてくる映画でありました。
といいつつ、映画の最後は全てを放置したような流れで(─原作がそうなのかどうかは分からないけれど)、最後の最後まで半端な作品だったという印象が拭えず、結局自分のこの作品への評価も最後にきて批判的にならざるを得ませんでした。
いい映画とは言えないかもしれませんが、繰り返しになりますが、好きな映画ではあります。でも、おすすめはできません。
ニュースの真相
ニュースの真相(2015年/オーストラリア・アメリカ合作)
原題:Truth
公開日:(米)2015年10月30日 (日)2016年8月5日
配給:(米)Sony Pictures Classics (日)Kino Films
時間:125分
監督:ジェームズ・バンダービルト
原作:メアリー・メイプス
脚本:ジェームズ・バンダービルト
製作:ブラッドリー・J・フィッシャー
ウィリアム・シェラック
ジェームズ・バンダービルト
ブレット・ラトナー
ダグ・マンコフ
アンドリュー・スポールディング
製作総指揮:ミケル・ボンドセン
ジェームズ・パッカー
ニール・タバツニック
スティーブン・シルバー
出演:ケイト・ブランシェット(メアリー・メイプル)
ロバート・レッドフォード(ダン・ラザー)
エリザベス・モス(ルーシー・スコット)
トファー・グレイス(マイク・スミス)
デニス・クエイド(ロジャー・チャールズ中佐)
ステイシー・キーチ(ビル・バーケット中佐)
ブルース・グリーンウッド ほか
撮影:マンディ・ウォーカー
美術:フィオナ・クロンビー
衣装:アマンダ・ニール
編集:リチャード・フランシス=ブルース
音楽:ブライアン・タイラー
鑑賞日:2016年8月5日
場所:TOHOシネマズシャンテ CHANTER-1 K-10
■ ストーリー
2004年9月9日、全米最大のネットワークCBSの看板番組「60minute」で大スクープが報じられる。それは、当時大統領でその年に行われる大統領選で再選を目指すジョージ・W・ブッシュの軍歴詐称というものだった。それは番組プロデューサーのメアリー・メイプス(ケイト・ブランシェット)と有名アンカーマンのダン・ラザー(ロバート・レッドフォード)が時間をかけて真偽を追及した情報だと思われた。しかし、あらゆるところから情報の真実味が疑われ始めた。証拠となる文章が本物だという確証がつかめず、世間から批判され続けるCBSはついに文章の真偽には疑問点があるとの放送をする。
世紀のスクープから一転、大誤報というものを招いてしまったメアリーとダンの立場は危うくなる。情報を追い求める立場から、逆に追い求められる立場となり、自社からも番組制作における追及が始まる。ジャーナリストらは自らの信念を曲げず闘い続けるが…
実際に起こった出来事をメアリー・メイプスの自伝をもとに映画化
▶ 映画館環境
TOHOシネマズシャンテのCHANTER-1は収容人数225でスクリーンサイズ3.5×8.2m、中規模の劇場。座席配置の傾斜がかなり大きいため、列の前後で見た目の差が激しい。また、それ故に、どの列に座ってもスクリーンをしっかりと見ることができる。
最前列はかなり見上げ。最後方もかなり画面が小さく感じる。
今回の座席K-10は後方から3列目の中央部。中央に通路があるため、ちょうど通路側の席となった。少々離れすぎか。やはりEFG列の中央通路側が最高の位置。
週末午後の上映、ケイト・ブランシェットとロバート・レッドフォードのネイムバリューと相俟って、かなりの観客。20代30代が中心のような気がした。隣に座っていた若い男性は、前半かなり寝ていた。
▶ 作品レビュー
「ブルー・ジャスミン」以来、すっかりケイト・ブランシェットに魅了されてしまっている自分は、半分は彼女目的で見にいった作品。あとの3割がロバート・レッドフォードで2割が世紀の誤報が目的。
全体的な印象として、ケイト・ブランシェットとロバート・レッドフォードの演技は素晴らしいもので、非常に感動的。正直、出だしの2人、メアリー・メイプス(ケイト・ブランシェット)とダン・ラザー(ロバート・レッドフォード)にはあまり良い印象を持つことができず、むしろ嫌悪感しか持てなかったのだが、ジャーナリズムの難しさに苦悩する姿に徐々に惹かれ、最後には不覚にも泣かされてしまった。
映画で泣くことはよくあることで、泣くこと自体は別に“不覚”でもなんでもないのだが、この映画に関しては、“不覚にも泣かされてしまった”と敢えて書きたい。
というのも、描かれている事柄はどう見てもジャーナリストの勇み足であり、スクープ合戦の帰結で起こってしまった世紀の大誤報としか捉えることができない。悪く言ってしまうと、ジャーナリストとして起こしてしまった過ちを、半ば美化してみせられているようなものなのだ。
ジョージ・W・ブッシュ元大統領への評価はそれほど高いわけではないし、個人的な印象もあまりよくない。その漠然とした負の印象を巧妙に利用して、本当はブッシュは悪者という前提で話が展開している印象。本当は、証拠の立証ができないメアリー側が悪いはずなのだが…それでもなお、ブッシュの軍歴に詐称があるのでは?と思ってしまう自分がいるわけで、何故にそこまでG・W・ブッシュの私的な印象が悪いのか─、やはりそれはあらゆるメディアの影響だと言わざるを得ない。あの映画から始まり、テレビで、そしてインターネットで…。ブッシュを疑うというのであれば、もしかしたらブッシュを追及したジャーナリズムも平等に疑う必要があるのかもしれない。
そもそも、この原作はメアリー・メイプスの自伝がもとになっているわけで、明らかに偏見的な描き方がなされている。ただでさえ難しいジャーナリズムの在り方が内在しているのに、そこに一方的な私的要素が加えられるとますます焦点が絞りづらくなり、一体この映画で何を言いたいのか分からなくなってしまった。
特に言いたいことはない、とは思えないこの映画。色々、無理矢理、テーマみたいなものを抽出してみると─…権力の横暴、不屈のジャーナリズム、ジャーナリズムの黄昏…というものが浮かぶが、いずれも弱過ぎる。
個人的に印象に残ったのは(以降ネタバレが続く─)、ダン・ラザーの退場、何ものにも屈しないメアリー・メイプス、マスメディア報道における難しさ、という事柄だろうか。
あくまで主役級の人々を肯定的に捉えながら展開していき、彼らの敗北に涙する。そして、エンディングにおいて、メアリー・メイプスはテレビ報道には関わっていないという趣旨の字幕と、ダン・ラザーはCBSを訴えたものの退けられる旨の字幕が流され、さぞかし無念であろうという同情なども覚えてしまう。
しかし、一歩引いて考えてみよう。軍歴詐称の真偽は明らかになっておらず、番組制作陣の退場も、メアリーの境遇も、ダンの判例も致し方ない。あと2ヵ月足らずで大統領選挙が控えていたわけであり、やはり、慎重さを欠いたことは否めない。
確かにつかんだネタは大きく魅力的であり、どうしても先んじて報道したくなる気持ちも分からないでもない。そうは言っても、やはりプロのジャーナリストとしてあるまじき行為だったのではないか。いくらそれが衝撃的だとしても、それが真実として認められないのであれば、その価値か皆無であり、むしろ害悪にも成り得てしまう。
このように作品の中で描かれている事実に関していうと、あくまでジャーナリズムの汚点なのだが、この映画はあくまで(事実をもとにした)フィクションであり、しかも私的な自伝が由来の物語であるわけだから、素直に大物俳優や大女優の演技に涙すればいいわけだ。
つまり、この映画はジャーナリズムとかマスメディアというものを題材にしながら、中身は、大きな過ちを犯してしまったジャーナリストの悲しき人間模様といったところだろうか。バックグラウンドは事実だとしても、この作品はあくまで個人がつくり上げた物語でしかない。重厚なバックグランドの上で、何か薄い物語があっさりと流れていくだけだった。
原題:Truth
公開日:(米)2015年10月30日 (日)2016年8月5日
配給:(米)Sony Pictures Classics (日)Kino Films
時間:125分
監督:ジェームズ・バンダービルト
原作:メアリー・メイプス
脚本:ジェームズ・バンダービルト
製作:ブラッドリー・J・フィッシャー
ウィリアム・シェラック
ジェームズ・バンダービルト
ブレット・ラトナー
ダグ・マンコフ
アンドリュー・スポールディング
製作総指揮:ミケル・ボンドセン
ジェームズ・パッカー
ニール・タバツニック
スティーブン・シルバー
出演:ケイト・ブランシェット(メアリー・メイプル)
ロバート・レッドフォード(ダン・ラザー)
エリザベス・モス(ルーシー・スコット)
トファー・グレイス(マイク・スミス)
デニス・クエイド(ロジャー・チャールズ中佐)
ステイシー・キーチ(ビル・バーケット中佐)
ブルース・グリーンウッド ほか
撮影:マンディ・ウォーカー
美術:フィオナ・クロンビー
衣装:アマンダ・ニール
編集:リチャード・フランシス=ブルース
音楽:ブライアン・タイラー
鑑賞日:2016年8月5日
場所:TOHOシネマズシャンテ CHANTER-1 K-10
■ ストーリー
2004年9月9日、全米最大のネットワークCBSの看板番組「60minute」で大スクープが報じられる。それは、当時大統領でその年に行われる大統領選で再選を目指すジョージ・W・ブッシュの軍歴詐称というものだった。それは番組プロデューサーのメアリー・メイプス(ケイト・ブランシェット)と有名アンカーマンのダン・ラザー(ロバート・レッドフォード)が時間をかけて真偽を追及した情報だと思われた。しかし、あらゆるところから情報の真実味が疑われ始めた。証拠となる文章が本物だという確証がつかめず、世間から批判され続けるCBSはついに文章の真偽には疑問点があるとの放送をする。
世紀のスクープから一転、大誤報というものを招いてしまったメアリーとダンの立場は危うくなる。情報を追い求める立場から、逆に追い求められる立場となり、自社からも番組制作における追及が始まる。ジャーナリストらは自らの信念を曲げず闘い続けるが…
実際に起こった出来事をメアリー・メイプスの自伝をもとに映画化
▶ 映画館環境
TOHOシネマズシャンテのCHANTER-1は収容人数225でスクリーンサイズ3.5×8.2m、中規模の劇場。座席配置の傾斜がかなり大きいため、列の前後で見た目の差が激しい。また、それ故に、どの列に座ってもスクリーンをしっかりと見ることができる。
最前列はかなり見上げ。最後方もかなり画面が小さく感じる。
今回の座席K-10は後方から3列目の中央部。中央に通路があるため、ちょうど通路側の席となった。少々離れすぎか。やはりEFG列の中央通路側が最高の位置。
週末午後の上映、ケイト・ブランシェットとロバート・レッドフォードのネイムバリューと相俟って、かなりの観客。20代30代が中心のような気がした。隣に座っていた若い男性は、前半かなり寝ていた。
▶ 作品レビュー
「ブルー・ジャスミン」以来、すっかりケイト・ブランシェットに魅了されてしまっている自分は、半分は彼女目的で見にいった作品。あとの3割がロバート・レッドフォードで2割が世紀の誤報が目的。
全体的な印象として、ケイト・ブランシェットとロバート・レッドフォードの演技は素晴らしいもので、非常に感動的。正直、出だしの2人、メアリー・メイプス(ケイト・ブランシェット)とダン・ラザー(ロバート・レッドフォード)にはあまり良い印象を持つことができず、むしろ嫌悪感しか持てなかったのだが、ジャーナリズムの難しさに苦悩する姿に徐々に惹かれ、最後には不覚にも泣かされてしまった。
映画で泣くことはよくあることで、泣くこと自体は別に“不覚”でもなんでもないのだが、この映画に関しては、“不覚にも泣かされてしまった”と敢えて書きたい。
というのも、描かれている事柄はどう見てもジャーナリストの勇み足であり、スクープ合戦の帰結で起こってしまった世紀の大誤報としか捉えることができない。悪く言ってしまうと、ジャーナリストとして起こしてしまった過ちを、半ば美化してみせられているようなものなのだ。
ジョージ・W・ブッシュ元大統領への評価はそれほど高いわけではないし、個人的な印象もあまりよくない。その漠然とした負の印象を巧妙に利用して、本当はブッシュは悪者という前提で話が展開している印象。本当は、証拠の立証ができないメアリー側が悪いはずなのだが…それでもなお、ブッシュの軍歴に詐称があるのでは?と思ってしまう自分がいるわけで、何故にそこまでG・W・ブッシュの私的な印象が悪いのか─、やはりそれはあらゆるメディアの影響だと言わざるを得ない。あの映画から始まり、テレビで、そしてインターネットで…。ブッシュを疑うというのであれば、もしかしたらブッシュを追及したジャーナリズムも平等に疑う必要があるのかもしれない。
そもそも、この原作はメアリー・メイプスの自伝がもとになっているわけで、明らかに偏見的な描き方がなされている。ただでさえ難しいジャーナリズムの在り方が内在しているのに、そこに一方的な私的要素が加えられるとますます焦点が絞りづらくなり、一体この映画で何を言いたいのか分からなくなってしまった。
特に言いたいことはない、とは思えないこの映画。色々、無理矢理、テーマみたいなものを抽出してみると─…権力の横暴、不屈のジャーナリズム、ジャーナリズムの黄昏…というものが浮かぶが、いずれも弱過ぎる。
個人的に印象に残ったのは(以降ネタバレが続く─)、ダン・ラザーの退場、何ものにも屈しないメアリー・メイプス、マスメディア報道における難しさ、という事柄だろうか。
あくまで主役級の人々を肯定的に捉えながら展開していき、彼らの敗北に涙する。そして、エンディングにおいて、メアリー・メイプスはテレビ報道には関わっていないという趣旨の字幕と、ダン・ラザーはCBSを訴えたものの退けられる旨の字幕が流され、さぞかし無念であろうという同情なども覚えてしまう。
しかし、一歩引いて考えてみよう。軍歴詐称の真偽は明らかになっておらず、番組制作陣の退場も、メアリーの境遇も、ダンの判例も致し方ない。あと2ヵ月足らずで大統領選挙が控えていたわけであり、やはり、慎重さを欠いたことは否めない。
確かにつかんだネタは大きく魅力的であり、どうしても先んじて報道したくなる気持ちも分からないでもない。そうは言っても、やはりプロのジャーナリストとしてあるまじき行為だったのではないか。いくらそれが衝撃的だとしても、それが真実として認められないのであれば、その価値か皆無であり、むしろ害悪にも成り得てしまう。
このように作品の中で描かれている事実に関していうと、あくまでジャーナリズムの汚点なのだが、この映画はあくまで(事実をもとにした)フィクションであり、しかも私的な自伝が由来の物語であるわけだから、素直に大物俳優や大女優の演技に涙すればいいわけだ。
つまり、この映画はジャーナリズムとかマスメディアというものを題材にしながら、中身は、大きな過ちを犯してしまったジャーナリストの悲しき人間模様といったところだろうか。バックグラウンドは事実だとしても、この作品はあくまで個人がつくり上げた物語でしかない。重厚なバックグランドの上で、何か薄い物語があっさりと流れていくだけだった。
シン・ゴジラ
シン・ゴジラ(2016年)
公開日:2016年7月29日
配給:東宝
時間:119分
スタッフ
総監督:庵野秀明
監督:樋口真嗣
准監督:尾上克郎
脚本:庵野秀明
特技監督:樋口真嗣
特技統括:尾上克郎
製作:市川南
エグゼクティブプロデューサー:山内章弘
プロデューサー:佐藤善宏、澁澤匡哉、和田倉和利
プロダクション統括:佐藤毅
ラインプロデューサー:森徹、森賢正
撮影:山田康介
照明:川邉隆之
美術:林田裕至、佐久嶋依里
美術デザイン:稲付正人
装飾:坂本朗、高橋俊秋
録音:中村淳
整音:山田陽
音響効果:野口透
編集:佐藤敦紀
音楽:鷺巣詩郎、伊福部昭
VFXスーパーバイザー:佐藤敦紀
VFXプロデューサー:大屋哲男
装飾統括:柘植伊佐夫
スタイリスト:前田勇弥
ヘアメイク:須田理恵
ゴジライメージデザイン:前田真宏
ゴジラキャラクターデザイン:竹谷隆之
ゴジラアニメーションスーパーバイザー:佐藤篤司
特殊造形プロデューサー:西村喜廣
カラーグレーダー:齋藤精二
音楽プロデューサー:北原京子
スクリプター:田口良子、河島順子
キャスティングプロデューサー:杉野剛、南明日香
総監督助手:轟木一騎
助監督:足立公良
自衛隊担当:岩谷浩
製作担当:片平大輔
(B班)撮影:鈴木啓造、桜井景一
(B班)照明:小笠原篤志
(B班)美術:三池敏夫
(B班)操演:関山和昭
(B班)スクリプター:増子さおり
(B班)助監督:中山権正
(C班)監督:石田雄介
(C班)助監督:市原直
(D班)撮影:摩砂雪、轟木一騎、庵野秀明
(D班)録音:摩砂雪、轟木一騎、庵野秀明
(D班)監督:摩砂雪、轟木一騎
キャスト
長谷川博己:矢口蘭堂(内閣官房副長官・政務担当)
竹野内豊:赤坂秀樹(内閣総理大臣補佐官・国家安全保障担当)
石原さとみ:カヨコ・アン・パタースン(米国大統領特使)
高良健吾:志村祐介(内閣官房副長官秘書官[防衛省])
大杉漣:大河内清次(内閣総理大臣)
柄本明:東竜太(内閣官房長官)
余貴美子:花森麗子(防衛大臣)
市川実日子:尾頭ヒロミ(環境省自然環境局野生生物課長補佐)
國村隼:財前正夫(統合幕僚長)
平泉成:里見祐介(農林水産大臣)
松尾諭:泉修一(保守第一党政調副会長)
渡辺哲:郡山(内閣危機管理監)
中村育二:金井(内閣府特命担当大臣[防災担当])
矢島健一:柳原(国土交通大臣)
津田寛治:森(厚労省医政局研究開発振興課長)
塚本晋也:間(国立城北大学大学院生物圏科学研究所准教授)
高橋一生:安田(文科省研究振興局基礎研究振興課長)
光石研:小塚(東京都知事)
古田新太沢口(警察庁長官官房長)
松尾スズキ:早船(フリージャーナリスト)
鶴見辰吾:矢島(統合幕僚副長)
ピエール瀧:西郷(タバ戦闘団長)
片桐はいり:ベテラン官邸職員の小母さん
小出恵介:消防隊隊長
斎藤工:池田(第1戦車中隊長)
前田敦子:カップルの女
浜田晃:河野(総務大臣)
手塚とおる:関口(文部科学大臣)
野間口徹:立川(資源エネルギー庁電力・ガス事業部原子力政策課長)
黒田大輔:根岸(原子力規制庁監視情報課長)
吉田ウーロン:太町田(経産省製造産業局長)
橋本じゅん:東部方面総監幹部幕僚長
小林隆:山岡(統合部隊指揮官)
諏訪太朗:田原(東京都副知事)
藤木孝:川又(東京都副知事)
嶋田久作:片山(臨時外務大臣)
神尾佑:風越(新政務担当総理秘書官[外務省])
三浦貴大:新人記者
モロ師岡:警察庁刑事局長
犬童一心:古代生物学者
原一男:生物学者
緒方明:海洋生物学者
KREVA:第2戦車中隊長
石垣佑磨:芦田(第2飛行隊第1小隊長)
森廉:避難民
野村萬斎:ゴジラ
鑑賞日:2016年8月1日
■ ストーリー
東京湾に巨大生物が現れ、街を破壊していく。対応に追われた政府だったが、責任をなすりつけ合うだけで何も解決策を見いだせないでいた。幸いにもその謎の生物は間もなく東京湾へと戻っていく。しかし、政府の対応のまずさもあって多大な犠牲を出してしまう。
破壊された街は放射能で汚染されていた。政府は対策本部を設置し、調査を開始。どうやら謎の生物は放射性元素を有し、人類の数倍のゲノムサイズがあることが判明する。
無力の日本政府に当然のごとくアメリカ政府が介入してくる。日米交渉の中で、ある科学者がその生物の出現を予見し研究していたことが判明する。そして、その研究資料から謎の生物はゴジラと呼ばれることになる。
政府対策本部はある液体をゴジラに注入し、血液を凝固させることでゴジラの活動を止める作戦を立案する。
ほどなく、さらに巨大化したゴジラが再び東京へと上陸し、都心のど真ん中へと進んでいく。凄まじい攻撃力でビルをなぎ倒し、自衛隊と米軍の攻撃を受けとめ、そして攻撃してくる全てのものを破壊尽くす。その最中、ヘリコプターで避難中だった内閣総理大臣含め政府要人多数が犠牲となってしまう。
あまりのエネルギーを放出してしまったゴジラは、一時活動を停止する。これを機に国連安保理が東京への熱核兵器使用を採択し、2週間の避難猶予を与え、その後、核攻撃を加えると通告してくる。
ゴジラの研究資料から無力化する方法を見いだした臨時代理政府は、市民の疎開を進める一方で、最後の一撃をゴジラに加える作戦を立案し、実行する。
自衛隊及び消防、各種鉄道の協力のもと、日本の命運をかけた最後の戦いが始まる─▶ 映画館環境
TOHOシネマズ新宿スクリーン10 IMAXデジタルシアター
スクリーンサイズは不明だが、極めて大、個人的に現在最も気に入っている劇場。座席数313、F列の中心付近がベストポジション。端の方でも問題なし。
F15は真ん中付近の席、だから場所は最高、あくまで座った場所の話。
▶ 作品レビュー
ゴジラよりも政府機関をパロディー化した部分が目立った映画。
確かにゴジラの容姿や攻撃力にはインパクはあったものの、政府のゴタゴタを嘲笑うかのごとく表現されたところが今までにはないゴジラ映画であり、それ故にそれが余計に特徴的に思えたのかもしれない。
まさにあの大震災時における混乱ぶりを、形を変えて見せられた思い。そもそもゴジラは核というものから生まれてきた存在であり、原発事故というものに関連付けることが容易だったのだろうと想像がつく。ただ、あまりに安直とも思えてしまう。
そこにあるのはあくまでパロディー、批判とか社会性という要素は皆無であり、あるのは単なる嘲笑のみ、まぁ“あの時そうだったろう”と言われれば賛同するだけなのだが、非常に後味が悪い思いで終幕を迎えた。そんな思いで怪獣映画やエンターテインメントを見に来ているんじゃないんだぞ、と私的に思ってしまった。
大惨事をパロディー化したことで、役者の演技や演出も非常に雑に見えたのは気のせいだろうか?(勝手な思い込みに過ぎないけれど)どうせ駄目な政府のパロディー化だろうという演技が画面から滲み出ていて、感情移入など全くできず、しかも笑えない…。もはや怒り─その怒りは憎きゴジラへと向けられることもなく、むしろゴジラが奴らを抹殺してくれることだけを望むようになり、終いには、動きを止められてしまったゴジラに哀愁すら感じてしまった。哀愁を感じさせることは、作品の意図として読み取れるし、その点に関しては大きな成功だといえる。
今回のゴジラの容姿は、(シッポ意外)かなり気に入っている。野村萬斎によるゴジラの動作も、途轍もない違和感を感じつつも非常に好感を持てたし、体中から放たれる無作為極まりないレーザーにも、変な話、羨望の眼差しをもって眺めていた。まさに新宿のビルの谷間から現れたとしか思えないゴジラに感動すら覚えたのだが、いかんせん出番が竹野内豊やより少ないことには全く納得がいかない─おそらく、少ないはず…何せキャストが多すぎるわけで、あんなに必要だったのかどうかも疑問だし、誰が出ていたのかすら全く記憶にないし、後で確認すると原一男の名前もあり「目視できなかった〜」と残念な感情が募るばかりで、ただただゴジラを憂うばかり…なんのための野村萬斎だったのか、東京という舞台で思う存分踊らせてあげてよ〜、というのは今とってつけて思った感情─
とまぁ個人的には納得しかねる部分が多かった作品ではあるけれど、見終わった観賞者等の感想を眺めてみると非常に評価が高いし、興行成績も好調なようで、そういった意味では素晴らしいエンターテイメント怪獣映画だと言えるのだろう。自分のような凝り固まったイメージだけでしかゴジラを見ることができない一個人の批判は、大衆娯楽として大成功を収めている現実には凌駕されてしまうだけ─
かく言う自分は、特段ゴジラに思い入れがあるわけでもなし、ゴジラはこうでなければならないという主義というか思想というか─、要するにオールドファンでも何でもない。
前作となるギャレス・エドワーズ監督の下で制作されたハリウッド版ゴジラは非常に面白いと思ったわけで、日本映画であろうが洋画であろうが、面白ければ文句はない。(このハリウッド版はそれほど評価は高くないというのが現実。確かに容姿がオリジナルとかけ離れ、そこに批判が集中しているが、正義の味方のように扱っている演出や表現にゴジラへのリスペクトが感じられ、非常に好感を持って観賞したものなのだが…)
みんなが面白いと言っている「シン・ゴジラ」を面白いと思えなかったのは、決してあまのじゃくなどではなく、私個人として本当に面白いとは思えなかっただけ。政治の無力感などを表現したいのならゴジラを用いなくともと思うのだが、別に政治批判などを目的とした映画ではないし、単に震災・原発事故とゴジラの関係性に親和性があったからこの作品が生まれたんだろう。(とはいえ、見終わった後で震災とゴジラの相性の良さを言及できても、それを見いだしたり完全な娯楽にしてしまおうと考える作家はいなかったということも事実。それを考えるとこの作品における着眼点は見事というほかない。しかも、単に完全娯楽として処理するだけでなく、いまだ終わりを見せていない福島の思いも網羅できているとも感じたわけで、批判の矢面になるところをうまい具合にかわしている。)
自分がもっとも気に入らないところは、何度も言うが、ゴジラの出番が少ないところ。しかし、過去のゴジラ映画でも、真打ち登場ばりに出番が極小という作品も少なくないわけで、それでもゴジラの存在感は絶大であったはず。要するにゴジラが本当に主役だったわけだ。
この映画の主役はゴジラではない。強いて言えば、竹野内豊と石原さとみ? ゴジラは単に東京を破壊する悪者でしかなかった…。だったらエヴァにでもやっつけてもらえば良かったんじゃねぇ、ゴジラを使途ばりに呼んでさぁ、なんて下品なことは決して言わないまでも、世の中ホントそれを望んでいるかのような流れが怖すぎる。
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