ブルックリン(2015年/アイルランド・カナダ・イギリス合作)
原題:Brooklyn
公開日:(英)2015年11月6日 (日)2016年7月1日
配給:20世紀フォックス映画
時間:112分
監督:ジョン・クローリー
原作:コルム・トビーン
脚本:ニック・ホーンビィ
出演:シアーシャ・ローナン(エイリシュ・レイシー)
ジュリー・ウォルターズ(キーオ夫人)
ドーナル・グリーソン(ジム・ファレル)
エモリー・コーエン(トニー・フィオレロ)
ジム・ブロードベント(フラッド神父)
フィオナ・グラスコット(ローズ・レイシー)
ジェーン・ブレナン(メアリー・レイシー)
アイリーン・オイヒギンス(ナンシー)
ブリッド・ブレナン(ケリー)
エミリー・ベット・リッカーズ(パティ)
イブ・マックリン(ダイアナ) ほか
製作:フィノラ・ドワイヤー、アマンダ・ポージー
製作総指揮:クリスティーン・ランガン
ベス・パティンソン
トーステン・シュマッカー
ジギー・カマサ
フセイン・アマーシ
アラン・モロニー
撮影:イブ・ベランジェ
美術:フランソワ・セグワン
衣装:オディール・ディックス=ミロー
編集:ジェイク・ロバーツ
音楽:マイケル・ブルック
鑑賞日:2016年7月21日
場所:シネマイクスピアリ シアター1 C11
■ ストーリー
アイルランドの小さな町に暮らすエイリシュ・レイシー(シアーシャ・ローナン)─
姉ローズ・レイシー(フィオナ・グラスコット)と母親メアリー・レイシー(ジェーン・ブレナン)との3人で静かな生活を送っていた。
エイリシュはミス・ケリーの店で働いていた。店主のミス・ケリーは偏見が激しく、エイリシュは常にミス・ケリーから小言や嫌みを浴びせられていた。
エイリシュの姉ローズは会計士で、自らの地位や場所を確立しつつある。小さな町の中で抑え込まれ、出口も将来の希望も見いだせないでいた妹を不憫に思っていたローズは、エイリシュにチャンスを与えようと大都市アメリカ・ニューヨークへ送り出すよう手配する。
希望と不安を胸にニューヨークへと旅立つエイリシュ─待っていたのは孤独と郷愁…。周りと溶け込んでいくことで徐々に孤独は解消されていくが、ホームシックだけは強まる一方だった。そんな彼女を見かねたフラッド神父(ジム・ブロードベント)─彼はアイルランド系移民の手助けをしていた─神父のすすめと援助で、働きながらブルックリン大学へ通い出したエイリシュは、姉と同じ会計士になるという新たな目標を持つことで、次第に気持ちも晴れていく。
そして、彼女の前にイタリア系移民のトニー・フィオレロ(エモリー・コーエン)が現れ、彼と恋に落ち、心が開放され、新天地に自らを確立していく。
すべてが順調に流れ出したとき、エイリシュのもとに故郷から悲報がもたらされる。
再び強い郷愁に駆られたエイリシュは、一度だけアイルランドへ戻ることを決意する。必ず戻ることをトニーと固く誓い、エイリシュはブルックリンをあとにする。
故郷に戻ったエイリシュは、懐かしさとともに心の安らぎと居心地の良さを噛み締める。旧友との出会いで新たな男性の存在も気になり出す。生まれ育ったこの地で身を固め、再び共に暮らしていくことを周りから求められていると強く感じるようになったエイリシュ─、果たして彼女はどこへ行くのか─。
第88回アカデミー賞、作品賞/脚本賞/主演女優賞ノミネート
ゴールデン・グローブ賞(ドラマ部門)主演女優賞ノミネート
▶ 映画館環境
シネマイクスピアリのシアター1は座席数120、スクリーンサイズ不明。
前方のブロックと後方ブロックとに分かれている構成。C列は後方ブロック最前列。C11席はスクリーン向かって右端。C列であればどこでもいい。
平日の最終上映。20時以降は割引きになるので、それ狙い。非常に空いていた。
▶ 作品レビュー
古い時代を扱い、なおかつ郷愁というテーマを扱っているにもかかわらず、色彩豊かで美しい映像が印象的な作品。見た目の印象としては、背景の色彩と登場人物の衣装を含めた色彩とのコントラストがよく練られていたように思う。画面に現れる色味と展開されるストーリーが見事に絡み合い、あらゆる感情をつくり出しているように見えた。
真新しい映像ばかり続くのを音楽が補っていく。アイリッシュの響きで郷愁を誘い、その音の出し入れで見事にノスタルジーをコントロールしていく。それはあまりに分かりすぎるというか、単純な演出。しかし、音と映像がはまってしまうとどんなに単純であろうとも、不思議と自然に感情に訴えかけてくるし(─あくまで私見ではあるが)、狡猾さなどは微塵も感じない。ただ、その映像と音を融合させることこそ難しいことなのだけれども…。
アカデミー賞をはじめ、あらゆる映画賞で評価されているこの映画、どんな賞を取っているのか眺めていると、作品賞、主演女優賞、美術賞が中心であり、納得するところ。美しい色彩と美しい音色がシアーシャ・ローナンの繊細な演技と融合し、美しい結晶を創り上げている。
このキービジュアルこそが、まさに映画そのものを表しているように思う。ぱっと見、右端のクラシックカーがなければ、時代背景が現代なのか過去なのか曖昧なところがある。
公式HPなどには“ロマンティックでリアル、現代に通じる永遠のテーマに絶賛の声!”などと記されている。確かに“現代に通じる”ということを意識した作品だと感じる。ということで、安易ではあるが、現代の日本に置き換えて捉えてみると、地方から大都市へと向かう潮流、悲しみ、ノスタルジー…といったところだろうか。
新たな希望に向かっていく潮流を称えるのか、廃れてゆく小さな存在を憂うのか、どちらか一方だけを肯定することはなかなか難しい問題。
結論を言ってしまうと、この作品は廃れてゆく過去のしがらみを捨て去り、新たな希望に向かって歩んで行くという物語。だからのエンディングも美しく、いわゆるハッピーエンド。しかし、敢えてその裏を読むと、そこには残酷で冷たく辛い選択というものが潜んでいるわけで、エンディングに嫌悪感を持つ者もいることだろう。
とはいえ、この作品にはその残酷さや冷酷さといったものはそれほど感じないし、終始、汚れなく美しく物語が展開していき、気持ち良く幕を閉じる。きれい事でしかない一つの寓話に過ぎないかもしれないが、それは意図されたものだと思うし、それを楽しむことも映画観賞の一つの醍醐味だとも思える。“現代に繋がるテーマ”なるものが潜んでいるかもしれないけど、そんなことは意識せず、純粋に、過去のきれい事を楽しんで、現実での嫌な思いをリセットしたいものである。
私的映画鑑賞記録 Private movie recording 私人电影录音 Enregistrement d'un film privé 私人电影录音 La grabación de películas privada 사적 영화 감상 기록 Отдельный записи видео تسجيل الفيلم الخاص
TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ
TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ(2016年・日本)
公開日:2016年6月25日
配給:東宝、アスミック・エース
時間:125分
監督:宮藤官九郎
脚本:宮藤官九郎
出演:長瀬智也(キラーK)
神木隆之介(大助)
尾野真千子(なおみ)
森川葵(ひろ美)
桐谷健太(COZY)
清野菜名(邪子)
古舘寛治(松浦)
皆川猿時(じゅんこ)
シシド・カフカ(修羅)
清(鬼姫)
古田新太(えんま校長)
宮沢りえ(手塚ひろ美)
坂井真紀(よしえ)
荒川良々(仏)
瑛蓮(神)
みうらじゅん(MOJA・MJ)
Char(鬼ギタリスト)
野村義男(ジゴロック挑戦者)
ゴンゾー(ジゴロック挑戦者)
マーティ・フリードマン(じゅんこA)
ROLLY(じゅんこB)
福田哲丸(地獄の軽音楽部)
一ノ瀬雄太(地獄の軽音楽部)
藤原一真(地獄の軽音楽部)
柳田将司(地獄の軽音楽部)
木村充輝(歌うたいの小鬼)
関本大介(鬼警備員)
ジャスティス岩倉(緑鬼)
烏丸せつこ(牛頭)
田口トモロヲ(馬頭)
片桐仁(鬼野)
平井理央(アナウンサー)
中村獅童 ほか
プロデューサー:宇田充、長坂まき子、臼井央
撮影:相馬大輔
照明:佐藤浩太
美術(地獄)桑島十和子美術(現世)小泉博康
装飾:西尾共未
録音:藤本賢一
VFXスーパーバイザー:道木伸隆
カラーグレーダー:齋藤精二
音響効果:岡瀬晶彦
編集:宮島竜治
音楽:向井秀徳
主題歌作曲:KYONO
スクリプター:北濱優佳
スタイリスト:伊賀大介
衣装:荒木里江
ヘアメイクディレクション:山崎聡
ヘアメイク:百瀬広美、風間啓子
特殊メイク:中田彰輝
造形:中田彰輝
振付:八反田リコ
スタントコーディネイター:小池達朗
操演:島尻忠次
動物プロ:馬場光弘、内藤教夫
助監督:高橋正弥
製作担当:大田康一
鑑賞日:2016年7月19日
場所:TOHOシネマズ新宿 スクリーン6 H20
■ ストーリー
宮藤官九郎が監督・脚本の学園地獄コメディー映画。
ある高校が修学旅行のバス移動の途中に、転落事故に遭い、乗車していた高校生の大助(神木隆之介)含めほとんどの者が命を落としてしまう。
自分だけが地獄へ落ちてしまった大助は、その理不尽さに納得いかないまま、地獄農業高校にて地獄についての教育を受けることになる。そこではクラブ活動が義務化されていて、大助は軽音学部に入った。
顧問のキラーK(長瀬智也)の厳しい指導の下、地獄専属ロックバンド・地獄図(ヘルズ)のCOZY(桐谷健太)と邪子(清野菜名)と共に、自らを鍛え上げていく。そうすることで再び現世へと生まれ変わることが可能となり、大助の最大の目的、恋い焦がれていたひろ美(森川葵)に再び会うことを目指し、ひたすら努力を繰り返す。
努力の成果をえんま校長(古田新太)の前で披露するものの、許されるのは人間以外の動物や虫に生まれ変わることばかり…生まれ変わりには限りがあり、徐々にその限界も近づいてくる。限界値を超えると、鬼と化して、二度と地獄から出られなくなる。
追い込まれた大助は、ギターバトルやバンド対決というあらゆる困難を乗りこえて、ついに奇跡を起こす。それは、青春の至らぬ欲望というものを超越したもので、大助含め地獄の者だれもが予想もしていなかった結果を生む─。
▶ 映画館環境
TOHOシネマズ新宿 SCREEN6 座席数119 スクリーンサイズ4.6×11.0m
H20は最後列、スクリーン向かって右端の席。やはりこの劇場は最後列が狙い目だった。
平日でしかも上映4週目にもかかわらず、かなりの観客数で正直驚いた。20代が中心だったろうか。若者中心の客層だった。
▶ 作品レビュー
あくまで面白エンターテインメント映画。しかしそこに確固たる輪廻の思想があるわけで(それが宮藤官九郎の思想・信仰かどうかは分からないけれど、みうらじゅんが出演している時点で、なんとなくバックグランドを示すようなやり口が狡猾─)、一見おバカなお話しも実は知性溢れる物語のような気がしてくるわけで、決して優れた絵や明確な主義主張があるわけではないけれども、何だか凄くいい映画に思えてしまった。
もっとも、この映画を心底楽しむためには、メタルやギターに興味がありそれに精通しているということが条件であるような気がする。とはいえ、それらを取るに足らないものと見做していたとしても、雰囲気で楽しめるとは思う。が、それだけではもったいない。
かく言う自分は、メタルファンでギター小僧であったわけで、同じような過去を持つ数多くのオッサンどもを見事に魅了する。デスメタル調から始まり、今は亡きランディー・ローズ、ゲーリー・ムーア、カート・コバーン、ジミヘンにSVR、ロバート・ジョンソン等々あらゆるプレイと“腕”が登場、その上さらにCharとよっちゃんのギターバトルやマーティン・フリードマンとローリーの登場等々、さすがはギターマガジンを愛読書として挙げる宮藤官九郎だと関心・感化されつつ、もやはこみ上げてくる笑いを抑えることができない自分がいた。
そもそもこの映画のタイトルこそがメタルの影響丸出しで、相当前に見たであろうトレーラーだけでこの映画にはまってしまったと言っても過言ではない。Too young to〜 とくると自分のメタル魂が 〜Fall in love と呼応し、頭の中でモトリー・クルーでいっぱいになる。そんなのは自分だけ…いや、結構いるはず。でも、モトリーはLAメタルだから地獄とは無縁…むしろ、ストライパーとかクリスチャンメタル的な要素を入れ込んだらもっと面白かっただろうに…などと、勝手に夢想する有様。事情により公開が遅れたわけだが、その分、変な期待も膨らんでいったような気がする。まぁ、あんなにメタルキッズ寄りとは想像もつかなかったわけだが…。
申し訳ないが、映画に芸術性とかメッセージ性のようなものを強く求める人にとっては、最悪の映画かもしれない。青春を面白おかしく描いただけのエンターテインメントでしかないわけだから─。
確かに、生と死とか輪廻とか人生、あるいは青春といった事柄がテーマとなっているように思ったりするが、私見でこの映画を表現するならば、メタル魂、これ以外にない。これに賛同する輩は星三つ、賛同できないけれども映画を楽しめたという輩は星二つか一つ、残りの輩は多分クソ映画とけなすだろう。
適当な絵、適当な設定、適当な展開、適当な演出、適当な音楽…あらゆるところに緩さを感じてしまうわけで、それをどう捉えるかは、クドカンや出演陣に好感を持っていないとすればあとはメタル魂にかかってくる。そのどれも持っていなくとも、最終盤のシーンなどには思わず感情移入してしまいそうになるけれども、最後のカットもまぁ適当なわけで、その適当さかげんを受け入れないと予想する者はこの映画は見ない方がいいだろう。2時間無駄な時間を費やすだけだ。
メタル魂を持っている(または持っていた)オッサンは、ぜひとも見るべき映画だ。笑うもけなすもどちらでも、有意義なツッコミとなることは間違いないだろう。
死というものをベースにした映画であるが、決して死をテーマにしているわけではなく、むしろそれをも笑い飛ばしたコメディーにすぎない。個人的には、あくまでメタル魂の映画だと主張するが─。だから、興味がないままにふらっと見て酷評するような醜くて無意味なことはやめてほしい。映画への愛とか、アートといった重々しいものは捨て去って、メタル魂だけでもって臨んだのであれば、人生の中の2時間を謳歌できるかもしれない。
公開日:2016年6月25日
配給:東宝、アスミック・エース
時間:125分
監督:宮藤官九郎
脚本:宮藤官九郎
出演:長瀬智也(キラーK)
神木隆之介(大助)
尾野真千子(なおみ)
森川葵(ひろ美)
桐谷健太(COZY)
清野菜名(邪子)
古舘寛治(松浦)
皆川猿時(じゅんこ)
シシド・カフカ(修羅)
清(鬼姫)
古田新太(えんま校長)
宮沢りえ(手塚ひろ美)
坂井真紀(よしえ)
荒川良々(仏)
瑛蓮(神)
みうらじゅん(MOJA・MJ)
Char(鬼ギタリスト)
野村義男(ジゴロック挑戦者)
ゴンゾー(ジゴロック挑戦者)
マーティ・フリードマン(じゅんこA)
ROLLY(じゅんこB)
福田哲丸(地獄の軽音楽部)
一ノ瀬雄太(地獄の軽音楽部)
藤原一真(地獄の軽音楽部)
柳田将司(地獄の軽音楽部)
木村充輝(歌うたいの小鬼)
関本大介(鬼警備員)
ジャスティス岩倉(緑鬼)
烏丸せつこ(牛頭)
田口トモロヲ(馬頭)
片桐仁(鬼野)
平井理央(アナウンサー)
中村獅童 ほか
プロデューサー:宇田充、長坂まき子、臼井央
撮影:相馬大輔
照明:佐藤浩太
美術(地獄)桑島十和子美術(現世)小泉博康
装飾:西尾共未
録音:藤本賢一
VFXスーパーバイザー:道木伸隆
カラーグレーダー:齋藤精二
音響効果:岡瀬晶彦
編集:宮島竜治
音楽:向井秀徳
主題歌作曲:KYONO
スクリプター:北濱優佳
スタイリスト:伊賀大介
衣装:荒木里江
ヘアメイクディレクション:山崎聡
ヘアメイク:百瀬広美、風間啓子
特殊メイク:中田彰輝
造形:中田彰輝
振付:八反田リコ
スタントコーディネイター:小池達朗
操演:島尻忠次
動物プロ:馬場光弘、内藤教夫
助監督:高橋正弥
製作担当:大田康一
鑑賞日:2016年7月19日
場所:TOHOシネマズ新宿 スクリーン6 H20
■ ストーリー
宮藤官九郎が監督・脚本の学園地獄コメディー映画。
ある高校が修学旅行のバス移動の途中に、転落事故に遭い、乗車していた高校生の大助(神木隆之介)含めほとんどの者が命を落としてしまう。
自分だけが地獄へ落ちてしまった大助は、その理不尽さに納得いかないまま、地獄農業高校にて地獄についての教育を受けることになる。そこではクラブ活動が義務化されていて、大助は軽音学部に入った。
顧問のキラーK(長瀬智也)の厳しい指導の下、地獄専属ロックバンド・地獄図(ヘルズ)のCOZY(桐谷健太)と邪子(清野菜名)と共に、自らを鍛え上げていく。そうすることで再び現世へと生まれ変わることが可能となり、大助の最大の目的、恋い焦がれていたひろ美(森川葵)に再び会うことを目指し、ひたすら努力を繰り返す。
努力の成果をえんま校長(古田新太)の前で披露するものの、許されるのは人間以外の動物や虫に生まれ変わることばかり…生まれ変わりには限りがあり、徐々にその限界も近づいてくる。限界値を超えると、鬼と化して、二度と地獄から出られなくなる。
追い込まれた大助は、ギターバトルやバンド対決というあらゆる困難を乗りこえて、ついに奇跡を起こす。それは、青春の至らぬ欲望というものを超越したもので、大助含め地獄の者だれもが予想もしていなかった結果を生む─。
▶ 映画館環境
TOHOシネマズ新宿 SCREEN6 座席数119 スクリーンサイズ4.6×11.0m
H20は最後列、スクリーン向かって右端の席。やはりこの劇場は最後列が狙い目だった。
平日でしかも上映4週目にもかかわらず、かなりの観客数で正直驚いた。20代が中心だったろうか。若者中心の客層だった。
▶ 作品レビュー
あくまで面白エンターテインメント映画。しかしそこに確固たる輪廻の思想があるわけで(それが宮藤官九郎の思想・信仰かどうかは分からないけれど、みうらじゅんが出演している時点で、なんとなくバックグランドを示すようなやり口が狡猾─)、一見おバカなお話しも実は知性溢れる物語のような気がしてくるわけで、決して優れた絵や明確な主義主張があるわけではないけれども、何だか凄くいい映画に思えてしまった。
もっとも、この映画を心底楽しむためには、メタルやギターに興味がありそれに精通しているということが条件であるような気がする。とはいえ、それらを取るに足らないものと見做していたとしても、雰囲気で楽しめるとは思う。が、それだけではもったいない。
かく言う自分は、メタルファンでギター小僧であったわけで、同じような過去を持つ数多くのオッサンどもを見事に魅了する。デスメタル調から始まり、今は亡きランディー・ローズ、ゲーリー・ムーア、カート・コバーン、ジミヘンにSVR、ロバート・ジョンソン等々あらゆるプレイと“腕”が登場、その上さらにCharとよっちゃんのギターバトルやマーティン・フリードマンとローリーの登場等々、さすがはギターマガジンを愛読書として挙げる宮藤官九郎だと関心・感化されつつ、もやはこみ上げてくる笑いを抑えることができない自分がいた。
そもそもこの映画のタイトルこそがメタルの影響丸出しで、相当前に見たであろうトレーラーだけでこの映画にはまってしまったと言っても過言ではない。Too young to〜 とくると自分のメタル魂が 〜Fall in love と呼応し、頭の中でモトリー・クルーでいっぱいになる。そんなのは自分だけ…いや、結構いるはず。でも、モトリーはLAメタルだから地獄とは無縁…むしろ、ストライパーとかクリスチャンメタル的な要素を入れ込んだらもっと面白かっただろうに…などと、勝手に夢想する有様。事情により公開が遅れたわけだが、その分、変な期待も膨らんでいったような気がする。まぁ、あんなにメタルキッズ寄りとは想像もつかなかったわけだが…。
申し訳ないが、映画に芸術性とかメッセージ性のようなものを強く求める人にとっては、最悪の映画かもしれない。青春を面白おかしく描いただけのエンターテインメントでしかないわけだから─。
確かに、生と死とか輪廻とか人生、あるいは青春といった事柄がテーマとなっているように思ったりするが、私見でこの映画を表現するならば、メタル魂、これ以外にない。これに賛同する輩は星三つ、賛同できないけれども映画を楽しめたという輩は星二つか一つ、残りの輩は多分クソ映画とけなすだろう。
適当な絵、適当な設定、適当な展開、適当な演出、適当な音楽…あらゆるところに緩さを感じてしまうわけで、それをどう捉えるかは、クドカンや出演陣に好感を持っていないとすればあとはメタル魂にかかってくる。そのどれも持っていなくとも、最終盤のシーンなどには思わず感情移入してしまいそうになるけれども、最後のカットもまぁ適当なわけで、その適当さかげんを受け入れないと予想する者はこの映画は見ない方がいいだろう。2時間無駄な時間を費やすだけだ。
メタル魂を持っている(または持っていた)オッサンは、ぜひとも見るべき映画だ。笑うもけなすもどちらでも、有意義なツッコミとなることは間違いないだろう。
死というものをベースにした映画であるが、決して死をテーマにしているわけではなく、むしろそれをも笑い飛ばしたコメディーにすぎない。個人的には、あくまでメタル魂の映画だと主張するが─。だから、興味がないままにふらっと見て酷評するような醜くて無意味なことはやめてほしい。映画への愛とか、アートといった重々しいものは捨て去って、メタル魂だけでもって臨んだのであれば、人生の中の2時間を謳歌できるかもしれない。
教授のおかしな妄想殺人
教授のおかしな妄想殺人(2015年・アメリカ)
原題:Irrational Man
公開日:(米)2015年7月17日 (日)2016年6月11日
配給:(米)ソニー・ピクチャーズ・クラシックス (日)ロングライド
時間:95分
監督:ウッディ・アレン
脚本:ウッディ・アレン
出演:ホアキン・フェニックス(エイブ)
エマ・ストーン(ジル)
パーカー・ポージー(リタ)
ジェイミー・ブラックリー(ロイ)
ベッツィ・アイデム(ジルの母)
イーサン・フィリップス(ジルの父) ほか
製作:レッティ・アロンソン、スティーブン・テネンバウム、エドワード・ワルソン
共同製作:ヘレン・ロビン
製作総指揮:アダム・B・スターン、アラン・テー、ロナルド・L・シェ
共同製作総指揮:ジャック・ロリンズ
撮影:ダリウス・コンジ
美術:サント・ロカスト
衣装:スージー・ベンジンガー
編集:アリサ・レプセルター
鑑賞日:2016年7月4日
場所:新宿ピカデリー シアター4 J-15
■ ストーリー
小さな町の大学に若い頃から天才と謳われてきた哲学者エイブ(ホアキン・フェニックス)が哲学科の教授として赴任してきた。悲惨な過去を抱え酒に溺れていたエイブは、厭世的で何事にも無気力─、今や彼は変人として周りから見られるようになっていた。
エイブに憧れていた女子学生ジル(エマ・ストーン)は、世捨て人のようになっていたエイブに対し、その才能は変わっていないと確信を抱き、彼にどんどん近づいていく。
ある日、エイブは偶然に悪徳判事の噂を耳にする。判事のことを詳しく調べ、その悪事は疑いのないものと確信したエイブは、ひそかに判事を殺害しようと決意する。それが世の中のためであると思い込んでしまうと、いかにバレずに殺害できるか、そのことに向かって綿密な計画を立て、妄想にのめり込んでいく。
完全犯罪へと集中することで、生きる目的を失っていたエイブに生気がみなぎっていく。悩み続けていたEDも解消され、倫理的という言い訳で拒み続けていたジルからの求愛も受け入る。
すべてが順調に歩み始めたエイブ。果たしてその歯車は狂うことなく順調に回り続けるのだろうか─。
▶ 映画館環境
新宿ピカデリーのスクリーン4は座席数129。スクリーンサイズは不明。箱のサイズに対してスクリーンサイズは大きい。J-15は最後列のスクリーン向かってやや右寄りの席。最後列でもスクリーンは大きく見える。個人的にはJの14か15が狙い目。
平日の朝イチの上映にもかかわらず、結構人がいると思った。根強いファン層がいることを物語っている。年齢もやや高めだったし─。
▶ 作品レビュー
設定や配役、大枠の展開など満足いくものだし、ブラックな笑いを堪能できる。
イケメンで知性溢れるエイブ(ホアキン・フェニックス)は社交を拒み、しかも“出来ない”。それだけでも何だか笑えるけれど、殺意を持つと突然“出来て”、若いジル(エマ・ストーン)をもモノにしてしまうという展開にも笑える、けど多少むかつく…。がしかし、最終的なエイブの運命こそが最高に笑えるわけで、そう思ってしまう感情をつくり出すウッディ・アレンは紛れもないペシスト!?と思ってしまう。
ホアキン・フェニックスの演技にもエマ・ストーンの演技にも満足─というよりも、演技という感覚を持てないくらいにナチュラルに彼ら彼女らは会話を展開するし、映像も普通にナチュラルに展開していくわけで、感情と笑いだけでスクリーンを魅了させているウッディ・アレンはさすがとしか言いようがない。
とはいえ、そのナチュラルさがあだとなっている部分も少なくない。まずは、ジルがダメダメのエイブに接近していく所以がよく分からない・納得いかない・説得力がない…まぁ、主演2人、男と女だから惹かれ合っていくのは当然、と言われればそれまでかもしれないが、そこに不自然さを見てしまうと普通は問答無用に駄目!と思ってしまうところ─。まぁその不自然さもアレンの笑いだと思わせるだけの歴史があるわけだから、少しの違和感などはアレンファンを素通りしていく。
しかし、素通りできない最大の違和感が物語のメインに存在する。それは、エイブが悪徳判事の噂を耳にするところ。あまりに不自然で、エイブが完全犯罪へと向かうきっかけとしてあまりにも弱過ぎると感じてしまった。後から聞こえてくる話し声がエイブを妄想へと駆り立てるという設定は、あまりに安直すぎる。ウッディ・アレンのことだから観客を下に見て製作していることだろうと(いじわるく)思ったりする。それにしても、ちょっと簡単にし過ぎだなーこれは…。もう少しきっかけの積み重ねが欲しかったというのが個人的な見解。
その後の非現実的な“妄想殺人”部分がとてもナチュラルに展開していく故に、そのきっかけとなった地点がより一層違和感極まりなく見えてきて、そう思ってしまうと、エイブの変貌ぶりはあくまで演技というか劇だな…としか認識できなくなってくるわけで、色男復活のエイブには嫌みしか感じなくなる。とはいえ、この感情が後々スカッと大笑いという結果を生むことになるわけで、それを目論んでの脚本なのかと深読みして考えてたりして、そうやって勝手にアレンの意図を読み取って勝手にアレンに感服するばかりなのである。
人の死を嘆き悲しむという行為こそがマナーであり礼儀だというのが一般の常識。古代中国においても、葬儀の作法として幾重にも泣くことをちりばめられている。すなわち、この映画のように死というものを笑い飛ばすということは笑止千万、非礼も甚だしいこと。そんなこと言わずもがな、それでも軽やかなジャズの調べに乗せられるかのように、劇中の死に笑いを抑えられない。
死を笑い飛ばすことを目的としたこの映画を見た後でも、死を悲しむという感覚は変わらないし、既存のモラルを揺さぶることもない。全般的に死というものを単に笑い飛ばすということではなく、死を笑い飛ばせられるよう知的にストーリーを組み立てているところが狡猾であり、それがウッディ・アレンにニヒルとかペシズムという冠を与える所以なのだろう。
派手さもないし淡々としていて、最後は(悪く言えば)陳腐に終わってしまうわけで、アラも目立つだけに、あまり多くの人を楽しませることはできない映画だろう。確かに、ウッディ・アレンらしいブラックユーモアとか知性は大いに感じるけれども、「ミッドナイト」とか「ブルー・ジャスミン」などと比べると明らかに見劣りしてしまう。それでもアレンの作品を見続けるというこの感情こそが、アレンの実績のひとつと言えるのかもしれない。
原題:Irrational Man
公開日:(米)2015年7月17日 (日)2016年6月11日
配給:(米)ソニー・ピクチャーズ・クラシックス (日)ロングライド
時間:95分
監督:ウッディ・アレン
脚本:ウッディ・アレン
出演:ホアキン・フェニックス(エイブ)
エマ・ストーン(ジル)
パーカー・ポージー(リタ)
ジェイミー・ブラックリー(ロイ)
ベッツィ・アイデム(ジルの母)
イーサン・フィリップス(ジルの父) ほか
製作:レッティ・アロンソン、スティーブン・テネンバウム、エドワード・ワルソン
共同製作:ヘレン・ロビン
製作総指揮:アダム・B・スターン、アラン・テー、ロナルド・L・シェ
共同製作総指揮:ジャック・ロリンズ
撮影:ダリウス・コンジ
美術:サント・ロカスト
衣装:スージー・ベンジンガー
編集:アリサ・レプセルター
鑑賞日:2016年7月4日
場所:新宿ピカデリー シアター4 J-15
■ ストーリー
小さな町の大学に若い頃から天才と謳われてきた哲学者エイブ(ホアキン・フェニックス)が哲学科の教授として赴任してきた。悲惨な過去を抱え酒に溺れていたエイブは、厭世的で何事にも無気力─、今や彼は変人として周りから見られるようになっていた。
エイブに憧れていた女子学生ジル(エマ・ストーン)は、世捨て人のようになっていたエイブに対し、その才能は変わっていないと確信を抱き、彼にどんどん近づいていく。
ある日、エイブは偶然に悪徳判事の噂を耳にする。判事のことを詳しく調べ、その悪事は疑いのないものと確信したエイブは、ひそかに判事を殺害しようと決意する。それが世の中のためであると思い込んでしまうと、いかにバレずに殺害できるか、そのことに向かって綿密な計画を立て、妄想にのめり込んでいく。
完全犯罪へと集中することで、生きる目的を失っていたエイブに生気がみなぎっていく。悩み続けていたEDも解消され、倫理的という言い訳で拒み続けていたジルからの求愛も受け入る。
すべてが順調に歩み始めたエイブ。果たしてその歯車は狂うことなく順調に回り続けるのだろうか─。
▶ 映画館環境
新宿ピカデリーのスクリーン4は座席数129。スクリーンサイズは不明。箱のサイズに対してスクリーンサイズは大きい。J-15は最後列のスクリーン向かってやや右寄りの席。最後列でもスクリーンは大きく見える。個人的にはJの14か15が狙い目。
平日の朝イチの上映にもかかわらず、結構人がいると思った。根強いファン層がいることを物語っている。年齢もやや高めだったし─。
▶ 作品レビュー
設定や配役、大枠の展開など満足いくものだし、ブラックな笑いを堪能できる。
イケメンで知性溢れるエイブ(ホアキン・フェニックス)は社交を拒み、しかも“出来ない”。それだけでも何だか笑えるけれど、殺意を持つと突然“出来て”、若いジル(エマ・ストーン)をもモノにしてしまうという展開にも笑える、けど多少むかつく…。がしかし、最終的なエイブの運命こそが最高に笑えるわけで、そう思ってしまう感情をつくり出すウッディ・アレンは紛れもないペシスト!?と思ってしまう。
ホアキン・フェニックスの演技にもエマ・ストーンの演技にも満足─というよりも、演技という感覚を持てないくらいにナチュラルに彼ら彼女らは会話を展開するし、映像も普通にナチュラルに展開していくわけで、感情と笑いだけでスクリーンを魅了させているウッディ・アレンはさすがとしか言いようがない。
とはいえ、そのナチュラルさがあだとなっている部分も少なくない。まずは、ジルがダメダメのエイブに接近していく所以がよく分からない・納得いかない・説得力がない…まぁ、主演2人、男と女だから惹かれ合っていくのは当然、と言われればそれまでかもしれないが、そこに不自然さを見てしまうと普通は問答無用に駄目!と思ってしまうところ─。まぁその不自然さもアレンの笑いだと思わせるだけの歴史があるわけだから、少しの違和感などはアレンファンを素通りしていく。
しかし、素通りできない最大の違和感が物語のメインに存在する。それは、エイブが悪徳判事の噂を耳にするところ。あまりに不自然で、エイブが完全犯罪へと向かうきっかけとしてあまりにも弱過ぎると感じてしまった。後から聞こえてくる話し声がエイブを妄想へと駆り立てるという設定は、あまりに安直すぎる。ウッディ・アレンのことだから観客を下に見て製作していることだろうと(いじわるく)思ったりする。それにしても、ちょっと簡単にし過ぎだなーこれは…。もう少しきっかけの積み重ねが欲しかったというのが個人的な見解。
その後の非現実的な“妄想殺人”部分がとてもナチュラルに展開していく故に、そのきっかけとなった地点がより一層違和感極まりなく見えてきて、そう思ってしまうと、エイブの変貌ぶりはあくまで演技というか劇だな…としか認識できなくなってくるわけで、色男復活のエイブには嫌みしか感じなくなる。とはいえ、この感情が後々スカッと大笑いという結果を生むことになるわけで、それを目論んでの脚本なのかと深読みして考えてたりして、そうやって勝手にアレンの意図を読み取って勝手にアレンに感服するばかりなのである。
人の死を嘆き悲しむという行為こそがマナーであり礼儀だというのが一般の常識。古代中国においても、葬儀の作法として幾重にも泣くことをちりばめられている。すなわち、この映画のように死というものを笑い飛ばすということは笑止千万、非礼も甚だしいこと。そんなこと言わずもがな、それでも軽やかなジャズの調べに乗せられるかのように、劇中の死に笑いを抑えられない。
死を笑い飛ばすことを目的としたこの映画を見た後でも、死を悲しむという感覚は変わらないし、既存のモラルを揺さぶることもない。全般的に死というものを単に笑い飛ばすということではなく、死を笑い飛ばせられるよう知的にストーリーを組み立てているところが狡猾であり、それがウッディ・アレンにニヒルとかペシズムという冠を与える所以なのだろう。
派手さもないし淡々としていて、最後は(悪く言えば)陳腐に終わってしまうわけで、アラも目立つだけに、あまり多くの人を楽しませることはできない映画だろう。確かに、ウッディ・アレンらしいブラックユーモアとか知性は大いに感じるけれども、「ミッドナイト」とか「ブルー・ジャスミン」などと比べると明らかに見劣りしてしまう。それでもアレンの作品を見続けるというこの感情こそが、アレンの実績のひとつと言えるのかもしれない。
日本で一番悪い奴ら
日本で一番悪い奴ら(2016年・日本)
公開日:2016年6月25日
配給:東映、日活
時間:135分
監督:白石和彌
原作:稲葉圭昭「恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白」
脚本:池上純哉
出演:綾野剛(諸星要一)
YOUNG DAIS(山辺太郎)
植野行雄(アクラム・ラシード)
矢吹春奈(田里由貴)
瀧内公美(廣田敏子)
田中隆三(猿渡隆司)
みのすけ(岸谷利雄)
中村倫也(小坂亮太)
勝矢(漆原琢馬)
斎藤歩(桜庭幸雄)
青木崇高(栗林健司)
木下隆行(加賀谷力)
音尾琢真(国吉博和)
ピエール瀧(村井定夫)
中村獅童(黒岩勝典)
白石糸(沙織)ほか
エグゼクティブプロデューサー:田中正、柳迫成彦
企画:千葉善紀、赤城聡
プロデューサー:高橋信一、田中誠一
撮影:今井孝博
美術:今村力
照明:金子康博
録音:浦田和治
音響効果:柴崎憲治
編集:加藤ひとみ
音楽:安川午朗
音楽プロデューサー:津島玄一
主題歌:東京スカパラダイスオーケストラ、Ken Yokoyama
装飾:京極友良
衣装:宮本まさ江
ヘアメイク:小山徳美
キャスティング:杉野剛
助監督:是安祐
制作担当:宮森隆介
鑑賞日:2016年7月4日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン2 C5
■ ストーリー
日本警察史上最大の不祥事といわれる、実際にあった稲葉事件を題材にした劇映画。
北海道警察の稲葉圭昭(いなば よしあき)警部をモデルにした劇中の諸星要一(綾野剛)が、1976年に道警に入り、数々の事件に関わり、最終的に2002年に覚せい剤取締法違反(所持)の疑いで逮捕されるまでの物語。
大学で柔道で名を馳せた諸星要一は、その実力を買われ道警に入署する。すぐに暴力団捜査に携わり、麻薬の取り締まりや拳銃の押収などを重ねていくうちに、次第に自らの捜査手法も暴力団まがいのものになっていく。女を囲い、裏社会の人間との絆も生まれ、いつしかチームとして、手段を選ばない捜査手法を繰り返すようになっていた。
1993年ごろ、警察が銃器摘発キャンペーンを敷き、それに合わせるように道警では銃器対策室が設けられた。諸星もそこに配属され、銃器摘発のエースとして期待を集める。それにこたえるように、裏取引をしてまで、あたかも大量の銃を押収したかのように装うっていく。それが常態化していき、どんどんエスカレートしていった。
大量の銃を手にするために、諸星は資金を必要とした。そのために覚醒剤の密売などにも手を染めていく。
当初、それは順調に見えたが、徐々に思うようにいかなくなり、そしてついに大きな失敗をして諸星の栄光は終焉を迎える。そして、諸星は、決して自ら手を染めることがなかった薬物にはまっていってしまう。
▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン2は座席数112で、スクリーンサイズが9.1×3.8m。前方2列、後方7列の構成。後方最前列には手すりなどの柵がなく、スペースでいうと魅力的。C列は後方列の最前列で、若干近すぎて見上げになってしまう。ただ、これぐらいのスクリーンサイズであれば、それほどつらさは感じない。むしろ、非常に迫力を感じるベストな席。C5は左端の席。画面にかなり近いだけに、真ん中よりもむしろ端の方が見やすいような気がする。
▶ 作品レビュー
いま流行の(?)過去を描く際に映像をわざと古く見せる手法を多用していたように見えた。多少の効果は感じるけれども、そのこだわりは少し弱いように見えた。というのも、急にその画質が今風に変わってしまうところが多々見受けられ、映画の世界観に入っていこうとする上で明らかに妨げになっていた。極悪な諸星が、やんちゃな綾野剛にしか見えない、といったように─。(まぁ古ぼけた映像をわざと作ろうとしているところはなかったのかもしれないし、単に過去の事物を画面内に配置しただけで映像そのものが古ぼけて見えたのかもしれない。個人的に感じたのは、映像的な統一感のなさといったところ)
そしていま一つ批判的なところを挙げさせてもらう。それは、役者を本業としない演者が何人か登場してくる点においてであり、彼らの演技にごとく嫌悪感を持ってしまう。映画には役者しか出演しては駄目だなどと頭の硬いことは言わない。しかし、本業ではないからと、拙い演技を許容しなければならない義務もない。そうはいっても、彼らは自らの能力を自覚しつつ、できる限りの演技をしていただろうし、それを生かすも殺すも演出次第だったと思うわけで、それが上手い具合にはまっていなかったというのが個人的な見解。
正直なところ、演技にも映像そのものにも全く魅力を感じなかったわけで、映画としてみた場合、あまり芳しいものではなかった。(あくまで個人的見解)
それでもこの映画を“良し”とする。その最たる理由は、やはりもとになっている話が凄すぎるというところにある。
治安のよい国日本、安全な国日本、そう呼ばれているのは幻想で、そしてまた、その治安と安全を警察が保障していると思うことがいかに恐ろしく、それは非常に危険なことだと思わされる。
描かれ方があまりにも過剰に感じてしまうところもあるし、もとになっている原作もあくまで個人の告白によるもので客観性に欠けるとも思ってしまう。しかし、描かれているものは嘘とは思えないし、これを役者が演じている虚構だと認識した上で観賞しつつも、むしろ、これこそが真実だ!とも思ってしまう。表層的な格好良さなど度外視してでも、リアルな感じとか生々しさといったことを表現したい、そういう思いが伝わってくる。それがこの作品の評価にも繋がっていく気がする。
史上最悪とも言われる警察の不祥事なのだから、もっと真面目な大作を、と思ったりしたけれど、もしかしたら、そんな堅物を作られたところでその事実をしっかりと受けとめられたかどうか疑問に思ってしまう。過度にも思えるこの作品のような劇的演出があればこそ、社会に対する危機感というものなどを喚起させられるのかもしれない。
エンターテインメントとし楽しめる映画であると思うし、同時に、広く世に知らしめるといった啓発という意味でも意義深い映画だとも思える。ただ、個人的には再び見たいとは思わないし、そう思わせてくるだけの魅力はなかった。しかしながら、この映画への強烈な記憶はいつまでも消えることはないだろう。
公開日:2016年6月25日
配給:東映、日活
時間:135分
監督:白石和彌
原作:稲葉圭昭「恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白」
脚本:池上純哉
出演:綾野剛(諸星要一)
YOUNG DAIS(山辺太郎)
植野行雄(アクラム・ラシード)
矢吹春奈(田里由貴)
瀧内公美(廣田敏子)
田中隆三(猿渡隆司)
みのすけ(岸谷利雄)
中村倫也(小坂亮太)
勝矢(漆原琢馬)
斎藤歩(桜庭幸雄)
青木崇高(栗林健司)
木下隆行(加賀谷力)
音尾琢真(国吉博和)
ピエール瀧(村井定夫)
中村獅童(黒岩勝典)
白石糸(沙織)ほか
エグゼクティブプロデューサー:田中正、柳迫成彦
企画:千葉善紀、赤城聡
プロデューサー:高橋信一、田中誠一
撮影:今井孝博
美術:今村力
照明:金子康博
録音:浦田和治
音響効果:柴崎憲治
編集:加藤ひとみ
音楽:安川午朗
音楽プロデューサー:津島玄一
主題歌:東京スカパラダイスオーケストラ、Ken Yokoyama
装飾:京極友良
衣装:宮本まさ江
ヘアメイク:小山徳美
キャスティング:杉野剛
助監督:是安祐
制作担当:宮森隆介
鑑賞日:2016年7月4日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン2 C5
■ ストーリー
日本警察史上最大の不祥事といわれる、実際にあった稲葉事件を題材にした劇映画。
北海道警察の稲葉圭昭(いなば よしあき)警部をモデルにした劇中の諸星要一(綾野剛)が、1976年に道警に入り、数々の事件に関わり、最終的に2002年に覚せい剤取締法違反(所持)の疑いで逮捕されるまでの物語。
大学で柔道で名を馳せた諸星要一は、その実力を買われ道警に入署する。すぐに暴力団捜査に携わり、麻薬の取り締まりや拳銃の押収などを重ねていくうちに、次第に自らの捜査手法も暴力団まがいのものになっていく。女を囲い、裏社会の人間との絆も生まれ、いつしかチームとして、手段を選ばない捜査手法を繰り返すようになっていた。
1993年ごろ、警察が銃器摘発キャンペーンを敷き、それに合わせるように道警では銃器対策室が設けられた。諸星もそこに配属され、銃器摘発のエースとして期待を集める。それにこたえるように、裏取引をしてまで、あたかも大量の銃を押収したかのように装うっていく。それが常態化していき、どんどんエスカレートしていった。
大量の銃を手にするために、諸星は資金を必要とした。そのために覚醒剤の密売などにも手を染めていく。
当初、それは順調に見えたが、徐々に思うようにいかなくなり、そしてついに大きな失敗をして諸星の栄光は終焉を迎える。そして、諸星は、決して自ら手を染めることがなかった薬物にはまっていってしまう。
▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン2は座席数112で、スクリーンサイズが9.1×3.8m。前方2列、後方7列の構成。後方最前列には手すりなどの柵がなく、スペースでいうと魅力的。C列は後方列の最前列で、若干近すぎて見上げになってしまう。ただ、これぐらいのスクリーンサイズであれば、それほどつらさは感じない。むしろ、非常に迫力を感じるベストな席。C5は左端の席。画面にかなり近いだけに、真ん中よりもむしろ端の方が見やすいような気がする。
▶ 作品レビュー
いま流行の(?)過去を描く際に映像をわざと古く見せる手法を多用していたように見えた。多少の効果は感じるけれども、そのこだわりは少し弱いように見えた。というのも、急にその画質が今風に変わってしまうところが多々見受けられ、映画の世界観に入っていこうとする上で明らかに妨げになっていた。極悪な諸星が、やんちゃな綾野剛にしか見えない、といったように─。(まぁ古ぼけた映像をわざと作ろうとしているところはなかったのかもしれないし、単に過去の事物を画面内に配置しただけで映像そのものが古ぼけて見えたのかもしれない。個人的に感じたのは、映像的な統一感のなさといったところ)
そしていま一つ批判的なところを挙げさせてもらう。それは、役者を本業としない演者が何人か登場してくる点においてであり、彼らの演技にごとく嫌悪感を持ってしまう。映画には役者しか出演しては駄目だなどと頭の硬いことは言わない。しかし、本業ではないからと、拙い演技を許容しなければならない義務もない。そうはいっても、彼らは自らの能力を自覚しつつ、できる限りの演技をしていただろうし、それを生かすも殺すも演出次第だったと思うわけで、それが上手い具合にはまっていなかったというのが個人的な見解。
正直なところ、演技にも映像そのものにも全く魅力を感じなかったわけで、映画としてみた場合、あまり芳しいものではなかった。(あくまで個人的見解)
それでもこの映画を“良し”とする。その最たる理由は、やはりもとになっている話が凄すぎるというところにある。
治安のよい国日本、安全な国日本、そう呼ばれているのは幻想で、そしてまた、その治安と安全を警察が保障していると思うことがいかに恐ろしく、それは非常に危険なことだと思わされる。
描かれ方があまりにも過剰に感じてしまうところもあるし、もとになっている原作もあくまで個人の告白によるもので客観性に欠けるとも思ってしまう。しかし、描かれているものは嘘とは思えないし、これを役者が演じている虚構だと認識した上で観賞しつつも、むしろ、これこそが真実だ!とも思ってしまう。表層的な格好良さなど度外視してでも、リアルな感じとか生々しさといったことを表現したい、そういう思いが伝わってくる。それがこの作品の評価にも繋がっていく気がする。
史上最悪とも言われる警察の不祥事なのだから、もっと真面目な大作を、と思ったりしたけれど、もしかしたら、そんな堅物を作られたところでその事実をしっかりと受けとめられたかどうか疑問に思ってしまう。過度にも思えるこの作品のような劇的演出があればこそ、社会に対する危機感というものなどを喚起させられるのかもしれない。
エンターテインメントとし楽しめる映画であると思うし、同時に、広く世に知らしめるといった啓発という意味でも意義深い映画だとも思える。ただ、個人的には再び見たいとは思わないし、そう思わせてくるだけの魅力はなかった。しかしながら、この映画への強烈な記憶はいつまでも消えることはないだろう。
クリーピー 偽りの隣人
クリーピー 偽りの隣人(2016年)
公開日:2016年6月18日
配給:松竹、アスミック・エース
時間:000分
監督:黒沢清
原作:前川裕
脚本:黒沢清、池田千尋
出演:西島秀俊(高倉)
竹内結子(康子)
川口春奈(早紀)
東出昌大(野上)
香川照之(西野) ほか
製作総指揮:大角正
エグゼクティブプロデューサー:黒田康太
プロデューサー:深澤宏、住田節子、赤城聡、石田聡子
撮影:芦澤明子
美術:安宅紀史
照明:永田英則
録音:島津未来介
編集:高橋幸一
装飾:山本直輝
音楽:羽深由理
音楽プロデューサー:高石真美
スクリプター:柳沼由加里
助監督:海野敦
ラインプロデューサー:山田彰久
プロダクションマネージャー:小松次郎
鑑賞日:2016年6月21日
場所:新宿ピカデリー シアター2 座席:D-21
■ ストーリー
ある事件でミスをしてしまった高倉(西島秀俊)は、警察の職を辞し、大学で犯罪心理学を教えている。妻・康子(竹内結子)とともに引っ越しをした高倉は、心機一転、新生活が始まろうとしていた。
ある日、高倉は大学で同僚の研究を眺めていると、数年前に1人を残して家族が失踪してしまった未解決事件が気になった。高倉は興味本位に空き家となっている事件現場を訪れ、それをきっかけに徐々にその事件にのめり込んでいく。
引っ越し先で隣近所の交流が思うようにいかない康子だったが、徐々に隣の西野(香川照之)と交流を持ち始め、西野と西野の娘を自宅に招き入れるまでになった。
西野との交流を快く思わない高倉だったが、家のことよりも掘り起こした未解決事件の方ばかりに気持ちが向いていく。
高倉は元同僚で捜査一課の野上(東出昌大)とともに、家族失踪事件でただ1人残された娘の早紀(川口春奈)と接触するうちに、失踪した家族の当時の隣人が絡んでいることをつかむ。すると空き家となっていたその隣人宅から複数の遺体が発見された。遺体は、失踪した家族とその隣人らのものだと判明し、事件は解決するかに思えた。
しかし、高倉はその事件と今ある自分の境遇との不思議なつながりに気付き、隣の西野を強く怪しむようになる。だが、すでに事態は深刻な状況になっていた。高倉は妻の康子が深みにはまっていることさえ気付いていなかったのだ。
元同僚・野上の協力を得ながら西野のことを探ろうとするが、近所での発火事件や野上の死といった危険がどんどん迫ってくる。そしてついに、魔の手は妻・康子へと及び、それが高倉自信への危機的状況へと進んでいく─
▶ 映画館環境
新宿ピカデリーのスクリーン2は座席数303、スクリーンサイズは分からないが、極めて大。座席はD-21。前方から4列目、足元が広々としていて前方に障害物がない。ややスクリーンに近すぎるかも知れないが、前方の開放感を最良とするならば気にすべき問題ではない。右寄りであることが残念。平日の朝イチ上映。意外に客はいた。客層は成人から年配で占められていた。6割ぐらい座席が埋まっていた気がする。
▶ 作品レビュー
黒沢清自らダークファンタジーと語っていたこの作品、見る人によってその感想や感じ方が大きく違うとは思うけれど、個人的にはこの“ダークファンタジー”という表現に納得させられてしまった。ミステリーとかサスペンスといった要素が強い作品ではあるものの、全く怖くなかったし、むしろ笑い所満載で、終始ニヤニヤいやらしく笑いながら見ていた気がする。
西島秀俊の演技には、いつもながらニヤツいてしまう。あのぎこちなさは、狙っているのか天然なのか全く分からないけれど、ドラマや映画、CMでさえも全く変わらないあの立ち振る舞いとしゃべりはもはや一つのスタイルと認めてもいいのではと思っている。悪く言えばド下手、良く言えば頑な(…これも悪口かもしれないけれど)─、黒沢清監督はニュートラルという表現でうまくオブラートに包んでいたが、本当にそういう意識で演じているのならば、こっちが思っている以上に凄い役者かもしれない。ただ、好き嫌いはあるだろうし、実際自分は好みじゃない(…ここまできて落とすわけじゃないけれど…)。でも、笑える。いろんな意味で笑える。
西島秀俊とは対照的に、作品ごとに演技をがらりと変えてくる香川照之には笑いと同時に畏怖すらしてしまう。良く言えば多才、悪く言えば過剰─。しかし、その過剰さが決して浮くことなく、それぞれの作品において見事に馴染んでいるように思う。演じているキャラを見ると、決してこんなヤツいないと思うけれども、画面の中でそれが成立している。それ故にそれを見ていると笑いが止まらなくなってしまう。
熱く頑なな西島秀俊の演技と変幻自在に柔軟な香川照之の演技がぶつかり合うのを目の前にすると、どちらがどれだけ力を入れているのか全く分からない。見た通り西島が力んで香川が緩く演じているのか、あるいは西島の表現こそがナチュラルで香川が懸命に虚実を作ろうとしているのか─、彼ら二人の絡みは様々な物事を思い起こさせてくれて、作品を越えた面白さを感じてしまうのである。
それら演者の競演を堪能できるもの、安心安定の確固たる映像や世界観が確立されているため。様々な光りを駆使し、効果的な音響とともに、黒沢清ダークファンタジーへと誘われ、そこで展開される個性と個性のぶつかり合い─至極のエンタテインメントが展開されていた。
ストーリーだけを追おうとするとただ後味が悪いお話しでしかない。感覚的にその雰囲気を味わうことができれば、もしかしたら、かけがえのない作品になるかもしれない。
公開日:2016年6月18日
配給:松竹、アスミック・エース
時間:000分
監督:黒沢清
原作:前川裕
脚本:黒沢清、池田千尋
出演:西島秀俊(高倉)
竹内結子(康子)
川口春奈(早紀)
東出昌大(野上)
香川照之(西野) ほか
製作総指揮:大角正
エグゼクティブプロデューサー:黒田康太
プロデューサー:深澤宏、住田節子、赤城聡、石田聡子
撮影:芦澤明子
美術:安宅紀史
照明:永田英則
録音:島津未来介
編集:高橋幸一
装飾:山本直輝
音楽:羽深由理
音楽プロデューサー:高石真美
スクリプター:柳沼由加里
助監督:海野敦
ラインプロデューサー:山田彰久
プロダクションマネージャー:小松次郎
鑑賞日:2016年6月21日
場所:新宿ピカデリー シアター2 座席:D-21
■ ストーリー
ある事件でミスをしてしまった高倉(西島秀俊)は、警察の職を辞し、大学で犯罪心理学を教えている。妻・康子(竹内結子)とともに引っ越しをした高倉は、心機一転、新生活が始まろうとしていた。
ある日、高倉は大学で同僚の研究を眺めていると、数年前に1人を残して家族が失踪してしまった未解決事件が気になった。高倉は興味本位に空き家となっている事件現場を訪れ、それをきっかけに徐々にその事件にのめり込んでいく。
引っ越し先で隣近所の交流が思うようにいかない康子だったが、徐々に隣の西野(香川照之)と交流を持ち始め、西野と西野の娘を自宅に招き入れるまでになった。
西野との交流を快く思わない高倉だったが、家のことよりも掘り起こした未解決事件の方ばかりに気持ちが向いていく。
高倉は元同僚で捜査一課の野上(東出昌大)とともに、家族失踪事件でただ1人残された娘の早紀(川口春奈)と接触するうちに、失踪した家族の当時の隣人が絡んでいることをつかむ。すると空き家となっていたその隣人宅から複数の遺体が発見された。遺体は、失踪した家族とその隣人らのものだと判明し、事件は解決するかに思えた。
しかし、高倉はその事件と今ある自分の境遇との不思議なつながりに気付き、隣の西野を強く怪しむようになる。だが、すでに事態は深刻な状況になっていた。高倉は妻の康子が深みにはまっていることさえ気付いていなかったのだ。
元同僚・野上の協力を得ながら西野のことを探ろうとするが、近所での発火事件や野上の死といった危険がどんどん迫ってくる。そしてついに、魔の手は妻・康子へと及び、それが高倉自信への危機的状況へと進んでいく─
▶ 映画館環境
新宿ピカデリーのスクリーン2は座席数303、スクリーンサイズは分からないが、極めて大。座席はD-21。前方から4列目、足元が広々としていて前方に障害物がない。ややスクリーンに近すぎるかも知れないが、前方の開放感を最良とするならば気にすべき問題ではない。右寄りであることが残念。平日の朝イチ上映。意外に客はいた。客層は成人から年配で占められていた。6割ぐらい座席が埋まっていた気がする。
▶ 作品レビュー
黒沢清自らダークファンタジーと語っていたこの作品、見る人によってその感想や感じ方が大きく違うとは思うけれど、個人的にはこの“ダークファンタジー”という表現に納得させられてしまった。ミステリーとかサスペンスといった要素が強い作品ではあるものの、全く怖くなかったし、むしろ笑い所満載で、終始ニヤニヤいやらしく笑いながら見ていた気がする。
西島秀俊の演技には、いつもながらニヤツいてしまう。あのぎこちなさは、狙っているのか天然なのか全く分からないけれど、ドラマや映画、CMでさえも全く変わらないあの立ち振る舞いとしゃべりはもはや一つのスタイルと認めてもいいのではと思っている。悪く言えばド下手、良く言えば頑な(…これも悪口かもしれないけれど)─、黒沢清監督はニュートラルという表現でうまくオブラートに包んでいたが、本当にそういう意識で演じているのならば、こっちが思っている以上に凄い役者かもしれない。ただ、好き嫌いはあるだろうし、実際自分は好みじゃない(…ここまできて落とすわけじゃないけれど…)。でも、笑える。いろんな意味で笑える。
西島秀俊とは対照的に、作品ごとに演技をがらりと変えてくる香川照之には笑いと同時に畏怖すらしてしまう。良く言えば多才、悪く言えば過剰─。しかし、その過剰さが決して浮くことなく、それぞれの作品において見事に馴染んでいるように思う。演じているキャラを見ると、決してこんなヤツいないと思うけれども、画面の中でそれが成立している。それ故にそれを見ていると笑いが止まらなくなってしまう。
熱く頑なな西島秀俊の演技と変幻自在に柔軟な香川照之の演技がぶつかり合うのを目の前にすると、どちらがどれだけ力を入れているのか全く分からない。見た通り西島が力んで香川が緩く演じているのか、あるいは西島の表現こそがナチュラルで香川が懸命に虚実を作ろうとしているのか─、彼ら二人の絡みは様々な物事を思い起こさせてくれて、作品を越えた面白さを感じてしまうのである。
それら演者の競演を堪能できるもの、安心安定の確固たる映像や世界観が確立されているため。様々な光りを駆使し、効果的な音響とともに、黒沢清ダークファンタジーへと誘われ、そこで展開される個性と個性のぶつかり合い─至極のエンタテインメントが展開されていた。
ストーリーだけを追おうとするとただ後味が悪いお話しでしかない。感覚的にその雰囲気を味わうことができれば、もしかしたら、かけがえのない作品になるかもしれない。
或る終焉
題名:或る終焉(2015年/メキシコ・フランス合作)
原題:Chronic
公開日:(仏)2015年10月21日 (日)2016年5月28日
配給:(仏)Wild Bunch Distribution (日)エスパース・サロウ
時間:94分
監督:マイケル・フランコ
政策:マイケル・フランコ
脚本:マイケル・フランコ
出演:ティム・ロス(デビッド)
サラ・サザーランド(ナディア)
ロビン・バートレット(マーサ)
マイケル・クリストファー(ジョン)
デビッド・ダストマルチャン(バーナード)
ビッツィー・トゥロック(リディア) ほか
製作総指揮:ティム・ロス
撮影:イブ・カペ
美術:マット・ルエム
衣装:ディアス
編集:マイケル・フランコ、フリオ・ペレス4世
鑑賞日:2016年5月31日
場所:Bunkamura ル・シネマ スクリーン1 E-15
■ introduction(公式HPより)
続く、3作目の本作が第68回カンヌ国際映画祭脚本賞受賞と、映画監督としてはまだ短いキャリアにもかかわらず、世界最高峰の映画祭を魅了してやまない俊英ミシェル・フランコである。36歳という若さでありながら“人間”を深く抉り出す、研ぎ澄まされたその観察眼に私たちは驚きを隠しえない。
また、主人公デヴィッドに扮したのは、主演としてバイプレイヤーとしてさまざまな監督に愛され、幅広いキャラクターをこなしてきた名優ティム・ロス。患者の残りわずかな最期のときを、家族をも超越した距離感で共に過ごす看護師を演じ、役者としての真骨頂を見せてくれる。
本作は、今日最も注目されている終末期医療をテーマに、“看護師”と“患者”という“親密な他人”の関係性をあくまでリアルに定点観測のごとく冷静に映し出す。監督自身の体験談から紡ぎだされた絶対的説得力のある脚本、一方で、作品全体に漂う決して説明的ではない静謐な余白は、観る者に挑発的なまでにあらゆる感情と憶測をもたらす。そして、想像をはるかに超えたその “命のゆくえ”は私たちに、美しくも強烈な余韻を残してくれるにちがいない。
■ story(公式HPより)
別れた妻と娘とは、息子ダンの死をきっかけに疎遠となり、一人暮らし。彼には、患者の在宅看護とエクササイズに励む以外の生活はなく、患者が望む以上に彼もまた患者との親密な関係を必要としていた。ある日デヴィッドは、末期がんで苦しむマーサ(ロビン・バートレット)に安楽死を幇助して欲しいと頼まれる。患者への深い思いと、デヴィッド自身が抱える暗い過去・・・その狭間で苦悩する彼が下した壮絶な決断とは――。
▶ 映画館環境
渋谷 ル・シネマ1 座席数152
スクリーンが小さいし、細長いし、座席間も狭いし、全席ウェブでの購入ができるわけでもないので、個人的には嫌いな劇場。おっさん臭いにおいも嫌い。火曜日のサービスデー以外は行かないようにしている。
シネマ1はCDEGI列の右端、DFHJ列の左端が妥当な席。ベストな場所はない。今回座ったのもE-12。ちょうどよい位置だった。
サービスデーであるだけに客多め。年齢は極めて高い。劇場へは行く道として、小さなエレベーター2基と変なルートを行かなければならないエスカレーターしかないので、行き着きづらい。だから尚更嫌いな劇場。
▶ 作品レビュー
この映画を社会派映画と捉えるかどうか、なかなか難しいところである。扱っている内容は間違いなく現代において社会問題となっているもの。介護の問題、尊厳死、医療従事者のモラル等々─。出だしの強烈な映像によって意識を映画の中に持っていかれ、かなりの注力で映し出される事柄を捉えようとする。それにより、この映画の性質というものを肌身で感じる、漠然とした感覚を─。ただ、その感覚はどこまでいっても変わらない。どんなに話が進もうとも、そしてどんなにデビッド(ティム・ロス)の背景や性格が露わになろうとも、詳細な物語の説明や背景についての解説は全くないわけで、見終わった後も分からないところだらけだ。とはいえ、詳細を知り得なくとも観賞可能な作品であり、むしろ詳細な説明されないが故に、余計に見ている者個々の想像力が掻き立てられるといえるのかもしれない。
献身的に介護をするデビッドがキッチンで手にするぎらつくナイフ、痩せ細った女性の体を丁寧に洗ってあげるデビッド、過去にデビッドが息子を亡くしているという事実・そしてその死因、デビッドの偽り、デビッドへの疑惑、デビッドの人間愛、過去に縛られ続けているデビッド、執拗に誰かを追い続けるデビッド、そして走り続けるデビッド…今ある現代社会という世界の中でデビッドが織りなす行動、それがこの映画の全て。映画の中で語られている事柄はあくまで提示であって、何かを主張しているものでもないし、見ている者の心を明確な方向に向けようとしているものでもない。我々が住む実社会と、劇中で展開されるデビッドの行動とが結びつけられたとき、この映画がひとつの作品として完成されるといえるのかもしれない。そもそも、映画の見方や捉え方というものは人それぞれ違うものであると思うけれど、とかくこの映画においての捉えられ方というものは千差万別であると思われる。
つまりこの映画を見てまず思うのは、映像の質とか演技演出という事の前に、テーマとか主張というものであり、終始デビッドの行動が意味するところを追い求め続けてしまう。
個人的な見解として、デビッドの行動には何の意味も無いという結論。ただ単に、強烈な映像を、社会問題を題材にして、興味本位に並び連ねているとしか思えない。介護や献身は決して人間愛というものに繋がっているわけでもなく、尊厳死など人の死もすべて無に帰している。
作り手の主義主張を多少なりとも盛り込んでくれたならば、それに対する納得や反発もできただろう。だが、そういったものが潜んでいるようで実は皆無であると(個人的に)判断し、その瞬間、この作品に対する嫌悪感は甚だしいもの。悪趣味な娯楽映画だとしか思えなかったのだ。
そうは言いつつも、見終わった後の印象は強烈であり、後々まで心に残るような作品であったことは否めない。作品の好みに関係なく、その衝撃度は計り知れないもので、これほどまでにトラウマのごとく心に刻み込まれた映画を他に知らない。そういった意味においては大いに評価できるところではあるけれど、衝撃以外何も残してくれないようなこの作品に、なかなか好感が持てない。
日々、ジョギングを習慣としている自分にとって、なおさらにこのエンディングが心に刻まれてしまった。この映画を見て以来、ヘッドホンをしながら、それまで以上に車の往来が気になって仕方がない。そういった感覚を持って改めて思う、この映画の凄さを─。
作品に対する好みも、印象も人それぞれ違うことは間違いないとは思うが、この映画は決して社会派映画ではないということだけは断言してもいい。繰り返しになるけれども、そう思うとやっぱり、この映画の嫌悪感というものは拭い去れない。まぁこの部分は個人的な意見でしかないのだが…。
原題:Chronic
公開日:(仏)2015年10月21日 (日)2016年5月28日
配給:(仏)Wild Bunch Distribution (日)エスパース・サロウ
時間:94分
監督:マイケル・フランコ
政策:マイケル・フランコ
脚本:マイケル・フランコ
出演:ティム・ロス(デビッド)
サラ・サザーランド(ナディア)
ロビン・バートレット(マーサ)
マイケル・クリストファー(ジョン)
デビッド・ダストマルチャン(バーナード)
ビッツィー・トゥロック(リディア) ほか
製作総指揮:ティム・ロス
撮影:イブ・カペ
美術:マット・ルエム
衣装:ディアス
編集:マイケル・フランコ、フリオ・ペレス4世
鑑賞日:2016年5月31日
場所:Bunkamura ル・シネマ スクリーン1 E-15
■ introduction(公式HPより)
世界を騒然とさせたその“結末”にあなたの胸は貫かれる! イニャリトゥ、キュアロンにつづくメキシコ次世代の新鋭が問う人生の終末。
アカデミー賞®受賞の功績を持つアレハンドロ・G・イニャリトゥやアルフォンソ・キュアロンなどの世界的巨匠を輩出し、常に一歩先を行く大胆かつ繊細な視点と唯一無二のエンターテイメント性で世界を熱狂させてきたメキシコの映画芸術。彼らにつづき、メキシコ次世代を担う新たな才能は、あくまでクールなまなざしが持ち味の新鋭だ。2009年に長編監督デビューをして以来、わずか2作目の『父の秘密』(12)が第65回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門にてグランプリ受賞。続く、3作目の本作が第68回カンヌ国際映画祭脚本賞受賞と、映画監督としてはまだ短いキャリアにもかかわらず、世界最高峰の映画祭を魅了してやまない俊英ミシェル・フランコである。36歳という若さでありながら“人間”を深く抉り出す、研ぎ澄まされたその観察眼に私たちは驚きを隠しえない。
また、主人公デヴィッドに扮したのは、主演としてバイプレイヤーとしてさまざまな監督に愛され、幅広いキャラクターをこなしてきた名優ティム・ロス。患者の残りわずかな最期のときを、家族をも超越した距離感で共に過ごす看護師を演じ、役者としての真骨頂を見せてくれる。
本作は、今日最も注目されている終末期医療をテーマに、“看護師”と“患者”という“親密な他人”の関係性をあくまでリアルに定点観測のごとく冷静に映し出す。監督自身の体験談から紡ぎだされた絶対的説得力のある脚本、一方で、作品全体に漂う決して説明的ではない静謐な余白は、観る者に挑発的なまでにあらゆる感情と憶測をもたらす。そして、想像をはるかに超えたその “命のゆくえ”は私たちに、美しくも強烈な余韻を残してくれるにちがいない。
■ story(公式HPより)
終末期の患者をケアする看護師デヴィッド。 死を乞う患者を前にしたとき、彼はどう命に向き合うのか。 ある看護師の崇高なる献身愛と葛藤を描いたサスペンスフルなヒューマンドラマ
デヴィッド(ティム・ロス)は、終末期患者の看護師をしていた。別れた妻と娘とは、息子ダンの死をきっかけに疎遠となり、一人暮らし。彼には、患者の在宅看護とエクササイズに励む以外の生活はなく、患者が望む以上に彼もまた患者との親密な関係を必要としていた。ある日デヴィッドは、末期がんで苦しむマーサ(ロビン・バートレット)に安楽死を幇助して欲しいと頼まれる。患者への深い思いと、デヴィッド自身が抱える暗い過去・・・その狭間で苦悩する彼が下した壮絶な決断とは――。
▶ 映画館環境
渋谷 ル・シネマ1 座席数152
スクリーンが小さいし、細長いし、座席間も狭いし、全席ウェブでの購入ができるわけでもないので、個人的には嫌いな劇場。おっさん臭いにおいも嫌い。火曜日のサービスデー以外は行かないようにしている。
シネマ1はCDEGI列の右端、DFHJ列の左端が妥当な席。ベストな場所はない。今回座ったのもE-12。ちょうどよい位置だった。
サービスデーであるだけに客多め。年齢は極めて高い。劇場へは行く道として、小さなエレベーター2基と変なルートを行かなければならないエスカレーターしかないので、行き着きづらい。だから尚更嫌いな劇場。
▶ 作品レビュー
この映画を社会派映画と捉えるかどうか、なかなか難しいところである。扱っている内容は間違いなく現代において社会問題となっているもの。介護の問題、尊厳死、医療従事者のモラル等々─。出だしの強烈な映像によって意識を映画の中に持っていかれ、かなりの注力で映し出される事柄を捉えようとする。それにより、この映画の性質というものを肌身で感じる、漠然とした感覚を─。ただ、その感覚はどこまでいっても変わらない。どんなに話が進もうとも、そしてどんなにデビッド(ティム・ロス)の背景や性格が露わになろうとも、詳細な物語の説明や背景についての解説は全くないわけで、見終わった後も分からないところだらけだ。とはいえ、詳細を知り得なくとも観賞可能な作品であり、むしろ詳細な説明されないが故に、余計に見ている者個々の想像力が掻き立てられるといえるのかもしれない。
献身的に介護をするデビッドがキッチンで手にするぎらつくナイフ、痩せ細った女性の体を丁寧に洗ってあげるデビッド、過去にデビッドが息子を亡くしているという事実・そしてその死因、デビッドの偽り、デビッドへの疑惑、デビッドの人間愛、過去に縛られ続けているデビッド、執拗に誰かを追い続けるデビッド、そして走り続けるデビッド…今ある現代社会という世界の中でデビッドが織りなす行動、それがこの映画の全て。映画の中で語られている事柄はあくまで提示であって、何かを主張しているものでもないし、見ている者の心を明確な方向に向けようとしているものでもない。我々が住む実社会と、劇中で展開されるデビッドの行動とが結びつけられたとき、この映画がひとつの作品として完成されるといえるのかもしれない。そもそも、映画の見方や捉え方というものは人それぞれ違うものであると思うけれど、とかくこの映画においての捉えられ方というものは千差万別であると思われる。
つまりこの映画を見てまず思うのは、映像の質とか演技演出という事の前に、テーマとか主張というものであり、終始デビッドの行動が意味するところを追い求め続けてしまう。
個人的な見解として、デビッドの行動には何の意味も無いという結論。ただ単に、強烈な映像を、社会問題を題材にして、興味本位に並び連ねているとしか思えない。介護や献身は決して人間愛というものに繋がっているわけでもなく、尊厳死など人の死もすべて無に帰している。
作り手の主義主張を多少なりとも盛り込んでくれたならば、それに対する納得や反発もできただろう。だが、そういったものが潜んでいるようで実は皆無であると(個人的に)判断し、その瞬間、この作品に対する嫌悪感は甚だしいもの。悪趣味な娯楽映画だとしか思えなかったのだ。
そうは言いつつも、見終わった後の印象は強烈であり、後々まで心に残るような作品であったことは否めない。作品の好みに関係なく、その衝撃度は計り知れないもので、これほどまでにトラウマのごとく心に刻み込まれた映画を他に知らない。そういった意味においては大いに評価できるところではあるけれど、衝撃以外何も残してくれないようなこの作品に、なかなか好感が持てない。
日々、ジョギングを習慣としている自分にとって、なおさらにこのエンディングが心に刻まれてしまった。この映画を見て以来、ヘッドホンをしながら、それまで以上に車の往来が気になって仕方がない。そういった感覚を持って改めて思う、この映画の凄さを─。
作品に対する好みも、印象も人それぞれ違うことは間違いないとは思うが、この映画は決して社会派映画ではないということだけは断言してもいい。繰り返しになるけれども、そう思うとやっぱり、この映画の嫌悪感というものは拭い去れない。まぁこの部分は個人的な意見でしかないのだが…。
ガルム・ウォーズ
題名:ガルム・ウォーズ(2014年/日本・カナダ合作)
原題:Garm Wars: The Last Druid
公開日:2016年5月20日
配給:東宝映像事業部
時間:92分
監督:押井守
原作:押井守
脚本:ジェフリー・ガン、押井守
出演:メラニー・サンピエール(カラ)
ランス・ヘンリクセン(ウィド)
ケビン・デュランド(スケリグ)
サマー・ハウエル(ナシャン)ほか
音楽:川井憲次
音響:トム・マイヤー
監督補:佐藤敦紀
衣装:竹田団吾
協力:スタジオジブリ
制作:Production I.G
日本語版プロデューサー:鈴木敏夫
日本語版演出:打越領一
日本語翻訳:原口真由美
宣伝コピー:虚淵玄
鑑賞日:2016年5月31日
場所:TOHOシネマズららぽーと船橋 スクリーン10 I-15
■ INTRODUCTION(公式HP引用)
押井守×鈴木敏夫×Production I.G
構想15年、製作費20億円、押井守監督最新作!
押井守の新作がアメリカ大陸からやってくる──!
道徳の世界観と映像美で世界を魅了し続ける鬼才・押井守監督最新作
全米ビルボード1位(ホームビデオ部門)を獲得した1995年発表「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」が、ジェームズ・キャメロン、クエンティン・タランティーノ、ウォシャウスキー姉妹をはじめ、数多くの世界的クリエイターの影響を与えた、日本アニメーション界の鬼才・押井守。2004年発表「イノセンス」ではアニメ作品で初めてカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、続く2008年発表「スカイ・クロラ The Sky Crawler」もベネツィア国際映画祭のコンペティション部門出品作品となりました。そして2014年にはモントリオールファンタジア国際映画祭から生涯功労賞が授与されるなど、押井の動向は常に世界中から注目されています。監督デビューから30余年。世界中から新作が待ち望まれる監督・押井守の最新作が、逆に日本で公開されます。
国家とは、人類とは、そして戦うこととは──押井守が描く現代叙事詩
本作は、SFファンタージ作品の意匠をまといながら、現代社会の抱える数々の問題を照射する同時代生を孕んでいます。閉塞した社会…少子化…戦争への恐怖…マイナンバー…そして、それでも求めなくてならない「希望」。本作では日本に住む私たちが今まさに直面している絶望と希望を真正面から見据えるよう、観る物に問いかけます。
「我々は何処から来て何処へ行くのか?」
オール北米ロケ、日本人は監督含め7人!
出演、『エイリアン2』ビショップ役で強烈な印象を残した名優ランス・ヘンリクセン、『ロビン・フッド』『リアル・スティール』で切れのあるアクションを披露し、海外ドラマ「LOST」シリーズで日本での人気を定着させたケヴィン・デュランド、そして主人公には、美しき新人メラニー・サンピエール。押井監督のファンであった彼女は金髪のロングヘアーから押井作品には欠かせない黒髪おかっぱ頭に変え並々ならぬ熱意で臨み、押井の世界観を見事体現してみせました。
実写でもない、アニメーションでもない、押井守だからこそ到達し得た究極の臨界点世界。それが『ガルム・ウォーズ』です。
■ STORY(公式HP引用)
遙かなる古代、戦いの星・アンヌン。
ここは「ガルム」と呼ばれるクローン戦士が生息し、果てしない戦いを繰り広げていた。かつてガルムには8つの部族があり、それぞれ役割に応じて創造主・ダナンに仕えていた。あるときダナンが星を去り、その後の覇権をめぐって部族の間に戦いが生じたのである。長きに亘る争いの末に5部族が絶滅し、残るは空を制する「コルンバ」、陸を制する「ブリガ」、そして情報技術に長けた「クムタク」の3部族だけとなった。
この星に生息するのはガルムの地に、彼らから神聖視される犬・グラと、鳥──。ガルムは生殖能力を持つグラや鳥と違い、クローン技術により生命をつないできた。たとえ命を落としても、その個体の記憶をクローンの脳に転写することで再生を繰り返し、幾世代も生き延びてきたのだ。
空の部族・コルンバの女性飛行士「カラ」は、陸の部族・ブリガとの戦闘の最中、クムタクの老人「ウィド」、ブリガの兵士「スケリグ」と出会う。ウィドが投げかける不可思議な問によって、敵同士である彼らの間に奇妙な連帯が生じる。
創造主にして神であるダナンがなぜこの星を去ったのか?我々ガルムとは一体何なのか?我々は何処から来て何処へ行くのか?
カラとスケリグは次第に惹かれ合う。2人はそれまで脳内に生じたことのない感情に戸惑いながらも突き動かされる。その情動はガルムにおける愛の芽生えであり、またそれは彼らが重大な変化の渦に巻き込まれつつある事を暗示していた。
ウィドは、絶滅したはずの部族・ドルイドの最後の生き残りである「ナシャン」を連れていた。ドルイドとは、かつて創造主・ダナンの声を伝えたとされる部族である。ナシャンに導かれ、カラ・ウィド・スケリグの3人はグラとともに、海の向こうの遙か彼方にある伝説の聖なる森「ドゥアル・グルンド」を目指す旅に出る。自らのルーツを探り、「ガルムの真実」を知るために……。しかし、それは彼らの神の怒りに触れる行為だった
聖地に待ち受けるのは希望か、絶望か──。
▶ 映画館環境
TOHOシネマズららぽーと船橋スクリーン10は座席数130、スクリーンサイズ4.1×9.8mと比較的小規模な劇場。選択した席はI-15、最後列やや向かってやや右寄り位置。座席に対してスクリーンサイズは大きく感じるので、スクリーンに近い場所を避けるべきかもしれない。最後列でも、その迫力は失われることはなかった。
客数、極少、全男、年齢高目。
▶ 作品レビュー
映画そのものも楽しめたが、HPの解説やビジュアルなどを読むとさらに興味が沸く。設定やデザイン、世界観など、表層的な面においてはほぼ完璧だと感じる。
ただ、ポスターなどで使用されているカラの横画をメインにしたキービジュアルだけは納得しかねる。中途半端に内容を隠しているとしか思えない。もっとあからさまに、巨神兵的なものがたくさん出ますよ!的なプロモーションの方が、潔いと思ってしまうのは、擦れた見方だろうか…。
ただ、言えるのは、この映画における世界観は全て過去の遺物の寄せ集めだと断言できる。極端な話、設定からキャラクターまで、オリジナリティーは皆無といえる。その事実を変に隠そうとすると、むしろ作品の駄目さ加減が強調されてしまうように思う。
ジブリもハリウッドも押井も全て詰め込みましたよーという触れ込みや宣伝であれば、むしろ興味をそそるというものだ。
作品の質は非常に高くて、面白いと思う。しかし、その評価は酷いもの。この低評価は、やはり、オリジナリティーの無さと粗いストーリー展開にあるのだろう。設定がよく練られている割に、唐突な展開が目につく。
そうは言っても、ストーリーなど半ばやり過ごして、ビジュアルを楽しむ映画として捉えて観賞すれば、悪くないはずで、そうすべき映画であることは間違いない。
そもそも、冒頭に説明される設定など全て頭に入るわけでもないし、それを詳細に覚えたところで作品の観賞に影響するところは少ないだろう。むしろ、観賞後に詳細をじわじわと知っていくという楽しみをひとつ与えてくれているだけのこと。
個人的には、押井守というアーティストはゼロから何かを生み出すという印象はあまりなく、既存の作品をより洗練させて、ひとつのワールドを創り上げる作家だという印象。だから、この作品も、似たような筋の漫画や小説を見つけ出して押井ワールドを構築していたのであれば、もしかしたら評価が180度違ったものだったように思ってしまう。まぁ、オリジナリティーを感じなかったわけだから、そういう見方は致し方ないだろう。
それにしても、イントロダクションを見ると、構想15年とか、鈴木敏夫の名前を出したり、オール北米ロケとか日本人は7人だけとか、少子化とかマイナンバーとか…無駄に恥ずかしい情報が多すぎて笑ってしまう。あくまでもシリアスにそれらを宣伝として用いているのか、ある意味狙いであるのか判断しかねるところがあるが、作品の内容と照らし合わせて考えると、やはり無意味な情報だと思ってしまう。まぁ観賞する側としては別の意味で楽しむ要素として爆笑するだけなのだが、押井守の作品として世界に発信するのであれば、どうかこのような辱めはやめてほしいと思ってしまう。
長年かけてやっと創り上げたよー、とか押井監督は言わないだろうし、全部北米で創れば格好いいかも、なんてことも思っていないだろう。さらには、少子化とかマイナンバーの問題を意識してこのような異世界SFを創り上げているわけがない。
笑ってしまうイントロダクションを先に見てしまうと、作品そのものを見る気も失せてしまう。逆に、作品を見た後でイントロダクションを見ると笑えるのだが、それは決して製作サイドが意図しているものではないはずだ。
要するに、淡々と筋とかキャラクターについて情報を与えてほしいわけで、無駄な美辞麗句など全てを汚すだけのものでしかない。
正直、作品についての情報が少なすぎるように思う。設定はある程度述べられているものの、キャラクターの詳細や兵器などについての言及もあまりないし、過去から未来の展開など漠然とし過ぎていて想像の余地すら与えてくれていない。
全く新しい世界を創造しようとしているのであれば、キャラクターの詳細、身に着けている物の名前や用途、武器や兵器の名前や特徴、そして創造されている世界の歴史など、深く作品に入り込んでいけるような要素を欲するところなのだが、そんな気はさらさらないらしい。まぁ、あくまで映画だけを見た印象ではあるけれど…。
作品を見終えた段階で、この話はまだまだ続きそうな気がしたのだが、この作品を宣伝する輩はそんな気は毛頭ないように思えてしまう。押井は続ける気でいるけれども、東宝などはそんな気ないといったところ。
個人的には押井が好き勝手に創った続編やこの世界観での物語をもっと欲するわけだが、恐らく次は無いなと思うのが正直なところ。この世界観がここで終わっても、他の映画が補ってくれると思ってしまうわけで、それがこの作品の致命的なところだと思う。
アニメのナウシカが一本だけしか作られていない悪影響が間違いなくここにある、と思ってしまうのは、飛躍しすぎで、個人的な妄想でしかないのだろうか…
原題:Garm Wars: The Last Druid
公開日:2016年5月20日
配給:東宝映像事業部
時間:92分
監督:押井守
原作:押井守
脚本:ジェフリー・ガン、押井守
出演:メラニー・サンピエール(カラ)
ランス・ヘンリクセン(ウィド)
ケビン・デュランド(スケリグ)
サマー・ハウエル(ナシャン)ほか
音楽:川井憲次
音響:トム・マイヤー
監督補:佐藤敦紀
衣装:竹田団吾
協力:スタジオジブリ
制作:Production I.G
日本語版プロデューサー:鈴木敏夫
日本語版演出:打越領一
日本語翻訳:原口真由美
宣伝コピー:虚淵玄
鑑賞日:2016年5月31日
場所:TOHOシネマズららぽーと船橋 スクリーン10 I-15
■ INTRODUCTION(公式HP引用)
押井守×鈴木敏夫×Production I.G
構想15年、製作費20億円、押井守監督最新作!
押井守の新作がアメリカ大陸からやってくる──!
道徳の世界観と映像美で世界を魅了し続ける鬼才・押井守監督最新作
全米ビルボード1位(ホームビデオ部門)を獲得した1995年発表「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」が、ジェームズ・キャメロン、クエンティン・タランティーノ、ウォシャウスキー姉妹をはじめ、数多くの世界的クリエイターの影響を与えた、日本アニメーション界の鬼才・押井守。2004年発表「イノセンス」ではアニメ作品で初めてカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、続く2008年発表「スカイ・クロラ The Sky Crawler」もベネツィア国際映画祭のコンペティション部門出品作品となりました。そして2014年にはモントリオールファンタジア国際映画祭から生涯功労賞が授与されるなど、押井の動向は常に世界中から注目されています。監督デビューから30余年。世界中から新作が待ち望まれる監督・押井守の最新作が、逆に日本で公開されます。
国家とは、人類とは、そして戦うこととは──押井守が描く現代叙事詩
本作は、SFファンタージ作品の意匠をまといながら、現代社会の抱える数々の問題を照射する同時代生を孕んでいます。閉塞した社会…少子化…戦争への恐怖…マイナンバー…そして、それでも求めなくてならない「希望」。本作では日本に住む私たちが今まさに直面している絶望と希望を真正面から見据えるよう、観る物に問いかけます。
「我々は何処から来て何処へ行くのか?」
オール北米ロケ、日本人は監督含め7人!
出演、『エイリアン2』ビショップ役で強烈な印象を残した名優ランス・ヘンリクセン、『ロビン・フッド』『リアル・スティール』で切れのあるアクションを披露し、海外ドラマ「LOST」シリーズで日本での人気を定着させたケヴィン・デュランド、そして主人公には、美しき新人メラニー・サンピエール。押井監督のファンであった彼女は金髪のロングヘアーから押井作品には欠かせない黒髪おかっぱ頭に変え並々ならぬ熱意で臨み、押井の世界観を見事体現してみせました。
実写でもない、アニメーションでもない、押井守だからこそ到達し得た究極の臨界点世界。それが『ガルム・ウォーズ』です。
■ STORY(公式HP引用)
遙かなる古代、戦いの星・アンヌン。
ここは「ガルム」と呼ばれるクローン戦士が生息し、果てしない戦いを繰り広げていた。かつてガルムには8つの部族があり、それぞれ役割に応じて創造主・ダナンに仕えていた。あるときダナンが星を去り、その後の覇権をめぐって部族の間に戦いが生じたのである。長きに亘る争いの末に5部族が絶滅し、残るは空を制する「コルンバ」、陸を制する「ブリガ」、そして情報技術に長けた「クムタク」の3部族だけとなった。
この星に生息するのはガルムの地に、彼らから神聖視される犬・グラと、鳥──。ガルムは生殖能力を持つグラや鳥と違い、クローン技術により生命をつないできた。たとえ命を落としても、その個体の記憶をクローンの脳に転写することで再生を繰り返し、幾世代も生き延びてきたのだ。
空の部族・コルンバの女性飛行士「カラ」は、陸の部族・ブリガとの戦闘の最中、クムタクの老人「ウィド」、ブリガの兵士「スケリグ」と出会う。ウィドが投げかける不可思議な問によって、敵同士である彼らの間に奇妙な連帯が生じる。
創造主にして神であるダナンがなぜこの星を去ったのか?我々ガルムとは一体何なのか?我々は何処から来て何処へ行くのか?
カラとスケリグは次第に惹かれ合う。2人はそれまで脳内に生じたことのない感情に戸惑いながらも突き動かされる。その情動はガルムにおける愛の芽生えであり、またそれは彼らが重大な変化の渦に巻き込まれつつある事を暗示していた。
ウィドは、絶滅したはずの部族・ドルイドの最後の生き残りである「ナシャン」を連れていた。ドルイドとは、かつて創造主・ダナンの声を伝えたとされる部族である。ナシャンに導かれ、カラ・ウィド・スケリグの3人はグラとともに、海の向こうの遙か彼方にある伝説の聖なる森「ドゥアル・グルンド」を目指す旅に出る。自らのルーツを探り、「ガルムの真実」を知るために……。しかし、それは彼らの神の怒りに触れる行為だった
聖地に待ち受けるのは希望か、絶望か──。
▶ 映画館環境
TOHOシネマズららぽーと船橋スクリーン10は座席数130、スクリーンサイズ4.1×9.8mと比較的小規模な劇場。選択した席はI-15、最後列やや向かってやや右寄り位置。座席に対してスクリーンサイズは大きく感じるので、スクリーンに近い場所を避けるべきかもしれない。最後列でも、その迫力は失われることはなかった。
客数、極少、全男、年齢高目。
▶ 作品レビュー
映画そのものも楽しめたが、HPの解説やビジュアルなどを読むとさらに興味が沸く。設定やデザイン、世界観など、表層的な面においてはほぼ完璧だと感じる。
ただ、ポスターなどで使用されているカラの横画をメインにしたキービジュアルだけは納得しかねる。中途半端に内容を隠しているとしか思えない。もっとあからさまに、巨神兵的なものがたくさん出ますよ!的なプロモーションの方が、潔いと思ってしまうのは、擦れた見方だろうか…。
ただ、言えるのは、この映画における世界観は全て過去の遺物の寄せ集めだと断言できる。極端な話、設定からキャラクターまで、オリジナリティーは皆無といえる。その事実を変に隠そうとすると、むしろ作品の駄目さ加減が強調されてしまうように思う。
ジブリもハリウッドも押井も全て詰め込みましたよーという触れ込みや宣伝であれば、むしろ興味をそそるというものだ。
作品の質は非常に高くて、面白いと思う。しかし、その評価は酷いもの。この低評価は、やはり、オリジナリティーの無さと粗いストーリー展開にあるのだろう。設定がよく練られている割に、唐突な展開が目につく。
そうは言っても、ストーリーなど半ばやり過ごして、ビジュアルを楽しむ映画として捉えて観賞すれば、悪くないはずで、そうすべき映画であることは間違いない。
そもそも、冒頭に説明される設定など全て頭に入るわけでもないし、それを詳細に覚えたところで作品の観賞に影響するところは少ないだろう。むしろ、観賞後に詳細をじわじわと知っていくという楽しみをひとつ与えてくれているだけのこと。
個人的には、押井守というアーティストはゼロから何かを生み出すという印象はあまりなく、既存の作品をより洗練させて、ひとつのワールドを創り上げる作家だという印象。だから、この作品も、似たような筋の漫画や小説を見つけ出して押井ワールドを構築していたのであれば、もしかしたら評価が180度違ったものだったように思ってしまう。まぁ、オリジナリティーを感じなかったわけだから、そういう見方は致し方ないだろう。
それにしても、イントロダクションを見ると、構想15年とか、鈴木敏夫の名前を出したり、オール北米ロケとか日本人は7人だけとか、少子化とかマイナンバーとか…無駄に恥ずかしい情報が多すぎて笑ってしまう。あくまでもシリアスにそれらを宣伝として用いているのか、ある意味狙いであるのか判断しかねるところがあるが、作品の内容と照らし合わせて考えると、やはり無意味な情報だと思ってしまう。まぁ観賞する側としては別の意味で楽しむ要素として爆笑するだけなのだが、押井守の作品として世界に発信するのであれば、どうかこのような辱めはやめてほしいと思ってしまう。
長年かけてやっと創り上げたよー、とか押井監督は言わないだろうし、全部北米で創れば格好いいかも、なんてことも思っていないだろう。さらには、少子化とかマイナンバーの問題を意識してこのような異世界SFを創り上げているわけがない。
笑ってしまうイントロダクションを先に見てしまうと、作品そのものを見る気も失せてしまう。逆に、作品を見た後でイントロダクションを見ると笑えるのだが、それは決して製作サイドが意図しているものではないはずだ。
要するに、淡々と筋とかキャラクターについて情報を与えてほしいわけで、無駄な美辞麗句など全てを汚すだけのものでしかない。
正直、作品についての情報が少なすぎるように思う。設定はある程度述べられているものの、キャラクターの詳細や兵器などについての言及もあまりないし、過去から未来の展開など漠然とし過ぎていて想像の余地すら与えてくれていない。
全く新しい世界を創造しようとしているのであれば、キャラクターの詳細、身に着けている物の名前や用途、武器や兵器の名前や特徴、そして創造されている世界の歴史など、深く作品に入り込んでいけるような要素を欲するところなのだが、そんな気はさらさらないらしい。まぁ、あくまで映画だけを見た印象ではあるけれど…。
作品を見終えた段階で、この話はまだまだ続きそうな気がしたのだが、この作品を宣伝する輩はそんな気は毛頭ないように思えてしまう。押井は続ける気でいるけれども、東宝などはそんな気ないといったところ。
個人的には押井が好き勝手に創った続編やこの世界観での物語をもっと欲するわけだが、恐らく次は無いなと思うのが正直なところ。この世界観がここで終わっても、他の映画が補ってくれると思ってしまうわけで、それがこの作品の致命的なところだと思う。
アニメのナウシカが一本だけしか作られていない悪影響が間違いなくここにある、と思ってしまうのは、飛躍しすぎで、個人的な妄想でしかないのだろうか…
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