或る終焉

題名:或る終焉(2015年/メキシコ・フランス合作)
原題:Chronic
公開日:(仏)2015年10月21日 (日)2016年5月28日
配給:(仏)Wild Bunch Distribution (日)エスパース・サロウ
時間:94分

監督:マイケル・フランコ
政策:マイケル・フランコ
脚本:マイケル・フランコ
出演:ティム・ロス(デビッド)
   サラ・サザーランド(ナディア)
   ロビン・バートレット(マーサ)
   マイケル・クリストファー(ジョン)
   デビッド・ダストマルチャン(バーナード)
   ビッツィー・トゥロック(リディア) ほか
製作総指揮:ティム・ロス
撮影:イブ・カペ
美術:マット・ルエム
衣装:ディアス
編集:マイケル・フランコ、フリオ・ペレス4世

鑑賞日:2016年5月31日
場所:Bunkamura ル・シネマ スクリーン1 E-15


■ introduction(公式HPより)

世界を騒然とさせたその“結末”にあなたの胸は貫かれる!
イニャリトゥ、キュアロンにつづくメキシコ次世代の新鋭が問う人生の終末。

アカデミー賞®受賞の功績を持つアレハンドロ・G・イニャリトゥやアルフォンソ・キュアロンなどの世界的巨匠を輩出し、常に一歩先を行く大胆かつ繊細な視点と唯一無二のエンターテイメント性で世界を熱狂させてきたメキシコの映画芸術。彼らにつづき、メキシコ次世代を担う新たな才能は、あくまでクールなまなざしが持ち味の新鋭だ。2009年に長編監督デビューをして以来、わずか2作目の『父の秘密』(12)が第65回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門にてグランプリ受賞。
続く、3作目の本作が第68回カンヌ国際映画祭脚本賞受賞と、映画監督としてはまだ短いキャリアにもかかわらず、世界最高峰の映画祭を魅了してやまない俊英ミシェル・フランコである。36歳という若さでありながら“人間”を深く抉り出す、研ぎ澄まされたその観察眼に私たちは驚きを隠しえない。
また、主人公デヴィッドに扮したのは、主演としてバイプレイヤーとしてさまざまな監督に愛され、幅広いキャラクターをこなしてきた名優ティム・ロス。患者の残りわずかな最期のときを、家族をも超越した距離感で共に過ごす看護師を演じ、役者としての真骨頂を見せてくれる。
本作は、今日最も注目されている終末期医療をテーマに、“看護師”と“患者”という“親密な他人”の関係性をあくまでリアルに定点観測のごとく冷静に映し出す。監督自身の体験談から紡ぎだされた絶対的説得力のある脚本、一方で、作品全体に漂う決して説明的ではない静謐な余白は、観る者に挑発的なまでにあらゆる感情と憶測をもたらす。そして、想像をはるかに超えたその “命のゆくえ”は私たちに、美しくも強烈な余韻を残してくれるにちがいない。

■ story(公式HPより)

終末期の患者をケアする看護師デヴィッド。
死を乞う患者を前にしたとき、彼はどう命に向き合うのか。
ある看護師の崇高なる献身愛と葛藤を描いたサスペンスフルなヒューマンドラマ

デヴィッド(ティム・ロス)は、終末期患者の看護師をしていた。
別れた妻と娘とは、息子ダンの死をきっかけに疎遠となり、一人暮らし。彼には、患者の在宅看護とエクササイズに励む以外の生活はなく、患者が望む以上に彼もまた患者との親密な関係を必要としていた。ある日デヴィッドは、末期がんで苦しむマーサ(ロビン・バートレット)に安楽死を幇助して欲しいと頼まれる。患者への深い思いと、デヴィッド自身が抱える暗い過去・・・その狭間で苦悩する彼が下した壮絶な決断とは――。


▶ 映画館環境
渋谷 ル・シネマ1 座席数152
スクリーンが小さいし、細長いし、座席間も狭いし、全席ウェブでの購入ができるわけでもないので、個人的には嫌いな劇場。おっさん臭いにおいも嫌い。火曜日のサービスデー以外は行かないようにしている。
シネマ1はCDEGI列の右端、DFHJ列の左端が妥当な席。ベストな場所はない。今回座ったのもE-12。ちょうどよい位置だった。
サービスデーであるだけに客多め。年齢は極めて高い。劇場へは行く道として、小さなエレベーター2基と変なルートを行かなければならないエスカレーターしかないので、行き着きづらい。だから尚更嫌いな劇場。


▶ 作品レビュー
この映画を社会派映画と捉えるかどうか、なかなか難しいところである。扱っている内容は間違いなく現代において社会問題となっているもの。介護の問題、尊厳死、医療従事者のモラル等々─。出だしの強烈な映像によって意識を映画の中に持っていかれ、かなりの注力で映し出される事柄を捉えようとする。それにより、この映画の性質というものを肌身で感じる、漠然とした感覚を─。ただ、その感覚はどこまでいっても変わらない。どんなに話が進もうとも、そしてどんなにデビッド(ティム・ロス)の背景や性格が露わになろうとも、詳細な物語の説明や背景についての解説は全くないわけで、見終わった後も分からないところだらけだ。とはいえ、詳細を知り得なくとも観賞可能な作品であり、むしろ詳細な説明されないが故に、余計に見ている者個々の想像力が掻き立てられるといえるのかもしれない。
献身的に介護をするデビッドがキッチンで手にするぎらつくナイフ、痩せ細った女性の体を丁寧に洗ってあげるデビッド、過去にデビッドが息子を亡くしているという事実・そしてその死因、デビッドの偽り、デビッドへの疑惑、デビッドの人間愛、過去に縛られ続けているデビッド、執拗に誰かを追い続けるデビッド、そして走り続けるデビッド…今ある現代社会という世界の中でデビッドが織りなす行動、それがこの映画の全て。映画の中で語られている事柄はあくまで提示であって、何かを主張しているものでもないし、見ている者の心を明確な方向に向けようとしているものでもない。我々が住む実社会と、劇中で展開されるデビッドの行動とが結びつけられたとき、この映画がひとつの作品として完成されるといえるのかもしれない。そもそも、映画の見方や捉え方というものは人それぞれ違うものであると思うけれど、とかくこの映画においての捉えられ方というものは千差万別であると思われる。
つまりこの映画を見てまず思うのは、映像の質とか演技演出という事の前に、テーマとか主張というものであり、終始デビッドの行動が意味するところを追い求め続けてしまう。
個人的な見解として、デビッドの行動には何の意味も無いという結論。ただ単に、強烈な映像を、社会問題を題材にして、興味本位に並び連ねているとしか思えない。介護や献身は決して人間愛というものに繋がっているわけでもなく、尊厳死など人の死もすべて無に帰している。
作り手の主義主張を多少なりとも盛り込んでくれたならば、それに対する納得や反発もできただろう。だが、そういったものが潜んでいるようで実は皆無であると(個人的に)判断し、その瞬間、この作品に対する嫌悪感は甚だしいもの。悪趣味な娯楽映画だとしか思えなかったのだ。
そうは言いつつも、見終わった後の印象は強烈であり、後々まで心に残るような作品であったことは否めない。作品の好みに関係なく、その衝撃度は計り知れないもので、これほどまでにトラウマのごとく心に刻み込まれた映画を他に知らない。そういった意味においては大いに評価できるところではあるけれど、衝撃以外何も残してくれないようなこの作品に、なかなか好感が持てない。
日々、ジョギングを習慣としている自分にとって、なおさらにこのエンディングが心に刻まれてしまった。この映画を見て以来、ヘッドホンをしながら、それまで以上に車の往来が気になって仕方がない。そういった感覚を持って改めて思う、この映画の凄さを─。
作品に対する好みも、印象も人それぞれ違うことは間違いないとは思うが、この映画は決して社会派映画ではないということだけは断言してもいい。繰り返しになるけれども、そう思うとやっぱり、この映画の嫌悪感というものは拭い去れない。まぁこの部分は個人的な意見でしかないのだが…。

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