或る終焉

題名:或る終焉(2015年/メキシコ・フランス合作)
原題:Chronic
公開日:(仏)2015年10月21日 (日)2016年5月28日
配給:(仏)Wild Bunch Distribution (日)エスパース・サロウ
時間:94分

監督:マイケル・フランコ
政策:マイケル・フランコ
脚本:マイケル・フランコ
出演:ティム・ロス(デビッド)
   サラ・サザーランド(ナディア)
   ロビン・バートレット(マーサ)
   マイケル・クリストファー(ジョン)
   デビッド・ダストマルチャン(バーナード)
   ビッツィー・トゥロック(リディア) ほか
製作総指揮:ティム・ロス
撮影:イブ・カペ
美術:マット・ルエム
衣装:ディアス
編集:マイケル・フランコ、フリオ・ペレス4世

鑑賞日:2016年5月31日
場所:Bunkamura ル・シネマ スクリーン1 E-15


■ introduction(公式HPより)

世界を騒然とさせたその“結末”にあなたの胸は貫かれる!
イニャリトゥ、キュアロンにつづくメキシコ次世代の新鋭が問う人生の終末。

アカデミー賞®受賞の功績を持つアレハンドロ・G・イニャリトゥやアルフォンソ・キュアロンなどの世界的巨匠を輩出し、常に一歩先を行く大胆かつ繊細な視点と唯一無二のエンターテイメント性で世界を熱狂させてきたメキシコの映画芸術。彼らにつづき、メキシコ次世代を担う新たな才能は、あくまでクールなまなざしが持ち味の新鋭だ。2009年に長編監督デビューをして以来、わずか2作目の『父の秘密』(12)が第65回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門にてグランプリ受賞。
続く、3作目の本作が第68回カンヌ国際映画祭脚本賞受賞と、映画監督としてはまだ短いキャリアにもかかわらず、世界最高峰の映画祭を魅了してやまない俊英ミシェル・フランコである。36歳という若さでありながら“人間”を深く抉り出す、研ぎ澄まされたその観察眼に私たちは驚きを隠しえない。
また、主人公デヴィッドに扮したのは、主演としてバイプレイヤーとしてさまざまな監督に愛され、幅広いキャラクターをこなしてきた名優ティム・ロス。患者の残りわずかな最期のときを、家族をも超越した距離感で共に過ごす看護師を演じ、役者としての真骨頂を見せてくれる。
本作は、今日最も注目されている終末期医療をテーマに、“看護師”と“患者”という“親密な他人”の関係性をあくまでリアルに定点観測のごとく冷静に映し出す。監督自身の体験談から紡ぎだされた絶対的説得力のある脚本、一方で、作品全体に漂う決して説明的ではない静謐な余白は、観る者に挑発的なまでにあらゆる感情と憶測をもたらす。そして、想像をはるかに超えたその “命のゆくえ”は私たちに、美しくも強烈な余韻を残してくれるにちがいない。

■ story(公式HPより)

終末期の患者をケアする看護師デヴィッド。
死を乞う患者を前にしたとき、彼はどう命に向き合うのか。
ある看護師の崇高なる献身愛と葛藤を描いたサスペンスフルなヒューマンドラマ

デヴィッド(ティム・ロス)は、終末期患者の看護師をしていた。
別れた妻と娘とは、息子ダンの死をきっかけに疎遠となり、一人暮らし。彼には、患者の在宅看護とエクササイズに励む以外の生活はなく、患者が望む以上に彼もまた患者との親密な関係を必要としていた。ある日デヴィッドは、末期がんで苦しむマーサ(ロビン・バートレット)に安楽死を幇助して欲しいと頼まれる。患者への深い思いと、デヴィッド自身が抱える暗い過去・・・その狭間で苦悩する彼が下した壮絶な決断とは――。


▶ 映画館環境
渋谷 ル・シネマ1 座席数152
スクリーンが小さいし、細長いし、座席間も狭いし、全席ウェブでの購入ができるわけでもないので、個人的には嫌いな劇場。おっさん臭いにおいも嫌い。火曜日のサービスデー以外は行かないようにしている。
シネマ1はCDEGI列の右端、DFHJ列の左端が妥当な席。ベストな場所はない。今回座ったのもE-12。ちょうどよい位置だった。
サービスデーであるだけに客多め。年齢は極めて高い。劇場へは行く道として、小さなエレベーター2基と変なルートを行かなければならないエスカレーターしかないので、行き着きづらい。だから尚更嫌いな劇場。


▶ 作品レビュー
この映画を社会派映画と捉えるかどうか、なかなか難しいところである。扱っている内容は間違いなく現代において社会問題となっているもの。介護の問題、尊厳死、医療従事者のモラル等々─。出だしの強烈な映像によって意識を映画の中に持っていかれ、かなりの注力で映し出される事柄を捉えようとする。それにより、この映画の性質というものを肌身で感じる、漠然とした感覚を─。ただ、その感覚はどこまでいっても変わらない。どんなに話が進もうとも、そしてどんなにデビッド(ティム・ロス)の背景や性格が露わになろうとも、詳細な物語の説明や背景についての解説は全くないわけで、見終わった後も分からないところだらけだ。とはいえ、詳細を知り得なくとも観賞可能な作品であり、むしろ詳細な説明されないが故に、余計に見ている者個々の想像力が掻き立てられるといえるのかもしれない。
献身的に介護をするデビッドがキッチンで手にするぎらつくナイフ、痩せ細った女性の体を丁寧に洗ってあげるデビッド、過去にデビッドが息子を亡くしているという事実・そしてその死因、デビッドの偽り、デビッドへの疑惑、デビッドの人間愛、過去に縛られ続けているデビッド、執拗に誰かを追い続けるデビッド、そして走り続けるデビッド…今ある現代社会という世界の中でデビッドが織りなす行動、それがこの映画の全て。映画の中で語られている事柄はあくまで提示であって、何かを主張しているものでもないし、見ている者の心を明確な方向に向けようとしているものでもない。我々が住む実社会と、劇中で展開されるデビッドの行動とが結びつけられたとき、この映画がひとつの作品として完成されるといえるのかもしれない。そもそも、映画の見方や捉え方というものは人それぞれ違うものであると思うけれど、とかくこの映画においての捉えられ方というものは千差万別であると思われる。
つまりこの映画を見てまず思うのは、映像の質とか演技演出という事の前に、テーマとか主張というものであり、終始デビッドの行動が意味するところを追い求め続けてしまう。
個人的な見解として、デビッドの行動には何の意味も無いという結論。ただ単に、強烈な映像を、社会問題を題材にして、興味本位に並び連ねているとしか思えない。介護や献身は決して人間愛というものに繋がっているわけでもなく、尊厳死など人の死もすべて無に帰している。
作り手の主義主張を多少なりとも盛り込んでくれたならば、それに対する納得や反発もできただろう。だが、そういったものが潜んでいるようで実は皆無であると(個人的に)判断し、その瞬間、この作品に対する嫌悪感は甚だしいもの。悪趣味な娯楽映画だとしか思えなかったのだ。
そうは言いつつも、見終わった後の印象は強烈であり、後々まで心に残るような作品であったことは否めない。作品の好みに関係なく、その衝撃度は計り知れないもので、これほどまでにトラウマのごとく心に刻み込まれた映画を他に知らない。そういった意味においては大いに評価できるところではあるけれど、衝撃以外何も残してくれないようなこの作品に、なかなか好感が持てない。
日々、ジョギングを習慣としている自分にとって、なおさらにこのエンディングが心に刻まれてしまった。この映画を見て以来、ヘッドホンをしながら、それまで以上に車の往来が気になって仕方がない。そういった感覚を持って改めて思う、この映画の凄さを─。
作品に対する好みも、印象も人それぞれ違うことは間違いないとは思うが、この映画は決して社会派映画ではないということだけは断言してもいい。繰り返しになるけれども、そう思うとやっぱり、この映画の嫌悪感というものは拭い去れない。まぁこの部分は個人的な意見でしかないのだが…。

ガルム・ウォーズ

題名:ガルム・ウォーズ(2014年/日本・カナダ合作)
原題:Garm Wars: The Last Druid
公開日:2016年5月20日
配給:東宝映像事業部
時間:92分

監督:押井守
原作:押井守
脚本:ジェフリー・ガン、押井守
出演:メラニー・サンピエール(カラ)
ランス・ヘンリクセン(ウィド)
ケビン・デュランド(スケリグ)
サマー・ハウエル(ナシャン)ほか
音楽:川井憲次
音響:トム・マイヤー
監督補:佐藤敦紀
衣装:竹田団吾
協力:スタジオジブリ
制作:Production I.G
日本語版プロデューサー:鈴木敏夫
日本語版演出:打越領一
日本語翻訳:原口真由美
宣伝コピー:虚淵玄

鑑賞日:2016年5月31日
場所:TOHOシネマズららぽーと船橋 スクリーン10 I-15


■ INTRODUCTION(公式HP引用)
押井守×鈴木敏夫×Production I.G
構想15年、製作費20億円、押井守監督最新作!
押井守の新作がアメリカ大陸からやってくる──!

道徳の世界観と映像美で世界を魅了し続ける鬼才・押井守監督最新作
全米ビルボード1位(ホームビデオ部門)を獲得した1995年発表「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」が、ジェームズ・キャメロン、クエンティン・タランティーノ、ウォシャウスキー姉妹をはじめ、数多くの世界的クリエイターの影響を与えた、日本アニメーション界の鬼才・押井守。2004年発表「イノセンス」ではアニメ作品で初めてカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、続く2008年発表「スカイ・クロラ The Sky Crawler」もベネツィア国際映画祭のコンペティション部門出品作品となりました。そして2014年にはモントリオールファンタジア国際映画祭から生涯功労賞が授与されるなど、押井の動向は常に世界中から注目されています。監督デビューから30余年。世界中から新作が待ち望まれる監督・押井守の最新作が、逆に日本で公開されます。
国家とは、人類とは、そして戦うこととは──押井守が描く現代叙事詩
本作は、SFファンタージ作品の意匠をまといながら、現代社会の抱える数々の問題を照射する同時代生を孕んでいます。閉塞した社会…少子化…戦争への恐怖…マイナンバー…そして、それでも求めなくてならない「希望」。本作では日本に住む私たちが今まさに直面している絶望と希望を真正面から見据えるよう、観る物に問いかけます。
「我々は何処から来て何処へ行くのか?」
オール北米ロケ、日本人は監督含め7人!
出演、『エイリアン2』ビショップ役で強烈な印象を残した名優ランス・ヘンリクセン、『ロビン・フッド』『リアル・スティール』で切れのあるアクションを披露し、海外ドラマ「LOST」シリーズで日本での人気を定着させたケヴィン・デュランド、そして主人公には、美しき新人メラニー・サンピエール。押井監督のファンであった彼女は金髪のロングヘアーから押井作品には欠かせない黒髪おかっぱ頭に変え並々ならぬ熱意で臨み、押井の世界観を見事体現してみせました。
実写でもない、アニメーションでもない、押井守だからこそ到達し得た究極の臨界点世界。それが『ガルム・ウォーズ』です。


■ STORY(公式HP引用)
遙かなる古代、戦いの星・アンヌン。
ここは「ガルム」と呼ばれるクローン戦士が生息し、果てしない戦いを繰り広げていた。かつてガルムには8つの部族があり、それぞれ役割に応じて創造主・ダナンに仕えていた。あるときダナンが星を去り、その後の覇権をめぐって部族の間に戦いが生じたのである。長きに亘る争いの末に5部族が絶滅し、残るは空を制する「コルンバ」、陸を制する「ブリガ」、そして情報技術に長けた「クムタク」の3部族だけとなった。
この星に生息するのはガルムの地に、彼らから神聖視される犬・グラと、鳥──。ガルムは生殖能力を持つグラや鳥と違い、クローン技術により生命をつないできた。たとえ命を落としても、その個体の記憶をクローンの脳に転写することで再生を繰り返し、幾世代も生き延びてきたのだ。
空の部族・コルンバの女性飛行士「カラ」は、陸の部族・ブリガとの戦闘の最中、クムタクの老人「ウィド」、ブリガの兵士「スケリグ」と出会う。ウィドが投げかける不可思議な問によって、敵同士である彼らの間に奇妙な連帯が生じる。
創造主にして神であるダナンがなぜこの星を去ったのか?我々ガルムとは一体何なのか?我々は何処から来て何処へ行くのか?
カラとスケリグは次第に惹かれ合う。2人はそれまで脳内に生じたことのない感情に戸惑いながらも突き動かされる。その情動はガルムにおける愛の芽生えであり、またそれは彼らが重大な変化の渦に巻き込まれつつある事を暗示していた。
ウィドは、絶滅したはずの部族・ドルイドの最後の生き残りである「ナシャン」を連れていた。ドルイドとは、かつて創造主・ダナンの声を伝えたとされる部族である。ナシャンに導かれ、カラ・ウィド・スケリグの3人はグラとともに、海の向こうの遙か彼方にある伝説の聖なる森「ドゥアル・グルンド」を目指す旅に出る。自らのルーツを探り、「ガルムの真実」を知るために……。しかし、それは彼らの神の怒りに触れる行為だった
聖地に待ち受けるのは希望か、絶望か──。


▶ 映画館環境
TOHOシネマズららぽーと船橋スクリーン10は座席数130、スクリーンサイズ4.1×9.8mと比較的小規模な劇場。選択した席はI-15、最後列やや向かってやや右寄り位置。座席に対してスクリーンサイズは大きく感じるので、スクリーンに近い場所を避けるべきかもしれない。最後列でも、その迫力は失われることはなかった。
客数、極少、全男、年齢高目。


▶ 作品レビュー
映画そのものも楽しめたが、HPの解説やビジュアルなどを読むとさらに興味が沸く。設定やデザイン、世界観など、表層的な面においてはほぼ完璧だと感じる。
ただ、ポスターなどで使用されているカラの横画をメインにしたキービジュアルだけは納得しかねる。中途半端に内容を隠しているとしか思えない。もっとあからさまに、巨神兵的なものがたくさん出ますよ!的なプロモーションの方が、潔いと思ってしまうのは、擦れた見方だろうか…。
ただ、言えるのは、この映画における世界観は全て過去の遺物の寄せ集めだと断言できる。極端な話、設定からキャラクターまで、オリジナリティーは皆無といえる。その事実を変に隠そうとすると、むしろ作品の駄目さ加減が強調されてしまうように思う。
ジブリもハリウッドも押井も全て詰め込みましたよーという触れ込みや宣伝であれば、むしろ興味をそそるというものだ。

作品の質は非常に高くて、面白いと思う。しかし、その評価は酷いもの。この低評価は、やはり、オリジナリティーの無さと粗いストーリー展開にあるのだろう。設定がよく練られている割に、唐突な展開が目につく。
そうは言っても、ストーリーなど半ばやり過ごして、ビジュアルを楽しむ映画として捉えて観賞すれば、悪くないはずで、そうすべき映画であることは間違いない。
そもそも、冒頭に説明される設定など全て頭に入るわけでもないし、それを詳細に覚えたところで作品の観賞に影響するところは少ないだろう。むしろ、観賞後に詳細をじわじわと知っていくという楽しみをひとつ与えてくれているだけのこと。
個人的には、押井守というアーティストはゼロから何かを生み出すという印象はあまりなく、既存の作品をより洗練させて、ひとつのワールドを創り上げる作家だという印象。だから、この作品も、似たような筋の漫画や小説を見つけ出して押井ワールドを構築していたのであれば、もしかしたら評価が180度違ったものだったように思ってしまう。まぁ、オリジナリティーを感じなかったわけだから、そういう見方は致し方ないだろう。

それにしても、イントロダクションを見ると、構想15年とか、鈴木敏夫の名前を出したり、オール北米ロケとか日本人は7人だけとか、少子化とかマイナンバーとか…無駄に恥ずかしい情報が多すぎて笑ってしまう。あくまでもシリアスにそれらを宣伝として用いているのか、ある意味狙いであるのか判断しかねるところがあるが、作品の内容と照らし合わせて考えると、やはり無意味な情報だと思ってしまう。まぁ観賞する側としては別の意味で楽しむ要素として爆笑するだけなのだが、押井守の作品として世界に発信するのであれば、どうかこのような辱めはやめてほしいと思ってしまう。
長年かけてやっと創り上げたよー、とか押井監督は言わないだろうし、全部北米で創れば格好いいかも、なんてことも思っていないだろう。さらには、少子化とかマイナンバーの問題を意識してこのような異世界SFを創り上げているわけがない。
笑ってしまうイントロダクションを先に見てしまうと、作品そのものを見る気も失せてしまう。逆に、作品を見た後でイントロダクションを見ると笑えるのだが、それは決して製作サイドが意図しているものではないはずだ。
要するに、淡々と筋とかキャラクターについて情報を与えてほしいわけで、無駄な美辞麗句など全てを汚すだけのものでしかない。

正直、作品についての情報が少なすぎるように思う。設定はある程度述べられているものの、キャラクターの詳細や兵器などについての言及もあまりないし、過去から未来の展開など漠然とし過ぎていて想像の余地すら与えてくれていない。
全く新しい世界を創造しようとしているのであれば、キャラクターの詳細、身に着けている物の名前や用途、武器や兵器の名前や特徴、そして創造されている世界の歴史など、深く作品に入り込んでいけるような要素を欲するところなのだが、そんな気はさらさらないらしい。まぁ、あくまで映画だけを見た印象ではあるけれど…。

作品を見終えた段階で、この話はまだまだ続きそうな気がしたのだが、この作品を宣伝する輩はそんな気は毛頭ないように思えてしまう。押井は続ける気でいるけれども、東宝などはそんな気ないといったところ。
個人的には押井が好き勝手に創った続編やこの世界観での物語をもっと欲するわけだが、恐らく次は無いなと思うのが正直なところ。この世界観がここで終わっても、他の映画が補ってくれると思ってしまうわけで、それがこの作品の致命的なところだと思う。

アニメのナウシカが一本だけしか作られていない悪影響が間違いなくここにある、と思ってしまうのは、飛躍しすぎで、個人的な妄想でしかないのだろうか…

世界から猫が消えたなら

世界から猫が消えたなら(2016年・日本)
公開日:2016年5月14日
配給:東宝
時間:103分

監督:永井聡
原作:川村元気
脚本:岡田惠和
出演:佐藤健(僕/悪魔)
   宮崎あおい(彼女)
   濱田岳(ツタヤ)
   奥野瑛太(トムさん)
   石井杏奈(ミカ)
   奥田瑛二(父さん)
   原田美枝子(母さん) ほか
共同製作:岩田天植
     久保雅一
     畠中達郎
     石川康晴
     鉄尾周一
     坂本健
     水野道訓
     高橋誠
     宮本直人
     吉川英作
エグゼクティブプロデューサー:山内章弘
プロデューサー:春名慶、澁澤匡哉
プロダクション統括:佐藤毅
ラインプロデューサー:鈴木嘉弘
撮影:阿藤正一
照明:高倉進
録音:郡弘道
音響効果:斎藤昌利
美術:杉本亮
装飾:渡辺大智
編集:今井剛
音楽:小林武史
主題歌:HARUHI
スクリプター:工藤みずほ
VFXスーパーバイザー:神田剛志
スタイリスト:伊賀大介
衣装:荒木里江
ヘアメイク:荒井智美
制作担当:藤原恵美子
助監督:藤江儀全
キャスティング:田端利江
音楽プロデューサー:北原京子

鑑賞日:2016年5月14日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン7(TCX) F-21


■ ストーリー
脳腫瘍で余命わずかと宣告された僕(佐藤健)。その前に、自分と瓜二つの悪魔が現れる。悪魔は僕に、余命を一日与える代わりに僕が大切だと思うものをこの世から無くすという条件を提示する。電話、時計、猫…あるものが世界から消えていくごとに僕の大事な思いでも消えていき、そして僕は命を長らえる。恋人の思い出が消え、友人との思い出が消え、そしてまた家族との思い出が消えていく。そんなとき、今は亡き母からの手紙が僕の元に届けられた。それは、昔の恋人に母が託していたものだった。世界からものが消え、思い出が消えていく中で、その手紙の中には決して消えることがないものが残されていた。それを読んだ僕は決意する─。

川村元気が著作した同名のベストセラー小説を映画化したもの。


▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン7は座席数406、スクリーンサイズ18.7×7.9mTCXと大きな劇場。A列からE列までが前方ブロック、F列からO列が後方ブロック、H列とI列がプレミアシートという構成。ブロックごとの手すりも柵もないので、後方ブロック最前列となるF列が最高の席と考える。選んだF21はスクリーンを前にやや右よりの席。

▶ 作品レビュー
ロケーション、佐藤健、原田美枝子、以上が個人的に良かったところ。あとは全く共感できず。共感できないところがたくさんあったとはいえ、函館を上手い具合に捉えていた絵、ブエノスアイレスでのぎらついた色味、主軸をなしていた佐藤健と原田美枝子の演技など好感を持てたところも少なくなかったので、所々で心が揺さぶられた。
基本的に死をもって涙を誘うような展開が多くて、そういうスタンスのこの作品自体には好感を持てない。宮崎あおいのあの涙と叫びも死をもっての反応だと分かると、何だか幻滅を覚えてしまった。
結局は猫好きしか共感できないのでは?という絵作りだったように思えてならない。猫好きでない自分が単にこの作品を楽しめなかったこじつけに過ぎないかもしれないが、猫の癒やし効果で全ての悲劇を丸め込んでいるように見えてならない。
自分にはこの映画の本質を見抜くことができなかった。一体、何を主張したいのかよく分からない。単に自分の洞察力のなさや感受性の弱さで、この作品を理解できなかったのかもしれない。
この作品に対して思ったことといえば、エンディングのテーマ曲が印象的に流れたところ、故にこのテーマ曲を前面にプロモーションをしていたのだと理解できたし、それが非常に効果的だったということ。ベストセラーを映画化したからヒットしているわけではなく、懸命なプロモーションが奏功しているのだと思った。

追憶の森

追憶の森(2015年・アメリカ)
原題:The Sea of Trees
公開日:(日)2016年4月29日
配給:(日)東宝東和
時間:110分

監督:ガス・バン・サント
脚本:クリス・スパーリング
出演:マシュー・マコノヒー(アーサー・ブレナン)
   渡辺謙(ナカムラ・タクミ)
   ナオミ・ワッツ(ジョーン・ブレナン) ほか
製作:クリス・スパーリング
   ケン・カオ
   ギル・ネッター
   ケビン・ハローラン
   F・ゲイリー・グレイ
   E・ブライアン・ドビンス
   アレン・フィッシャー
撮影:キャスパー・タクセン
美術:アレックス・ディジェルランド
編集:ピエトロ・スカリア
音楽:メイソン・ベイツ

鑑賞日:2016年5月10日
場所:TOHOシネマズ ららぽーと船橋 スクリーン2 I14


■ Introduction(日本語公式HPより)
邂逅
『評決のとき』から20年にわたりハリウッドの第一線を走り、『ダラス・バイヤーズクラブ』でアカデミー賞®主演男優賞に輝いたマシュー・マコノヒー。『ラスト サムライ』でアカデミー賞®候補になって以来、日本を代表する国際派スターとして活躍する渡辺謙。演技力と存在感で映画界に確固たる地位を築いた2人が初めてタッグを組み、驚きと感動に満ちた異色のミステリーを誕生させた。
舞台は富士山の北西に広がる青木ヶ原の樹海。そこを人生の終着点にしようと決めて日本にやって来たアメリカ人アーサー(マシュー・マコノヒー)は、原生林が鬱蒼と生い茂る森の中で、出口を求めてさまよう日本人タクミ(渡辺 謙)と出会う。怪我を負い、寒さに震えているタクミをアーサーは放っておくことができず、一緒に出口を探して歩き始める。しかし、まるで森の魔力に囚われてしまったかのように道はどれも行き止まりで、方向感覚を失った2人は厳しい自然との闘いを強いられる。その過酷な状況下、運命共同体となったタクミに心を開いていくアーサー。やがて彼は、樹海への旅を決意させたある出来事を語り始める……。

■ Story(日本語公式HPより)
富士山の北西に広がる青木ヶ原の樹海。その鬱蒼とした森の中に、恐る恐る足を踏み入れるアメリカ人男性がいた。彼の名はアーサー・ブレナン(マシュー・マコノヒー)。片道切符を手に日本へやって来た彼が樹海を訪れた目的はただひとつ――それは、自らの人生を終わらせることだった。森の開けた場所に腰を下ろし、ゆっくりと永遠の眠りにつく準備を始めるアーサー。そんな彼の目の前に、傷ついた身体をひきずりながら森の出口を求めてさまよう日本人男性(渡辺 謙)が現れる。「ここから出られない。助けてくれ」と懇願する男を放っておくことができなくなったアーサーは、寒さに震える男に自分のコートを着せかけ、出口に続く道へと誘導する。しかし、さっき通ったはずの道はなぜか行き止まりになっており、既に飲んでいた薬にふらつきながら歩いていたアーサーは崖から転落して怪我を負ってしまう。それは、アーサー自身の人生を象徴するかのような出来事だった。
アーサーは結婚生活に問題を抱えていた。原因は3年前の彼の浮気。それ以来、妻のジョーン(ナオミ・ワッツ)は酒に逃避するようになり、事あるごとにアーサーを責めた。さらに、大学の非常勤講師に転職して収入が激減したアーサーと、不動産仲介の仕事で高収入を得ているジョーンの間に生じた経済的な格差が、夫婦の溝をいっそう深めた。ジョーンに対する愛情が消えたわけではなかったが、自分の努力だけではどうにもならない状況にアーサーは苛立ち、苦悩する日々を送っていた。そんな中ジョーンの病気が発覚。夫婦の関係には新たな道が開けるはずだった。
アーサーが樹海で出会った日本人は、ナカムラ・タクミと名乗った。森をさまよう中で小川をみつけたタクミは、「下流に向かって進もう」とアーサーに提案する。しかし川は途中で途切れ、寒さに震えながら歩く2人の頭上には無情にも雨が降り注ぐ。雨風をよけるために2人は洞窟の中に避難するが、洞窟の中に石と鉄砲水が流れ込み、押し流されたタクミは意識を失ってしまう。ぐったりしたタクミを励まし、必死に介抱するアーサー。偶然にもテントを発見した彼は、その中に残されていたライターを使って暖を取り、ひと時の安らぎを得る。
その夜、タクミと共にたき火を囲んだアーサーは、樹海への旅を決意させた出来事を語り始めた。「絶望して来たんじゃない。悲しみでもない。罪の意識で来た。僕たちは相手への接し方を間違っていた」。タクミに心を開いたアーサーの口からは、深い悔恨の言葉がほとばしり出る。だが、その時アーサーはまだ知らなかった。コート、タクミの妻子の名前、岩に咲く花、水辺、『楽園への階段』、『ヘンゼルとグレーテル』――樹海で起きたすべての出来事が1本の奇跡の糸で結ばれることを……。

▶ 映画館環境
TOHOシネマズ ららぽーと船橋 スクリーン2は座席数106、スクリーンサイズ3.8×9.0mというやや小さい劇場。アクセス的に良いとはいえないものの、劇場やロケーションは最高。一日中、映画に浸る場として選ぶのも悪くはない。
I14は最後列、スクリーンやや右寄りの座席。最後列でも問題なし。

▶ 作品レビュー
See of trees まさに樹海の話。樹海を“追憶の森”としたこのタイトルにセンスの良さを感じる。映像自体も日本人が知っている樹海でありながら、そう言えば富士山周辺って世界遺産になったんだよね、というような─新たな See of trees が目の前に広がってくるようだった。とにかく、おどろおどろしいイメージだった自殺のメッカ樹海が神秘的でオシャレな場所に変貌している。青木ヶ原に対する変な固定観念を持たない者は、その広々とした緑の風景を実に美しく捉えているのだなと、あらためてその場の価値を見せつけられた思いがする。
マシュー・マコノヒー扮するアーサー・ブレナンは死に場所を求めてインターネットで青木ヶ原樹海を発見するわけだが、実際に世界の自殺の名所として青木ヶ原樹海がネット上でよく見られる。海外のあるサイトでは自殺者の数から世界の自殺名所をランキング形式で紹介しているところもあり、映画のネタ元もこういった事実にある。自殺名所ランキングの場所をざっと確認すると、ほぼ高所であり、墜落即死を目論んでいることは明らか。しかし、それらを抑えて青木ヶ原樹海がランキングのトップになっているところが面白い。自殺しようとそこへ行っても、即死ではなく、そこで生きるか死ぬかという選択する余地が大いにあるのではと個人的には思うわけで、なんだか優しい自殺場所であり、そういった所が自殺の名所のトップとして君臨するのも悪くないと思ってしまう。死に至るまでの時間がさらなるドラマを生み出し、もしかしたらこの映画のような神秘的なストーリーにも発展する可能性もあるわけだ。
個人的に、この映画は終始ファンタジーとして観賞していた。結果的に、その見方は正しかったわけだが、これを自殺する男2人のリアルなサバイバルドラマとして捉えようとしたのであれば、かなりの違和感を持ったに違いない。
都合のよい遺体、都合のよい出会い、都合のよい避難場所…。ウィキペディアには「本作は第68回カンヌ国際映画祭で初めて上映されたが、自殺のためだけに日本へ赴く、という設定に合点がいきづらかったためか、多くの観客からブーイングを浴びた」という記述─。
確かに、なぜ青木ヶ原樹海なのか、映画の中のあの描写だけでは富士山の樹海をよく知らない人間としては理解に苦しむかもしれない。日本人である自分としては、樹海に赴いたブレナンの気持ちがすんなりと理解できた。そしてまた、樹海に馴染まないブレナンの姿、あるいは日本人であるタクミ(渡辺謙)すらも自殺者らしく見えないことで、この映画は単に自殺をテーマとしているではないということが容易に理解できたし、唐突すぎる展開も分かりやすさや非現実性というものを創り出そうとしているものだと感じることができた。自分は、まんまと作り手側の思惑通りになっていたわけだ。
ただ、ジョーン・ブレナン(ナオミ・ワッツ)の運命に関しては納得できないものがあった。劇中の者を生かすも殺すも作り手側の自由だとは思うけれど、見ている側の気持ちを翻弄するようなジョーンの生死に少なからず憤りを覚えてしまった。まぁ、その憤りこそがアーサーの気持ちだと言われてしまえばそれまでなのだが…。もしかしたら、カンヌでのブーイングはジョーンの死に様に対するものではなかったかと、勝手に想像してしまった。
もともと脚本が先んじて評価されていて、ガス・バン・サントを監督に迎えて、満を持して映画というかたちになったようだ。確かに、非常に優れた脚本だと思ったし、ジョーンの死に方が気にくわないとはいえ、その死こそが重要の要素であり、決して無駄ではない(というか、それこそが物語のキーとなっている)。
日本というものを単にエスニックに描いただけでなく、西洋人としての目でしっかりと日本という国を理解した絵作りになっているため、目の前に広がる新鮮な富士山の遠景にも違和感なく感動できたし、優れた脚本だけに頼ることなく、映像でも丹念に魅せようとしていた(と個人的には感じた)ところに非常に好感を持てた。
個人的にはファンタジックに感じたと言ったけれども、正直、最後の最後までその確証が
つかめなかったことも事実なわけで、それがラスト明確になった瞬間の感動と共感というものは非常に大きなものであった。分かりそうな事柄を分からないように、見事にオブラートに包み込み、最後に“その通り!”と気持ち良く宣言してもらえて、不思議な快感を覚えたといったところだろうか。
今にして思うと、渡辺謙の役どころは非常に難しいものだったということに気づかされる。死に向かってアーサーと出会って、2人は死に向かっているけれどもその意識は徐々に生へと向かい、おっさん2人の彷徨が一対の旅になるように演じなければならなかったわけだし、それらをことごとく表現しきっていた渡辺謙の実力は、間違いなく、世界で認められているところだと確認できた。何とも愛しい演技に、改めて拍手を送りたい。


ヒーローマニア 生活

ヒーローマニア 生活(2016年)
公開日:2016年5月7日
配給:東映、日活
時間:109分

監督:豊島圭介
原作:福満しげゆき
脚本:継田淳
出演:東出昌大(中津秀利)
   窪田正孝(土志田誠)
   小松菜奈(寺沢カオリ)
   片岡鶴太郎(日下孝蔵)
   山崎静代(オカッパおばさん)
   船越英一郎(宇野正) ほか
製作:由里敬三
   遠藤茂行
   木下直哉
   三宅容介
   寺島ヨシキ
   細字慶一
   大柳英樹
   矢内廣
エグゼクティブプロデューサー:田中正、柳迫成彦
企画:石田雄治
プロデューサー:吉田憲一、深津智男
撮影:神田創
照明:渡部嘉
美術:花谷秀文
装飾:田口貴久
録音:石貝洋
音響効果:岡瀬昌彦
編集:村上雅樹
音楽:グランドファンク
主題歌:NICO Touches the Walls
スクリプター:増子さおり
アクションコーディネーター:森崎えいじ
VFXスーパーバイザー:西尾和弘
衣装ディレクション&スタイリング一ツ:山佳子
ヘアメイク:橋本申二
特殊造形:藤原カクセイ
特殊メイク:藤原カクセイ
カースタント:佐藤秀美
衣装:石原徳子
キャスティング:南谷夢
助監督:井上雄介
制作担当:中山泰彰

鑑賞日:2016年5月10日
場所:TOHOシネマズららぽーと船橋 スクリーン2 E12


■ イントロダクション(公式HPより)
原作は人気漫画家・福満しげゆきの代表作「生活【完全版】」。監督は『ソフトボーイ』『花道道中』などで知られる俊英・豊島圭介。

主演は“初のコメディー”挑戦となる東出昌大。圧倒的な存在感と好感度を誇る若手実力派俳優の彼が、意外や意外、今回はこれまでに演じたことのないヘタレでダメダメなフリーター【中津】を演じ、好青年、硬派、爽やか……といったイメージを塗りかえ、あっと驚く新しい一面を披露している。中津と偶然出会い、相棒として共に戦うことになる【土志田】役には窪田正孝。謎の身体能力を持つニートをコミカルかつ繊細に演じている。また、2人の仲間になる情報収集能力に長けた女子高生【カオリ】をティーンのカリスマ・小松菜奈、チームのなかで最年長にして“若者殴り魔”の異名を持つ【日下】を円熟期に入った名優・片岡鶴太郎が演じ、バラエティに富んだ豪華キャストの競演が実現した。

ヒーローとは何なのか?どうすればヒーローになれるのか?中津、土志田、カオリ、日下たちが繰り広げるドラマ、魅せるアクション、抜けのある笑い、そして本気でヒーローになろうとするその真っ直ぐさ──めちゃくちゃ面白いヒーロー映画であることは間違いない!

▶ 映画館環境
TOHOシネマズ ららぽーと船橋 スクリーン2は座席数106、スクリーンサイズ3.8×9.0mというやや小さい劇場。アクセス的に良いとはいえないものの、劇場やロケーションは最高。一日中、映画に浸る場として選ぶのも悪くはない。
E12は前から5列目、スクリーンやや右寄り、通路側の座席。ポジション的にはちょうど良かったけれど、この劇場ならば最後列がベストかもしれない。

▶ 作品レビュー
スクリーンの両脇に中途半端に存在する黒みがどうしても気になって、ホントどうでもいいことだけれども、この画角サイズってなんだんだろう?本当に映画向けに作られたんだろうなぁ、まさかテレビ向けに作られているではあるまいな!?なんてつまらないことばかり思いながら見ていた。要するに、全く楽しめなかったということ。
アニメチックなオープニングとか、エンディングも凝ったデザインであり、HPなど見るとオシャレに気合を入れている気持ちがビシバシ伝わってきた。それらは実に効果的で、興味をそそる。しかし、中身が全く伴わない。陳腐な展開陳腐な演技陳腐な結末。キャラクター設定だけが唯一の救いかもしれないけれども、出落ちでジエンド、というのが個人的な感想。
原作は読んだことがないけれども、もしかしたら、漫画で読むと非常に面白いかもしれないという気はした。それでも、あの内容ではなかなか原作を掘り起こそうという気にはならない。
演技や役どころも、窪田正孝以外、なんだか嫌で好きになれないものばかり。キャラ設定の出落ち観と判断した作品において、それらキャラのほとんどに魅力を感じることができないのであれば、どうして楽しむことができるというのであろう。
正直、内容があまりにも薄いので、あれこれ何かを述べる価値も無いと(個人的には)思ってしまうところ。
無駄にスローモーションを多用している映像も好きになれなかったし、なんで実写にしたのか理解できないし、気合のベクトルがどう見てもアニメ的な方を向いているようにしか思えなかったし、どうせならアニメーション、3Dアニメにしてもよかったのではと思ったくらい。申し訳ないけれど、駄作と言わざるを得ず、こういうのを作り続けると日本映画が駄目になると思ってしまう(のは単なる頭の硬い古い映画バカの考え方なのだろうか…)。
あれだけ軽やかに作っているのであれば、もっと遊び(例えば、合間合間にオープニングやエンディングにあったアニメーション効果をふんだんに盛り込むとか─)などがあってもよかったのではと思う。ストーリーで魅せることができないのであれば、何か工夫するのが普通だと思うのだが、そんなのは全く感じられず(まぁ、あのストーリーでイケると思ったのであろう)。
最も納得がいかなかったのが、山崎静代の取り扱い方。取り扱い方などというと、なんだか物のように聞こえてしまうかもしれないが、まさに物のように処理されているその演出に憤りを感じる。でくの坊のようにバカにされている存在として終始登場し、最後の最後に突如ラスボス的に正体を露わにし、終いにはあっけなく殺されてしまう(多分死んでいるんだろう…)。キャラはあくまで映画を構成するコマでしかないという姿勢がよく分かる。キャラクターへの愛を微塵も感じない。ヒーローマニアと銘打って、そう観客に思われてしまう悲しい作品だ。

この映画を見るくらいだったら、仮面ライダーとかウルトラマンを見た方が100万倍有意義な時間を過ごせることだろう。

スキャナー 記憶のカケラをよむ男

スキャナー 記憶のカケラをよむ男(2016年)
公開日:2016年4月29日
配給:東映
時間:109分

監督:金子修介
脚本:古沢良太
出演:野村萬斎(仙石和彦)
   宮迫博之(丸山竜司)
   安田章大(佐々部悟)
   杉咲花(秋山亜美)
   木村文乃(沢村雪絵)
   ちすん(伊藤忍)
   梶原善(松下巡査)
   福本愛菜(唯川ひな子)
   岩田さゆり(里奈)
   北島美香(仙石佳美)
   峯村リエ(高柳久恵)
   嶋田久作(仙石隆則)
   風間杜夫(野田直哉)
   高畑淳子(峠久美子)
   絲木健汰(孝)
   篠原悠伸(平野俊樹)
   高島豪志(高柳優也) ほか
製作:多田憲之
   平城隆司
   木下直哉
   間宮登良松
   渡邊耕一
   沖中進
   浅井賢二
   樋泉実
   笹栗哲朗
企画:須藤泰司
エグゼクティブプロデューサー:林雄一郎
プロデューサー:川田亮
        高野渉
キャスティングプロデューサー:福岡康裕
音楽プロデューサー:津島玄一
ラインプロデューサー:石川貴博
撮影:釘宮慎治
美術:福澤勝広
照明:田辺浩
録音:高野泰雄
装飾:大庭信正
編集:大畑英亮
音楽:池頼広
視覚効果:松本肇
音響効果:伊東進一
スクリプター:川野恵美
助監督:村上秀晃
制作担当:白石治

鑑賞日:2016年5月9日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン2 C8


■ ストーリー
物や場所に残った人間の記憶や感情=「残留思念」を読み取ることができる特殊能力をもった元お笑い芸人の主人公・仙石和彦(野村萬斎)がコンビを組んでいた元相方・丸山竜司(宮迫博之)と共に、失踪事件を追っていく─

女性ピアノ教師の沢村雪絵(木村文乃)が行方不明となる。雪絵の生徒、秋山亜美(杉咲花)は先生の行方を捜そうと仙谷と丸山に協力を求める。乗り気でない仙谷だったが、雪絵の残留思念を読んでいくうちに事件に引き込まれていく。そこには連続して発生していた誘拐殺人事件が絡んでいた。事件解明に奔走していた警視庁捜査一課は、あやしげに絡んでくる仙谷を疎まし思う。しかし、エリート刑事と揶揄されていた佐々部悟(安田章大)だけは協力的だった。次第に、雪絵の失踪と連続誘拐殺人事件が結ばれていき、その真相へと近づいていく。


▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン2は座席数112で、スクリーンサイズが9.1×3.8m。前方2列、後方7列の構成。後方最前列には手すりなどの柵がなく、スペースでいうと魅力的。C列は後方列の最前列で、若干近すぎて見上げになってしまう。ただ、これぐらいのスクリーンサイズであれば、それほどつらさは感じない。むしろ、非常に迫力を感じるベストな席。C8は正面やや左の席。ほぼ真ん中。
夜の最終上映。結構な人の入り。若者中心、男女半々、のように感じた。


▶ 作品レビュー
映像そのものも質がいいし、名のある人がたくさん出ていて、設定も面白いしサスペンス性もあり、面白いこと間違いなし、と言いたいところだが、そうでもない。
それなりに楽しめはした。妖しすぎる野村萬斎の役は非常に面白いと思ったし、違和感極まりない個性や設定を非常にうまく現代劇としてまとめ上げているなー、とも感心した。普通のテレビドラマのようでいてまるで違った特別感を感じたわけで、まぁ映画として認めてもいいのかなとも思ったり─、偉そうにも…。
木村文乃に癒やされます。残留思念で野村萬斎と共演するという演出方法にも面白いと思ったし、非常に効果的だと感じる。癒やしと同時に哀愁さえ感じたし。
さすが一流の役者、そしてそれを引き出す演出・撮影・編集等々、嘘になんでこんなにまで感情が揺さぶられるのかと思う一方で、宮迫博之や安田章大など役者を生業としない演者は頑張っているけれども全く心に響かないという現実を目の当たりにすると、言い知れない劇映画の奥深さを感じてしまう。大げさですけどね。
気合入れてお金かけて頑張って作った作品だというのは伝わってはくる。映像の質(あくまでも表面的なもので構図などはまた別)、最新の最上位カメラ(あくまでも想像でしかないけれど)、クレーンを使ったり大量の火薬とか、贅沢に制作しようという匂いが漂ってくる。
しかし、カメラの性能が優れているためか、意図しないピントのずれがあったり、慣れない大型クレーン(←勝手な想像)を使用しているために決まらない構図(←あくまで主観)、豪華出演陣や素晴らしい機器(だと思う)を使っているにもかかわらず(いや使用しているからこその弊害?)、すごーくアラが目立つ気がしてしまう。
完璧を目指している(?)はずなのにロケーションなんかにも不満を感じるし、機器の性能が上がっているが故にコントロールするのが難しいのかそれとも扱っている人間の手を離れようとしているためなのかその暴走を止められず、そして演技の格差をつくり出してしまう演出や編集…、酷い、酷すぎる単なる観賞者の身勝手な感想─、でもそれは映画が好きが故、素直な意見、愛の鞭─。
長回しでまさか途中でほんのちょっとピントがずれているだろうということは撮影段階では(たぶん)気付かなかっただろうし、たとえ気付いたとしてもそれをまた撮影し直す時間も勇気もなかっただろう(と想像する)。劇場の大画面、しかも表現能力が向上しているであろうスクリーンというのかプロジェクターのために、カメラが捉えたものを想像以上に正確に表現してしまうわけで、そのために予想だにせぬアラまでもが見えてくる。
また、素晴らしいロケーションを求めようとすると壮大なロケハンや場所代がかさむわけで、そこがコスト削減の対象となっているのかどうかは分からないけれど、やはりロケ場のグレードダウンは否めない。気合入れて完璧を目指したが故の欠落。完璧を目指すのであればもっともっとお金も時間もかけてほしい(と見るだけの側が勝手に思う願望でしかないのだけれど…)。
至極真面目な映画。キャラは弾けているけれど、ストーリーも思想も至って真面目。もっと楽しく好き勝手に作ってほしい、決して器械にも役者にも、設定にもストーリーにも、関係のない周りの声にも、振り回されずに、制作者側の思いのままに作ってほしい(とはいえ何も考えずに自由気ままに作ることなど、どんだけ巨匠といわれなければならないのか知ったものではないけれど)。
いろいろ意味不明な事柄を並べ立ててしまったけれど、とにかく面白い映画をつくてほしい、ただそれだけ。面白ければわけのわからない言いがかりなどつけないわけで、面白くするならば何をやってもいい、と思う。

さざなみ

さざなみ(2015年・イギリス)
原題:45 Years
公開日:(英)2015年10月23日 (日)2016年4月9日
配給:(英)Artificial Eye (日)彩プロ
時間:95分

監督:アンドリュー・ヘイ
原作:デビッド・コンスタンティン
脚本:アンドリュー・ヘイ
出演:シャーロット・ランプリング(ケイト・マーサー)
   トム・コートネイ(ジェフ・マーサー)
   ジェラルディン・ジェームズ(リナ) ほか
製作総指揮:クリストファー・コリンズ
      リジー・フランク
      テッサ・ロス
      サム・ラベンダー
      リチャード・ホームズ
      ビンセント・ガデル
撮影:ロル・クローリー
美術:サラ・フィンレイ
編集:ジョナサン・アルバーツ

鑑賞日:2016年5月9日
場所:シネスイッチ銀座 シネスイッチ1 座席数271 2階 P13


■ ストーリー
週末の土曜日に結婚45周年パーティーを控えているマーサ—夫妻─
月曜の朝、いつものようにポストを確認した妻ケイトは、夫ジェフに彼宛の手紙を手渡す。その内容は、かつてのジェフの恋人が雪山で遺体となって発見されたというものだった。それを読んだジェフは大きく動揺する。それを目にしたケイトは、死に別れた夫の元恋人の存在は認識していたものの、その絆がいかに強かったかということを思い知らされる。
その日から二人の間に違和感が生じ始める。土曜に予定されているパーティーの開催すら危ぶまれていく。
放っておくと夫のジェフは今にでも恋人の亡骸の元へと飛んでいきそうな雰囲気を、妻ケイトは必死に拭い去ろうとする。
土曜のパーティーはすでに設定された。二人を祝福するたくさんの来賓が集まってくるだろう。
果たして、二人は無事に結婚45周年を迎えることができるのだろうか─

第65回ベルリン国際映画祭、主演男優賞と主演女優賞をダブル受賞

▶ 映画館環境
シネスイッチ1の2階最前列やや右寄りの席。2階P−8がベストポジションかももしれない。残念ながらそこはすでに抑えられていた。ただ、右扉を出るとすぐに男子トイレがあるし、それほど悪くはない。とにかく2階の最前列こそが狙い目。1階であればIー12などがいい席かもしれない。
平日午後の上映。予想以上の混在、ほぼほぼマダムと呼ぶにふさわしい方々。あまりにも内容とロケーションにぴったりすぎて、笑えた。


▶ 作品レビュー
内容は非常に地味、映像の美しさも特にない、しかし内容は秀逸で2人の主演の表情をクロースアップにおいてもロングにおいても的確に捉え、感情に訴えるような構成になっている。小さな劇場(いわゆる単館)での上映であることがもったいなくもあり、同時に内容的に単館上映がふさわしいのかなと、矛盾した思いが交錯する、まるで物語の夫婦の心のように…。
昔の恋がきっかけに熟年夫婦が結婚生活の危機を迎えるという、それほど新鮮さもなく、大きな賞を取らない限り興味も沸かない映画(─あくまでも個人的な嗜好の問題─)であり、その賞を取ってしまったわけで仕方がないので見ようかなと思ったというのが正直なところ。
表情の描写が見事だと思いつつも、それだけで本当に自分の興味が最後まで続くのかどうか不安な内容だったし、実際に展開や結末において劇的なものは皆無であり、役者の細かな演技や人間の揺れ動く心などに対して興味を持てないというのであれば、全く楽しむことができない映画だと断言できる。
ただ、非常に簡潔にまとめられた映画であり、作品の意図を丁寧に読み取っていけば容易に映画の良さも理解できるだろう。この作品の本当の真価は、最後の最後に凝縮されているので、根気よく見てほしい。
この手の男女の関係を描いた映画において、常に実感するのは、男はバカで愚鈍のお人好し、一方、女は知性に溢れ鋭利で冷たい、というもの。この映画においてもその例に漏れず、そういった両極端の表現がうまくぶつかり合っているために、心に残る物語が生まれているのだろう。
後半に至るまで夫ジェフの描写は酷いもので、夫の変わりように逐一反応する知的な妻ケイトの繊細で鋭利な表現と比べると天と地ほどの差がある。これでよくダブル受賞に至ったものだと訝しむ─単にバランスを取っての授与ではあるまいかとの疑念…、ジェフ役のトム・コートネイはほとんど演技していないに等しい印象で、妻役のシャーロット・ランプリングの見事な演技ばかりが目につく。まさかトム・コートネイはシャーロット・ランプリングの引き立て役としての評価でもあるまい…。
最終的には、そんな不安を吹き飛ばすエンディングを提示してくれたと思っている。個人的な感情の流れを示しておくと、エンディングを迎えるまで妻ケイトの演技で夫ジェフへの憎しみや蔑みといった感情が生まれて、エンディングを迎えると夫ジェフの何だか不思議な熱い思いにこっちの心までが熱くなってしまって(少しだけ涙したり─)、これは感動の大エンディングを迎えるではとちょっとした期待を覚えるものの、妻ケイトの表情一つでそれをバッサリ断ちきられ、言いようのない鳥肌が全身を襲う…。
終幕後、この夫婦の行く末を観賞者がいかようにもつくりだすことは可能で、人それぞれ違ったアフターストーリーを描くことが予想される。完全に別れてしまうのか、再び強い絆で結ばれてゆくのか、嫌々ながらも共に暮らしてゆくのか、それとも陰湿な殺戮へと繋がってゆくのか…。恐らくオヤジとか野郎などはそんなのどうでもいいと思ってしまうだろうし、仮に家庭を持っていようがいまいが自らの身の上にこの作品を照らし合わせるようなことはしないと思う。まぁ、なんとか仲良くやっていくんじゃん、ぐらいの程度、それが男の性─。しかし、マダムの感情はいかばかりかと想像すると、なかなか恐ろしいものを感じてしまう。間違いなくこの夫婦の終焉を感じた。彼女らが終幕後に思いを巡らせるのであればそれは、いかに2人がけりをつけるかどうかでしかないだろう。そして、間違いなくこの物語を身の上に置き換えだろうし、そう思うと、銀座のマダムたちはいかなる行動を取るのか一抹の不安を覚えてしまう。カンフー映画のごとく、見終わった後でも抜け出せない余韻に浸り続けることがないよう祈るばかりである。
地味で派手さはない映画ではあるが、その影響力はかなり強いように思うわけで、それ故、やはりこれは単館にとどめておくべき映画かもしれないと思っている次第。
現代を象徴したリアルな熟年夫婦像がそこに再現されていて、主演男優賞と主演女優賞をダブルで取った理由がよく理解できた。

ヴィクトリア

ヴィクトリア(2015年・ドイツ)
原題:Victoria
公開日:(独)2015年6月11日 (日)2016年5月7日
配給:(独)Senator Film (日)ブロードメディア・スタジオ
時間:140分

監督:セバスチャン・シッパー
脚本:セバスチャン・シッパー
   オリビア・ネールガード=ホルム
   アイケ・フレデリーケ・シュルツ
制作:セバスチャン・シッパー
出演:ライア・コスタ(ビクトリア)
   フレデリック・ラウ(ゾンネ) ほか
撮影:シュトゥールラ・ブラント・グレーブレン
音楽:ニルス・フラーム

鑑賞日:2016年5月9日
場所:イメージ・フォーラム シアター1 自由席


■ イントロダクション(日本語公式HPより)
ベルリンの街を疾走する
全編140分ワンカットの衝撃

 2015年のドイツ映画界において最大のセンセーションを巻き起こした『ヴィクトリア』は、クライム・サスペンスというジャンルの形式を突き破り、あらゆる観客に未知なるレベルのスリルと臨場感を体感させる衝撃作である。ドイツのベルリンを舞台に、夜明け前のストリートでめぐり合ったスペイン人の女の子ヴィクトリアと地元の若者4人組が、予測不可能な極限状況へと突き進んでいく2時間余りの出来事を、全編ワンカットという驚異的な手法で描出。視覚効果などによる“見せかけ”のトリックに一切頼ることなく、スタッフ&キャストがベルリンの街を駆けずり回り、完全リアルタイムの撮影を成し遂げた映像世界は、まさに奇跡と言うほかはない。

 ベルリン国際映画祭では撮影監督ストゥルラ・ブラント・グロヴレンの仕事を讃える銀熊賞(最優秀芸術貢献賞)など3賞を受賞し、ドイツ映画賞では作品賞、監督賞、主演女優賞、主演男優賞、撮影賞、作曲賞の6部門を独占。東京国際映画祭ワールド・フォーカス部門での上映時にも大反響を呼んだ“破格”の話題作の公開がついに決定した。

 世界中のどこでも起こりうる若者たちの偶然の出会いから始まる青春映画のような物語は、後戻りできない“事件”が勃発する中盤以降、映画のムードやリズムを一変させ、怒濤の急展開を見せていく。登場人物が自転車や盗難車、エレベーター、階段、タクシーなどを利用しながらベルリン各地を慌ただしく移動する姿を、カメラはそっと寄り添うように、時に猛然と食らいつくようにして生々しく捉え続ける。

  5分、10分とカットせずにカメラを回し続ける長回し撮影は、時間的な持続性を保ちながら、その場に生じる緊張感や空間的な広がりを強調するうえで絶大な効果を発揮する。とりわけこの技法を大胆に導入したアルフレッド・ヒッチコックの『ロープ』やオーソン・ウェルズの『黒い罠』は有名で、アレハンドロ・G・イニャリトゥの『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』における擬似的な全編ワンカット手法が脚光を浴びたことも記憶に新しい。

孤独な女の子のささやかな冒険が悪夢に変わるとき

 しかしアクロバティックな演出をあえて排除した『ヴィクトリア』には、ワンカットの撮影テクニックをひけらかす意図はない。異国の地で思いもよらない犯罪に巻き込まれたヴィクトリアが経験する冒険と過ち、歓喜と不安、愛と喪失。大混乱の逃避行のさなかにわき起こる切迫した感情を、ダイナミックかつ繊細に刻み込んだ映像は、観る者の心を激しく揺さぶってやまない。登場人物の愚かさも愛おしさも分け隔てなく見すえたワンカット演出の成果は、クライマックスにあふれ出す並外れたエモーションに結実している。

ドイツ人監督とスペインの新進女優の驚くべき挑戦

 この無謀とも思える企画に挑戦し、画期的な成功を収めた作り手は、長らく俳優としても活躍しているゼバスチャン・シッパー監督である。いわゆる完成台本は存在せず、シーンとロケーション、登場人物たちの大まかな動きを記したわずか12ページの覚え書きをベースに、140分ぶっ通しのベルリン・ロケを実施。ドイツ語とブロークン・イングリッシュが混在するセリフは俳優たちが即興的に発したもので、撮影中に起こった想定外のハプニングもカメラに収めていったという。また、全編出ずっぱりで主演を務めたライア・コスタは、1985年生まれのスペインの新進女優。親しみやすいチャーミングなルックスに加え、ヴィクトリアの壮絶な運命をノンストップで体現した渾身のパフォーマンスは、それが演技であることすら忘れさせ、あらゆる観客の目を釘付けにするに違いない。


■ ストーリー(日本語公式HPより)
眩い光がフラッシュする地下のクラブで、ひとりの若い女性が激しいダンスに身を委ねていた。3ヵ月前に母国スペインのマドリードを後にして、単身ベルリンでの生活を始めたヴィクトリア(ライア・コスタ)である。踊り疲れて帰路につこうとしたヴィクトリアは、夜明け前の路上で地元の若者4人組に声をかけられる。スキンヘッドのボクサー、ひげ面のブリンカー、童顔のフース、そしておしゃべり好きなリーダー格のゾンネ(フレデリック・ラウ)は、一見するとチンピラ風だが悪人ではないようだ。ヴィクトリアがドイツ語をしゃべれないため、ぎこちなく英語で会話を交わして意気投合した彼女たちは、コンビニでビールを調達してビルの屋上へ。そこでの他愛なくも愉快なひとときは、異国の都会で孤独を感じていたヴィクトリアにとって、久しぶりの温もりに満ちた時間だった。

 やがてヴィクトリアはアルバイト先のカフェで仮眠をとるため、ゾンネに店まで送ってもらうことにする。ゾンネにせがまれ、店内に置かれたピアノでリストの「メフィスト・ワルツ」を弾き始めるヴィクトリア。ゾンネはその見事な演奏に感嘆するが、つらい記憶が脳裏をよぎったヴィクトリアは浮かない顔だ。16年以上も毎日厳しいレッスンに明け暮れたのに、壁にぶち当たってピアニストになる夢を捨てたことを告白するヴィクトリアを、優しく励ますゾンネ。いつしかふたりの間には親密な感情が流れ出していた。

 カフェにやってきた仲間たちと合流したゾンネは、ヴィクトリアと再会を約束して車で立ち去る。しかし彼らは、まもなくカフェへ戻ってきた。何か重大なトラブルが発生したらしく、ゾンネとボクサーは気が高ぶり、フースは足取りがおぼつかなくなっている。ゾンネの説明によれば、ボクサーが刑務所に入っていたときに世話になった人物に借りを返すため、これからある“仕事”をしなくてはならないという。酔いつぶれたフースの代わりの運転手役を頼まれたヴィクトリアは「仕事が終わったら、ここに送り届ける」というゾンネの言葉を信用し、その依頼を受け入れるのだが、行く手にはヴィクトリアらの人生を一変させる悪夢のような事態が待ち受けていた……。


▶ 映画館環境
イメージフォーラムのシアター1は座席数64の小劇場。全席自由席。
平日の午後の上映、にもかかわらず激混み。初めて前から2列目での観賞。それほど悪くない。むしろ最前列の真ん中でもいいかもしれないと思った。小劇場が故の強み。スクリーンがやや見上げになっているところが難点。しかも、近すぎるとスクリーンの粗が見えるような気がした。


▶ 全編ワンカットという技法
全編ワンカットの映画といえば、個人的な認識としてアレクサンドル・ソクーロフの「エルミタージュ幻想」以外にない。つい最近オスカーを受賞した、ルベツキ撮影の「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」などもワンカットのように仕立て上げられているが、あれはあくまでも切れ目がないように見せかけているだけのもの。古くはヒッチコックの「ロープ」もワンカットのようにうまく編集されているに過ぎず、実際に撮影しっぱなしの映画となると「エルミタージュ幻想」が最初という認識だ。
そもそも、何時間もフィルムを回し続けられるのかという素朴な疑問が生まれてくるわけで、実際の35ミリフィルム撮影においては10分が連続撮影の限界というから、デジタル技術が登場してくるまでの映画の長回しというのは、どんなに長くても10分以内に収まっていたわけだ。
通常の映画とは異なるが、アンディ・ウォーホルが残した実験映画「エンパイア」は、作品の通常上映時間は8時間を超えるもので、エンパイアステートビルをひたすら定点撮影した作品においても、フィルムは16ミリを使用、400フィートのリール(通常であれば12分程度の撮影時間)をスローで回し、3本のリールを使っているわけで、つまり、切れ目のない長い作品を創り出そうとする場合、相当の努力と工夫を要していたということである。
フィルム撮影での映画というものに馴染んできた人間にとって、1時間2時間以上の長尺映画をワンカットで作り上げるなど考えられないわけで、そういった意味で「エルミタージュ幻想」の衝撃は相当なものだった。とはいえ、厳密に言うと「エルミタージュ幻想」はハイビジョン撮影であり、これを映画としてよいのかどうか微妙なところではあるが、デジタルカメラの性能が向上し、いまやデジタル撮影が主流となっているという現状を考えると、ハイビジョン撮影もギリギリ映画の水準として捉えきれるのかなと思ったりする。
デジタル撮影による恩恵は計り知れない。その最たるものは制作側のコストにあるだろう。フィルムを使用しない分、非常に安価に映画を作ることができる。そして、CGなどコンピューターとの相性もいいわけだから、表現の上でも創意と工夫さえあればより一層のブラッシュアップを望める。
一方で、デジタル用の上映システムを組む上では、フィルム時代よりもコストがかさむようで、大規模なシネコンが増えてきている一方で、小さな劇場や地方の映画館がどんどん減ってきているようだ。自分の田舎にもかつて3つの映画館が存在したが、もはやひとつの映画館も存在しない。もっともそれはデジタル時代とは別の問題を孕んでいるわけだが─。
制作側にもデメリットはある。それは、誰でも容易に制作できるということにより、その質が著しく低下していくということ。現に、全編ワンカットという手法は、トライであると同時にコスト削減であったりする。2時間なら2時間で撮影が済んでしまえば、それだけ制作費を抑えられる。
そもそも、完璧なワンカット映画を作ろうとすれば、途中で気に入らないところがあればそこで中断してまた一から撮影し直すということが何度かあるべきだ。しかし、それらは妥協され、うまく流されていくはずであり、止めずにうまくやり過ごすことだけに満足し、気がつかないうちに酷い駄作を作り上げているということもありえよう。見ている側は、細かいカットだろうがワンカットだろうが、心や脳を刺激される作品を求めるだけ。それを前提に、デジタル技術を駆使してほしいものである。
ちなみに、もはやワンカット映画というのは珍しくないようで、少し調べると結構あることが分かった。参考までに記載しておく─

「PVC-1 余命85分」(2007年・コロンビア/スピロス・スタソロプロス監督)
「SHOT/ショット」(2010年・ウルグアイ/グスタボ・エルナンデス監督)
「サイレント・ハウス」(2011年・アメリカ/クリス・ケンティス監督)※上のリメイク
「ホテル・ワルツ」(2007年・イタリア/サルヴァトーレ・マイラ監督)
「ある優しき殺人者の記録」(2014年・日韓/白石晃士監督)
「BANK」(2013年・日本/村橋明郎監督)
「マジシャンズ」(2005年・韓国/ソン・イルゴン監督)

「SHOT/ショット」とそのリメイク「サイレント・ハウス」に関しては完全にワンカットではないようだが、参考として記載しておく。また、これはごく一部でしかない、はず…。


▶ 作品レビュー
 ようやく、映画の感想。140分というのは長い。よくもまぁ、これだけ回し続けたなぁと思う。夜中から朝にかけての撮影だし、しかも室内・屋外入り乱れた構成になっているし、簡単に仕上げたものではないとは感じる。内容も長さに負けないくらいの濃密な展開が詰め込まれているし、はっきりいって疲れる。テレビドラマのワンクール分を一気に見せられた思い。
長回しにありがちな退屈感もなく、最後まで集中できた。まるで長回しではないような印象を持ったし、激しいカットで構成されているアクション映画と遜色のないくらいに、目で楽しめる映画であった。
もしかしたら、長回しというところに意識を向けさせないことがこの作品のひとつの狙いなのかもしれないと感じた。それが、これまで存在した数々の長回し映像とは違った部分で、非常に特徴的に映った。カメラの動き、被写体の動き、それがカット割りが生み出す効果をも補っていたと認識できた。
確かにこれまでにない、新鮮な映像体験をしたような自覚はある。しかしながら、最大の売りであるはずのワンカットが半ば前面に打ち出されないというのであれば、もっと激しくカットを多用する部分もあってもいいような気がするわけであり、そう思ってしまうと、この長ったらしい140分という尺は適切なのかどうか疑問に思ってしまう。不要な部分をまさしくカットして、もっとコンパクトにまとめた方がストーリー的には面白かったのかもしれないと勝手に想像する。ただ、その場合、映画的特長を失ってしまうという代償を払うことにもなりかねないが…。
カットもできないし時間軸も変えることができないという不利な条件があるためか、展開に多少強引さも感じたし、画角や構図などにも満足できなかった。そういったマイナス要素を引き合いに出して映画の長回しというものを改めて考えると、それら要素がこれからの映画に悪影響を及ぼさないようにと願うばかりである。
残念ながら、この映画に過去の名作と呼ばれる映画と同様の感動を覚えることはできなかった。例えば、溝口健二の「山椒大夫」、あるいは「エルミタージュ幻想」や「バードマン」─、そういった映画に感動したのは、決して技術的な観点からではない。
技術的な見本市を見るために映画館に足を運んでいるわけではないわけだから、そういう人たちに何かを与えてくれるように、技術を駆使してほしいものである。


亜人 衝突

亜人 衝突(2016年・日本)
公開日:2016年5月6日
配給:東宝映像事業部
時間:106分

総監督:瀬下寛之
監督:安藤裕章
原作:桜井画門
声:宮野真守(永井圭)
  細谷佳正(海斗)
  福山潤(中野攻)
  大塚芳忠(佐藤)
  平川大輔(田中功次)
  櫻井孝宏(戸崎優)
  小松未可子(下村泉)
  木下浩之(オグラ・イクヤ)
  洲崎綾(永井慧理子)
  鈴村健一(曽我部)
  森川智之(アルメイダ)
  坂本真綾(マイヤーズ)
  斉藤壮馬(琴吹武)
  梶裕貴(中村慎也) ほか
シリーズ構成:瀬古浩司
プロダクションデザイナー:田中直哉、フェルディナンド・パトゥリ
キャラクターデザイナー:森山佑樹
造形監督:片塰満則
美術監督:滝口比呂志、松本吉勝
色彩設計:野地弘納
演出:りょーちも、鹿住朗生、井手恵介、岩田健志
CGスーパーバイザー:岩田健志、菅井進、上本雅之、溝口結城
編集:肥田文、渡邊潤
音響監督:岩浪美和
音楽:菅野祐悟
主題歌:LAMP IN TERREN
アニメーション制作:ポリゴン・ピクチュアズ

鑑賞日:2016年5月7日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン2 C10


■ ストーリー
不死の新人類、亜人─
彼らは蔑まれ、人間扱いされず、確保され、人体実験をされ、そして軍事利用されようとしていた。
偏見に満ちた世の中を、自らも亜人である佐藤が、変えようと、いや破壊しようと、全国に潜み暮らす亜人たちを集めようと画策する。亜人の能力を結集して、社会を転覆させ、自分たちがそれを支配しようと目論んでいた。
偏見を払拭しようとする佐藤の考えに賛同し、多くの亜人が終結する。しかし、その目的が社会の崩壊という事実を知ると、それに反発する亜人も出てくる。佐藤は自分たちの同志以外、何者も排除しようとする。
佐藤の囲い込みにいち早く逃げ出していた、亜人・永井圭は、その容姿をあまりにも世間に知られていたために、海沿いの山村で身を隠していた。永井圭の正体を知って知らぬふりをしている見知らぬおばあちゃんの優しさに守られながら─。
その永井圭のもとに、同じく佐藤の魔の手から逃れてきた中野攻が姿を現す。中野は永井に、共に佐藤の暴走を止めようとけしかける。しかし、永井はそれを断固拒否し、執拗に迫る中野を逃げ出せないように監禁する。
その頃、佐藤はテロ計画を着々と進めていく。そして、ついにそれを実行に移す。大規模がテロが実行され、それがテレビやインターネットで広く流されていく。その光景を永井も中野も目にしている中、亜人・永井圭を追う日本政府は彼の居場所をつきとめ追い詰める。窮地に陥る永井は、中野を利用しつつ、2人で共に佐藤のもとへ向かうことを決意する、その暴走を止めようと─。


▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン2は座席数112で、スクリーンサイズが9.1×3.8m。前方2列、後方7列の構成。後方最前列には手すりなどの柵がなく、スペースでいうと魅力的。C列は後方列の最前列で、若干近すぎて見上げになってしまう。ただ、これぐらいのスクリーンサイズであれば、それほどつらさは感じない。むしろ、非常に迫力を感じるベストな席。
夜の最終上映。それほど混雑せず。野郎ばかり。


▶ 作品レビュー
3Dアニメを2Dアニメーションのように見せることをセルルックアニメーションとか言うらしい。考え方は別に新しくもなく、かなり昔からそういう試みは成されていたはず。ただ技術的に拙いものばかりで、長編アニメーションなどになると、とても観賞に堪えられるレベルには至っていなかったと理解する。
それがゲームやボーカロイドなどの影響なのか、着実に進化を遂げて、大画面の劇場映画においても成立し得るようなレベルになってきたということなのだろう。
テレビのアニメなどでも、セルルックアニメはもはや当たり前のように作られているように思うし、違和感なく楽しめている。ただ、その描写が人物にまで及ぶと、まだまだ違和感を感じてしまうというのが現状だ、個人的な見方ではあるけれど─。
この映画においても、セルルックアニメの効果的な面と途上的な面の表裏を感じる。
まずは亜人がつくり出す“黒い幽霊”の表現においては非常にリアルな動きやアニメーションを構築できているように思う。それは現実には存在しないものであり、普段自分たちが目にしないもの、それを想像豊かにつくりだしているわけで、その創造力に魅せられる。
一方、登場人物の表現はどうか─、リアルに劇画的な表現の人物においては、あまりにも違和感極まりない。それは、普段自分たちがよく目にする行動を再現している部分が多いわけで、それゆえ非常にぎこちなく感じてしまう。つまり、現実世界の表現においてはまだまだセルルックアニメでは表現しきれない面が多いということだろうか。
しかし、建物や乗り物、武器などの人工物においては非常にリアルに表現し切れていると感じるし、草木などの自然物においてもリアルに捉えていたように思う(背景などには2D表現も多用しているだろうけれど─)。そう考えると、あとは人物表現さえ完璧であればセルルックアニメーションなる表現は完成するように思うのだが、まぁ何十年かかっても人間をリアルに再現しきれていないというのが現実であり、そこが最も難しいことなのだろう。
映画を観賞するときに技術的なところばかりに目がいくと、なかなか楽しめないとは思うのだが、このアニメに関しては不思議とその例に当てはまらないような気がしている。ストーリーや展開よりも、むしろ表面的なもの、創り出されるキャラクターやその動き自体を見て楽しんでいるところがある。黒い幽霊の動きに魅せられているのは当然として、その拙いと思っている人物表現でさえも凝視しているように感じる。それというのも、ぎこちないと感じるその動きや描写にもこれからの可能性を感じてしまうわけで、とかく空間などの表現においてはかなりのリアルさを体感できるわけで、そういった面でも、見た目だけで楽しむことができる作品ではないかと思う。
3部作として始まったこのアニメーション、前回初めてこの話と設定を知るに至り、偏見に満ちた表現と人体実験的な描写などにあまり好感を持つことができなかったのだが、表面的な描写において非常に優れていたと感じたわけで、話の結末はともかく、最後までこの作品を観賞することになるだろうと確信した。
そして今回の2作目を観賞し、前回よりも内容や話に面白味を感じて、より一層この作品に対する興味を持ったように思う。完結となる3作目も非常に楽しみ。ただ、その展開や結末においてはそれほど興味を持っているわけでもなく、むしろ、いかに目で楽しませてくれるか、それに重きを置いて期待しているといったところ。
ようやくセルルックアニメなるものが増えつつあるとはいえ、3Dアニメや2Dアニメに比べるとまだまだ希少であるし、その表現自体に対しても懐疑的になってしまうところも否めない。果たしてセルルックなるものが次なるアニメの主流になり得るのかどうか─、それがアニメや映画においてどのように影響していくのか─、この作品以降のアニメーションにますます目が離せない。