テラフォーマーズ

テラフォーマーズ(2016年)
公開日:2016年4月29日
配給:ワーナー・ブラザース映画
時間:109分

監督:三池崇史
原作(作):貴家悠
原作(画):橘賢一
脚本:中島かずき
出演:伊藤英明(小町小吉)
   武井咲(秋田奈々緒)
   山下智久(武藤仁)
   山田孝之(蛭間一郎)
   小栗旬(本多晃)
   ケイン・コスギ(ゴッド・リー)
   菊地凛子(森木明日香)
   加藤雅也(堂島啓介)
   小池栄子(大張美奈)
   篠田麻里子(大迫空衣)
   滝藤賢一(手塚俊治)
   太田莉菜(連城マリア)
   福島リラ(榊原)
   渋川清彦 ほか
製作:福田太一
   茨木政彦
   榎本善紀
   中村理一郎
   寺島ヨシキ
   奥野敏聡
   小笠原明男
   宮本直人
   坂本健
エグゼクティブプロデューサー:小岩井宏悦
プロデューサー:坂美佐子、前田茂司
撮影:山本英夫
照明:小野晃
美術:林田裕至
録音:中村淳、小林圭一
装飾:坂本朗
サウンドエフェクト:北田雅也
編集:山下健治
音楽:遠藤浩二
主題歌:三代目J Soul Brothers from EXILE TRIBE
キャラクタースーパーバイザー:前田勇弥
キャラクターリファイン:寺田克也、SHOHEI
特殊メイクアップ:松井祐一
ヘアメイクディレクター:冨沢ノボル
スタントコーディネーター:辻井啓伺、出口正義
VFXスーパーバイザー:太田垣香織

鑑賞日:2016年4月29日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン4 I3


■ イントロダクション(公式HPより)
火星で何が!?
人類VSテラフォーマーの壮大な戦いが今始まる!

世界、唖然、騒然。1,400万部突破の超絶人気コミック、完全実写映画化!
日本映画初のアイスランドロケ!圧倒的なスケールで放つ、ビッグプロジェクト!

瞬き禁止!映画史を塗り替える脅威のアクション!
日本映画最高峰の豪華キャストVS史上最悪の敵テラフォーマー
今世紀最高のドリームマッチを見逃すな!
累計発行部数1,400万部突破!という異常なほどの勢いで、着々と日本を征服しつつある人気コミック「テラフォーマーズ」。 地球と火星で繰り広げられる壮大なスケールの物語の実写映画化が、世界を挑発し続ける荒ぶる奇才、三池崇史監督と、『るろうに剣心』シリーズの製作陣の手によって実現した。当代随一の演技派から国民的人気スター、さらに米アカデミー賞®にノミネートされた国際派女優からワールドワイドなアクション俳優まで、非常識なほどの豪華キャストが挑むのは、全員が自身のキャリア史上最初で最後となるだろう驚愕のキャラクター。火星で彼らを待ち受ける、人型に進化した“あの生物”=人類史上最悪の敵〈テラフォーマー〉との壮絶な戦いの全貌がついに明かされる!

誰も体験したことがない一大イベントが、まもなく地球を襲う─!

■ ストーリー(公式HPより)
火星に送り込まれた何も知らない15人の日本人。
変異した人間か、最悪の敵か、生き残るのはどっちだ!?

21世紀、人口爆発を迎えた人類が選択した火星移住計画。人類はコケと“ある生物”を送ることで火星を地球化させようとした。それから500年。計画の仕上げのために火星へ送り込まれた隊員15人のミッションは、その生物の駆除。ところが、“ある生物”は人型に異常進化した凶暴な驚愕生物へと姿を変え、隊員たちに次々と襲いかかる。絶体絶命な状況のなか、彼らの身体に秘策が仕込まれていたことが明かされる。昆虫のDNAによって虫の姿に“変異”し、超人的なパワーを発揮できるのだ。騙されたことに怒りながらも、どう猛すぎる力を与えられた小町小吉(伊藤英明)のもと立ち上がる隊員。ついに人類対テラフォーマーの壮絶な戦いが始まる!だが、その裏で、もうひとつの陰謀が着々と進んでいた─。


▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン4は座席数121で、スクリーンサイズが9.6×4.0m。TOHOシネマズの中ではそれほど大きくない劇場。I列は最後列。久々に一番後ろに座ってみた。最後列の両端も悪くない。
公開初日、夜遅くの上映、席は半分ほど埋まっていた気がする、ほぼ働き盛りの若い奴らといったところか─。


▶ 作品レビュー
最近は漫画が映画になる例が非常に多いように感じる。映画化というのは、昔から盛んなわけで、今に始まったことではないけれど、ここ数年特にその傾向が強くなってきている。
2016年5月2日付けの映画興行トップ10を確認してみよう─
1位名探偵コナン 純黒の悪夢(ナイトメア)
2位ズートピア
3位シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ
4位映画クレヨンしんちゃん 爆睡!ユメミーワールド大突撃
5位ちはやふる -下の句-
6位アイアムアヒーロー
7位テラフォーマーズ
8位レヴェナント:蘇えりし者
9位劇場版 遊☆戯☆王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONS
10位暗殺教室~卒業編~
─となっていた。アニメや漫画に関わりのない作品は「レヴェナント」のみという笑ってしまう状況。そういった映画が多く制作されているということもあるだろうが、世の中もそういったものを求めているといえよう。つまり、これからますますこの傾向が強まると予想される。
漫画文化なるものを誇っている国だし、個人的にも漫画やアニメで育ってきたわけだから、別にこの傾向を否定するところは何もない。しかし、原作の人気や想像性におんぶに抱っこ的な姿勢にはなって欲しくないとは思っているし、最も危惧するところでもある。
前置きよりも、この映画のレビューをいい加減始めたい。
この映画に関しては、原作を超えた独自の創造性をつくりだそうという姿勢は見て取れる。
漫画の筋やキャラクターに拘りすぎて、実写において違和感きわまりない出来に仕上がった映画をどれほど見てきただろうか─、よくもまぁこんなひどいものを…とその都度思ったわけだが、この映画に関してはその種の蔑んだ感情は生まれてこなかった。
漫画のキャラクターを尊重しつつ、独自のキャラクターづくりにおいても成功しているように思う。原作のわかりにくさを取り除いて、エンターテインメントらしくシンプルに仕上げ、より多くの人に楽しんでもらおうという意志は感じる。
ただ、個人的な率直な感想を一言で述べるならば、面白くなかった、と言わざるを得ない。原作にあってこの映画にないもの─、それは国際性であり、そしてまた文明といった要素であったりするのだが、それらを排除した為に話の内容が非常に薄いものとなっている。確かに、その要素を取り込むと、非常に複雑な問題が絡んでくることは予想されるけれども、ただ虫と超人的な人間の戦いを見せられても、見たことあるSF映画だなぐらいにしか思えない。
地球の映像や宇宙船と火星のCGなども全く新鮮さはないので、見た目の面白さも感じられず。ゴキブリの表現だけは面白さを感じるけれど、アニメや漫画を忠実に再現しているだけのこと(とはいえ、リアルに再現しているところが何気に凄いとは思うが─)。
役どころもかなり難しかったと想像するが、残念ながら小栗旬以外の演技に違和感しかなかった。小栗旬の演技も違和感満載だったが、演技と役がうまくはまっていたような印象。武井咲に至っては、最後はもはや誰でもいい状態だったわけだし、色んな人を集めただけで、もったいないという言葉しかない。
そもそもアニメや原作自体もそれほど面白いと思っていなかったわけで(今更ながらのカミングアウトで申し訳ないが)、その中でも国際間の争いとか文明の黎明的な要素を救いにこの作品を楽しんでいたのであり、そういった意味でも、その部分を取り除かれてしまうと他に楽しむ要素を見いだせない。
原作自体、詰め込まれている要素が多いわけだから、この映画に関しても賛否あると予想する。ただ自分には合わなかったということだけ。だから、もし仮に次があったとしても、恐らく見ないだろう。

ちはやふる 下の句

ちはやふる 下の句(2016年)
公開日:2016年4月29日
配給:東宝
時間:103分

監督:小泉徳宏
原作:末次由紀
脚本:小泉徳宏
出演:広瀬すず(綾瀬千早)
   野村周(平真島太一)
   真剣佑(綿谷新)
   上白石萌音(大江奏)
   矢本悠馬(西田優征)
   森永悠希(駒野勉)
   清水尋也(須藤暁人)
   坂口涼太郎(木梨浩)
   松岡茉優(若宮詩暢)
   松田美由紀(宮内妙子)
   國村隼(原田秀雄)ほか
製作:中山良夫
   市川南
   鈴木伸育
   加太孝明
   薮下維也
   石川豊
   弓矢政法
   髙橋誠
   宮本直人
ゼネラルプロデューサー:奥田誠治
エグゼクティブプロデューサー:門屋大輔、安藤親広
企画:北島直明
プロデュース:北島直明
プロデューサー:巣立恭平
撮影:柳田裕男
照明:宮尾康史
美術:五辻圭
録音:小松崎永行
編集穗:垣順之助
音楽:横山克
主題歌:Perfume

鑑賞日:2016年04月29日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン1 C11


■ ストーリー(公式HPイントロダクションより)
感動の二部作、ついに完結─

千早・太一・新は幼なじみ。いつも一緒にかるたで遊んでいたが、家の事情で新が引っ越し、はなればなれになってしまう。高校生になった千早は、新にもう一度会いたい一心で、再会した太一とともに瑞沢高校“競技かるた部”を作る。
創部一年ながら、エース千早の活躍と抜群のチームワークを発揮し、なんとか強豪北央学園に勝利。
東京都大会優勝をなしとげた。
舞台はいよいよ全国大会へ―。

新に東京都大会優勝を報告する千早に、思わぬ新の告白「かるたはもうやらん…」。
ショックを受ける千早だが、全国大会へ向けて仲間たちと懸命に練習に励む。そんな中、千早は、同級生ながら最強のクイーンと呼ばれる若宮詩暢の存在を知る。全国大会の個人戦で詩暢と対決する可能性がある。
新に「強くなったな」って言われたい、詩暢に勝てばもう一度新とかるたを取れるかもしれない…

クイーンに勝ちたい!新に会いたい!
千早の気持ちは次第に詩暢にとらわれ、“競技かるた部”の仲間たちから離れていってしまう。
そして、そんな千早の目を覚まさせようとする太一。千早、太一、新の気持ちが少しずつすれ違っていく…。

今、泣きたくなるほど熱いクライマックスの、幕が上がるー!!!


▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン1は座席数130で、スクリーンサイズが10.1×4.2mとやや大きめの劇場。前方2列、後方7列の構成。後方最前列には手すりなどの柵がなく、スペースでいうと魅力的だが、若干前過ぎるのとスクリーンも大きめなので、見上げの苦しさを伴ってしまう。今回のC-11。C列は3列目で近すぎるのは分かっているけれども、座席の構成を見ると、どうしてもその列を取りたくなる。実際近いのだが、悪くはない、でも多少疲れる。
公開初日、週末、夕方からの上映、以上の要因からほぼ満員状態。客層も雑多。左隣は、ひとりで来ていた若い女性、右隣には母親と子供、後には年配の夫婦…といった具合。


▶ 作品レビュー
この映画を見終わった翌日、日本映画について批判的な記事を目にする。
日本映画をつまらなくしている3つの元凶 (DAIAMOND ONLINE)
別に日本映画を否定するつもりもないし、むしろそれを否定するところを目の当たりにすると腹立たしく思ったりする。現に、某地方局で最近の日本映画はつまらないというテーマでのトーク番組を見たりして、実際に映画を見ていない(と思われる)コメンテーター(と呼ばれるような人)たちが、表層的な分析だけでここ数年の日本映画を否定するのを見てしまうと、こいつらが日本映画を駄目にしているのでは、と思ってしまう。
この場で日本映画に関して議論を展開したいわけでもないし、日本映画を批判したいわけでも擁護したいわけでもない。ただ、この「ちはやふる 下の句」を見終わった後に、とてつもなく悲観的な気持ちになってしまい、それ故に、あらゆる邦画否定の見識へと心が引き寄せられていっただけ。
邦画を批判する人は、こういう映画を見てだめ出しをしているのだろうと想像する。この映画だけで日本映画を否定することには賛同できないけれど、この映画自体を否定するということならば意見を同じくする。
ストーリーは多少面白いとは思う。広瀬すずと松岡茉優には萌える。それ以外、まったく共感できるところがなかった。
多くの人を楽しませることができれば立派なエンターテインメントだといえるだろうし、実際にこの映画も多くの人を楽しませていることだろう。つまり、楽しめなかった自分のような外野が難癖をつけるのは筋違いなのかもしれない。
にしても、映画にする意味というか、大義名分ぐらいはあるはずで、その意義というか志があまりにも希薄なように感じてしまう。絵作りがあまりにも軽々しく、テレビドラマで済ますことができるだろうと─決してテレビドラマを卑下するわけではなく、映画にする最大の目的はやはり画質であると思うし大画面に耐えうる映像を求められるわけで、それができないというのであれば、テレビドラマにおさめて、画質以外のところで質を高めてほしいと思ってしまうわけだ。魅力を感じない絵の中で、質の悪い演出が展開しているこの映画に、全く価値を見出せない。
特に気に入らなかったのは、過剰なソフトフォーカスの多用。明らかにボカシでごまかそうとしていた。スタッフの力量不足を強く感じる。監督が悪いのか、撮影が悪いのか、編集が悪いのか、照明が悪いのか、それ以外なのかそれら全てなのか分からないけれども、ぼかす前にまずは構図やカット割りをしっかりと組み上げてほしい。それからぼかすだけぼかせばいいと思う。粗編段階からぼかしているような印象を持ってしまう。
テレビの資本でこのような酷い映画を作られると、当然、あらゆる批判が出ることは目に見える。そしてそれが日本映画の質の低下(というレッテル)に繋がっていく。
でも、映画のレビューとかを確認すると結構高評価であるわけだから、映画はこうでなければイカ〜ン!という頭の固い自分などが駄目出しをすることで日本映画のレベルを低く見積もらせているだけなのかもしれない。映画館の中で歌ったり、画面に向かって台詞を返したりするインタラクティブな時代になっていることに、古い人間は目を向けたがらないものなのだ。
ただ、この映画は海外で決して受け入れられることはないだろう。それは確信できる。百人一首だから日本で完結しても別に問題ないし、そうした趣旨で描いているとも思える、日本でナンバーワンは世界でナンバーワン的な─。しかし、この映画が映画的に優れていれば、百人一首という日本文化が世界に浸透していくと思うのだが、果たして、制作側にはそういう意識というものは全くなかったのだろうか…。「東京物語」や「用心棒」「七人の侍」がなぜ広く受け入れられているのかということを今一度、想像してほしい(とはいえ、この例えも古くさいし、それこそ時代遅れだという誹りを受けかねないが…)。
冒頭で言及したように海外の映画関係者が日本映画のレベルを嘆くということは、それだけ日本の映画というものが注目されているということの裏返し。分かりやすく誰にでも受け入れられるような映画を目指すというのであれば、もっともっと視野を広げてほしいものである。

山河ノスタルジア

山河ノスタルジア(2015年/中国・日本・フランス合作)
原題:山河故人 Mountains May Depart
公開日:(中)2015年10月30日 (日)2016年4月23日
配給:(香)Edko Films (日)ビターズ・エンド、オフィス北野
時間:125分

監督:ジャ・ジャンクー
脚本:ジャ・ジャンクー
出演:チャオ・タオ(タオ)
   チャン・イー(ジンシェン)
   リャン・ジンドン(リャンズー)
   ドン・ズージェン(ダオラー)
   シルビア・チャン(ミア) ほか
アソシエイトプロデューサー:川城和実、定井勇二
              チェン・ジェンピン
              チャン・ドン
              ワン・ホン
              ジュリエット・シュラメク
製作総指揮:レン・チョンルン
      ジャ・ジャンクー
      リュウ・シーユー
      森昌行
      ナタリエル・カルミッツ
      エリシャ・カルミッツ
撮影:ユー・リクウァイ
美術:リュウ・チァン
メイク:橋本申二
音楽:半野喜弘

鑑賞日:2016年4月26日
場所:ル・シネマ ル・シネマ1 C-12


■ ストーリー
過去、現在、そして未来をまたにかける一大叙事詩─
1999年、中国・山西省汾陽(フェンヤン)で、小学校女性教師のタオと炭鉱で働く青年リャンズー、そして青年実業家のジンシェンの幼馴染み3人は25歳、何をするにも3人一緒。瑞々しい青春を謳歌する。しかし、ジンシェンのタオに対する強い恋心がその関係に亀裂を生じ、ひとつの時代の終止符を打つ。2人は結ばれ、そして1人町を出ていく。
2014年、故郷の汾陽を離れていたリャンズーも結婚し1児の父親となっていた。平穏な毎日を送っていたが、体調を壊してしまい、回復するためには多額の治療費が必要になる。それを工面するため再び故郷へ戻っていく。
タオとジンシェンは離婚していた。一人息子のダオラーはジンシェンが親権を持ち、上海にいる。
リャンズーは結果的にタオを頼り、彼女からお金を借りる。若かったあの頃とは、お互いに随分環境が違っている。煌びやかな日々はもはや過去のことだった。
その年タオは突然父親を亡くしてしまう。葬儀のため7歳のダオラーが帰郷した。久しぶりに会う息子は随分と様変わりをしている。そのダオラーから、近いうちに父親とオーストラリアへと移住することを聞かされる。自分からどんどん離れていってしまう息子に、タオは短時間の内に深い愛情を注ぎ、そして再び息子を別れた夫の元へと返した。
2025年、オーストラリアに移住したダオラーは19歳になっていた。中国語は話すことができず、会話は英語のみ。父親ジンシェンは英語を理解できず、お互いに話すときは翻訳機を用いている。金銭面で成功を収めたジンシェンではあったが、家庭はすでに崩壊しており、唯一の同居人である息子のダオラーとも喧嘩が絶えない。
心の拠り所を失っていたダオラーは、中国語を教わっている女性教師ミアに近づいていく。やげてダオラーは、無意識のうちに母親の面影を追いかけていたということに気づかされるのだった。
50歳になったタオは、ひとり汾陽で暮らしている─。


▶ 映画館環境
渋谷 ル・シネマ1 座席数152
スクリーンが小さいし、細長いし、座席間も狭いし、全席ウェブでの購入ができるわけでもないので、個人的には嫌いな劇場。おっさん臭いにおいも嫌い。火曜日のサービスデー以外は行かないようにしている。
シネマ1はCDEGI列の右端、DFHJ列の左端が妥当な席。ベストな場所はない。今回座ったのもC-12。3列目ではあるけれど、近すぎることはなかった。
サービスデーであるだけに客多め。年齢は極めて高い。劇場へは行く道として、小さなエレベーター2基と変なルートを行かなければならないエスカレーターしかないので、行き着きづらい。だから尚更嫌いな劇場。


▶ 作品レビュー
過去、現在、未来という構成に最も惹かれた。それがこの作品の売りだろうし、その描き方も見事だったと思う。アスペクト比が4:3と思われる映像で始まるその過去は、美しさを保ちながらしっかりと古めかしい情景を生み出しており、これから始まる物語の伏線と認識できるわけで、そういった意味で見ている側の意識も非常に研ぎ澄まされる、何かを予感して─。
比較的長く設定された序文的過去が終わり、画面がワイドに切り替わり時代は現代へ、そしてここで映画にタイトルが表示される、この流れ、ちょっとした身震いを覚えてしまった、名画の予感─。
しかしここから始まる物語は、過去の煌びやかさに比べて非常にどんよりと暗いもの。映像も、表面上は明瞭になっていても美しさにおいては過去を描いた部分には及ばない。それは狙いなのかもしれないが、現代と未来の物語をこの調子で語られたら非常につらいものがある。事実、暗さを強調した展開が続くわけで、気持ちが荒んでいく思い。この世界は絶望しかないのだろうか、そう思ってしまう、そうなのかもしれないが…。
まさに過去をノスタルジックに思う映画。過去に縛られたり囚われたりといったものではないけれども、決して明るい未来は想像できない。
その事に関して善し悪し好き嫌い人それぞれだと思うが、個人的にはあまり気持ちの良いものではなかった。
なぜか悲しい現実ばかりが提示されるこの映画に、多少の疑問を持ったりした。むしろ過去に縛られるような展開であっても良かったのでは?と思ってしまう。そう仕立てたのかもしれない。確かに、最初に提示された過去の映像を何度か思い返したし─。それでも、そのノスタルジックに仕向ける力があまりにも弱いように感じたわけで、それ故に何のための長くて煌びやかだった過去の物語だったのか、という疑問すら持ってしまった。
全体的に細かな話が絡み合いながら展開していくのだが、その細かな話一つ一つに全く結末めいたものがなく、最終的にどの話も完結することなく終幕している。必ずしもすべての話において完結する必要はないと思うが、あまりにもすべてを観客に丸投げしすぎているような印象を受ける。せめてある程度の道筋を示してくれてもよかったのではなかろうか。先が見えない不安─それを表現したかったのかどうか─と勝手に想像するのだが、ストーリーを完成させ切れない作家の怠慢もしくは力不足と認識されかねない。
ストーリーテリングという形式をなす映画においては、ひとつの物語を構築しきることが制作側の権限であり責任であると思う。たとえ話が途中で終わってしまうように思う映画でも、その前に何かしらの結論を迎えているはずだ。この映画では話を広げるだけ広げてすべて放置している状態。
もしかしたら、話に結論をつけるという考え方はもやは古いのかもしれない。インタラクティブという言葉が広まって久しいが、映画においても徐々にそれが浸透され始め、物語の結末も観客の思い思いで決するような時代になっているのだろう。まぁこれも身勝手な個人的見解に過ぎないけれども…。
最後は確かに過去への郷愁を感じさせられた。だから何なのかよく分からないという気持ちが正直なところ。見た目、悲哀も喜びも感じない。自分としてはただ単に苦笑するだけだった。多少の憐憫や滑稽さを感じただけで、それ故の苦笑。放置されたすべての物語がどうなるのか、どうなったのか、想像できないし、もはやそんなのどうでもいい。そうどうでもいい、そう主張したいがための♪GO WESTだったのだろうか─。

アイアムアヒーロー

アイアムアヒーロー(2016年)
公開日:2016年4月23日
配給:東宝
時間:127分

監督:佐藤信介
原作:花沢健吾
脚本:野木亜紀子
出演:大泉洋(鈴木英雄)
   有村架純(早狩比呂美)
   長澤まさみ(藪)
   吉沢悠(伊浦)
   岡田義徳(サンゴ)
   片瀬那奈(てっこ)
   片桐仁(中田コロリ)
   マキタスポーツ(松尾)
   塚地武雅(三谷)
   徳井優(アベサン)
   風間トオル(千倉)ほか
製作:市川南
共同製作:寺島ヨシキ
     久保雅一
     中村理一郎
     田中晃
     岩田天植
     弓矢政法
     高橋誠
     千代勝美
     吉川英作
     都築伸一郎
     板東浩二
     宮本直人
エグゼクティブプロデューサー:山内章弘
プロデューサー:山崎倫明、城戸史朗
共同プロデューサー:岡本順哉
プロダクション統括:佐藤毅
ラインプロデューサー:竹山昌利、桜井勉
韓国ユニットラインプロデューサー:鈴木勇
撮影監督:河津太郎
録音:横野一氏工
美術:斎藤岩男
装飾:大坂和美、篠田公史
特撮:神谷誠
特殊メイク:藤原カクセイ
特殊造形統括:藤原カクセイ
衣装デザイン:宮本まさ江
編集:今井剛
音楽プロデューサー:志田博英
音楽:Nima Fakhrara
音楽コーディネーター:杉田寿宏
助監督:藤江儀全
キャメラオペレーター:田中悟
ガファー:中野創平
CGディレクター:土井淳
アクションコーディネーター:下村勇二
スクリプター:田口良子
製作担当:大谷直哉

鑑賞日:2016年4月26日
場所:シネマイクスピアリ シアター6 E-16


■ ストーリー
鈴木英雄(大泉洋)35歳。職業:漫画家アシスタント。彼女とは破局寸前。
そんな平凡な毎日が、ある日突然、終わりを告げる…。徹夜仕事を終えアパートに戻った英雄の目に映ったのは、彼女の「異形」の姿。一瞬にして世界は崩壊し、姿を変えて行く。謎の感染によって人々が変貌を遂げた生命体『ZQN(ゾキュン)』で街は溢れ、日本中は感染パニックに陥る。標高の高い場所では感染しないという情報を頼りに富士山に向かう英雄。その道中で出会った女子高生・比呂美(有村架純)と元看護師・藪(長澤まさみ)と共に生き残りを賭けた極限のサバイバルが始まった…。果たして彼らは、この変わり果てた日本で生き延びることが出来るのか。そして、英雄は、ただの英雄(ひでお)から本当の英雄(ヒーロー)になれるのか!?<※公式サイトより>


▶ 映画館環境
シネマイクスピアリのシアター6は座席数190、スクリーンサイズ不明。
前方のブロックと後方ブロックとに分かれている構成。E列は後方ブロック最前列。E−16席はスクリーン向かって右端。E列であればどこでもいい。
平日の最終上映。20時以降は割引きになるので、それ狙い。非常に空いていた。


▶ 作品レビュー
ストーリーもありがちだし、個人的にホラーは嫌いだし、恐らく見ないんだろうなあと思っていた。しかし、海外でいろんな賞を取ったりしているよーという触れ込みにまんまと引っかかってしまって、んーーこれは見ておかなければならんなぁ、などと足を運んだものの、内容とか展開が予想通りのスプラッターで、見なくてもよかったまでとは思わなかったけれども、やっぱりホラーは好きじゃないと再確認したわけで、そうは言ってもどちらかといったら面白いかなーと思ったし、海外で評価されている理由も何となく掴めたので、結果的に見てよかったと思っている。
気持ち良い(?)くらいに血しぶきが飛び交い、簡単に肢体が破壊される描写には笑うしかなく、しまいには物のように積み上がる死体が気持ち悪いくらいに生々しくて、確かにこういう恐怖モノの日本映画は、古くは「雨月物語」から「四谷怪談」そして多少新しくなって「リング」とか「呪怨」など海外で高く評価されているわけで、お化け屋敷から続いている日本の伝統は脈々と受け継がれているのだなーと思ったりする。
正直、ここまでスプラッターだと話なんてどうでもいい気がしてしまうし、おそらく、この数多く並ぶスタッフの面々を確認すると、人間の体をいかにリアルに壊すかを主眼に置いて製作された映画であるんだろうなと思うのだが、出演陣の顔ぶれを見ると、B級で終わらせるような腹づもりは全く感じないし、実際に有村架純が難しい役どころを非常にナチュラルに演じきっているのを目の当たりにすると、ただただ感心するばかりだった。この素晴らしい演技のお陰で、いや〜な話も、大泉洋の演技すらも、引き立てられているような印象を持ってしまう。決して有村架純のファンではないし、演技自体も特別な印象を受けないのだけれど、彼女の演技を見ると常に自然な印象を受けるし、どんな役柄どんな作品にも馴染んでしまっていると感じるわけで、何だか不思議な彼女の凄さを思い知らされつつある。
確かに、面白い映画であった。それは認める。でも、中身はない。ホラー好き、スプラッター好き、有村架純好き、長澤まさみ好き、大泉洋好き、あるいは業界人や海外で評価される映画が好きな人、暇人、そういった人が見るような映画だと思う。
個人的にはどちらかというと、恐怖というよりも笑いの要素が強くて、それだからホラー映画を嫌う自分でも楽しめたと思う。マキタスポーツの顔がゆがんだり、片瀬那奈が有り得ない姿勢で襲ってきたり、塚地武雅が頭をかち割られたり、もう笑うしかない。これらを笑えないと思う人にとっては、もしかしたら最悪最低の映画かもしれない。
人がバタバタ死に、頭や顔がモノの見事に吹っ飛ばされる映画を、良い映画だとはなかなか言えないもので、さらにはそこに主義主張はほとんど無いわけで、そんなものエンターテインメントに必ずしも必要ないとは思うけれど、ただ意味もなく人を殺す正当性は見出しにくいものがある。…意味はなくないかー、サバイバル、生き残るためには殺すしかないということかな…
以降、この映画がどんなに評価されようとも、ホラースプラッターゾンビものに興味がなければ特別見る必要はない映画だろう。

バンクシー・ダズ・ニューヨーク

バンクシー・ダズ・ニューヨーク(2014年・アメリカ)
原題:Banksy Does New York
公開日:(米)2014年11月10日(Hamptons International Film Festival) (日)2016年3月26日
配給:(米)Home Box Office (HBO) (日)アップリンク、パルコ
時間:81分

監督:クリス・モーカーベル

鑑賞日:2016年4月26日
場所:アップリンク スクリーン1 全席自由


■ ストーリー
2013年、ニューヨークにあるグラフィティ(壁などに描かれる作品)の聖地とも言われるファイブ・ポインツが再開発計画のために取り壊されると報じられる。するとあらゆる方面で反対運動が起こり、それに呼応するかたちで、謎のアーティストとして知られていたバンクシーがイギリスからアメリカ・ニューヨークへと渡り、2013年10月の1ヵ月間、ニューヨークのどこかに作品をつくり出し、それを公式サイトにアップすると宣言した。どこにつくり出すか明かさないため、それを探し出そうとする人々の狂騒が始まった。
1ヵ月間、ほぼ毎日、ニューヨークのどこかにバンクシーの作品が生み出された。それを見つけてSNSに投稿する者、その作品の上に自らの名前を落書きして売名行為をする者、ついにはその作品を持ち帰って一攫千金を目論む者─。
世界的知名度が高いバンクシーだが、その姿を目にした者は誰もいない。この1ヵ月間の創作活動においても例外ではなく、数多くの作品が路上に残されたにもかかわらず、その姿や活動を目撃されることはなかった。

2013年10月、ニューヨークで巻き起こった狂乱は、果たして何を残したのだろう─


▶ 映画館環境
アップリンク スクリーン1 スクリーンサイズ120インチ 座席数58
初めて最前列に座ってみた。意外とありかもしれない。椅子は低いものの、足元は極めて広々としているし、観賞における体勢もそれほどつらくもない。
平日、7割方座席が埋まっていただろうか、客層は若者中心。


▶ 作品レビュー
ドキュメンタリー自体の作りは非常に荒い。ほぼ全編ハンディーカムのような小型カメラで取材している。追いかけるネタがネタだけに致し方ない。
内容は非常に興味深い。バンクシーのことを知っていようが知っていまいが、グラフィティやアートに興味が有ろうが無かろうが、そんなの関係なく誰でも楽しめる内容。
焦点をバンクシーというアーティストにとどまることなく、それを取り巻く人々のエゴをメインにしているところが、この作品を成功に導いている要因だろう。まぁバンクシーという存在が謎であり、姿を全く現さないわけだから、他のところに焦点を当てざるを得なかったのだろうが…。とかく謎だらけのバンクシーそのものに興味を持っていきたくなるところを、あくまで残された作品を前面に打ち出し、それを取り巻く狂騒劇が繰り広げられているところが非常に面白い。
バンクシーが残した作品そのものを見ると、決して完成度は高くないし、単なる落書きでしかない。重要なのは、それをつくり出す環境やその意義。その重要な部分をしっかりとすべて捉えていて、どんなかたちでも、ドキュメンタリーとして残しておく意義深さを強く感じた。
そして、そのアート作品を自分のものにしようとする輩の滑稽さというのはどうだろう。バンクシーというアーティストのすごさは、自分が残した作品そのものに全く価値がないということを自覚しているところにもあるのだろう。映像からは、まるで、一攫千金を目論むならず者やディーラーへのバンクシーの嘲笑が聞こえてくるようだ。
この映画は、確かに、バンクシーの奇妙な活動を追った特異なアートドキュメンタリーであることは間違いないけれども、同時に、アート、芸術というものの本質というものを改めて考えさせられるものであった。
世の中では、アートの価値を決めているのはあたかも金銭的なもののように見えてしまうのだが、そのお金にまつわる部分というところにはほぼアーティストが関わっていないだろうし、その芸術作品に関係のない輩が金銭的価値を決めて金儲けをしているだけ。アーティストにとってのアートというのは、決して経済活動を目的にしているものではないということを今一度確認しておく必要性を感じる。金を目的にアーティストになる人はいないはずだ。
つまるところ、芸術家になりたければ自らそう思えいいだけのことなのだが、それを認めるかどうかは自分以外の人間に委ねるしかない。要するに、アーティストとして存在するためにはある程度の金銭的評価も必要になってくるわけで、作品の本当の価値を理解していようがしていまいがその作品に狂乱する人々もまた、アーティストが存在するためには必要な存在なのだということを、何となくこのドキュメンタリーから感じる。
そして、このドキュメンタリーの結末を見ると、アートというものは直接的に社会を変えるものではないということもまた、悲しいかな、感じてしまう。
決して、アートは社会にとって無駄なものではないし、確実に社会を変えるものだとも思うのだが、さて、アートはどのように社会を変えたのか具体例を挙げようにもなかなか思い浮かばないというのが正直なところ。もしかしたら、アートなんていうものは社会変革など起こせるはずがないのかもしれない、とまで思ってしまっている。
非常に荒々しい作りのドキュメンタリーではあったが、色々と考えさせられるところがあった。

バンクシーの公式サイトを改めて確認した。あらゆるイマジネーションをかきたてられる。けれど、それ以外の他のものを考えさせられることは全くなかった。

ズートピア

ズートピア(2016年・アメリカ)
原題:Zootopia
公開日:(米)2016年3月4日 (日)2016年4月23日
配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ
時間:109分

監督:バイロン・ハワード
   リッチ・ムーア
共同監督:ジャレッド・ブッシュ
脚本:ジャレッド・ブッシュ
   フィル・ジョンストン
製作:クラーク・スペンサー

製作総指揮:ジョン・ラセター
製作会社:ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ
     ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ
声:ジニファー・グッドウィン(ジュディ・ホップス)
ジェイソン・ベイトマン(ニック・ワイルド)
イドリス・エルバ(チーフ・ボゴ)
ネイト・トレンス(クロウハウザー)
J・K・シモンズ(ライオンハート市長)
ジェニー・スレイト(ベルウェザー副市長)
トミー・“タイニー”・リスター(フィニック)
レイモンド・パーシ(フラッシュ)
オクタビア・スペンサー(オッタートン夫人)
シャキーラ(ガゼル)
ボニー・ハント(ボニー・ホップス)
ドン・レイク(スチュー・ホップス)
モーリス・ラマルシュ(Mr.ビッグ)
トミー・チョン(ヤックス) ほか
編集:ファビアンヌ・ローリー
音楽:マイケル・ジアッキノ
主題歌:シャキーラ

鑑賞日:2016年4月23日
場所:TOHOシネマズ新宿 スクリーン7 H−21


■ ストーリー(日本語公式HPより)
動物たちの“楽園”ズートピアで、ウサギとして初の警察官になったジュディ。でも、ひとつだけ問題が…。警察官になるのは通常、クマやカバのように大きくてタフな動物たちで、小さく可愛らしすぎる彼女は半人前扱いなのだ。だが、ついにジュディも捜査に参加するチャンスが!ただし、与えられた時間はたった48時間。失敗したらクビで、彼女の夢も消えてしまう…。頼みの綱は、事件の手がかりを握るサギ師のキツネ、ニックだけ。最も相棒にふさわしくない二人は、互いにダマしダマされながら、ある行方不明事件の捜査を開始。だが、その事件の背後にはズートピアを狙う陰謀が隠されていた…。

▶ 映画館環境
TOHOシネマズ新宿スクリーン7は座席数409、スクリーンサイズ7.3×17.7mと大きめの劇場。全体的に座席のスペースが広めなため、どこに座ってもゆったりと観賞できる。H列は劇場の中央ややスクリーンよりだが、足場が広いため、この列であればどこでも満足。H-21はスクリーン向かってやや右寄り。
公開初日の土曜日とあってほぼ満員。客層も老若男女、バラエティーに富んでいた。自分の左隣は若い女性、右隣は中年男性。日本語字幕ということもあって子供は少なめ。


▶ 作品レビュー
同じ劇場で「アーロと少年」を見たことをすっかり忘れていた。リアルなCGを駆使したディズニー映画という共通点(※制作はピクサーとディズニースタジオという違いはあるけれど─)の他は、全く別物。片方は退屈なもので、片方は最高傑作。そう今回見たこの作品は、もしかしたらディズニー史上最高の映画といえるかもしれない。記憶に新しい「アナと雪の女王」を超えることはもちろんのこと、あの「白雪姫」「ピノキオ」「バンビ」すら超えてしまっているのではと思ってしまった。
この映画が宣伝され始めて頃、個人的にはそれほど注目していなかった。ストーリーにもキャラクターにも、なぜか魅力を感じず、完全にスルーするつもりでいた。しかし、全米公開され、あの「アナ雪」を超える評価とヒットを飛ばしているという事実に、無視することができなくなり、とりあえず見ておくか─ぐらいの気持ちで観賞に至る。
何より驚かされたのが、CGのクオリティー。背景がリアル過ぎると思った「アーロと少年」のさらに上をいくそのCG─、ただリアルだけではなく、ひとつの世界を構築しきっているそのクオリティーに、3Dアニメーションの頂点を見た。まるでニック・パークが創り上げるクレーアニメの世界を見ているかのようであり、むしろそれをも凌駕してしまっているような印象。ハイクオリティーのその背景に加え、キャラクターの質感や動きなどもパーフェクトで、故にクレーアニメをも超えてしまっているような印象を受けてしまったわけだ。
ストーリーや展開は非常にシンプル。結末など容易に読めてしまうけれども、最後まで飽きずに楽しめた。なぜそれほど楽しめたのかというと、動物の表現が予想以上にシュールであり、単に万人受けするような優しい表現に終始していないところに共感した。騙し騙され、小バカにしたり、差別的であったり─、よい子のための絵本のような話かと思っていたのが全く違っていて、かなり大人を意識した表現が多かったように思う。過去の名画のパロディー的な表現なども盛り込みながら、随所に笑わせてくれた。
子供はシンプルなストーリーを楽しめるし、大人は細かくちりばめられた小ネタを掘り起こすことで楽しめる。
個人的には、ナマケモノの表現と、Mr.ビッグと呼ばれるマフィアのボスの表現なんかがツボだった。自分に限らず、多くの人が笑ったはずだとは思うが。
安心できるストーリーの中で、いろいろ楽しみを発見できることって、なにげにディズニー映画の醍醐味だと思ったりする。特徴的なキャラクターの一挙手一投足に泣き笑いする、あるいは構築された想像の世界を十二分に堪能する、それを大前提に物語が作られている。ひとつのストーリーは、ほんの一握りのことであって、創られた世界では様々な出来事が渦巻いている─そういう思いでの作品製作なのだろう。画面の向こう側に一つのある世界を感じることができれば、もはや物語などはどうでもよくなってしまう。その世界の中でまさに巻き起こりそうな出来事が展開されれば、それで満足してしまう。そして、出てくるキャラクター一つ一つに愛着を持ってしまえば、もはや製作側の思うつぼ。見ている我々は、気持ち良く仕掛けられた罠にはまっていく。
最初は別に可愛いとも思わなかったジュディにいつの間にかはまっていて、さばさばしているニックにも不思議と愛着を持ってしまう。そしてついには、とってつけた役のようなシャキーラ扮するガゼルにもはまってしまい、♪トライ・エヴリィシィーングと歌いたくなる気持ちも理解できてしまう。
こうしてまた完成された小宇宙は、またあの世界の中へと組み込まれていくのだろう。果てしなく大きくなっていくディズニーワールド。これもまた、ウォルト・ディズニーの夢の続きといえるのだろうか─

レヴェナント 蘇えりし者

レヴェナント 蘇えりし者(2015年・アメリカ)
原題:The Revenant
公開日:(米)2016年1月8日 (日)2016年4月22日
配給:20世紀フォックス
時間:157分

監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
原作:マイケル・パンク
脚本:マーク・L・スミス
   アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演:レオナルド・ディカプリオ(ヒュー・グラス)
   トム・ハーディ(ジョン・フィッツジェラルド)
   ドーナル・グリーソン(アンドリュー・ヘンリー)
   ウィル・ポールター(ジム・ブリジャー)
   フォレスト・グッド(ラックホーク)
   ポール・アンダーソン(アンダーソン)
   クリストッフェル・ヨーネル(マーフィー)
   ジョシュア・バージス(タッピー・ビル)
   ルーカス・ハース(ジョーンズ)
   ブレンダン・フレッチャー(フライマン)
   デュアン・ハワード(エルク・ドッグ)
   アーサー・レッドクラウド(ハイカック)
   グレイス・ドーブ(ヒュー・グラスの妻) ほか
製作:アーノン・ミルチャン
   スティーブ・ゴリン
   アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
   メアリー・ペアレント
   ジェームズ・W・スコッチドープル
   キース・レドモン
製作総指揮:ブレット・ラトナー
      ジェームズ・パッカー
      ジェニファー・デイビソン
      デビッド・カンター
      ポール・グリーン
      マーカス・バーメットラー

      フィリップ・リー
撮影:エマニュエル・ルベツキ
美術:ジャック・フィスク
衣装:ジャクリーン・ウェスト
編集:スティーブン・ミリオン
音楽:坂本龍一
   アルバ・ノト
   ブライス・デスナー

鑑賞日:2016年4月22日
場所:TOHOシネマズ新宿 スクリーン10(IMAX) F-14


■ ストーリー
1823年、アメリカ北西部で毛皮を手に入れるため狩猟に出ていたある集団がいた。彼らは先住民アリカラ族の襲撃に警戒していた。そして恐れていた襲撃が起こる。
集団の案内役をしていたヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)は、先住民ポニー族の妻との間に設けた息子のホーク(フォレスト・グッドラック)と共に、襲撃を防ぎつつ、急いで逃げるように指示し、多くに犠牲を払いながらも、一部ではあるがその危機を脱する。
難を逃れ野営をしながら、山深く、目的地へと進んでいく一行。そんな中、見回りをしていたグラスをグリズリー(ハイイログマ)が襲う。死闘の末、何とかグリズリーを倒すものの、自らも瀕死の重傷を負ってしまう。
動けないグラスは、完全に逃避行を続けるチームのお荷物となってしまった。このままでチームが崩壊しかねない現状に、リーダーのアンドリュー・ヘイリー(ドーナル・グリーソン)はグラスの離脱という苦渋の決断をする。ただし、グラスの死を見届け、その亡きがらを埋葬することを指示し、その役としてホーク、ジョン・フィッツジェラルド(トム・ハーディ)、ジム・ブリジャー(ウィル・ポールター)の3人を指名し、チームはグラスを含む4人を置いて目的地へと向かっていった。
グラスの見届け役を買って出たヘイリーは、グラスがなかなか死なないことに苛立つ。そしてついに、彼は瀕死のグラスの目の前でホークを殺し、先住民アリカラ族の集団がそばにいるとブリジャーを欺きつつ、まだ息のあるホークを捨てて、チームの後を追った。
目の前で息子を殺され、ひとり取り残されてしまったグラスは、息絶えるどころか、這いながら仇のヘイリーを追っていく。生きるために草木を食べ、川の水を飲み、動物の死骸すら口にしながら、徐々に体が動いていく。
様々な出会いや出来事を経ながら、グラスは奇跡的にチームの砦へと辿り着く。グラスの死と埋葬を聞かされていたリーダーのヘイリーは、驚き、そして怒りに震える。そして同じく復讐という怒りに燃えるグラスとともに、すぐさま逃亡をはかったフィッツジェラルドを追う─。

実話にもとづいたマイケル・パンクの小説を映画化。
アカデミー賞作品賞、監督賞、主演男優賞、撮影賞を受賞。
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは2年連続の監督賞、
エマニュエル・ルベツキは3年連続の撮影賞、
レオナルド・ディカプリオは初の主演男優賞を受賞。


▶ 映画館環境
TOHOシネマズ新宿スクリーン10 IMAXデジタルシアター
スクリーンサイズは不明だが、極めて大、個人的に現在最も気に入っている劇場。座席数313、F列の中心付近がベストポジション。端の方でも問題なし。
公開初日、金曜の夜、ディカプリオと坂本龍一、イニャリトゥとルベツキ、必然的にほぼ満席。長い映画だと、どうしても時間を気にしてしまうもので、何度か時計を見てしまった。すると隣に人に肘打ちを喰らう、「携帯やめてもらえねぇーかなー」と─。携帯じゃねーよ!と一瞬頭に血が上るが、光るものは劇場だと嫌がられるものなんだと改めて思い知らされる。恐らく、自分も逆の立場だったら、同じように怒る、かもしれない。ただし、肘打ちするかどうかは分からないけれど─。その勇気と助言に感謝しながら、心を静める。次から多少気をつけよう、劇場マナーは大切に─。


▶ 作品レビュー
時代背景が西部開拓時代、舞台が北米の雪中、そして音楽がRyuichi Sakamotoということから、どうしてもタランティーノの「ヘイトフル・エイト」を連想してしまう。一方は閉鎖された空間での殺し合いであり、方やこの作品は壮大な自然を優美に描いた叙事詩といえるだろうか─、確かに内容は相反するもの。しかし、目指すところは決して違うものではない。それは、観客をいかに楽しませるかというエンターテインメント性ということに尽きる。
自然を自然に描ききっているこの作品の価値を、エンターテイメントというものから切り離して評価されることもあるかと思うが、あくまで明確なストーリーありきのエンタメ映画としか捉えることができない、というのが個人的な見解だ。
たしかに、幻想的な映像が非常に印象的で、大自然の映像に坂本龍一の音楽が見事にはまっているし、映画という枠を越えた芸術作品としてみてもいいのかなと思ったりもするが、劇場から離れたところでこの作品が流れているのを想像すると、特別視するような映像に思えない。だから悪いということではなく、あくまでエンタメ作品であり映画として優れたものだという個人的な意見である。
エンターテインメント映画だからこそのレオナルド・ディカプリオであるし、彼の演技なしにはここまで優れた映画として評価されなかったかもしれない。そして、念願のレオ様初のオスカーに繋がったわけだから、最高のエンターテインメントがここにあるというべきなのだろう。
とはいえ、個人的な関心というのは役者に向いているのではなく、監督のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥと撮影のエマニュエル・ルベツキに向けられていたりする。2年連続監督賞と、3年連続撮影賞というのは伊達ではない。しかも、このコンビは2年連続でのオスカー。前回は映画「バードマン」。切れ目なく続く映像という手法が非常に印象的な作品であったが、その手法も今回の作品に生かされていて、長回し的な手法が散見される。それがまた作品において効果的に使われていて、カットで刻んでいく映像に負けないくらいに目で見ている者を楽しませてくれる。
そしてもう一つ欠かせない要素として、坂本龍一の音楽がある。もっとも、それは日本人だけなのかもしれないけれど─。公開前から坂本龍一の名でプロモーションを盛んにされていた映画であったが、個人的には正直、音楽が誰であろうと別に関係なかった。例え贔屓の音楽家が音楽を担当しているからといって、それだけでその映画を見に行くことはまずないからだ。
観賞後のこの映画の音楽に対する率直な感想としては、非常にマッチしていたなぁというもの。しかも非常に効果的だったと思う。坂本龍一のネームバリューは関係ない、と言い放ちたいところだが、彼の活動を多少なりともテレビなどで知っているわけで、そのバックグラウンドを知っているから尚更、好印象だったということは否定できないことである。つまり、坂本龍一を前面にしたプロモーションは大成功だと言わざるを得ない。恐らく皆、さすがは教授、などと思った─かもしれない。
さて話をストーリーに関するものに戻すと─。内容の軸は敵討ちなんだろうけれど、それを感じさせないくらい幻想的で壮大な自然美が展開されて、映像そのものを純粋に楽しめたような気がする。しかし、結局最後は復讐劇となってしまっているわけで、その結末には非常に物足りないものを感じてしまった。無理に落ちをつける必要もないものなんだなぁと、反面教師的な面も垣間見た思い─まぁ原作通りであるならば致し方ないのだけれど…原作未読につきその辺がどうなのか判断しかねますが…。
偉そうに言ってしまうと、後半もっとコパクトというかバッサリと切っていれば、もしかしたから作品賞だったのかなー…なんてバカなことを思ったりしました。何せ長かったので、率直に、飽きました。と書いて終わると、なんだか酷くてつまらない映画に聞こえかねないし、それは心外。素晴らしい映画であることは間違いない。繰り返しになるが、自然を捉えたその映像には魅せられる。単に美しいだけでなく、過酷で、そして恐ろしいところもしっかりと表現できていると感じるし、まさに畏怖されるべき大自然を見事に描ききっている。イニャリトゥにとって前回の作品は大都市を描いたものであり、一転して今回は大自然を舞台にした作品。つまり、自然こそを描きたかったことではなかろうかと想像できる。前回のショウビズを描いた作品の成功や、超大物レオ様を起用という特殊要因に惑わせられることなく、むしろその特殊要素を存分に生かしながら自らの意図するところをしっかりと表現している。文句なしの連続監督賞だ。
この映画を楽しんで、そして自然を畏怖すべし。

スポットライト 世紀のスクープ

スポットライト 世紀のスクープ(2015年・アメリカ)
原題:Spotlight
公開日:(米)2015年11月6日 (日)2016年4月15日
配給:(米)オープン・ロード・フィルムズ (日)ロングライド
時間:128分

監督:トム・マッカーシー
脚本:ジョシュ・シンガー
   トム・マッカーシー
出演:マーク・ラファロ(マイク・レゼンデス)
   マイケル・キートン(ウォルター・“ロビー”・ロビンソン)
   レイチェル・マクアダムス(サーシャ・ファイファー)
   リーブ・シュレイバー(マーティ・バロン)
   ジョン・スラッテリー(ベン・ブラッドリー・Jr.)
   ブライアン・ダーシー・ジェームズ(マット・キャロル)ほか
製作:マイケル・シュガー
   スティーブ・ゴリン
   ニコール・ロックリン
   ブライ・パゴン・ファウスト
製作総指揮:ジェフ・スコール
      ジョナサン・キング
      ピエール・オミダイア
      マイケル・ベダーマン
      バード・ドロス
      トム・オーテンバーグ
      ピーター・ローソン

      ザビエル・マーチャンド
撮影:マサノブ・タカヤナギ
美術:スティーブン・H・カーター
編集:トム・マカードル
音楽:ハワード・ショア

鑑賞日:2016年4月16日
場所:TOHOシネマズ新宿 スクリーン7 H−13


■ Introduction(日本語公式HPより)
ボストン・グローブ紙の記者たちが、
巨大権力の“大罪”を描いた衝撃の実話!
2002年1月、アメリカ東部の新聞「ボストン・グローブ」の一面に全米を震撼させる記事が掲載された。地元ボストンの数十人もの神父による児童への性的虐待を、カトリック教会が組織ぐるみで隠蔽してきた衝撃のスキャンダル。1,000人以上が被害を受けたとされるその許されざる罪は、なぜ長年にわたって黙殺されてきたのか。この世界中を驚かせた"世紀のスクープ"の内幕を取材に当たった新聞記者の目線で克明に描き、アカデミー賞6部門(作品賞/監督賞/助演男優賞/助演女優賞/脚本賞/編集賞)にノミネートされるなど、名実ともに全米で絶賛を博す社会派ドラマ、それが『スポットライト 世紀のスクープ』である。
本作は、このジャンルの金字塔というべき名作『大統領の陰謀』を彷彿とさせる生粋の“ジャーナリスト映画”でもある。虐待被害者の生々しい証言に心揺さぶられたチームの皆が、元少年たちの悲痛な叫びを世に知らしめようと、寸暇を惜しんで奔走する様を力強く描出。"間違っていることは間違っている"と報じたい、"正しいことは正しい"と表明できる社会でありたい、ただその一心で、立ちはだかる権力と対峙しながらも記者魂を貫く彼らの姿は爽快ですらあり、閉塞した現代を生きる観客の共感を誘うことだろう。《スポットライト》が報じたこの調査報道は、2003年に栄えあるピューリッツァー賞(公益部門)を受賞している。

■ Story(日本語公式HPより)
2001年の夏、ボストン・グローブ紙に新しい編集局長のマーティ・バロンが着任する。マイアミからやってきたアウトサイダーのバロンは、地元出身の誰もがタブー視するカトリック教会の権威にひるまず、ある神父による性的虐待事件を詳しく掘り下げる方針を打ち出す。その担当を命じられたのは、独自の極秘調査に基づく特集記事欄《スポットライト》を手がける4人の記者たち。デスクのウォルター"ロビー"ロビンソンをリーダーとするチームは、事件の被害者や弁護士らへの地道な取材を積み重ね、大勢の神父が同様の罪を犯しているおぞましい実態と、その背後に教会の隠蔽システムが存在する疑惑を探り当てる。やがて9.11同時多発テロ発生による一時中断を余儀なくされながらも、チームは一丸となって教会の罪を暴くために闘い続けるのだった・・・。

▶ 映画館環境
TOHOシネマズ新宿スクリーン7は座席数409、スクリーンサイズ7.3×17.7mと大きめの劇場。全体的に座席のスペースが広め。H列は特に足元が広い。H-13はスクリーンほぼ真ん中。ポジション的に文句なし。
深夜の上映。観客極めて少なし。アカデミー賞作品賞とはいえ、やはりこの手の外国映画は人気がない。内容も多少知力を要するものだったし─。

▶ 作品レビュー
キリスト教徒もしくはカトリック教徒でなくとも、ショッキングな内容ではあるけれども、カトリック教徒であるならばその衝撃度は計り知れないことであろう。そもそも、ボストン・グローブのスクープは15年も前のことではあるのだが、特段信仰というものを持たない自分などは、そういうことがあったことすら記憶にない、というか意識に無いと言った方が適切だろうか。大人が子供に性的虐待をすることなどもってのほかであり、どんな社会であってもその醜悪さは知り得るわけで、そういった意味で映画の内容は誰にとっても衝撃的だと思う。しかし、悪の権化が神父となると、漠然ながら更なるその悪質性は理解できるけれども、神父を盲信して来た人々が受けた打撃というものは、映画でようやくその本質を理解できた自分のような青二才とは比べものにならないはずだ。
その衝撃的な内容を尊重しながら淡々とジャーナリスティックに描かれているわけで、派手な演出や出来事はほとんど起こらない。強いて挙げるならば、スクープをした後の反響ぐらいが大きな出来事であり、そういった面からも事実を尊重した内容だったといえよう。
日本語公式サイトに、「大統領の陰謀」という固有名詞を挙げてしまっていて、事実、その描かんとするところは似通ったものであった。しかし、いかんせんあの映画ではロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンという二つの個性が絡み合った面白さがあったわけで、それに比べるとこの「スポットライト」は失礼ながら非常に地味に見えてしまう。起こった出来事に関していえば、後者の方が衝撃的で悪質性も比べものにならないと思うのだが、悲しいかな記憶の面に関しても、カトリック教会の性的虐待事件よりも大統領辞任の方が圧倒的に浸透しているように思ってしまう。そういった現実も映画に反映されているわけで、それ故に、過去の名作を持ち出して告知しなければ、カトリック信者の少ない国では観客が望めないといったところか─。
起こった事実があまりにも酷いので、隠れた部分を再現できないという辛さはあるだろう。しかも再現できない上に、安易に想像させることもできないということも予想できるわけで、そういった面からも焦点をボストン・グローブの面々に当てざるを得なかったと勝手に想像する。マーク・ラファロやマイケル・キートンといった個性的な俳優陣でもって、必死にジャーナリズムの葛藤を描き出そうとしていた。それを、違和感なく、リアリティーをもってそれを受け止めることはできた。しかし、アカデミー賞作品賞だから…と思ってしまうと、やっぱり物足りない。描きたいことはあくまでカトリック教会の性的虐待事件であっただろうに、焦点をそのものに当てることもできず、ジャーナリズムという側面を利用せざるを得ないというジレンマというものを何となく感じてしまう。まぁそれが、神父の不正を曝いても信仰そのものをどうすることもできないというジレンマを見事に表しているともいえるのだが…。
2002年のボストン・グローブのスクープ以来、教会離れというものが深刻になっているとか。個人的にキリスト教への思い入れも憎しみも全くないけれども、教会の危機という事実を改めて知ってホッとしているというのが正直なところ。あんな酷い事実が告発されてなお旧態依然のものが続いてくというのであれば、何のための信仰なのか疑問に思ってしまうところだが、信者はしっかりと浄化させようという意志はあるのだと─偉そうだが、そう思ったわけだ。
派手なジャーナリズムの葛藤があるわけでもなく、嫌な事実が次々曝かれ、そして過去にあった事実を淡々と地味に述べられている映画である。だからこそ、真剣に見れば内容そのものに関心がいくこと間違いない。とかく宗教に疎い者には、今一度、宗教というものを考え直す良い機会になるかもしれない。
決して難しく考えなくても楽しめるとは思うけれども、色々深く考えながら見た方がいっそう楽しめる映画だと思う。


バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生

バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生(2016年・アメリカ)
原題:Batman v Superman: Dawn of Justice
公開日:2016年3月25日
配給:ワーナー・ブラザース
時間:152分

監督:ザック・スナイダー
脚本:クリス・テリオ
   デヴィッド・S・ゴイヤー
原案:ザック・スナイダー
   デヴィッド・S・ゴイヤー
スーパーマン考案:ジェリー・シーゲル
         ジョー・シャスター
バットマン考案:ボブ・ケイン

        ビル・フィンガー
原作:DCコミックス
製作:チャールズ・ローヴェン
   デボラ・スナイダー
製作総指揮:クリストファー・ノーラン
      エマ・トーマス
      ウェスリー・カラー
      ジェフ・ジョーンズ
      デヴィッド・S・ゴイヤー
出演者:ベン・アフレック(ブルース・ウェイン/バットマン)
    ヘンリー・カビル(クラーク・ケント/スーパーマン)
    エイミー・アダムス(ロイス・レイン)
    ジェシー・アイゼンバーグ(レックス・ルーサー)
    ダイアン・レイン(マーサ・ケント)
    ローレンス・フィッシュ(バーンペリー・ホワイト)
    ジェレミー・アイアンズ(アルフレッド)
    ホリー・ハンター(フィンチ議員)
    ガル・ギャドット(ダイアナ・プリンス/ワンダーウーマン)
    TAO(マーシー・グレイブス)
    スクート・マクネイリー
    カラン・マルベイ
    ローレン・コーハン
    マイケル・シャノン(ゾッド将軍)
    リプリー・ソーボ
    レベッカ・ブラージェニー
    ハリー・レニックス(スワンウィック)
    ケビン・コスナー(ジョナサン・ケント)
    レイ・フィッシャー(サイボーグ)
    エズラ・ミラー(ザ・フラッシュ)
    ジェイソン・モモア(アクアマン)
音楽:ハンス・ジマー
   ジャンキーXL
撮影:ラリー・フォン
編集:デヴィッド・ブレナー
製作会社:ラットパック・デューンエンターテインメント
     アトラスエンターテイメント
     クルエル・アンド・アンユージュアル・フィルムズ
     DCエンターテインメント
配給:ワーナー・ブラザース

鑑賞日:2016年4月20日
場所:シネマイクスピアリ シアター10 D-10


■ ストーリー
スーパーマンのリブートとして公開された「マン・オブ・スティール」の続編

超人的な能力を持つスーパーマン─人類を守るため地球を襲う害悪と激しく戦う。彼の能力で多くの命は救われた。しかし、それと同時に、街が破壊され、多くの犠牲を伴った。
バットマンとして自らも悪をと戦うブルース・ウェインもまた、スーパーマンのせいで多くの仲間を失い、その破壊的なスーパーマンの能力に疑問を持ち、憎しみすら覚えていた。
異星人スーパーマンに対する世間の見方も徐々変わりつつあった。彼は本当に救世主なのか、もしかしたら彼こそが地球の害悪なのではないのか…。
スーパーマンを悪と見なす風潮に対して、様々な思いが交錯していく。彼は善なのか悪なのか模索する者、彼を完全に否定しようとする者、そして利用しようとする者、あるいはどこまでも彼を信じ続ける者─。
バットマンことウェインはスーパーマンを否定し続ける。一方、スーパーマンことクラーク・ケントもまたバットマンのような世直しの手法を嫌悪していた。この相反する思いが、世間の流れと暗躍する悪徳巨大企業の企みによって、徐々に近づいていく。
あくまでも人間の身であるバットマンが、超人的な力を持つクリプトン星人のスーパーマンに勝てるはずもない。この逆境を覆すため、クリプトン星人の力を弱める石・クリプトナイトを手に入れ、それをとどめの一撃として用いようとする。
そしてついに2人は対決する。それを望む者、望まぬ者、それをやめさせようとする者、悲劇を望む者、複雑な思いが絡み合いながら、激しいバトルが展開していく。
そして、クライマックスは思いもよらない方向に進んでいく─


▶ 映画館環境
シネマイクスピアリのスクリーン10は座席数164、前方のブロックと後方ブロックとに分かれている構成。D列は後方ブロック最前列。D−10席はスクリーン向かって右端。D列であればどこでもいい。
平日朝イチと夜20時以降の上映で割引きあり。ポイント6で無料観賞。料金面のサービスが充実していて、しかも空いていることが多いので、個人的に好きなシネコン。
朝イチサービスがあることと、チケット販売開始が10時と遅いことから、朝の券売機前にはかなりの人が並んでいる。その点だけ注意。


▶ 作品レビュー
アメコミの映画に対して常に不満を覚えながらも、なぜか見てしまうのは、一つはすごいCG映像を見たいがため。だから、ストーリーがそれほど酷くなければ、そこそこ目だけで楽しむことができるのだが、最近のマーベル映画ではことごとく裏切られ続けていて、個人的にはもうマーベル映画はよほどのことがない限り見ないと心に誓っている。果たして、DCコミックはどんなものか─。
過去のバットマンも前作「マン・オブ・スティール」も見ていない。それがかえって個人的な興味を引いたといえるのかもしれない。とにかく実際に見て判断しようと思ったわけだ。
気持ち良いくらいにニューヨークの街が破壊されていく。9.11を想起させるような映像すら盛り込まれている。それも人類を救おうとしているスーパーマンが、その良かれと思い行動いることで、凄まじい破壊がともなっているところが強烈な印象。これほどまでに貶められたスーパーマンを目にするとは思いもよらなかった。
とはいえ、ストーリー展開は(自分がバットマンやスーパーマン映画の知識に乏しいとはいえ)あまりにも唐突過ぎるところが多すぎて、話そのものに感動や感銘を受けることはなかった。それでも、それを相殺するくらいの激しくてしかもリアルな、迫力あるCG映像には魅了された。というかほぼ爆笑。といっても悪い意味ではない。あまりの凄まじさに唖然としてしまうといった方が適切だろうか。銃で撃たれて人がバタバタ死んでいく一方で、バットマンとスーパーマンの激しいバトルでは両者なかなか倒れないし、ラスボス的なドゥームズデイにボコボコにやられまくっているはずの、スーパーマンもバットマンもなかなか倒れないし、しかも突然登場してくるワンダー・ウーマンに至っては、その美しい肌はどんなに痛めつけられようと美しいままでいる。これもひとつのCG映画の醍醐味か─。そして、彼らは決して死なないんだろうなと思っていると、一番死ぬはずのないスーパーマンが死んじゃうし(コミックでもそうなっているわけで、ファンにしてみると想定内かもしれないが─)、最後の最後には、やっぱ生き返るのかな?という終わり方(これもコミックで復活しているわけで、やはり想定の内か)…、個人的には、やはりあんまり面白いストーリーとは思えない。
がしかし、作品自体には結構満足しているわけで、それが不思議で仕方がない。作り込まれたCGがその一因であることは間違いないが、そればかりではない。実際、アベンジャーズでもCGのクオリティーにおいては満足できたわけで、それでもなお断然このDCコミック作品を指示してしまうのは、CG以外の理由がある。
考えられる最たるものとして音楽─
ハンズ・ジマーとジャンキーXL名義の音楽が非常に効果的に使用されていて、一つ一つの音色の豊富さに度肝を抜かれた。冒頭のクレジットで音楽担当としてハンス・ジマーひとりの名前しか出て来なかった(と認識した)わけで、それ故に劇中終始、ジマーの仕事半端ねーと思ったりして、とても一人の人格が成し得た仕事とは思えなかったのだが、案の定、エンドロールではジャンキーXLほか最低でも5人のコンポーザー名義を確認し大いに納得、それら多くの音楽スタッフが関わっていたであろう多彩な音色の効果は絶大だった。
ストーリーを別とすれば、非常に良く作り込まれた作品で、ここまで潔く表層的な面で勝負しようという姿勢に、むしろ好感を持ってしまう。ある意味、豊富な資金を有効に活用しているように思えるのだが、まぁそういったものに好感を持てない人も多いことだろう。個人的には、次作のDCコミック作品として公開予定の「スーサイド・スクワッド」に期待するところ大である。同じように、目と耳で存分に楽しませてくれることを期待している。

ルーム

ルーム(2015年/アイルランド・カナダ合作)
原題:Room
公開日:(米)2015年9月4日 (日)2016年4月8日
配給:(米)A24 (日)GAGA
時間:118分

監督:レニー・アブラハムソン
原作:エマ・ドナヒュー
脚本:エマ・ドナヒュー
出演:ブリー・ラーソン(ジョイ)
   ジェイコブ・トレンブレイ(ジャック)
   ジョアン・アレン(ナンシー)
   ショーン・ブリジャース(オールド・ニック)
   ウィリアム・H・メイシー(ロバート)
   トム・マッカムス(レオ)ほか
製作総指揮:アンドリュー・ロウ
      エマ・ドナヒュー
      ジェシー・シャピラ
      ジェフ・アーカス
      デビッド・コッシ
      ローズ・ガーネット
      テッサ・ロス
撮影:ダニー・コーエン
美術:イーサン・トーマン
衣装:リー・カールソン
編集:ネイサン・ヌーゲント
音楽:スティーブン・レニックス

鑑賞日:2016年4月16日
場所:TOHOシネマズ新宿 スクリーン6 C-6


■ ストーリー
誘拐され監禁生活が続き7年─
被害者のジョイ(ブリー・ラーソン)は、5歳になる息子のジャック(ジェイコブ・トレンブレイ)と共に“部屋”の中だけで暮らしている。オールド・ニック(ショーン・ブリジャーズ)と名乗る男に囚われ続けていたのだ。
ジャックは一歩も外へ出たことがない。彼にとって世界は“部屋”だけ。テレビと母親からの情報だけで知識を身につけていた。“部屋”の中にあるものと母親、そしてオールド・ニック以外のものには接したことがなかった。
ジョイは長い間脱出することを思い続けていた。そして、息子のジャックが物心ついた時を待って、彼の助けを借りて、共に“部屋”から逃れることを計画する。
そして2人は“部屋”から逃げ出した。ジョイの両親・ジャックの祖父母─、感動の再会・新たな出会い─、変わり果てた現実・未知の世界への戸惑い─、様々な思いが去来する。
希望に満ちていたはずの“部屋”からの解放─、しかし、それは決してすべてが喜ばしいものばかりではなかった。
再び戻ってきた生活に喜びを感じていたはずのジョイの心は次第に曇りだし、慣れない世界に戸惑いばかりだったジャックは徐々に新世界に馴染んでいく。
“部屋”に戻ろうとせがむジャックをジョイは諭していたはずが、いつしか“部屋”に縛られていたのは果たして誰だったのか分からなくなっていく。
ジョイとジャックは“部屋”から解放されようと、もがき続ける。2人が本当に“部屋”から逃れることができるのかどうか、それは誰にも分からない。

アイルランド出身の作家エマ・ドナヒューのベストセラー小説「部屋」を映画化
第88回アカデミー賞・作品賞ほか4部門にノミネート、主演女優賞受賞


▶ 映画館環境
TOHOシネマズ新宿 SCREEN6 座席数119 スクリーンサイズ4.6×11.0m
C-6はスクリーン向かって左寄りの席。前に手すりの壁があり思いのほか狭かった。見上げであまり良い席とは言えない。E列あたりが一番いいかもしれない。最後列もありか─。いずれにしても、構成的に好きになれない劇場。
週末の夜上映ということもあり、席はほぼ満席。前評判の高さとともに、埼玉の女性監禁事件の件も手伝ったとみた。


▶ 作品レビュー
昨今、監禁事件をよく見聞きし、実際に自宅に帰ってきた例も我々は知っている。それ故に、この作品に対して、言い知れぬリアリティーを求めてしまう。その結果、何か物足りなさを覚え、あらゆる不自然さを感じてしまう。
健康な子供が無事に生まれ無事に育つ不自然さ─、そもそもそのことに違和感を覚えてしまうと、物語の趣旨が根底から崩れてしまうわけで、それが心にひっかかるとあらゆる粗を探してしまう。男と子供の関係性とか、7年と5年の運動不足とか…
監禁そのものを描いた作品ではないわけで、だから監禁における描写もあっさりとしていて、詳細もあまり描かれていない。結論から言うと、個人的には(矛盾を感じつつも)、閉鎖的な部分の描写があっさりしていてもかなり好感を持つことができたわけだが、そう思わなかった人も少なくないだろう。監禁ネタなのだからもっと閉鎖空間を描くべきという声も、観賞後に耳にした。しかし、そうなると、もっとドロドロで醜悪な話になりそうな気がして、サスペンス映画になってしまう気がしてしまうのだが、まさかこの作品に対してそれを求めて来ている観客もいるということなのだろうか。
正直、逃げ出すところもかなりあっさりしている印象で、随分簡単に外へ出た者だと思ってしまうのだが、まぁそこも描きたい最たる部分でもないわけだし、あっさりと言ってもそれなりにドキドキさせられ、半ば付属的な部分でありながらも非常によく作られていると思った。
主観的な表現の描き方が非常に上手くて、その表現を積み重ねながら徐々に見る者を惹きつけていく─例えば、ジャックを最初に保護した女性警察官の演技にしても、質問しながら徐々に事件性を感じ始めていく表現などが巧みであり、細かなリアリティーということよりも人目線での主観的な表現で物語の核心に迫っていく─そういった手法がブリー・ラーソンの主演女優賞に繋がったのだろう。
ジャック役のジェイコブ・トレンブレイを含め出演陣すべての演技や演出が秀逸だったように思う。オスカーを手にしたブリー・ラーソンが際立った演技をしていたとは決して思わない。それでもオスカーにふさわしいと感じた。それは、出演者全員の優れた演技が結集した結果だと思うばかりである。
監禁事件となると兎角焦点が当てられがちなのは、容疑者の変質性と感動の再会ということになると思うが、この作品においては容疑者の描写などはほぼ皆無であり、再会においても一瞬の感動でしかない。重要視されているのはあくまでも人と人の絆であり、その揺れ動くところを見事に描ききっている。
ストーリーは明らかに虚構だと思わざるを得ない。何らかの監禁事件を参考にしているだろうけれども、本当に話をベースにしているとは決して思うことができない内容。そうでありながら、非常に心動かされ、大いなる嘘と分かりながらも涙してしまう。それが劇映画の醍醐味といえばそれまでだが─。
有り得ないような純粋無垢のジャックという存在が大きいことは明らかで、彼を軸に人々の心が揺れ動くように演出されて、それに呼応するように見ているこちらの心も動かされていく。彼が発する言葉もまた重要であり、そういった意味でもこの脚本がいかに優れているかが窺える。原作者自ら書いた脚本というのも意味があったことだろうし、アカデミー賞の脚本賞にノミネートされたことも頷ける。
また、画面構成においても工夫が見られて、感情表現を重視しながら人物を極端に左右に寄せてみたり、あるいは天地を逆にしてみたり、内面を伝えるための絵作りに好感を持った。音楽も非常にうまく用いていたように思う。伝えたいのは画面の中にある主観だということがいやが上にも伝わってくる。
決して興味本位で監禁ネタを描いているわけではなく、人の心を必死に描こうとしているところが称賛を生んでいる要因であるように思う。“部屋”というタイトルでありながら、“部屋”そのものを描いているわけではなく、あくまで“部屋”に対する思いを描いた作品。感情表現をどのようにして捉えるか、それがこの映画を楽しむ鍵となる。


ザ・デクラインⅢ

ザ・デクラインⅢ(1998年・アメリカ)
原題:The Decline of Western Civilization Part III
公開日:(米)1998年11月13日 (日)2016年4月2日
配給:Spheeris Films Inc. (日)ビーズインターナショナル
時間:86分

監督:ペネロープ・スフィーリス
製作:スコット・ワイルダー
出演:多くのガター・パンクス
   スティーヴン・チャンバーズ
   ゲーリー・フレド(ロサンゼルス市警察)
   FINAL CONFLICT
   LITMUS GREEN
   NAKED AGGRESSION
   THE RESISTANCE
   キース・モリス(CIRCLE JERKS)
   フリー(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)ほか
撮影:ジェイミー・トンプソン
編集:アン・トゥルーラヴ
音楽:FINAL CONFLICT “Inside” “Race To Eternity”
   NAKED AGGRESSION “Killing Floor” “Smash The State” “Austurias Leyenda Espanola, Opus 47”
   LITMUS GREEN “Hank” “Queer Thoughts”
   THE RESISTANCE “Squatterpunk” “People” “Bootlickin’ Boy” “Revolution Riot”
   THE ANTI-HEROS “Fuck Hollywood” “Drink Drank Punk”
   F.Y.P. “Knock On Wood”
   FEAR “Have Another Beer”
   THE CRIMINALS “You Stupid Fuk”
   TOXIC NARCOTIC “War Song”
   GOOD RIDDANCE “A Credit To His Gender”
   ADZ “ADZ”
   SCROTUM POLES “Holy Barbecue”
   FLOURESCENT URINE “I Laugh” ※日本語公式HP参照

鑑賞日:2016年4月5日
場所:シネマカリテ スクリーン1 A-6


■ INTRODUCTION(日本語公式HPより)
★ 1998年シカゴ地下映画祭・最優秀審査委員賞受賞
★ 1998年サンダンス映画祭・表現の自由賞受賞・審査員特別賞ノミネート

一作目『ザ・デクライン』から17年、前作『ザ・メタルイヤーズ』から10年、ペネロープ・スフィーリス監督がみたびロサンゼルスの音楽シーンを切り取った≪西洋文明の衰退≫ドキュメンタリー第3弾。前作のLAメタルから一転、『ザ・デクライン』で描かれたハードコア/パンクの90年代の姿をとらえた本作は、成功をおさめたバンドやミュージシャンではなく、一作目のメンタリティに生きる若者たちのその後の行く末、精神性とライフスタイルが究極のアンダーグラウンドに行き着いたパンクス、廃屋に不法に棲みつきビールをこよなく愛し社会を完全脱落したガター・パンクスに焦点を当てる。社会に対する怒り、親からの虐待、資本主義社会からの迫害、警察からの暴力、疎外感、貧困、絶望。ガター・パンクスたちはパンクロックにのみ生きる意味を見出し、同じ境遇の仲間とともに新たな家族を形成して支え合いながらその日を生きる。その人生に目的は一切ない。NAKEDAGGRESSIONは「ブタ(警官)どもに死を」を演奏し、ガター・パンクスのハンバーガーは路上で小銭をせびる。

1981年の『ザ・デクライン』は既成概念へのアグレッションを爆発させ、新たな音楽、価値観の生まれるその震源地とその瞬間をとらえた。1983年、ペネロープ・スフィーリス監督は『ザ・デクライン』の世界に生きるパンクスを題材にした劇映画『反逆のパンク・ロック』(原題:SUBURBIA)を発表、そこに描かれたのが路上にたむろするガター・パンクスの生態だった。本作ではその劇映画の世界の現実の様子が映されている。音楽そのものよりもハードコア/パンクに生きる人々にスポットを当て、その極端さが行き着いた厳しい生態をとらえる。映画全篇に満ちているのは破滅と退廃と絶望である。

幾度かの映画祭での上映後、ディストリビューションを得るための営業を行うも、すべての会社から本作を配給する上で一作目および二作目の権利譲渡を条件に求められ、断ったことにより一度も商業ベースの配給がなされることなく終わった。本作はほぼ誰も観たことのない映画である

▶ 映画館環境
シネマカリテ・スクリーン1 観客数97 レイトショー
最前列真ん中付近のA-6席で観賞。多少見上げも許容範囲。
観賞者は極めて少なかった。10人にも満たなかっただろう。


▶ 作品レビュー
三部作を通じて思ったこと、それはこの監督は決してパンクとかメタルといったやかましい音楽を愛しているわけではないということ。音楽を題材にしつつも、音楽の扱い方は雑であり、敢えてそうしているのか分からないけれども、聴くに堪えないのが多い。決して聴かせてあげようという気持ちなど持っていないはず。
それとは対照的に、人への愛情は非常に感じる。見るからにヤバそうな奴ら…社会から捨てられているような奴らを切り捨てることなく丁寧にその思いを拾い上げて、彼女や彼らたちが生きる糧として音楽に関わっている構図を炙り出しているというか、ひとつの映像として構築しきっている。

三作目のこの作品は、これまでで最も低所得層と思われる若者が登場してきて、もはや主義主張のために音楽を追い続けていた一作目のパンク魂といったものが皆無に等しいものになっており、生きるために物乞いなどもためらわない意識の低い若者が映像の中心を占めている。
この作品ではそれら底辺の若者を決して見捨てることなく、彼女や彼らの奥深くへと切り込んでいく。親に捨てられた者、死に別れた者…、これまで生きてこられたことが不思議に思うくらいの境遇が語られて、人間が執念深く生きていく姿が描き出されている。
パンクというのは、果たして、彼ら彼女らを支えるものなのだろうか?単に傷つけているだけなのではないだろうか?そう思う一方、それが無ければ彼ら彼女らはすぐに消えてしまいそうに思ってしまうのも事実であり、良きにつけ悪しきにつけ、音楽の持つエネルギー痛烈に感じr。

演奏される音楽は一作目と比べると、明らかに技術的なレベルは上がっている。それに反比例するかのように、パンクを追い続ける観賞者の意識レベルと生活レベルは確実に下がっている。意図的に仕立て上げられた演出かどうか分からないけれども、パンクへの思想は明らかに希薄になっている。反社会体制とか、社会に対するアンチテーゼという理想はもはや打ち壊されており、よくいってそれは社会の破滅を目指したものとしか思えないものになっている。まぁ、そんな大それた意志さえもないのだが…

限りない人間愛が作品に注ぎ込まれているとはいえ、展開や行き着く先は悲惨極まりないものなわけで、それでなおガターパンクと呼ばれる輩を追い続ける監督の意図は何なのか─。
音楽を追い続け、結果、ガターパンクという一つのコミュニティーに出会ったが、それらを繋いでいるものは決してパンクといったものではなく、あくまで共通する境遇が彼らを繋いでいるわけであり、音楽があるから生きているというような理想などは皆無─。ただ生きる、生きるために何でもする、生を貪る人間の性、そういったものを明示しているように思う。

境遇や結末が映画「神様なんかくそくらえ」に似ていると感じた。しかし、その意義深さや重要度といったものは、それとは比較にならない。この作品にあるような現実があるからこそ評価される劇映画が出来上がるわけで、その現実を捉える労力というものは想像を絶するものがある。

コミュニティーのきっけでしかないパンク─。しかし、そのきっかけというのは意外と重要だと思うし、彼ら彼女らを惹きつけたパンクがあったからこそ、不思議な絆が生まれたわけだ。その内状を捉えたこの作品は、大変貴重なものであることは間違いないけれども、せっかく音楽というものを中心に据えているわけだから、もっと音楽に対する愛情やリスペクトも欲しいと思ってしまう。もしかしたら、パンクへの愛はある、と主張されるかもしれないけど、あくまで作品の中からはそういったものを感じることができない。それだけが残念。

LOVE 3D

LOVE 3D(2015年/フランス・ベルギー合作)
原題:Love
公開日:(仏)2015年7月15日 (日)2016年4月1日
配給:(日)クロックワークス
時間:135分

監督:ギャスパー・ノエ
脚本:ギャスパー・ノエ
出演:カール・グルスマン(マーフィー)
   アオミ・ムヨック(エレクトラ)
   クララ・クリスティン(オミ)ほか
撮影:ブノワ・デビエ
編集:ギャスパー・ノエ
音楽:ケン・ヤスモト

鑑賞日:2016年4月1日
場所:ヒューマントラストシネマ有楽町 シアター1 F-17


■ Introduction & Story
若い妻、そして幼い息子と暮らす青年マーフィーが、かつての恋人エレクトラの母からの電話をきっかけに、彼女との2年に渡る蜜月を振り返る物語。その回想は心を引き裂かれんばかりのエレクトラとの別れから始まり、彼女とともに過ごした愛のエピソードが、時計の針を巻き戻すように描かれる。かつて人生のすべてだと思っていた女。情熱、性欲、嫉妬・・・様々な感情に振り回され、ぶつかり合い、愛し合った彼女との時間。その回想がやがて彼らの初めての出会い、初めてのキス、初めての夜に立ち戻ったとき、男は喪失を抱えて人生を歩んでゆくほかない———。

監督は、作品を発表するたびにセンセーションを巻き起こす鬼才、ギャスパー・ノエ。『カルネ』でカンヌ国際映画祭の批評家週間賞を受賞し鮮烈に登場、続く『カノン』で絶対的なタブーを描き出した。第55回カンヌ国際映画祭正式招待作品となったモニカ・ベルッチ主演『アレックス』では衝撃的なレイプシーンが物議をよび、東京で撮影された『エンター・ザ・ボイド』ではドラッグにまみれたTOKYOを彷徨う魂を描いた。暴力的で孤独な世界の中から、闇にまぎれることのない愛や人間たちを掬いあげてきたギャスパー・ノエ自身が、「私のこれまでの映画とは違う、私のすべての映画の中で、その存在をもっとも近く感じられる、そして最もメランコリックな映画だ」と語る。性と愛をわけるのではない、セックスも感情もすべてを包括する“LOVE”を描くのが本作『LOVE【3D】』だ。

一月一日、早朝。電話が鳴る。マーフィーは目覚める。傍には若い妻オミと二歳の息子ギャスパー。
彼は留守番電話を聞く。エレクトラの母だ。心労で声がやつれ、娘から連絡はなかったか知りたがっている。
エレクトラはずっと行方不明なのだ。母は、娘に何かあったのではないかと心配している。
いつまでも雨のやまない一日、マーフィーはアパートにいて、彼の生涯最大の愛を思い返す。エレクトラとの二年間を。
いつまでも続くはずだった、駆け引きに満ち、時に行き過ぎた、過ちだらけの、焼けつくような情熱の日々を…。
※「LOVE 3D」日本語公式ホームページより

▶ 映画館環境
ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1
・座席数162席
・スクリーンサイズ(ビスタサイズ)5.9×3.2m/(シネスコ)7.6×3.2m
座った席はF-17。ここのシアターはF列であればどこでもいい。3D上映だったけれども今回も敢えて右端を選択。端でも十分3Dを堪能できた。といっても、それほど3Dを有効に活用していた作品とは思えなかったし、何といっても、男性性器の勃起や射精といった効果的であっただろうと思われる部分にはしっかりとボカシが入っていたため、3D効果を完全に台無しにされていたわけだ。
ここはいつも人がそれなりに入っている印象。この日も男女問わず、まぁまぁの入り。ボカシなど入れてしまうと、余計に卑猥感が強まると思ったりした。野郎やおっさんだけが見るような映画でもないと思うのだが…


▶ 作品レビュー
まずはこの作品に対するボカシについて考えてみたい。

日本国憲法 第21条
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

刑法 第175条
1 わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役若しくは250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
2 有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。

日本国内においては、性的表現を巡りこの「表現の自由」と「わいせつ物頒布等罪」が常にせめぎ合っている状況─、学校でも「チャタレー夫人の恋人」訳をめぐる裁判判決というものを習ったりしているわけで(※もしかしたら今の時代においては題材は違うものになっているかもしれないけれど─)、性描写におけるこの二つの戦いはほぼ刑法175条の勝利に終わっている。映画「愛のコリーダ」でさえも表現の自由は許されなかったわけで、それを考えるとこの映画にぼかしを入れてしまう思いというものを鑑みることができる。性器に対しての表現の自由を許された例として、写真集「MAPPLETHORPE」を巡る2008年の最高裁判決が有名だが、一度わいせつ物のレッテルを貼られてしまうとそれを覆すことは難しい。罰金や科料もあるわけだから、危険な部分は見せない方が無難。
メイプルソープの件で性的表現もかなり緩和されてきているとはいえ、一般の劇場公開で、しかもセックスにおける性器の描写となると、実際には禁じられているに等しい。あの「愛のコリーダ」さえも、いまだにオリジナルが一般上映されていない。
以上のことから、この「LOVE 3D」も無修正で上映されるわけがない。3Dを生かした勃起や射精も、所詮興味本位の映像としか見なされないだろうし、白い液体がリアルに目のまえに広がったとしても、それは決して芸術作品とは認められないだろう。
長々と余計な前置きをしてしまったが、この映画における修正というものがいかに致命的なのかを主張したいがためものである。確かに3Dを抜きにしても、映像自体優れたものであったし、ストーリーや展開も素晴らしい出来だったと思う。しかし、ギャスパー・ノエの意図は今までにない愛の表現にあったはずであり、それを3Dという武器を持って描こうとしているにもかかわらず、それをバッサリと切り捨ててしまうこの醜いボカシには、嫌悪感しか覚えない。そのボカシはむしろ、本物ナニ以上に卑猥に感じた。
正直、この映画を見て3Dの効果を全く感じることができなかった。しかし、その悪因は制作側にあるのではなく日本の刑法にあるのだと確信できる。単に、ボカシが入るとやっぱ3D効果が望めない…ということを確認できたに過ぎない。
とはいえ、内容はポルノやAVとは紙一重のものであったことも事実で、配給会社が無修正という強行に出ることができなかった気持ちも分からないでもない。愛を貪るあまりの3Pが展開されるわけであり、それを純粋にアートと主張するにはかなりの無理がある。単にリアルな性描写を見たいという者もいるだろう。しかし、その何が悪いのか。R指定もしているわけだし、インターネットで自由に性器を見ることが可能ないま、表現の自由を奪う規制はむしろ憲法違反であるとしか思えない。
この映画で憲法論議をしようという気もないし、そんな知識も気概もない。ただ、映画におけるボカシは、ヌードを描いた絵画に墨を塗るような愚行であり、その正当性は全くもってない。規制の上の規制で、表現の自由を奪っているだけだ。
とりあえず、欲求不満はすべて吐き出した。
不思議なもので、性欲が旺盛な若かりし頃には思いもしなかった怒りや感情を、ボカシに対して感じてしまったわけで、柄にもない法などを持ち出してしまった。性欲が衰えると無欲な思考ができるものなのだろうか─ようやく国家権力の横暴に慣らされている自分に気が付いた。そして、まずは愚痴を言ったまでだ。

さて、内容にいたっては、エロを超えた愛を感じさせてくれる素晴らしい映画だと思う。人生の無情というか、欲望の行く末を見せられた思いがする。

時間軸がかなり自由に構成されており、時々どの時点の場面なのか分からなくなってしまうところもあったが、もはやそんなものは関係がなくらい、愛という軸だけが物語を支えていると感じた。そこがまた心を打つ所以でもある。

簡単に言ってしまえば、失われて初めて気が付くかけがえのないものというものが大きなテーマになっているのだが、これほどまでに強烈にそれを伝えてくれる作品はないだろう。ポルノまがいの性描写は決して男の欲望を満たすものだけに作られているのではないことがよく分かるし、ハードな性描写もそれほど卑猥に思わない。そう思わない人も多いだろうけれど…。

似たようなバストショットからの繋ぎ─、似たようなロングショットからの繋ぎ─、同じようなショットでどんどんカットが繋げられていく。そして時にブラックショットが入ったりして、要するに潔いほどにブツブツ繋げられている。それがまた違和感なく、むしろその繋ぎ方によって作品にリズムをもたらしており、最後まで気持ちが途切れることなく見切った気がする。
内容もさることながら、映像スタイルにも気配りが成されていると感じたわけで、ステレオタイプな言い方になってしまうけれど、まさにフランスから発信された映画だなーと素直に思ってしまった。どんなにカッコつけたところで、日本からはこんなオシャレな映画は生まれないだろう。とくにこれほどまでに性的な表現を用いながらも、洒落た作りに仕立て上げることなどできるわけがない。まぁ、ギャスパー・ノエが卓越したエロ監督なのかもしれないが─。

この映画を3Dで見ることはあまり推奨できないが、3Dで見て憤慨してほしいと思うところもまたある。ぜひとも、平気でアートに泥を塗るこの国を、憂えてほしい。