ザ・デクラインⅢ(1998年・アメリカ)
原題:The Decline of Western Civilization Part III
公開日:(米)1998年11月13日 (日)2016年4月2日
配給:Spheeris Films Inc. (日)ビーズインターナショナル
時間:86分
監督:ペネロープ・スフィーリス
製作:スコット・ワイルダー
出演:多くのガター・パンクス
スティーヴン・チャンバーズ
ゲーリー・フレド(ロサンゼルス市警察)
FINAL CONFLICT
LITMUS GREEN
NAKED AGGRESSION
THE RESISTANCE
キース・モリス(CIRCLE JERKS)
フリー(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)ほか
撮影:ジェイミー・トンプソン
編集:アン・トゥルーラヴ
音楽:FINAL CONFLICT “Inside” “Race To Eternity”
NAKED AGGRESSION “Killing Floor” “Smash The State” “Austurias Leyenda Espanola, Opus 47”
LITMUS GREEN “Hank” “Queer Thoughts”
THE RESISTANCE “Squatterpunk” “People” “Bootlickin’ Boy” “Revolution Riot”
THE ANTI-HEROS “Fuck Hollywood” “Drink Drank Punk”
F.Y.P. “Knock On Wood”
FEAR “Have Another Beer”
THE CRIMINALS “You Stupid Fuk”
TOXIC NARCOTIC “War Song”
GOOD RIDDANCE “A Credit To His Gender”
ADZ “ADZ”
SCROTUM POLES “Holy Barbecue”
FLOURESCENT URINE “I Laugh” ※日本語公式HP参照
鑑賞日:2016年4月5日
場所:シネマカリテ スクリーン1 A-6
■ INTRODUCTION(日本語公式HPより)
★ 1998年シカゴ地下映画祭・最優秀審査委員賞受賞
★ 1998年サンダンス映画祭・表現の自由賞受賞・審査員特別賞ノミネート
一作目『ザ・デクライン』から17年、前作『ザ・メタルイヤーズ』から10年、ペネロープ・スフィーリス監督がみたびロサンゼルスの音楽シーンを切り取った≪西洋文明の衰退≫ドキュメンタリー第3弾。前作のLAメタルから一転、『ザ・デクライン』で描かれたハードコア/パンクの90年代の姿をとらえた本作は、成功をおさめたバンドやミュージシャンではなく、一作目のメンタリティに生きる若者たちのその後の行く末、精神性とライフスタイルが究極のアンダーグラウンドに行き着いたパンクス、廃屋に不法に棲みつきビールをこよなく愛し社会を完全脱落したガター・パンクスに焦点を当てる。社会に対する怒り、親からの虐待、資本主義社会からの迫害、警察からの暴力、疎外感、貧困、絶望。ガター・パンクスたちはパンクロックにのみ生きる意味を見出し、同じ境遇の仲間とともに新たな家族を形成して支え合いながらその日を生きる。その人生に目的は一切ない。NAKEDAGGRESSIONは「ブタ(警官)どもに死を」を演奏し、ガター・パンクスのハンバーガーは路上で小銭をせびる。
1981年の『ザ・デクライン』は既成概念へのアグレッションを爆発させ、新たな音楽、価値観の生まれるその震源地とその瞬間をとらえた。1983年、ペネロープ・スフィーリス監督は『ザ・デクライン』の世界に生きるパンクスを題材にした劇映画『反逆のパンク・ロック』(原題:SUBURBIA)を発表、そこに描かれたのが路上にたむろするガター・パンクスの生態だった。本作ではその劇映画の世界の現実の様子が映されている。音楽そのものよりもハードコア/パンクに生きる人々にスポットを当て、その極端さが行き着いた厳しい生態をとらえる。映画全篇に満ちているのは破滅と退廃と絶望である。
幾度かの映画祭での上映後、ディストリビューションを得るための営業を行うも、すべての会社から本作を配給する上で一作目および二作目の権利譲渡を条件に求められ、断ったことにより一度も商業ベースの配給がなされることなく終わった。本作はほぼ誰も観たことのない映画である
▶ 映画館環境
シネマカリテ・スクリーン1 観客数97 レイトショー
最前列真ん中付近のA-6席で観賞。多少見上げも許容範囲。
観賞者は極めて少なかった。10人にも満たなかっただろう。
▶ 作品レビュー
三部作を通じて思ったこと、それはこの監督は決してパンクとかメタルといったやかましい音楽を愛しているわけではないということ。音楽を題材にしつつも、音楽の扱い方は雑であり、敢えてそうしているのか分からないけれども、聴くに堪えないのが多い。決して聴かせてあげようという気持ちなど持っていないはず。
それとは対照的に、人への愛情は非常に感じる。見るからにヤバそうな奴ら…社会から捨てられているような奴らを切り捨てることなく丁寧にその思いを拾い上げて、彼女や彼らたちが生きる糧として音楽に関わっている構図を炙り出しているというか、ひとつの映像として構築しきっている。
三作目のこの作品は、これまでで最も低所得層と思われる若者が登場してきて、もはや主義主張のために音楽を追い続けていた一作目のパンク魂といったものが皆無に等しいものになっており、生きるために物乞いなどもためらわない意識の低い若者が映像の中心を占めている。
この作品ではそれら底辺の若者を決して見捨てることなく、彼女や彼らの奥深くへと切り込んでいく。親に捨てられた者、死に別れた者…、これまで生きてこられたことが不思議に思うくらいの境遇が語られて、人間が執念深く生きていく姿が描き出されている。
パンクというのは、果たして、彼ら彼女らを支えるものなのだろうか?単に傷つけているだけなのではないだろうか?そう思う一方、それが無ければ彼ら彼女らはすぐに消えてしまいそうに思ってしまうのも事実であり、良きにつけ悪しきにつけ、音楽の持つエネルギー痛烈に感じr。
演奏される音楽は一作目と比べると、明らかに技術的なレベルは上がっている。それに反比例するかのように、パンクを追い続ける観賞者の意識レベルと生活レベルは確実に下がっている。意図的に仕立て上げられた演出かどうか分からないけれども、パンクへの思想は明らかに希薄になっている。反社会体制とか、社会に対するアンチテーゼという理想はもはや打ち壊されており、よくいってそれは社会の破滅を目指したものとしか思えないものになっている。まぁ、そんな大それた意志さえもないのだが…
限りない人間愛が作品に注ぎ込まれているとはいえ、展開や行き着く先は悲惨極まりないものなわけで、それでなおガターパンクと呼ばれる輩を追い続ける監督の意図は何なのか─。
音楽を追い続け、結果、ガターパンクという一つのコミュニティーに出会ったが、それらを繋いでいるものは決してパンクといったものではなく、あくまで共通する境遇が彼らを繋いでいるわけであり、音楽があるから生きているというような理想などは皆無─。ただ生きる、生きるために何でもする、生を貪る人間の性、そういったものを明示しているように思う。
境遇や結末が映画「神様なんかくそくらえ」に似ていると感じた。しかし、その意義深さや重要度といったものは、それとは比較にならない。この作品にあるような現実があるからこそ評価される劇映画が出来上がるわけで、その現実を捉える労力というものは想像を絶するものがある。
コミュニティーのきっけでしかないパンク─。しかし、そのきっかけというのは意外と重要だと思うし、彼ら彼女らを惹きつけたパンクがあったからこそ、不思議な絆が生まれたわけだ。その内状を捉えたこの作品は、大変貴重なものであることは間違いないけれども、せっかく音楽というものを中心に据えているわけだから、もっと音楽に対する愛情やリスペクトも欲しいと思ってしまう。もしかしたら、パンクへの愛はある、と主張されるかもしれないけど、あくまで作品の中からはそういったものを感じることができない。それだけが残念。
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