シェッド・スキン・パパ

シェッド・スキン・パパ(2016年/中国=香港)
原題:Shed Skin Papa [ 脫皮爸爸 ]
時間:100分

監督/脚本:ロイ・シートウ
原作/脚本:佃 典彥
出演:フランシス・ン(ティエン・ヤホン)
   ルイス・クー(ティエン・リッハン)
   ジェシー・リー(ツァイ・ツーミアオ)
   ジャッキー・チョイ(チュー・リーホア)
プロデューサー:ジュリア・チュー
共同プロデューサー:チョー・キンマン
共同プロデューサー:エスター・クー
撮影監督:チャウ・ゲイション
美術監督:アンドルー・ウォン
コスチューム・デザイナー:アイビー・チャン
作曲:レオン・コー
音響:ドゥ・ドゥチー
編集:ウォン・ホイ

鑑賞日:2016年10月28日
場所:TOHOシネマズ六本木ヒルズ スクリーン9 I-18


■ あらすじ(第29回東京国際映画祭公式プログラムより)
くたびれた映画監督のティエン・リッハンは災難続き。妻には離婚を迫られ、自分の映画会社は倒産、そして母親も亡くなってしまう。さらに悪いことに、80歳を過ぎた認知症の父ヤッホンの面倒も見なければならなくなった。やがて、父が毎日、脱皮を始める! 1回の脱皮ごとに10歳は若返って見える。リッハンは、自分と同じくらいの年齢まで若返った父と、かつて週末のたびに通っていたサッカー場で心を通わせ、家族の生活のため尽くしたかつての父の姿を思い出す。

■ 作品解説(第29回東京国際映画祭公式プログラムより)
舞台演出家として輝かしいキャリアを築いているシートウ監督が、自らの演劇賞受賞作を映画作品として初監督した。原作は佃典彦氏による「ぬけがら」であるが、脱皮をめぐるシュールさと楽しさは活かしつつ、父と息子、そして夫婦の愛の物語を通じ、香港の歴史をも概観する内容に見事に翻案している。主演は、目下3年連続で最も稼ぐ香港スターの1位に輝いているルイス・クー。2015年は実に14本の映画に出演しており、今回は挫折した映画監督を演じ、板についたダメ男っぷりを披露している。ダブル主演には、演技派の雄、フランシス・ン。コミカルなドタバタ・アクションから、シリアスな語りまで、本作の中で文字通り七変化の活躍を見せる。

▶ 映画館環境
第29回東京国際映画祭コンペティション部門ワールド・プレミア上映
TOHOシネマズ六本木ヒルズ、スクリーン9、スクリーンサイズ5.3×12.7m、座席数258
I列は前方から9列目、劇場やや後方、プレミアシートの真後ろ、I-18席はスクリーン向かってやや右寄り・ほぼ真ん中の席。非常に見やすいポジションであった。
会場はほぼ満席。

▶ 作品レビュー
人が脱皮して若返るというシュールな設定と、ハートフルなコメディーが融合、あれこれ考えずに素直に楽しめる作品だろう。
展開される舞台や時代背景が突然がらりと変わったり、夢なのか現実なのか判別できない状況が展開されたり、複雑な構成だったけれども、見ている側にしてみれば全てはノスタルジックなのだという気持ちで終始一貫した視点で内容を楽に把握できるはず。制作者側がこれらをまとめ上げることに苦労したように思うのだが、非常に盛りだくさんの要素を盛り込んだ割には単純だと思ってしまった、申し訳ないけど…。
ヤホン役のフランシス・ンは、1人で実質6役を演じたわけで、しかもその6役が総登場するという場面もあるので似すぎても違いすぎてもダメだという難しい演じ分けを強いらられたはずだ。あらゆる時代の父親が登場する場面こそが重要であり、物語のハイライトというべきところだと思うのだが、個人的にはあまり感動とか面白さを感じることができなかった。同じ人物が同じ所に現れるという困難な状況下で、他の場面よりも人物同士の絡みが少ない、もしくは不自然なところばかりが目につき、最もエキサイトしなければならない場面でそれができなかったような気がしてしまう。
結局、最も面白かったところといえば脱皮するところ。それが話の主軸であるし、そこが良ければそれでよしという気もするのだが、脱皮という要素での出落ち観を非常に感じてしまったわけで、それがもたらす展開に多少の不満を持ってしまった。
美しい絵が展開されるし、色彩も豊かで、陰影なども巧みに駆使された映像そのものには魅了されたけれども、コメディーとしてはあまり笑えず、親子というテーマにもあまり共感できなかったというの正直なところ。見たところ紛れもないコメディーであり、エンターテインメントであるわけで、ストレートに笑ったり泣いたりできればそれで満足したところなのだが、残念ながら笑えなかった。単純に、それらのツボが自分とは合っていなかっただけなのかもしれない。
あんまり良いことを記すことができなかったけれど、いい映画だと思ったことは間違いない。

マダム・フローレンス 夢見るふたり

マダム・フローレンス 夢見るふたり(2016年・イギリス)
原題:Florence Foster Jenkins
公開日:(英)2016年5月6日 (日)2016年12月1日
配給:(英)20th Century Fox (日)ギャガ
時間:111分

監督:スティーブン・フリアーズ
脚本:ニコラス・マーティン
出演:メリル・ストリープ(フローレンス・フォスター・ジェンキンス)
   ヒュー・グラント(シンクレア・ベイフィールド)
   サイモン・ヘルバーク(コズメ・マクムーン)
   レベッカ・ファーガソン(キャサリン)
   ニナ・アリアンダ(アグネス・スターク) ほか
製作:マイケル・カーン、トレイシー・シーウォード
製作総指揮:キャメロン・マクラッケン、クリスティーン・ランガン、マルコム・リッチー
撮影:ダニー・コーエン
美術:アラン・マクドナルド
衣装:コンソラータ・ボイル
編集:バレリオ・ボネッリ
音楽:アレクサンドル・デプラ

鑑賞日:2016年10月25日
場所:TOHOシネマズ六本木ヒルズ スクリーン9 D-19


■ ABOUT THE MOVIE(日本語公式HPより)
音楽を純粋に愛するマダムと
彼女に惹きこまれた男たち。

絶世のオンチがなぜ、カーネギーホールを満員にし、
現代もなお人々を魅了し続けるのか──。

感動の実話が幕を開ける!!

1944年10月25日、世界的音楽の殿堂、ニューヨークのカーネギホールで今もアーカイブの一番人気となっている公演が開催された。出演者はフローレンス・フォスター・ジェンキンス、彼女は類希なる音痴だったにも関わらずチケットは即完売、ホールの外には入りきれない群衆たちが押し寄せたという。そんなフローレンスを演じるのが、アカデミー賞19度ノミネート、3度受賞のメリル・ストリープ。なぜか心を打たれる不思議な歌声を見事に再現、ピュアで一途な異色の歌姫を演じきった。フローレンスの夫のシンクレアにはロマコメの帝王ヒュー・グラントが新境地を開拓!監督は『クィーン』『あなたを抱きしめる日まで』でヘレン・ミレンやジュディ・デンチという名女優たちを輝かせてきたスティーヴン・フリアーズ。笑っているうちに、人生へ繰り出す勇気をもらえる感動の実話の映画化!

フローレンスの絶対不可能な夢はやがて人々の希望に─。

ニューヨークの社交界のトップ、マダム・フローレンスの尽きない愛と財産は、夫のシンクレアと音楽に捧げられていた。祖父らの歌手になる夢を追い続けるフローレンスだが、自分の歌唱力に致命的な欠陥があることに気づいていない。愛する妻に夢を見続けさせるため、シンクレアはおひとよしなピアノストのコズメという伴奏者を見つけ、マスコミを買収し、信奉者だけを集めた小さなリサイタルを開催するなど献身的に立ち回っていた。しかしある日、フローレンスは世界的権威あるカーネギーホールで歌うと言い出して─。持病を抱えながらも音楽に生きる彼女の命がけの挑戦に、シンクレアもいっしょに夢をみることを決める。さあ、笑いと涙で包まれた奇跡の公演の幕が上がる!


▶ 映画館環境
第29回東京国際映画祭オープニング作品
TOHOシネマズ六本木ヒルズ スクリーン9
スクリーンサイズ5.3×12.7m、座席数258
D-19は前から4列目、スクリーン向かってやや右寄り、スクリーンが大きいためやや近すぎるかもしれない。迫力は十分だが少々疲れる。
オープニング作品、上映前メリル・ストリープの挨拶、ということで満席。女性客の方が多かった気がする。

▶ 作品レビュー
フローレンス・フォスター・ジェンキンスと検索すれば、すぐにカーネギーホールでナンバーワンというアーカイブ音源を聴くことができる。めちゃくちゃ面白い、癖になるし、これが一番人気だという一端が垣間見える。
ふと、昔ラジオで聴いたボヘミアン・ラプソディを思い出した。バッド・ニュースというバンドがコピーしたもので、当時テープに録音したものを何度も聴いて何度も爆笑した。それは素人が勝手に面白半分で録音したものではなく、ブライアン・メイがプロデュースして商業販売もされ、しっかりとしたプロモーションビデオまである。現在ではその映像もYoutubeなどで見ることができるし、改めてみるとやはり笑いが止まらない。
いきなり話が逸れてしまったが、映画を見る前に、できることならフローレンス・フォスター・ジェンキンスの音楽を聴いてほしいという思いから敢えて添えさせてもらった。それを聴いて思いっきり笑って、そしてその上で映画を見て、そして見終わった後、もう一度それを聴いて思いっきり笑ってほしい。
音楽というものは何なのか、考えなくてもいいことなのかもしれないけれど、映画を見ると色々と考えさせられるところがあった。
上映前、笑顔いっぱいのメリル・ストリープが会場を笑いで包み込み、その甲斐あって、映画が始まるとたくさんの笑い声が響き渡る。そうこれはコメディー、紛れもないエンターテインメント映画であって、笑いで多くの人を幸せにしてくれる、まさにフローレンス・フォスター・ジェンキンスの歌声のように──。
しかし、少し引いた目線で見ると、結局は金持ちの道楽のようなニュアンスを感じてしまう。フローレンスの音楽を支えていたのは金に群がる欲望でしかないく、そう考えると全く笑えないわけで、まさに音楽への冒涜のようなもの…。確かに、それは紛れもない事実であり、その様子も余すことなく描かれている、というかその金の亡者どもが話の核を成しているといっていい。そして、その様が笑えて、面白可笑しく物語も展開していくわけだが、一般的にオペラ歌手が歌う音楽を想像してみた場合、映画の中の出来事を笑うことができても素直に音楽として受け入れがたいというのが正直なところ…。
しかし、音楽というものは決して高尚な何かというものではなく、誰もが歌ったり奏でたりする音楽や鼻歌などその全てが音楽であり、みんなで踊って騒ぎ立てるのも音楽。人を楽しませ幸せにして癒やしてくれるもの、それが音楽。フローレンス・フォスター・ジェンキンスの残した音楽を楽しめないというのであれば、それこそもう一度音楽の捉え方を見直し方がいいのかもしれない。
これは決してフローレンスの妄想などではない。当初、自分も、これは偉大なる勘違いが生んだ奇跡の産物として捉えていたわけだが、その見識は明らかに間違っていた。
フローレンスにとって音楽というものは、喜びや楽しみ、あるいは愛を表現するものだったのかもしれない。自分の音楽も、他者から受け取る音楽でさえも、単なるメロディーとか響きというものを超越した表現として捉えていたのかもしれない。フローレンス自身が音楽から感じる喜びを周りにも与えたいと思っていたに違いない。
そしてまた、ヒュー・グラント演じるシンクレアが守り続けたものは、フローレンスが音痴だという事実ではなく、フローレンスの音楽そのものだった。シンクレアの献身的な愛が今日まで人を楽しませるに至っている音楽を創り上げたといえるのかもしれない。
いろいろ余計なことを考えてしまったが、そんな面倒な考え方など関係なく楽しめるコメディーであることは間違いない。それでいて、単に笑って済ますだけの映画ではない、深みのあるエンターテインメント映画でもあるように思えた。


7分間

7分間(2016年・イタリア)
原題:7 Minuti
公開日:(伊)2016年11月3日
配給:(伊)Koch Media
時間:88分

監督:ミケーレ・プラチド
制作:フェデリカ・ビンチェンティ
原作(演劇):ステファノ・マッシーニ
脚本:ミケーレ・プラチド、ステファノ・マッシーニ、Toni Trupia
出演:オッタヴィア・ピッコロ(ビアンカ)
   アンブラ・アンジョリーニ(グレタ)
   クリスティアーナ・カポトンディ(イザベッラ)
   フィオレッラ・マンノイア(オルネッラ)
   マリア・ナツィオナーレ(アンジェラ)
   ヴィオランテ・プラチド(マリアンナ)
   クレマンス・ポエジー(イラ)
   サビーネ・ティモテオ(ミカエラ)
   アンヌ・コンシニ(アダム・ロシェット)
   ルイーザ・カッタネオ(サンドラ)
   エリカ・ダンブロージョ(アリーチェ)
   バルキッサ・マイガ(キルダ) ほか

鑑賞日:2016年10月25日(第29回東京国際映画祭コンペティション部門上映)
場所:TOHOシネマズ六本木 スクリーン3 J-6


■ あらすじ(第29回東京国際映画祭公式プログラムより)
イタリアの繊維工場のオーナーが、ある会社に事業の大半を売却した。新オーナーは従業員組合に対し、ある同意書への署名を求める。従業員を代表して、11人の女性がその提案を受け入れるかどうかを決断するため議論を始めた。次第に、議論は熱を帯び、彼女たちの個人的背景や希望、過去の記憶などが浮き彫りになる。女性、母親、娘──それぞれに異なる立場での人生の拍動が万華鏡のように見えてくる。

▶ 映画館環境
第29回東京国際映画祭コンペティション部門
TOHOシネマズ六本木スクリーン3
スクリーンサイズ4.0×9.7m、座席数140
J-6は最後列、スクリーン向かって真ん中の席
チケット購入でシステムトラブルになるほどに興行的にも盛り上がっていた気がするTTFF2016、平日午前の上映でもそこそこの人。ただ、満席ではなかった。
あまり前の方の列でなければ、どの列でもいい気がするし、当然ながらスクリーン向かって真ん中付近が最高の眺め。

▶ 作品レビュー
機械的でフォトジェニックな工場の絵をベースにスタッフクレジットが表示され、静かに冷たく物語が始まる。モノトーンに近いその絵の洒落た感じに何となく心が惹きつけられて、それに対峙するかのように後から涌き出てくる人々の感情が見事なまでのコントラストを持っていた、と終わってみて気がついた。
作品を通して最も強く思ったことは、あの「十二人の怒れる男」に似ているということ。ビアンカ役のオッタヴィア・ピッコロが熱く周りの者を説得するその姿は、まるでヘンリー・フォンダのようだった。
オッタヴィア・ピッコロはカンヌ映画祭で女優賞を獲得している名優だということも知らずにいた自分ではあったけれど、上映後ゲストとして登場し作品についてのQ&Aに参加できたことに、今にしてようやく幸運だったと思っている。
彼女の解説によると、この作品は実際にフランスのオートロワール県というところで起こったことがものになっていて、それをイタリア人の劇作家ステファノ・マッシーニが演劇として作品にし、2013年に上演、その演劇にオッタヴィア・ピッコロも参加していて、今回の映画でも同じ役で参加できたということだった。
そういえば「十二人の怒れる男」も元は演劇であり、それが映画化されたもの。そして、個人的な話をすれば、「十二人の怒れる男」という作品を初めて知ったのは日本の劇団が上演したものを見てからであり、いわば演劇から「7分間」という映画に連綿と連なる何か不思議な意志のようなものを感じてしまう。
物語の形式は古典的なものを借りているとはいえ、テーマそのものはまるで違う。現代社会の問題を見事に反映させており、現実と照らし合わせて考えさせられるところが多々あった。そこは実際に起こった事を扱った強みといったところだろうが、それを過去の名作と違和感なく融合させるところがまた見事なところで、しかもこの映画で議論を展開するのは全員女性にしているという演出もなかなか面白いところ。実際の出来事が忠実に再現されているのかどうかは分からないけれども、支配する者も決定する者も全て女性という設定には意図的な何かを感じるわけで、その意義や効果は絶大だったように思う。
舞台が法廷というのであれば、結末もある程度明確になるわけだけれども、労働や個人的事柄がメインテーマとなってくると、とかく集団における解決方法を見いだすことが難しいわけで、そういった難点も作品で見て取れた。というのも、強引なハッピーエンドのような終わり方に多少の不満を持ってしまったし、そうは言ってもこういったテーマにおいて多くを納得させることは至難の業だなと思ってしまうわけで、下手に満足させようとすると一気にリアリティーが削がれるものだと感じてしまった。
現実社会においては様々な問題が解決されないままでいるわけで、逆に問題はどんどん増えているようにも思う(─オッタヴィア・ピッコロもそういった趣旨のことを言ってたと記憶する)。その辺の余韻を作品の中にもっと盛り込んでほしかった…作品のエンディングから多少の残念感が伝わってきてしまった、現実社会の問題を扱っているだけになおさら──。
ちなみに、オルネッラ役を演じていたフィオレッラ・マンノイアは、有名な女性歌手なのだそうで、映画初出演なのだそうだ、個人的には全く無知だったけれども、知る人が見れば非常に目がいくところであったようだ。

SCOOP!

SCOOP!(2016年・日本)
公開日:2016年10月1日
配給:東宝
時間:120分

監督:大根仁
原作:原田眞人(映画「盗写 1/250秒」)
脚本:大根仁
出演:福山雅治/都城静
   二階堂ふみ/行川野火
   吉田羊/横川定子
   滝藤賢一/馬場
   リリー・フランキー/チャラ源
   斎藤工/小田部新造
   塚本晋也/多賀
   中村育二/花井編集長
   山地まり/山地まり(グラビアアイドル)
   澤口奨弥/元気(アイドル)
   石川恋/石川恋(グラビアアイドル)
   阿部亮平/べーちゃん(半グレ)
   護あさな/上原桃(女子アナ)
   鈴之助/須山(プロ野球選手)
   宮嶋茂樹/不肖・宮嶋
   久保田悠来/石渡龍(俳優)
   寿るい/ルイルイ(アイドル)ほか
製作統括:平城隆司、畠中達郎
共同製作:市川南、長坂信人、中川雅也
エグゼクティブプロデューサー:林雄一郎、原田知明
プロデューサー:川北桃子、政岡保宏、市山竜次
撮影:小林元
照明:堀直之
録音:渡辺真司
美術:平井亘
装飾:小林宙央
スタイリスト:伊賀大介
編集:大関泰幸
音楽:川辺ヒロシ
主題歌:TOKYO No.1 SOUL SET feat.福山雅治 on guitar
助監督:二宮孝平
制作担当:田辺正樹
記録:井坂尚子
キャスティング:新江佳子
VFX:菅原悦史
共同プロデューサー:山内章弘、高野渉、滑川親吾

音楽プロデューサー北原京子

鑑賞日:2016年10月11日
場所:TOHOシネマズ流山おおたかの森 スクリーン5 G12


■ INTRODUCTION
独占スクープ!日本一撮られない男・福山雅治がまさかのパパラッチ役を熱演!
『モテキ』『バクマン。』大根仁監督との初タッグで挑むのは、芸能スキャンダルから社会事件まで様々なネタを追いかけるカメラマンと記者の物語。原作は、1985年に制作された伝説の映画=原田眞人監督・脚本作品『盗写1/250秒』。福山とコンビを組む新人記者役には、二階堂ふみ。そして、吉田用、滝藤憲一、リリー・フランキーら超豪華キャストが共演。さらに主題歌では、TOKYO No.1 SOUL SET feat.福山雅治 on guitarという奇跡のコラボレーションが実現。写真週刊誌の編集部を舞台に描く、2016年最もスキャンダラスでスリリングな<抱腹絶倒><仰天必至><超ハラハラドキドキ>圧倒的エンタテインメント大作!ぶっちぎりの面白さを100%保証します!

■ STORY
1枚の写真【スキャンダル】に日本社会が騒然!?ますます過熱する写真週刊誌のスクープ合戦に挑むのは、落ちぶれパパラッチ&ド新人記者のまったく噛み合わない凸凹コンビ!?
かつて数々の伝説的スクープをモノにしてきた凄腕カメラマン・都城静(福山雅治)。しかし、その輝かしい業績も、現役の雑誌編集者たちにはほとんど知られていない。過去のある出来事をきっかけに報道写真への情熱を失ってしまった静は、芸能スキャンダル専門のパパラッチに転身。それから何年もの間、自堕落な日々を過ごしてきたのだ。そんな彼に、再び転機が訪れる。ひょうんなことから写真週刊誌「SCOOP!」に配属されたばかりのド新人記者・行川野火(二階堂ふみ)とコンビを組まされる羽目になってしまったのである。案の定まったく噛み合わずケンカばかりの静と野火。ところが、この凸凹コンビが、まさかまさかの大活躍で独占スクープを連発!そしてついに、日本中が注目する重大事件が発生する…。

▶ 映画館環境
TOHOシネマズ流山おおたかの森スクリーン5
スクリーンサイズ3.6×8.5m、座席数127、やや小さな劇場。
G12は中央列、通路側の席、スクリーン向かって右寄り。
真ん中より後方の席であれば、どこでも見やすい想像する。

▶ 作品レビュー
福山雅治を前面にプロモーションされていて(まぁ至極当然なんだけど)、有名俳優が出演、監督も旬、アピールポイント満載で内容がなくてもそれなりの興収は見込めるんだろうなーなどと失礼なことを思いながら、カメラという部分に多少興味を惹きつけられて漫然と見にいった。
ところが、その内容の素晴らしさに感服してしまった。話も演出もキャラも過剰すぎてありえないんだけれど、感情が引くどころか、むしろその過剰演出に比例するかのようにこちらの感情も高まっていったように思う。
見終わった後で、この映画には原作映画があるということを知る。『盗写1/250秒』という映画を非常に見たくなってしまったけれど、伝説と書かれているだけあって、なかなかお目にかかれそうもない。
原作の恩恵は大いにあるとはいえ、この「SCOOP!」の面白さはそれをも凌駕してしまうのではと思わせるところがあったりする。
とりあえずは、主役の都城静(福山雅治)がカッコよすぎる。だらしないとか落ちぶれたとか、いくら言葉で主役をけなしたところで、黒のベンツの4WDを乗り回す時点でもはや容姿の優越感など拭い去る手立てなどないわけで、むしろそいういった分かりやすいカッコよさをうまい具合に利用して、ナルシシズムの極致とも思えるような世界観を創り上げていく。
はっきり言ってしまうと、おしゃれ過ぎてカッコつけにもほどがると思えるほどにいけ好かない世界観だと思うけれども、その中心に福山雅治がいることで非常に説得力を持ち、誰もまねできないカッコいい演技をさらりとこなしてしまうところがまた素晴らしい。チャラ源(リリー・フランキー)とか馬場(滝藤賢一)とか、二枚目とは言えない脇でさえもカッコよく見えてくるから不思議。
志やらモラル感からいったらそれほど褒められた内容だとは思わないし、むしろあまり深く考えずに見たほうがいい作品だとは思うけれど、写真という事に関しては何かしら考えさせられるところがあった。写真を撮ることの意味、意義、そんなものを多少なりとも感じると一層感情が昂ってきたりする。そんな小難しいことは映画の中では具体的に語られていないけれど、あくまでも写真というものをテーマにしているんだぞとやんわりと表現されていて、そのマジックにまんまと騙されて涙してしまう。結局は泣いて笑って楽しめる超エンタメ映画なんだけど、どうしてもそれ以上のものを感じてしまう。



グッドモーニングショー

グッドモーニングショー(2016年)
公開日:2016年10月8日
配給:東宝
時間:104分

監督:君塚良一
脚本:君塚良一
出演:中井貴一(澄田真吾)
   長澤まさみ(小川圭子)
   志田未来(三木沙也)
   池内博之(秋吉克己)
   林遣都(松岡宏二)
   梶原善(館山修平)
   木南晴夏(新垣英莉)
   大東駿介(府川速人)
   濱田岳(西谷颯太)
   吉田羊(澄田明美)
   松重豊(黒岩哲人)
   時任三郎(石山聡)
   遠山俊也
   小木茂光 ほか
プロデューサー:土屋健、古郡真也
アソシエイトプロデューサー:大坪加奈
監督補:杉山泰一
撮影:栢野直樹
照明:磯野雅宏
録音:柿澤潔
美術:山口修
衣装:眞鍋和子、岡田敦之
装飾:茂木豊
小道具:森下まりこ
メイク:葉山三紀子、藤井俊二

編集:穗垣順之助
記録:中田秀子
VFX:山本雅之
音響効果:柴崎憲治
音楽:村松崇継
主題歌:KANA-BOON
選曲:藤村義孝
助監督:下畠優太
制作担当:橋本靖

鑑賞日:2016年10月11日
場所:TOHOシネマズ流山おおたかの森 スクリーン1 E5


■ ストーリー
朝の情報番組でメインキャスターを務める澄田真吾(中井貴一)は、いつものように早朝から生放送の番組に向けて準備をし、テレビ局へと向かう。ただ、この日は身の上によからぬことが続いていく。息子からの告白─、番組アシスタントキャスターである小川圭子(長澤まさみ)からの告白─、そして番組プロデューサーの石山聡(時任三郎)からの印籠─、そしてさらにとんでもない災難に見舞われる。
生放送直前、飲食店で立てこもり事件発生という一方流れる。番組はその事件をトップニュースとしてスタート、次第に犯人の要求は番組キャスター澄田だということが分かってきて、あらゆる面で崖っぷちの澄田はリポートをかねて要求通り立てこもりの現場へと向かった。
立てこもり現場はメディアが殺到して騒然としていた。そんな中、澄田は防護服に身を固め、嫌々ながらも隠しカメラと小型マイクを仕込まれて、そしてついに、前代未聞、犯人とのやり取りが生中継されていく。

▶ 映画館環境
TOHOシネマズ流山おおたかの森スクリーン1
スクリーンサイズ3.6×8.5m、座席数129、中規模の劇場
E5は劇場中央列、通路側、スクリーンやや左の席。
EFG列が目線的にちょうどよい。個人的には前4列以外であればどの席でも可。

▶ 作品レビュー
完全にエンターテインメント、何も考えることもなく、楽に笑えて楽しめる映画。中井貴一のコミカルな演技演出に一喜一憂するのみ。
過剰だなと思えるところはたくさんあるし、現実にはあり得ないと思えるところもチラチラ見受けられる。それは人を笑わすため、楽しませるための演出、違和感を感じたらツッコミを入れて、それらすべてを笑い飛ばせてしまえばいいだけ。
生番組の裏側とか技術的な面とか、設定などにおいては非常にリアルなものを感じるし、前半部分では(テレビ局資本という強みを生かして)それら現実であろうと思わせる要素を重厚に見せることにより、否応なく映画に引き寄せられていく。
しかし、物語が核心部分に迫っていくにつれ、人間ドラマに希薄さを思わざるを得なくなる。主役の澄田キャスターがまさに薄っぺらの象徴のように思えてしまうし、澄田が事件に巻き込まれてそれに関わってくる面々──家族、番組スタッフ、警察、犯人等々、それらとの関係性も極めて薄い。そもそも、登場人物の背景というものはそれほど重要視されていないと思うし、事件を起こしてしまう犯人の人間性や動機に関してさえも非常に軽いものとして扱っている見受けられた。
人間性から沸き起こる笑いというものは少ないわけで、あくまで人同士が交錯することで巻き起こる笑い、つまり事象こそが笑いとなっている。それゆえ、内容が非常に薄っぺらに感じなくもない。事が終わっても訴えかけてくるものがあまりに軽いし、立てこもり事件自体には何の意味も無いようにさえ感じてしまう。
極論、深い意味がない映画だと思うし、そういうものを排除した潔いコメディー映画なのだと思う。難しく考えずに、瞬発的に笑ってやり過ごすべき映画だと思う。
笑えなかった、面白くなかった、という感想ならば批判されても致し方ないとは思うけれど、内容がないとか主義主張が薄っぺらということで批判されるべきではないだろう。そういった見方で観賞するべきものではないし、ただ笑って済ます映画を受け入れることができない人はむしろ見ない方が賢明だろう。

少女

少女(2016年・日本)
公開日:2016年10月8日
配給:東宝
時間:119分

監督:三島有紀子
原作:湊かなえ
脚本:松井香奈、三島有紀子
出演:本田翼(桜井由紀)
   山本美月(草野敦子)
   真剣佑(牧野光)
   佐藤玲(滝沢紫織)
   児嶋一哉(小倉一樹)
   菅原大吉
   川上麻衣子
   銀粉蝶
   白川和子
   稲垣吾郎(高雄孝夫)ほか
企画プロデューサー:森川真行、柳迫成彦
プロデューサー:石塚清和、齋藤寛朗、清家優輝
撮影:月永雄太
照明:斉藤徹
美術:黒瀧きみえ
装飾:石渡由美
スタイリスト:KO3UKE
ヘアメイク:倉田明美、永嶋麻子

VFX:大萩真司
編集:加藤ひとみ
音楽:平本正宏
主題歌:GLIM SPANKY
スクリプター:吉田久美子
助監督:佐伯竜一
制作担当:坪内一

鑑賞日:2016年10月11日
場所:TOHOシネマズ流山おおたかの森 スクリーン10 J4


■ Introduction(公式HPより)
17歳。子供でもない大人でもない、危うい年齢の少女たちを主人公にした映画はこれまでにも数多く作られてきた。アンジェリーナ・ジョリーにオスカーをもたらした『17歳のカルテ』やフランソワ・オゾン監督の『17歳』、キャリー・マリガンを一躍有名にした『17歳の肖像』など、17歳というキーワードは映画と縁が深い。そして2016年。湊かなえ(原作)×三島有紀子(監督)×本田翼×山本美月=4人の“女性たち”が仕掛ける、“死”にまつわる禁断の世界を描いた長編ミステリー『少女』もまた17歳の少女たちの物語だ。
ヨル(夜)の綱渡り──。『少女』のヒロインたちは暗闇のなかで綱渡りをしているような、そんな危うい毎日を生きている。彼女たちはどんな闇を抱えて生きているのか。17歳の少女のなかに潜む“闇”を艶美に繊細に力強く映し出していく、期待の映画化だ。
原作は、映画『告白』『白ゆき姫殺人事件』、連続ドラマ「贖罪」「夜行観覧車」「Nのために」など映像科作品のすべてが大ヒットを記録している、湊かなえの同名小説「少女」。第6回本屋大賞を受賞した「告白」の後に発表され、現在文庫100万部を超えるベストセラーの映画化だ。心に闇を抱える由紀と敦子。2人の女子高校生が「死体って見たことある?」という転校生の何げないひと言をきっかけに、死とはなんなのか? 死を知りたいという願望に囚われる。“本当の死”を理解できたら闇から解放されるのではないか──少女たちはそれぞれの方法で“死の瞬間”を見ようとする。それは何とも刺激的で衝撃的な物語の始まりだった──。
主人公の由紀と、その親友・敦子を演じるのは、本田翼と山本美月。十代の恋の切なさや楽しさを描いた青春映画『アオハライド』の主演など、数多くの映画やドラマをへて着実に女優としてステップアップする本田翼。一方、格差社会の縮図としての高校生活をリアルに描いた『桐島、部活辞めるってよ』からホラー映画『貞子vs伽耶子』まで、幅広いジャンルで活躍する山本美月。明るい、爽やか、元気という形容詞の似合う人気実力派の2人が映画『少女』ではこれまでにない一面を披露している。また、真剣佑、佐藤玲、児嶋一哉、稲垣吾郎が脇を固める。
2人の若き女優の新しい顔を引き出したのは、三島有紀子監督。長編デビュー作『しあわせのパン』、モントリオール世界映画祭特別招待作品『ぶどうのなみだ』、仕立ての服を愛する人々を丁寧に描いた人気コミックの映画化『繕い裁つ人』など、女性の心を惹きつけてやまない三島監督が「17歳という自分勝手で危うい年代を生きる少女たちを描いてみたかった」と、今回は純粋さと残酷さ、儚さと強さ、青春とミステリーを内包する湊かなえワールドに挑み、新しい題材、新しい表現で、極上のエンターテイメントを生み出した。
自分自身に向ける「死にたい」という想い、他者に向ける「死ねばいいのに」という想い。死というものが何なのか分からないからこそ、少女たちは死に興味を持つ。女子校のなかに潜む闇、そこで生きる2人の少女が抱える闇、物語が進むにつれて点と点がつながっていく。そして“死”というキーワードによって導き出される結末には一体、何があるのか? ヨルの綱渡りの先にあるものとは……。

■ Story(公式HPより)
「どうせなら死ぬ瞬間を見てみたい。そう思わない?」
「死って、モノじゃなくて現象だと思う。」
<由紀の闇>
読書好きで休み時間はひとり静かに本を読み、授業中は小説を書いている由紀。クラスの女子が親友の敦子を集団でいじめていても助けることはできずにいた……。ある日、いじめがエスカレートして倒れた敦子は、保健室のベッドのなかで「死にたい」と訴えかける。そんな“闇”を抱える彼女に由紀は「闇の中を一人ぼっちで綱渡りしている、そんな気持ちなのかもしれないけど、そんなことないから」と優しく手を差し伸べる。そしてその夜、書きかけの小説を完成させる。しかし、その翌日に原稿が何者かに盗まれてしまったことで、由紀はある危険な行動に出てしまう──。

「死ぬ瞬間ていうか、生きている最後の顔をみないと、
 本当の意味での死を理解するなんて無理だと思うけど。」
「私の気持ち、由紀には分かんないよ。」
「助けて、由紀。死にたい。」
「努力を重ねて、ここまで生きてきた。
 迫害されるようになってからも、努力は怠らなかった。」
<敦子の闇>
幼い頃から剣道を習い将来有望と期待されていた敦子。ところが、高校の団体戦でミスをしたことを機にいじめの対象に。その時ケガした足はすでに完治しているものの学校では足を引きずったふりを続けている。敦子にとって唯一の友だちは由紀だと思っていたが、ある時から2人の関係がギクシャクしているように感じ、距離を置くようになる。そんあとき、紫織という生徒が転校してくる。彼女に誘われ、敦子はあることを断り切れずに共犯者になり──。

▶ 映画館環境
TOHOシネマズ流山おおたかの森スクリーン10
スクリーンサイズ3.5×8.4m、座席数106、やや小さな劇場。
J4は最後列、スクリーン向かって左寄り、上り階段正面の席。見下げ。
最後列で見下げになるけれど、画面の大きさなどに不満はなし。
平日ではあったが、若者中止にそこそこの入り。

▶ 作品レビュー
教会内のシーンから映画が始まる。光が少なく薄暗い場所、そこで格式が高い制服をまとった少女ら複数人が整列しながら“遺書”を機械的に順を追って朗読していく。非常に重々しい印象であり、まさに闇の幕開けを思わせる。
映画は基本的には小説に沿った展開であり、逸脱した部分は少ない。多少付け加えられた要素もあったものの、それは演出上敢えてそうしたものだと納得できるものではあった。全体的に小説よりも重々しい印象で、演出も過剰と思ってしまうところもあった。少女というタイトルでありながら、そのテーマはどちらかというと“死”というものへ傾倒していた印象を持つ。
小説を読む限りではテーマは“少女”。現代社会において女子高校生がもがきながら成長していく姿というものが強く印象に残る。それぞれが抱える様々な問題を、2人の少女の目線で、重くなりがちな事柄を軽やかに面白おかしく語っていた印象がある。
映画でもその辺のところを尊重しようという意思は感じられ、例えば、小説内ではなかったSNSなどを盛り込みながら、ポップな雰囲気を作っていたけれど、それ以上に何だか少女の残酷さばかりが目についてしまって、成長とか友情とかということの前に、巻き起こる事件に重きを置かれている印象。だからテーマが生と死というものに偏って見えてしまったように思う。だからダメだというのではないけれど、少女という楽しいテーマが過剰に重々しくされているところが少しだけ残念に思えただけ。
読みやすくて軽やかな小説だという印象だっただけに(内容は決して軽々しいものではないけれど──)、映画での重厚さに何か辟易としたものを感じてしまった。
本田翼に山本美月、児嶋一哉に稲垣吾郎、合っているようでもあり意外な気がするこの絶妙なキャスティングも嫌いじゃないし、それぞれ演技もよかったと思う。ただ、やっぱ何だか暗くて重い印象、負の内容を多く扱っているだけにそうなってしまうのは仕方ないわけで、むしろ小説のようにそれらをさらりと語ってしまうことが難しいことであり、それをそのまま映像化すること自体が無理のあることなのかもしれない。
レビューなど様々な意見を見ると、やはり小説の方が──というものが多くて、自分もその意見に賛同してしまうけれど、決して悪い映画ではないと思う。

淵に立つ

淵に立つ(2016年/日本・フランス合作)
公開日:2016年10月8日
配給:エレファントハウス
時間:119分

監督:深田晃司
脚本:深田晃司
出演:浅野忠信(八坂草太郎)
   筒井真理子(鈴岡章江)
   古舘寛治(鈴岡利雄)
   太賀(山上孝司)
   篠川桃音(鈴岡蛍)
   三浦貴大(設楽篤)
   真広佳奈(鈴岡蛍/8年後)ほか
プロデューサー:新村裕、澤田正道
エグゼクティブプロデューサー:福嶋更一郎、大山義人
制作プロデューサー:戸山剛
企画プロデューサー:米満一正
ラインプロデューサー:南陽
撮影:根岸憲一
録音:吉方淳二
効果:吉方淳二
美術:鈴木健介
スタイリスト:村島恵子
サウンドデザイナー:オリビエ・ゴワナール
音楽:小野川浩幸
主題歌:HARUHI

鑑賞日:2016年10月11日
場所:TOHOシネマズ流山おおたかの森 プレミア D-6


■ Introduction(公式HPより)
第69回カンヌ映画祭「ある視点」部門審査員賞受賞
カンヌが20年ぶりに発見した!初ノミネートで初受賞の快挙!
世界を挑発する日本の新世代・深田晃司監督
現代日本の揺れ動く家族像を冷徹かつユーモラスに描き、恐るべき新人監督の登場に各国の映画祭が湧いた『歓待』(2011)。二階堂ふみ演じるヒロインの一夏の経験を瑞々しく綴り、ナント三大陸映画祭グランプリ他を受賞した『ほとりの朔子』(2014)。荒廃した近未来を舞台に、人間とアンドロイドの対話を通して生と死を見つめた『さようなら』(2015)。一作ごとに人間ドラマの新たな地平を切り拓き、30代の若さで世界の映画シーンにその名を刻み続ける深田晃司の最新作が、カンヌ国際映画祭に初参加でいきなり公式部門にノミネートされ、受賞を果たす快挙を成し遂げた!黒沢清、是枝裕和などカンヌ常連組に仲間入りし、河瀬直美監督『萌の朱雀』(97)が脚光を浴びて以来、久々に登場した日本の新たな才能に、世界中が熱烈な期待を寄せている。
崩壊した家族に、光は射すのか──
圧倒的な人間描写で“家族”を問い直す、2016年最大の衝撃!
怪しくも魅力的な佇まいで家族を翻弄する男を演じるのは、『私の男』『岸辺の旅』やマーティン・スコセッシ監督『沈黙』などに出演し、国際的に活躍する浅野忠信。夫婦役には、古舘寛治が寡黙さの内に覚悟を秘めた夫役で新境地を見せ、筒井真理子が妻の心身の変化を凄まじいまでの説得力で体現する。その他、太賀、三浦貴大などの若手実力派が主人公たちの関係性を左右する重要な役で登場する。
「孤独な肉体を抱えた個々の人間が、たまたま出会い、夫婦となり親となり子となって、当たり前のような顔をして共同生活を営んでいる。私にとって、家族とは不条理です」
そう語る深田晃司が、最高のキャスト・スタッフと組み、大胆にして緻密なストーリーテリングで観客一人ひとりの想像力と価値観に揺さぶりをかける衝撃のドラマ。観る人すべてをタイトル通りの境地へと誘う映画が誕生した。
 
■ Story(公式HPより)
郊外で小さな金属加工工場を営む鈴岡家は、夫・利雄(古舘寛治)、妻・章江(筒井真理子)、10歳の娘・蛍(篠川桃音)の三人家族。平穏な毎日を送るごく平凡な家族の前にある日、利雄の旧い知人で、最近まで服役していた八坂草太郎(浅野忠信)が現れる。利雄は章江に断りなくその場で八坂を雇い入れ、自宅の空き部屋を提供する。章江は突然の出来事に戸惑うが、礼儀正しく、蛍のオルガンの練習にも喜んで付き合う八坂に好意を抱くようになる。だが、ある時、八坂は一家に残酷な爪痕を残して姿を消す。8年後。八坂の行方は知れず、利雄は興信所に調べさせているが、一向に手がかりはつかめない。工場では古株の従業員・設楽篤(三浦貴大)が辞めることになり、代わりに山上孝司(太賀)が新人として入ってくる。母を亡くして独り身の孝司は屈託のない人柄でたちまち夫婦の信頼を得る。だが皮肉な巡り合わせにより、八坂の消息をつかめそうになった時、利雄と章江は再び己の心の闇と対峙することになる―。 

▶ 映画館環境
TOHOシネマズ流山おおたかの森プレミアスクリーン
スクリーンサイズ3.5×8.3m、座席数58、小さな劇場
D6は前から4列目、通路側、スクリーン向かってほぼ真ん中
リクライニング付きの豪華な座席。荷物を置く場所も確保されているため、非常にゆったりと観賞できる劇場。かなり気に入った。

▶ 作品レビュー
静かに、細かな違和感をつくり出しながら、不思議な緊張感が漂うような感じがした。冒頭のオルガンとメトロノームの音、食卓の物音や会話、工場での音、そして人の声や生活音、静寂の中で(個人的に)不快な音が終始まとわりつく。日常風景を切り取ったようなその映像は、どことなく冷たく危険な香り──。そして、そこに寡黙で演技が硬い浅野忠信と古舘寛治…、正直、気持ち悪い世界だなと思ってしまった。最後まで興味を失わずに観賞したし、むしろ面白さを感じるけれど、生理的になかなか受けつけないところがあった。
おそらく、意図的につくり出している気持ち悪さや嫌悪感なのだろうけれど、そう感じるが故に単純に楽しむとか受け入れるということができない。
物語は基本的に秘められた過去というものがキーになっていて、それがミステリアスを生み、それが明かされることによって真の恐怖が生み出されていく。そしてそのミステリーや恐怖もまた、気持ちが悪く嫌な感じ…。
人はコメディーとかを見て楽しむことは勿論のこと、ホラーとかサスペンスを見て恐怖し、悲劇とかを見て悲しんだり、笑えない現象を映画という媒体を通して楽しんでいる。嫌悪感というものをまた他人事のように楽しめる・楽しめということなのだろうか…。
そういう自分はどうだったのか──確固たる嫌悪感、生理的な違和感、それらを果たして楽しんでいたかどうかはよく分からない。言えることは興味は尽きなかったということ。惹きつけられる要素が非常にたくさんあったということなのかもし、嫌悪感というものこそが正にそれだったと言えるのかもしれない。
エンディングのHARUHIの音楽を聴きながら、気持ち悪さを噛み締める。設定も、話も、登場人物も、そして音も、全てが気持ち悪かったなと思ってしまう。この気持ち悪さを楽しむこともまた、映画の楽しみ方なのかなと半ば強引に納得。
明らかに見えない恐怖をつくり出そうとしている映画であり、その意図は見事なまでに表現されていると思う。そういった意味では優れた作品であることは間違いない。ただ、好き嫌いはあると思う。嫌いという感情を持った作品であっても、あらゆる観点から楽しむことはできるのだろう。カンヌでは観客賞を受賞しているわけで、多くの人が受け入れた作品。見ればきっと何かを見いだせるに違いない。


とうもろこしの島

とうもろこしの島(2014年/ジョージア・チェコ・フランス・ドイツ・カザフスタン・ハンガリー合作)
原題:Simindis kundzuli
公開日:(ジョージア)2014年9月17日 (日)2016年9月17日
配給:(ジョージア)Zeta Filmes (日)ハーク
時間:100分

監督:ギオルギ・オバシュビリ
出演:イリアス・サルマン(老人)
   マリアム・ブトゥリシュビリ(少女)
   イラクリ・サムシア(ジョージア兵)
   タマル・レベント(アブハジア士官)
製作:ニノ・デブダリアニ、エイケ・ゴレチ
脚本:ヌグザル・シャタイゼ、ギオルギ・オバシュビリ、ルロフ・ジャン・ミンボー
撮影:エレメル・ラガリ
美術:アリアンサイチャン・ダワーチュ
編集:キム・スンミン
音楽:ヨセブ・バルダナシュビリ

鑑賞日:2016年10月4日
場所:岩波ホール


■ INTRODUCTION
ジョージア(グルジア)と、ジョージアからの独立を主張するアブハジアは、1992年以降、激しい戦争状態にあった。両者の間にはエングリ川が悠々と流れている。この川は春の雪解けとともにコーカサス山脈から肥沃な土を運び、中州をつくる。両岸で敵同士がにらみ合い、銃弾が飛び交う中、今年も、アブハズ人の老人は孫娘をともなって、昔からの風習のとおり、中州に小舟で渡り、小屋を建てて、土を耕し、とうもろこしの種を蒔いて、苗を育てる。しかし戦闘が激しくなり、ある日、彼らはとうもろこし畑で傷を負った若いジョージア兵を発見する…。
深い森と大河の悠々とした流れ、ときおり聞こえる銃声、とうもろこしを黙々と育てる老人、祖父との生活を余儀なくされた孫娘の成長――セリフを極力抑えて、大自然のめぐりと人間の営みを対比させ、戦争の意味を問う寓話的な傑作。

本作はオヴァシュヴィリ監督の長編第二作である。彼は第1作「向こう岸」(2008)でもアブハジア紛争をテーマにし、難民となった14歳の少年が父を探す旅をとおして戦争の傷跡を描いている。オヴァシュヴィリ監督は、毎年夏を過ごしたアブハジアに多くの思いがあり、1992年8月、突然、同じジョージア人であるアブハジアの青年に銃を突きつけられ「この国から去れ」といわて、友人と必死の逃避行をしたことが忘れられない。戦争は始まりアブハジアに住む25万人のジョージア人が家を追われて難民となった。
2年間、ジョージア中で舞台となる島を探したが見つからず、最終的にエングリ川に見立てた大きな貯水池に人工島をつくり、春から秋にかけて35ミリフィルムで撮影された。撮影シーンにあわせて何度もとうもろこしの植え替えをし、ラストの洪水のシーンもCGではなく全て手作業で行われた。本作は6カ国の合作であり、14カ国のスタッフが力を合わせてこの映画を完成させた。老人を演じるイリアス・サルマンはトルコのベテラン俳優。孫娘役マリアム・ブトゥリシュヴィリはジョージア中を探し回って、ある村で見出した演技経験のない少女である。

■ STORY
ジョージア(グルジア)と、ジョージアからの独立を主張するアブハジアは、1992年以降、激しい戦争状態にあった。両者の間にはエングリ川が悠々と流れている。この川は春の雪解けとともにコーカサス山脈から肥沃な土を運び、中洲をつくる。両岸で兵士がにらみ合い、銃弾が飛び交う中、アブハジア人の老人と孫娘は、昔からの風習のとおり、今年も中洲の小島に小舟で渡り、小屋を建てて、土を耕し、とうもろこしの種をまき、苗を育てる。戦闘は悪化し、ある日、傷を負った若いジョージア兵がこの島へ逃げこんでくる…。

▶ 映画館環境
岩波ホールは座席数220のいわゆる老舗ミニシアター。全席自由席

▶ 作品レビュー
劇中、台詞も少なくて、説明らしい説明も冒頭に──アブハジアの人々は昔から春の雪解けとともに川の中州にトウモロコシ畑を作ることを習慣としていた──といった趣旨のことがあるのみで、かなりの謎を秘めてストーリーが展開していく。
正直、アブハジアという固有名詞にちんぷんかんぷんだった自分には、本当に真っ白な状態で映像が始まってしまったわけなのだが、安定感のある映像と不思議と漂う緊張感とともに集中力を切らさず最後まで作品を見切った。
“不思議な緊張感”などと曖昧な表現で逃げてしまったが、非力な記憶力を辿ってその緊張感は一体何だったのかと絞り出してみると、どう考えても少女の存在にしか行き当たらない。大人になろうとしている一人の少女にあらゆる視線が注がれ、今にも彼女が壊れてしまいそうに思えて仕方がなかった。大いなる自然、川を行き交う兵士、さらには見ているこの自分までもが少女を傷つきかねない─そういった感情が集中力を保ち続けた要因だと自己分析をする。
事前の予備知識がなくとも十分に魅了される作品ではあったけれど、言うまでもないことだが、アブハジアのことを多少なりとも知っていればさらに深く作品を堪能できる、と今さらながらに思っている。
そもそも、設定となっている舞台はアブハジア紛争の真っただ中であり、それを知らずして本当の緊張感なんていうものは知ることはできないのかもしれない。
アブハジアの兵士らが老人と少女の前を何度かボートで通り過ぎていく、そんな環境下にジョージア兵が負傷して逃げ込んでくる、それがどんなにか危険なことか劇場で無知だった自分は全く理解できていなかった…もともとジョージアとアブハジアの対立軸ということすら知らなかったわけで、アブハジアの兵士とジョージアの兵士が入れ替わり画面に現れることだけで緊張感が出ていたわけで、それすら理解できないでいた。それでも、その無知な自分あっても少なからず画面を凝視するだけの要素は多分にあった。映像そのもので場の雰囲気をつくり出していたわけで、言うまでもなく素晴らしい作品であった。
ただ、知らなかった情報を得ることで思わなくてもよい事柄が思わぬかたちで思い浮かんでくる。不安定だと思ってしまう中州にトウモロコシ畑を作るのは習慣だと納得できるとしても、戦闘状態にあると察知できる場所に、果たして時間を要する作物を作ろうとするのかどうか─。そしてまた、兵士を何度か目にしているにもかかわらず、老人と少女が二人だけで寝泊まりしながら作業をするものだろうか、そして時には少女が一人で川を往来するという設定は戦場において現実的に有り得ることなのかどうか──。その辺の真偽はもっとアブハジアやジョージアのこと、もしくは世界中の紛争についての知識を要するかもしれないけれど、決してそういった知識を総動員しなければならない作品ではない─はず。
とはいえ、戦争というものがテーマになっていることは明らかであり、戦争の弊害は兵士の屍だけ生み出すものではなく、常に弱き者へも及んでくるもの──つまり老人と少女こそが戦いに脅かされている象徴として、中州そのものが弱いものの象徴として描かれている。それを本当に理解するうえでは多少なりとも知識が必要かなと、今にしては思っている。少なくともアブハジア紛争については知っておくべきだったかなと…。
確かに映像そのもので引き込まれるし魅せられる。そしてその言わんとしていることも何となく理解できる。しかし、映画の中にあるメッセージをより的確につかむことも重要なのかなーと思ったりしている。戦争映画を見てただ感動するだけでは、いつまでたっても戦争映画はなくならない。まあ虚実であるならば別に楽しむぶんにはいいんだろうけれど、その背景が実際の戦争だということになると、全くもって楽しむことができないはずだ。と言いつつ、性懲りもなく喜怒哀楽をしてしまうんだけれど…。


みかんの丘

みかんの丘(2013年/エストニア・ジョージア合作
原題:Mandariinid
公開日:(ジョージア)2013年10月17日 (日本)2016年9月17日
配給:(日)ハーク
時間:87分

監督:ザザ・ウルシャゼ
脚本:ザザ・ウルシャゼ
出演:レンビット・ウルフサック(イヴォ)
   エルモ・ヌガネン(マルゴス)
   ギオルギ・ナカシゼ(アハメド)
   ミヘイル・メスヒ(ニカ)
   ライボ・トラス(ユハン) ほか
製作:イボ・フェルト、ザザ・ウルシャゼ
脚本:ザザ・ウルシャゼ
撮影:レイン・コトブ
美術:ティー・テリア
音楽:ニアズ・ディアサミゼ

鑑賞日:2016年10月4日
場所:岩波ホール 


■ INTRODUCTION(日本語公式HPより)
ジョージア(グルジア)のアブハジア自治共和国でみかん栽培をするエストニア人の集落。ジョージアとアブハジア間に紛争が勃発し、多くの人は帰国したが、イヴォとマルガスは残っている。マルガスはみかんの収穫が気になるからだが、みかんの木箱作りのイヴォは本当の理由を語らない。ある日、彼らは戦闘で傷ついた二人の兵士を自宅で介抱することになる。ひとりはアブハジアを支援するチェチェン兵アハメド、もうひとりはジョージア兵ニカで敵同士だった。彼らは互いに同じ家に敵兵がいることを知って、殺意に燃えるが、イヴォが家の中では戦わせないというと、家主が力を持つコーカサス人のしきたりに則り、兵士たちは約束する。数日後、アブハジアを事実上支援するロシアの小隊がやってきて‥。戦争の不条理と人間性の尊さを描く感動作。世界の映画祭で数多くの賞を受賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネートを果たした。

本作はグルジアとエストニアの初の共同製作である。エストニアのタリン映画祭でジョージア映画の特集上映が行われた際、エストニア映画人からの共同製作の提案にジョージアのザザ・ウルシャゼ監督が応え、構想を深めた。19世紀後半のロシア帝政時代に多くのエストニア人がアブハジアに移住し、開墾、集落を築いた。みかんはアブハジアの名産であり、日本の温州産に似ている。ソ連邦時代に、日本人の学者が中心になって、西グルジアの黒海沿岸の地方に多くの苗を植え、拡がっていったともいわれている。
  全編ロケによる撮影だが、いまだに緊張状態が続くアブハジアではなく、同じ黒海沿岸であるグリア地方の広大な荒地に集落や道を作り、樹木を植えて撮影された。
ニカが大切にしていたラストシーンで流れるカセットテープの曲は、グルジアを代表する詩人、作家、音楽家であるイラクリ・チャルクヴィアニ(1961-2006)が歌った「紙の船」という歌で、アブハジア戦争中にジョージアで大ヒットした曲。戦場に赴く若者の恋人への心情を語った内容だが、ジョージア人のアブハジアへの思いが重ねられている。
ウルシャゼ監督は1966年生まれ。本作では、さまざまな文化、宗教の衝突を描いているが、世界が危機的な状況のなかで、人間らしさを保つことの大切さを描きたかったと述べている。

■ STORY(日本語公式HPより)
ジョージア(グルジア)のアブハジア自治共和国でみかん栽培をするエストニア人の集落。ジョージアとアブハジア間に紛争が勃発し、多くの人は帰国したが、イヴォとマルゴスは残っている。マルゴスはみかんの収穫が気になるからだが、みかんの木箱作りのイヴォは理由を語らない。ある日、彼らは戦闘で傷ついた二人の兵士を自宅で介抱することになる。ひとりはアブハジアを支援するチェチェン兵アハメド、もうひとりはジョージア兵ニカで敵同士だった。彼らは互いに同じ家に敵兵がいることを知り、殺意に燃えるが、イヴォが家の中では戦わせないというと、家主が力を持つコーカサスのしきたりに則り、兵士たちは約束する。数日後、アブハジアの小隊がやってきて‥・。

▶ 映画館環境
岩波ホールは座席数220のいわゆる老舗ミニシアター。全席自由席

▶ 作品レビュー
結論からいうと戦争の愚かしさを痛切に感じる作品。 敵味方関係なく 傷つけ合い殺し合う、一方で敵味方関係なく助け合う、そしてそこに美化された ものが生まれるのだが、所詮は殺し合いあってのもの。瞬間的に慈愛、博愛という感情が生み出されるけれども、最終的に残るのは虚しさだけ──。
戦争なんていうものに感動なんてあるはずもない。しかし、それを語るものから多分に肯定的な感情の高ぶりを覚えてしまうもの。そしてこの作品にも多少なりともそういった感情を持ってしまった。
そもそもアブハジアとはなんぞや─
ソビエト連邦時代グルジアに属し自治権を認められていたが、1980年代後半にソ連の崩壊とともに1991年にグルジアが独立を宣言し翌年に憲法の復活を宣言すると、アブハジア自治政府は自治権は失われたと判断し自らも分離独立を宣言する。
アブハジアは国際的な承認は得られず、そしてまたグルジアからの軍事攻撃を受け自治政府は敗北する。その後、北コーカサスの義勇軍とアブハジアの分離独立のグループが合流し再びグルジア軍と交戦する。それが激化しアブハジア紛争とかアブハジア戦争と呼ばれる大規模なものに発展する。
グルジア視点でいうと反乱軍によってアブハジアが攻撃され、その大部分を占拠されてしまう。1993年にはアブハジア軍は最大の都市スフミを管理していたグルジア軍を攻撃し、スフミはアブハジア軍の手に落ちる。
国連安保理はアブハジアの軍事行動を非難する。1994年にはグルジアとアブハジアの間で停戦合意が成され、国連平和維持軍による監視がいまだに続いている。同年に憲法も制定され、1996年には選挙も行われるが、アブハジア政府を承認する国は少ない。
観賞時、アブハジアの知識は全くなく、今ようやく明確に歴史をつかみ切れた自分ではあるが、作品がいわんとするところは理解できた。事実を伝えようとする趣旨の作品ではないので、歴史的背景など知らなくても十分堪能できると思うけれど、今更ながら、事前の予習があればより深く作品を咀嚼できたと少々の後悔─。
決して難しい作品だと思わない。仮に理論武装して見にいったところで最終的には戦争というものですべてが壊され虚しさが残るだけ…。だから頭を空っぽにして見ていいのかどうかというと──…まあ否かなー。
ビジュアルの前にまず知的な角度から作品を捉えていくと、自然と物語への感情移入も高まるというもの。
アブハジアについての基礎知識もそうだが、それに合わせて、劇中の中心人物イヴォの故郷エストニアの地理的位置関係などできる限り正確にイメージできれば…アブハジアから相当離れているわけで、故郷に帰るかその場に留まるかの選択肢で割れてしまうことも納得する。またアブハジア紛争の背景を知っていれば、北コーカサスに位置するチェチェンから兵士がアブハジアのために戦っていることも自然の成り行きとして捉えることもできるし、そうするとチェチェン兵アハメドとジョージア兵ニカの対立軸も明確になって、より一層複雑な感情を捉えることができるはず。
ソビエト連邦の崩壊にともなう独立や紛争、ソ連から独立したグルジア(そしてその呼び名をジョージアとするように要請された日本政府はそれを受け入れる)、ジョージアから独立をしようとしたアブハジアは一時はそれが失敗し最終的には独立を果たすが世界的には国として認められていない。一方、アブハジアの独立に貢献したともいえるチェチェンはというとロシアの武力制圧によって分離独立に失敗、しかもイスラム過激派との関係や各地で頻発するテロとの関連を指摘されるまでになっている。
喚起の象徴として何度も目にしたベルリンの壁崩壊の映像、それはまさに崩壊を意味していたわけで、そこから別のもの構築されるまでには様々な困難が伴っていた、そんな世界観をこの作品から見いだせる。
戦争は単に虚しさしか生まないと簡単に片づけてしまうことこそが、むなしい…。そう無知のままにこの作品の観賞に至った自分に多少の後悔をしつつつも、作品きっかけに多くも事柄を得ることもまた映画というものの良さかなとも思っている。
この作品には、ここに記した浅知恵なんかよりももっと深みのある要素が秘められているように思う。残念ながら今の自分にはそれを掘り起こすことはできなかった。
結局、どんな映画でもそれを生かすかどうかは自分次第ということなのかもしれない。

ダンスの時間

ダンスの時間(2015年・日本)
公開日:2016年9月17日
配給:野中真理子事務所
時間:88分

監督:野中真理子
出演:村田香織
プロデューサー:野中真理子
撮影監督:夏海光造
撮影:馬場宏子、川口慎一郎、新垣直哉
ドローン撮影:森田雄司
録音:永峯康弘
整音:井上久美子
編集:野中真理子
音響:米山靖
音楽:大友良英、江藤直子
音楽録音:大津真
音楽制作:佐々木次彦
語り:松本来夢
メインタイトル:赤松陽構造

鑑賞日:2016年10月3日
場所:イメージフォーラム シアター2


■ ストーリー
ダンサー・村田香織が水族館のショーの演出や水族館スタッフに客とのコミュニケーションを円滑にするためにダンスを教えている。その状況と彼女の日常に密着──ダンスと日常、それに海中を漂う生物の映像が絡み合いながら紡ぎ出されるダンスダンスドキュメンタリー。

▶ 映画館環境
イメージフォーラムのシアター2はスクリーンサイズ6100mm、座席数100、地下にある小劇場。スクリーン位置が高く、座席はフラットに配置されているため、基本的に見上げになる。前方の席は避けた方がいい。基本的に全席自由席なので当日自らの判断で座席を選べばいいことなのだが。場内は非常に空いていた。

▶ 作品レビュー
音楽:大友良英というところに惹かれて見にいった作品。ギターを基調としたシンプルなサウンドに大いに魅せられ、サウンドトラックなどを欲してしまったところではあるけれども、単館上映のドキュメンタリー映画(しかも音楽メインではないし─)であるわけだからこの映画でしか聴くことができない音楽だったのかなあとますます愛おしく思ったりしている。
水生生物の映像と水族館スタッフの解説シーンには美しさと驚きを覚えた。それら映像は、おそらくこの作品の主題であろうダンスというものにうまく絡んでいくはずなんだろうけれど、映像が交錯していても、そこにうまさや納得するところがそれほどなかったように思う。ダンスと水生生物の絡み合いは何となく理解できたけれど、水族館のスタッフがダンスを学んでいる意味などはよく理解できなかった。
スタッフがダンスを学んでいる理由としては、お客さんとのコミュニケーションを円滑にするという意図からだという説明がなされていたけれど、ダンスが通常業務に与える影響というものは映像を見る限りではよく分からないところがある。というのも、そこにダンスが存在することに違和感を覚えてしまう映像の連続で、あらゆる観点からダンスへの拒絶というものしか感じなかったからだ。
全体的に、ダンスを捉えた映像に美しさを感じることができず、華麗なはずの身体の動きが決して美しく見えないように思えた。アクティブな映像を瞬時に捉えることの難しさもあるとは思うけれど、ある種、これは意図的な映像なのかもしれないと遅まきながら思っている。
作品の中で、強く心を動かされた場面はダンサーの村田香織さんが母親の介護をしている場面で、体の自由が利かない母親が負の言葉を並び連ねるところには言い知れない悲しさに襲われる。そこにダンスが介在する余地など全くなく、ただただ悲しい。
ダンサーはダンスをあらゆるところに溶け込ませようと必死にもがく、例えそれがキレイに馴染むことがなくても諦めることなく常に前に進む、もしかしたらダンスなど必要とされない場面に出くわすかもしれない、それでもダンスダンス、ダンスの時間は永遠につづいていく。
作品として、決してキレイにまとめ上げられているわけでなく、正直単純に面白いものとはいいがたい。しかし、カメラで捉え、一人のダンサーから感じられた事柄が、見事に作品の中にまとめられていると思うし、偉そうに言ってしまうと、見た目以上に優れた作品なのかもしれない。しかしながら、なかなかすんなりとは受け入れられるような作品ではないだろう。