とうもろこしの島

とうもろこしの島(2014年/ジョージア・チェコ・フランス・ドイツ・カザフスタン・ハンガリー合作)
原題:Simindis kundzuli
公開日:(ジョージア)2014年9月17日 (日)2016年9月17日
配給:(ジョージア)Zeta Filmes (日)ハーク
時間:100分

監督:ギオルギ・オバシュビリ
出演:イリアス・サルマン(老人)
   マリアム・ブトゥリシュビリ(少女)
   イラクリ・サムシア(ジョージア兵)
   タマル・レベント(アブハジア士官)
製作:ニノ・デブダリアニ、エイケ・ゴレチ
脚本:ヌグザル・シャタイゼ、ギオルギ・オバシュビリ、ルロフ・ジャン・ミンボー
撮影:エレメル・ラガリ
美術:アリアンサイチャン・ダワーチュ
編集:キム・スンミン
音楽:ヨセブ・バルダナシュビリ

鑑賞日:2016年10月4日
場所:岩波ホール


■ INTRODUCTION
ジョージア(グルジア)と、ジョージアからの独立を主張するアブハジアは、1992年以降、激しい戦争状態にあった。両者の間にはエングリ川が悠々と流れている。この川は春の雪解けとともにコーカサス山脈から肥沃な土を運び、中州をつくる。両岸で敵同士がにらみ合い、銃弾が飛び交う中、今年も、アブハズ人の老人は孫娘をともなって、昔からの風習のとおり、中州に小舟で渡り、小屋を建てて、土を耕し、とうもろこしの種を蒔いて、苗を育てる。しかし戦闘が激しくなり、ある日、彼らはとうもろこし畑で傷を負った若いジョージア兵を発見する…。
深い森と大河の悠々とした流れ、ときおり聞こえる銃声、とうもろこしを黙々と育てる老人、祖父との生活を余儀なくされた孫娘の成長――セリフを極力抑えて、大自然のめぐりと人間の営みを対比させ、戦争の意味を問う寓話的な傑作。

本作はオヴァシュヴィリ監督の長編第二作である。彼は第1作「向こう岸」(2008)でもアブハジア紛争をテーマにし、難民となった14歳の少年が父を探す旅をとおして戦争の傷跡を描いている。オヴァシュヴィリ監督は、毎年夏を過ごしたアブハジアに多くの思いがあり、1992年8月、突然、同じジョージア人であるアブハジアの青年に銃を突きつけられ「この国から去れ」といわて、友人と必死の逃避行をしたことが忘れられない。戦争は始まりアブハジアに住む25万人のジョージア人が家を追われて難民となった。
2年間、ジョージア中で舞台となる島を探したが見つからず、最終的にエングリ川に見立てた大きな貯水池に人工島をつくり、春から秋にかけて35ミリフィルムで撮影された。撮影シーンにあわせて何度もとうもろこしの植え替えをし、ラストの洪水のシーンもCGではなく全て手作業で行われた。本作は6カ国の合作であり、14カ国のスタッフが力を合わせてこの映画を完成させた。老人を演じるイリアス・サルマンはトルコのベテラン俳優。孫娘役マリアム・ブトゥリシュヴィリはジョージア中を探し回って、ある村で見出した演技経験のない少女である。

■ STORY
ジョージア(グルジア)と、ジョージアからの独立を主張するアブハジアは、1992年以降、激しい戦争状態にあった。両者の間にはエングリ川が悠々と流れている。この川は春の雪解けとともにコーカサス山脈から肥沃な土を運び、中洲をつくる。両岸で兵士がにらみ合い、銃弾が飛び交う中、アブハジア人の老人と孫娘は、昔からの風習のとおり、今年も中洲の小島に小舟で渡り、小屋を建てて、土を耕し、とうもろこしの種をまき、苗を育てる。戦闘は悪化し、ある日、傷を負った若いジョージア兵がこの島へ逃げこんでくる…。

▶ 映画館環境
岩波ホールは座席数220のいわゆる老舗ミニシアター。全席自由席

▶ 作品レビュー
劇中、台詞も少なくて、説明らしい説明も冒頭に──アブハジアの人々は昔から春の雪解けとともに川の中州にトウモロコシ畑を作ることを習慣としていた──といった趣旨のことがあるのみで、かなりの謎を秘めてストーリーが展開していく。
正直、アブハジアという固有名詞にちんぷんかんぷんだった自分には、本当に真っ白な状態で映像が始まってしまったわけなのだが、安定感のある映像と不思議と漂う緊張感とともに集中力を切らさず最後まで作品を見切った。
“不思議な緊張感”などと曖昧な表現で逃げてしまったが、非力な記憶力を辿ってその緊張感は一体何だったのかと絞り出してみると、どう考えても少女の存在にしか行き当たらない。大人になろうとしている一人の少女にあらゆる視線が注がれ、今にも彼女が壊れてしまいそうに思えて仕方がなかった。大いなる自然、川を行き交う兵士、さらには見ているこの自分までもが少女を傷つきかねない─そういった感情が集中力を保ち続けた要因だと自己分析をする。
事前の予備知識がなくとも十分に魅了される作品ではあったけれど、言うまでもないことだが、アブハジアのことを多少なりとも知っていればさらに深く作品を堪能できる、と今さらながらに思っている。
そもそも、設定となっている舞台はアブハジア紛争の真っただ中であり、それを知らずして本当の緊張感なんていうものは知ることはできないのかもしれない。
アブハジアの兵士らが老人と少女の前を何度かボートで通り過ぎていく、そんな環境下にジョージア兵が負傷して逃げ込んでくる、それがどんなにか危険なことか劇場で無知だった自分は全く理解できていなかった…もともとジョージアとアブハジアの対立軸ということすら知らなかったわけで、アブハジアの兵士とジョージアの兵士が入れ替わり画面に現れることだけで緊張感が出ていたわけで、それすら理解できないでいた。それでも、その無知な自分あっても少なからず画面を凝視するだけの要素は多分にあった。映像そのもので場の雰囲気をつくり出していたわけで、言うまでもなく素晴らしい作品であった。
ただ、知らなかった情報を得ることで思わなくてもよい事柄が思わぬかたちで思い浮かんでくる。不安定だと思ってしまう中州にトウモロコシ畑を作るのは習慣だと納得できるとしても、戦闘状態にあると察知できる場所に、果たして時間を要する作物を作ろうとするのかどうか─。そしてまた、兵士を何度か目にしているにもかかわらず、老人と少女が二人だけで寝泊まりしながら作業をするものだろうか、そして時には少女が一人で川を往来するという設定は戦場において現実的に有り得ることなのかどうか──。その辺の真偽はもっとアブハジアやジョージアのこと、もしくは世界中の紛争についての知識を要するかもしれないけれど、決してそういった知識を総動員しなければならない作品ではない─はず。
とはいえ、戦争というものがテーマになっていることは明らかであり、戦争の弊害は兵士の屍だけ生み出すものではなく、常に弱き者へも及んでくるもの──つまり老人と少女こそが戦いに脅かされている象徴として、中州そのものが弱いものの象徴として描かれている。それを本当に理解するうえでは多少なりとも知識が必要かなと、今にしては思っている。少なくともアブハジア紛争については知っておくべきだったかなと…。
確かに映像そのもので引き込まれるし魅せられる。そしてその言わんとしていることも何となく理解できる。しかし、映画の中にあるメッセージをより的確につかむことも重要なのかなーと思ったりしている。戦争映画を見てただ感動するだけでは、いつまでたっても戦争映画はなくならない。まあ虚実であるならば別に楽しむぶんにはいいんだろうけれど、その背景が実際の戦争だということになると、全くもって楽しむことができないはずだ。と言いつつ、性懲りもなく喜怒哀楽をしてしまうんだけれど…。


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