ヘイトフル・エイト(2015年・アメリカ)
原題:The Hateful Eight
公開日:(米)2015年12月25日 (日)2016年2月27日
配給:(米)ワインスタイン・カンパニー (日)ギャガ
時間:167分
監督:クエンティン・タランティーノ
脚本:クエンティン・タランティーノ
制作:リチャード・N・グラッドスタイン
ステイシー・シェア
シャノン・マッキントッシュ
製作総指揮:ボブ・ワインスタイン
ハーベイ・ワインスタイン
ジョージア・カカンデス
出演:サミュエル・L・ジャクソン(マーキス・ウォーレン)
カート・ラッセル(ジョン・ルース)
ジェニファー・ジェイソン・リー(デイジー・ドメルグ)
ウォルトン・ゴギンズ(クリス・マニックス)
デミアン・ビチル(ボブ)
ティム・ロス(オズワルド・モブレー)
マイケル・マドセン(ジョー・ゲージ)
ブルース・ダーン(サンディ・スミザーズ)ほか
撮影:ロバート・リチャードソン
美術:種田陽平
衣装:コートニー・ホフマン
編集:フレッド・ラスキン
音楽:エンニオ・モリコーネ
鑑賞日:2016年2月27日
場所:ユナイテッド・シネマ豊洲 スクリーン10 E-19
■ ストーリー
南北戦争が終わって間もない頃、雪に覆われたワイオミング州の山中を一台の馬車がレッドロックの町へと急いでいた。馬車に乗っているのは賞金稼ぎのジョン・ルース(カート・ラッセル)と1万ドルもの賞金を掛けられた女のお尋ね者デイジー・ドメグル(ジェニファー・ジェイソン・リー)であった。
道中、これもまた賞金稼ぎのマーキス・ウォーレン(サミュエル・L・ジャクソン)と出会う。ウォーレンは3つの賞金首の亡骸を抱えながらも、移動手段である馬を失っていた。ルースに馬車への同乗を懇願する。ともにレッドロックを目指していたのだった。
さらにまた、そこに、自称レッドロックの新保安官だというクリス・マニックス(ウォルトン・ゴンギズ)が加わる。彼もまた馬を失っていたのだ。
こうして、4人は同じ馬車で、同じ場所を目指して進んでいく。
予想外に吹雪が激しさを増す。4人は、途中にあるミニーの店に避難する。そこならば様々な品物も揃っていて、天候が回復するまで逗留可能だ。
店に着くとすでに4人の先客がいた。しかも、店主ミニーを含め、おなじみの面々が店にはいない。この店をよく知るウォーレンは、その異常にすぐ気づく。
囚人ドメグルを鎖で繋いでいるルースも、異様な雰囲気に警戒する。自分が連れている賞金首ドメグルを狙っている輩が、その中に紛れていると確信していたのだ。
こうして集った8人は、何かしらの偽りを抱え、他の者を欺いている。この騙し合いの結末に待っているものとは、いったいどんなものなのか─
奇才クエンティン・タランティーノが監督、巨匠エンニオ・モリコーネが音楽、Ultra Panavision 70を使用、と何かと話題が多い作品
▶ 映画館環境
ユナイテッド・シネマ豊洲スクリーン10は定員415人、スクリーンサイズ22.6m×9.7m(シネマスコープ)と大きな劇場。
座席は前方と後方の2ブロックに配置、E列は2ブロック目の最前列。座ったE19席はちょうどスクリーンの真ん中。スクリーンの大きさに対して若干近すぎるかもしれないが、迫力は満点。前に手すりなどもなく、ゆったりと観賞。
日本公開初日、話題性が多い割に観客が少なめ。主要映画祭の作品賞などのノミネートや受賞がないためだろうか。それとも3時間近い上映時間が敬遠されたのだろうか。
70ミリで撮った作品なので、どうせなら大画面で見たかったので、都内で上映されている中で最も大きなスクリーンであるのはどこかと探ると、ここだった。
実際見ると、それほど特別な映像の美しさなど感じることができず、むしろ、雪のシーンなどでは縦に走るモアレのようなものを常に感じてしまって、70ミリで撮ったものはやはり70ミリ上映で見なければ意味がないということを実感するだけだった、そんなの見たこともないけれど…。
▶ 作品レビュー
クエンティン・タランティーノが好き勝手に作った映画でしょう、これは。下劣だし、卑猥だし、スプラッターだし、差別的だし、面白くなければクソ映画といえるだろう。だが、面白い、本当に面白い。
細かな描写だけを見ると、酷いんです、これが。血しぶきブシャー、ニガー!ニガー!の連呼、死体がゴロゴロ、死んだら完全に物扱い、全裸、黒いものをしゃぶらせる…絶対これは18禁だなと断定できる。あまりにも酷すぎて、笑っちゃいます。
ただ、これら過激な描写を批判すれば、不思議とその批判した当人こそが批判される側になりそうで、恐らくこれを批判的に見る者は単に眉にシワを寄せ目をそむけるだけ。声を上げるのは喝采する者だけのような気がする。黒人差別だ、女性蔑視だ、そう叫ぶと、そういうお前こそが差別しているんだぞと罵られること必至。
実際に南北戦争の頃は黒人差別など酷かっただろうし、女の顔に血しぶきが飛び散るのは銃社会なのだから当たり前。そもそも、西部劇自体が偏見の塊のようなものであり、タランティーノは単にありのままのことを正直に表現し、そしてそれをエンターテインメントとして提示しているだけ。これを笑える社会こそが健全だと思う。とはいえ、子供には見せたくないかな。
個人的にこの映画で一番興味を引かれたのは、ウルトラ・パナビジョン70という触れ込み。その実力とはいかい!? 正直、ウルトラ・パナビジョン70なるものが何なのか、あらゆる説明を読んでもよく分からない。分かったのは2.76:1というアスペクト比だけ。相当横長になるわけで、つまり広々とした空間表現が可能だということが分かる。
実際に荒野に広がる雪景色から始まるこの映画は、ウルトラ・パナビジョンの特性を存分に生かし切ろうという意図が感じられる。しかし、広々としたロングショットよりも、閉塞した室内の映像や人物のクロースショットの方が非常に迫力を感じた。それが、タランティーノというアーティストの力量なのだろう。美しい景色を撮ることよりも、複雑な人間関係を撮ることの方がこの監督には合っている。さらなる空間表現を求めたことは、ある意味チャレンジだったのだろう。それはあまり成功しているとは言い難いけれども、自分が得意とする表現にさらに磨きがかかり、そして、次なる野望にも繋がっているのかもしれない。一層の可能性を感ぜずにはいられない。
小難しいこと云々よりも、この映画は非常に面白い、それ以外ない、という感想が正直なところ。これまで築き上げられてきたハリウッド映画の記号を用いて、誰にも思いつくことができないであろう創造力を持ってして、思い通りに表現している至極のエンターテインメント、それ以外の何ものでもない。
黒人差別だの、銃社会だの、男女平等だの、命の尊さだの、ありもしない隠されたメッセージみたいなものを掘り起こしたくなる映画だ。例えそういった志がタランティーノにあったとして、実際にそれを映画の中に反映していたとしても、そういった問題意識を持ち出してこの映画を評価すること自体、無意味なような気がする。究極、面白ければそれでいい、それが映画だろ─間違いなくタランティーノはそういう意識でこの映画を作っているからだ。
「これは自分の最高傑作だ」と、タランティーノは自画自賛していた。それを見て、まさしくこれはタランティーノの最高傑作だ(全てのタランティーノ作品を見ているわけではないけれど)、自分はそう感じ、それ故に、何も語る必要がないと思ったわけだ。そうはいいながら、ぐだぐだ述べてしまったのだが…。
ただ、万人にはおすすめはしない。嫌悪する人や見てはいけない人は必ずいる。そういう人が、これを見て貶めるようなことはしてほしくない。
タランティーノ好きは勿論のこと、デビット・リンチ好き、寺山修司好き、ホドロフスキー好きの人はおすすめです。
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レッキング・クルー 伝説のミュージシャンたち
レッキング・クルー 伝説のミュージシャンたち(2014年・アメリカ)
原題:The Wrecking Crew
公開日:(日)2016年2月20日
配給:(米)マグノリア・ピクチャーズ (日)ジェットリンク、エレファントハウス、カルチャヴィル
時間:101分
監督:デニー・テデスコ
制作:クリス・ホープ
ジョン・レオノウダキス
ミッチェル・リンデン
クレア・スキャンロン
デイモン・テデスコ
デニー・テデスコ
スージー・グリーン・テデスコ
制作総指揮:ハーブ・アルパート
ジェリー・モス
クリフォード・バーンスタイン
デニス・ジョイス
出演:ブライアン・ウィルソン
グレン・キャンベル
ジミー・ウェッブ
ミッキー・ドレンツ
ハル・ブレイン
トミー・テデスコ
キャロル・ケイ
アル・ケーシー
アール・パーマーほか
撮影:ロドニー・テイラー、トリッシュ・ゴボニ
編集:クレア・スキャンロン
鑑賞日:2016年2月23日
場所:シネマカリテ スクリーン2 C−8
■ ストーリー
1960年代から70年代にかけて活躍したスタジオミュージシャンの集団、レッキング・クルー。ナット・キング・コール、フランク・シナトラなどのビッグネームのスタジオ録音に携わり、ビーチ・ボーイズやモンキーズ、バーズ、ママス&パパスといったウェストコーストを代表するバンドの録音にも参加していて、彼らこそがそのサウンドを作り上げたといっても過言ではない。しかし、当初、彼らの名前はアルバムのどこにも明記されることがなかった。
そんな伝説的音楽集団にスポットを当てたドキュメンタリー映画。
本作はレッキング・クルーの中心メンバーだったギタリスト、トミー・テデスコの息子デニーが父親の勇姿を残そうとして制作が始まり、デニーが監督を務め、貴重な映像をまとめながら、2008年に完成する。
劇中で使用している音楽約130曲の版権を完全にクリアするまでに8年を要し、2015年にようやく全米公開となる。
▶ 映画館環境
新宿シネマカリテのスクリーン2は客席79、いわゆるミニシアター。
後方の列に座ると、スクリーンが小さく感じてしまう。
今回座った席は3列目のC−8、スクリーンを前にすると右端の席。劇場の構成上、どこに座っても見た目の大差はないように思うが、とにかく後ろは避けた方がいい。
個人的には、C−1、E−1、E−10あたりがベストと見た。
平日の夜の上映。9割方の入りだったと思う。予想外の盛況。客層は完全に年配の方々が占めていた。明らかにオールディーズのファン層が中心。
▶ 作品レビュー
ロックは金でしかない…だから、彼ら彼女らは表舞台に出てこなかった─
出てくる人が皆、口を揃えていうことは金のことばかりであり、ヒットするとかそういうことばかり言っていて、(まぁあくまでショウビズとしてのドキュメンタリーだから受け入れるしかなかったのだが)、当初これを見ることへの疑問とか時間の無駄ということしか感じることができなかった。唯一、ブライアン・ウィルソンだけが音楽へのこだわりをもって、レッキング・クルーを使っていたというところだけが例外で、あとは全て売ることが目的で彼らの演奏を利用していた。とっても、個人的にはビーチ・ボーイズのサウンド自体好きじゃないし、食うために腕を発揮している者は世の中に腐るほどいるだろうに…という思いで見ていた。
嫌気を覚えたのは、最初インタビューばっかりだったからだ。全体的にしゃべりが多すぎるし、言っていることって大概褒め殺しのようなもの。それが形を変え繰り返されることに怒りすら覚える。その不満も、レッキング・クルーが実際に演奏しているのを見聴きすることによって、徐々に解消されていくのだけれど─。
キャロル・ケイがギーターとベースを自在に演操り、まさに不動の実力を感じてしまう。メンバー全員が複数の楽器を見事に演奏したという眉唾物の発言があったけれども、あながち嘘でもなさそうだと、ようやく納得し出した。最初から、メンバー全員に演奏させて始まればいいものを、出し惜しみもいいところ。大物ミュージシャンがいくらレッキング・クルーは凄い凄いと言ったところで説得力なんて全くない。演奏一つで全て説明がつくというのに─。
特に、ハル・ブレインのドラム演奏には魅せられた。中盤、本当に飽き飽きしていたところで、彼の演奏は助かった。
ナンシー・シナトラとかハーブ・アルパートの映像やお話しは、最悪だったし、そもそも彼女と彼が世の中にどれだけ影響を与えたかなど、たかが知れている話しではないか。そんな半端なヒットメーカーを持ってきたところで、レッキング・クルーが果たした役割というものに何ら凄みを覚えない。単に、一時代の一地域の流行を懐かしく語っていただけに過ぎない。
そんな怠惰な中盤でも、モンキーズのミッキー・ドレンツの話しには笑ったと同時に悲哀を感じた。トミー・テデスコのギターを含めレッキング・クルーの演奏があまりにも凄すぎて、レコーディングの仕上がりは最高でも、実際に俺たちには演奏できないというモンキーズのメンバーからの不平不満が続出したという。
語りが多すぎて、無駄と思えるところが多いドキュメンタリーではあるけれど、その内容が濃いところは非常に興味をそそる。
その最たるものが、やはりビーチ・ボーイズとのレコーディング話。何十テイクも繰り返すブライアン・ウィルソンの音へのこだわりを皆が皆称賛し、そこにレッキング・クルーの技量が存分に発揮されているのだと納得させられる。それほど好きでもない、『ペッツ・サウンズ』をもう一度聴き直してみようかなという気にさえさせられる。
理想を追求するブライアンを天才だと皆は言う。彼が求めるのは高尚なものだと。しかし、当のブライアンは「何を求めていたか正直分からない、ただ全ての音が合うまでやり続けただけなんだ」と語っていたところには、思わず笑ってしまった。
それに続くフル・スペクターの理不尽な要求の話しとか、真実味があったし─。
そもそも、燦然と輝く作品を今さら言葉で賛美しても意味がないわけで、ぶっちぇけ話とか暴露話であればこちらとしても見応えあるし、さらにまたそれら名作を聴き直そうかなとも思ったりもする。
とはいえ、その名作の裏にはレッキング・クルーあり、という知られざる賛美ネタであるならば、こちらとしても新鮮にそれらを受け止めることができる。惜しむらくは、活躍当時の映像がほとんどないということ。完全に裏方として扱われていたわけだから、当然と言えば当然なのかも知れないが…。だから無駄な昔話が多くなってしまっているのだろう。
寝る暇もなく、しかも稼ぎに稼いだ過去の栄光から比べるもなく、今となっては仕事量も激減していることだろう。しかし、その実力は恐らく体が動かなくなるまで消え失せることはないだろう。
全く力みのないスムーズな演奏に心が奪われる。単なる訓練などではあんな演奏はできないだろう。現場で鍛えられたからこその実力であることは明らかだ。
キャロル・ケイは語っている。自分の家庭はそれほど裕福ではなく、公共の集合住宅に住む母子家庭で育ち、母親が懸命に月謝を払って通わせてくれたギター教室のおかげで、何とか手に職をつけることができたのだと。
そしてハル・ブレインは言う。ストリップなどで演奏し、楽譜は常にその場で渡されその場で暗譜、そのおかげで、たとえどんな場面であってもすぐに演奏できるようになったと。
『ペッツ・サウンズ』の演奏はほぼレッキング・クルーだと言われるだけでもなかなか衝撃的なところがある。その上、全てではないにしてもバーズやママス&パパスの演奏もレッキング・クルーであったと聞かされると、60年代70年代のアメリカンロックを形づくったのはまさに彼らではないかと思ってしまう。生み出したのは世に名の通っているビッグネームかも知れないけれども、確立したのは間違いなくレッキング・クルーと言っても過言ではあるまい。
卓越した演奏技術があっても、自らが生み出すことが少なかったために、その凋落も激しかったようだ。ハル・ブレインのゴールドディスクまで売ったという話しは悲しすぎる。そして、トミー・テデスコのテレビ出演の映像などは悲惨極まりない。音楽をスポーツ的に捉えて技術を追求したところで、スーパースターには成り得ない、そういう悲しい帰結になってしまっている。
エンドで流れる音楽を聴いて、これほどまでに超メジャーな楽曲に参加していたとは…と最後の最後まで驚きを隠せない─
サイモン&ガーファンクルなどもそうか…考えてみたら、もともと2人しかいないわけだから、レッキング・クルーをフル活用でもサイモン&ガーファンクルと言えるかもねー。キャプテン&テニールもそうだし、ライチャス・ブラザーやソニー&シェールもそうだろう。ビーチ・ボーイズやロネッツ、ママス&パパスなどは歌のハーモニーがメインだから楽器を誰が弾こうが問題ない。しかし、最も衝撃を受けたのはHawaiiFIVEOのテーマが流れたとき。これってベッンチャーズじゃないの?!よく調べてみると、ベンチャーズはカバーしただけで、それがヒットしたから彼らの作品のようになっているけれど、もとのテーマを演奏していたのは違う面々、そうまさにレッキング・クルーだったということなのか?!だとしたら、あまりに報われない職人集団であると思わざるを得ない。映画を作って何とか世に知らしめようとした、トミー・テデスコの息子の気持ちが痛いほど分かる。
結果、オールディーズファンにとってたまらないドキュメンタリー映画であった。
原題:The Wrecking Crew
公開日:(日)2016年2月20日
配給:(米)マグノリア・ピクチャーズ (日)ジェットリンク、エレファントハウス、カルチャヴィル
時間:101分
監督:デニー・テデスコ
制作:クリス・ホープ
ジョン・レオノウダキス
ミッチェル・リンデン
クレア・スキャンロン
デイモン・テデスコ
デニー・テデスコ
スージー・グリーン・テデスコ
制作総指揮:ハーブ・アルパート
ジェリー・モス
クリフォード・バーンスタイン
デニス・ジョイス
出演:ブライアン・ウィルソン
グレン・キャンベル
ジミー・ウェッブ
ミッキー・ドレンツ
ハル・ブレイン
トミー・テデスコ
キャロル・ケイ
アル・ケーシー
アール・パーマーほか
撮影:ロドニー・テイラー、トリッシュ・ゴボニ
編集:クレア・スキャンロン
鑑賞日:2016年2月23日
場所:シネマカリテ スクリーン2 C−8
■ ストーリー
1960年代から70年代にかけて活躍したスタジオミュージシャンの集団、レッキング・クルー。ナット・キング・コール、フランク・シナトラなどのビッグネームのスタジオ録音に携わり、ビーチ・ボーイズやモンキーズ、バーズ、ママス&パパスといったウェストコーストを代表するバンドの録音にも参加していて、彼らこそがそのサウンドを作り上げたといっても過言ではない。しかし、当初、彼らの名前はアルバムのどこにも明記されることがなかった。
そんな伝説的音楽集団にスポットを当てたドキュメンタリー映画。
本作はレッキング・クルーの中心メンバーだったギタリスト、トミー・テデスコの息子デニーが父親の勇姿を残そうとして制作が始まり、デニーが監督を務め、貴重な映像をまとめながら、2008年に完成する。
劇中で使用している音楽約130曲の版権を完全にクリアするまでに8年を要し、2015年にようやく全米公開となる。
▶ 映画館環境
新宿シネマカリテのスクリーン2は客席79、いわゆるミニシアター。
後方の列に座ると、スクリーンが小さく感じてしまう。
今回座った席は3列目のC−8、スクリーンを前にすると右端の席。劇場の構成上、どこに座っても見た目の大差はないように思うが、とにかく後ろは避けた方がいい。
個人的には、C−1、E−1、E−10あたりがベストと見た。
平日の夜の上映。9割方の入りだったと思う。予想外の盛況。客層は完全に年配の方々が占めていた。明らかにオールディーズのファン層が中心。
▶ 作品レビュー
ロックは金でしかない…だから、彼ら彼女らは表舞台に出てこなかった─
出てくる人が皆、口を揃えていうことは金のことばかりであり、ヒットするとかそういうことばかり言っていて、(まぁあくまでショウビズとしてのドキュメンタリーだから受け入れるしかなかったのだが)、当初これを見ることへの疑問とか時間の無駄ということしか感じることができなかった。唯一、ブライアン・ウィルソンだけが音楽へのこだわりをもって、レッキング・クルーを使っていたというところだけが例外で、あとは全て売ることが目的で彼らの演奏を利用していた。とっても、個人的にはビーチ・ボーイズのサウンド自体好きじゃないし、食うために腕を発揮している者は世の中に腐るほどいるだろうに…という思いで見ていた。
嫌気を覚えたのは、最初インタビューばっかりだったからだ。全体的にしゃべりが多すぎるし、言っていることって大概褒め殺しのようなもの。それが形を変え繰り返されることに怒りすら覚える。その不満も、レッキング・クルーが実際に演奏しているのを見聴きすることによって、徐々に解消されていくのだけれど─。
キャロル・ケイがギーターとベースを自在に演操り、まさに不動の実力を感じてしまう。メンバー全員が複数の楽器を見事に演奏したという眉唾物の発言があったけれども、あながち嘘でもなさそうだと、ようやく納得し出した。最初から、メンバー全員に演奏させて始まればいいものを、出し惜しみもいいところ。大物ミュージシャンがいくらレッキング・クルーは凄い凄いと言ったところで説得力なんて全くない。演奏一つで全て説明がつくというのに─。
特に、ハル・ブレインのドラム演奏には魅せられた。中盤、本当に飽き飽きしていたところで、彼の演奏は助かった。
ナンシー・シナトラとかハーブ・アルパートの映像やお話しは、最悪だったし、そもそも彼女と彼が世の中にどれだけ影響を与えたかなど、たかが知れている話しではないか。そんな半端なヒットメーカーを持ってきたところで、レッキング・クルーが果たした役割というものに何ら凄みを覚えない。単に、一時代の一地域の流行を懐かしく語っていただけに過ぎない。
そんな怠惰な中盤でも、モンキーズのミッキー・ドレンツの話しには笑ったと同時に悲哀を感じた。トミー・テデスコのギターを含めレッキング・クルーの演奏があまりにも凄すぎて、レコーディングの仕上がりは最高でも、実際に俺たちには演奏できないというモンキーズのメンバーからの不平不満が続出したという。
語りが多すぎて、無駄と思えるところが多いドキュメンタリーではあるけれど、その内容が濃いところは非常に興味をそそる。
その最たるものが、やはりビーチ・ボーイズとのレコーディング話。何十テイクも繰り返すブライアン・ウィルソンの音へのこだわりを皆が皆称賛し、そこにレッキング・クルーの技量が存分に発揮されているのだと納得させられる。それほど好きでもない、『ペッツ・サウンズ』をもう一度聴き直してみようかなという気にさえさせられる。
理想を追求するブライアンを天才だと皆は言う。彼が求めるのは高尚なものだと。しかし、当のブライアンは「何を求めていたか正直分からない、ただ全ての音が合うまでやり続けただけなんだ」と語っていたところには、思わず笑ってしまった。
それに続くフル・スペクターの理不尽な要求の話しとか、真実味があったし─。
そもそも、燦然と輝く作品を今さら言葉で賛美しても意味がないわけで、ぶっちぇけ話とか暴露話であればこちらとしても見応えあるし、さらにまたそれら名作を聴き直そうかなとも思ったりもする。
とはいえ、その名作の裏にはレッキング・クルーあり、という知られざる賛美ネタであるならば、こちらとしても新鮮にそれらを受け止めることができる。惜しむらくは、活躍当時の映像がほとんどないということ。完全に裏方として扱われていたわけだから、当然と言えば当然なのかも知れないが…。だから無駄な昔話が多くなってしまっているのだろう。
寝る暇もなく、しかも稼ぎに稼いだ過去の栄光から比べるもなく、今となっては仕事量も激減していることだろう。しかし、その実力は恐らく体が動かなくなるまで消え失せることはないだろう。
全く力みのないスムーズな演奏に心が奪われる。単なる訓練などではあんな演奏はできないだろう。現場で鍛えられたからこその実力であることは明らかだ。
キャロル・ケイは語っている。自分の家庭はそれほど裕福ではなく、公共の集合住宅に住む母子家庭で育ち、母親が懸命に月謝を払って通わせてくれたギター教室のおかげで、何とか手に職をつけることができたのだと。
そしてハル・ブレインは言う。ストリップなどで演奏し、楽譜は常にその場で渡されその場で暗譜、そのおかげで、たとえどんな場面であってもすぐに演奏できるようになったと。
『ペッツ・サウンズ』の演奏はほぼレッキング・クルーだと言われるだけでもなかなか衝撃的なところがある。その上、全てではないにしてもバーズやママス&パパスの演奏もレッキング・クルーであったと聞かされると、60年代70年代のアメリカンロックを形づくったのはまさに彼らではないかと思ってしまう。生み出したのは世に名の通っているビッグネームかも知れないけれども、確立したのは間違いなくレッキング・クルーと言っても過言ではあるまい。
卓越した演奏技術があっても、自らが生み出すことが少なかったために、その凋落も激しかったようだ。ハル・ブレインのゴールドディスクまで売ったという話しは悲しすぎる。そして、トミー・テデスコのテレビ出演の映像などは悲惨極まりない。音楽をスポーツ的に捉えて技術を追求したところで、スーパースターには成り得ない、そういう悲しい帰結になってしまっている。
エンドで流れる音楽を聴いて、これほどまでに超メジャーな楽曲に参加していたとは…と最後の最後まで驚きを隠せない─
サイモン&ガーファンクルなどもそうか…考えてみたら、もともと2人しかいないわけだから、レッキング・クルーをフル活用でもサイモン&ガーファンクルと言えるかもねー。キャプテン&テニールもそうだし、ライチャス・ブラザーやソニー&シェールもそうだろう。ビーチ・ボーイズやロネッツ、ママス&パパスなどは歌のハーモニーがメインだから楽器を誰が弾こうが問題ない。しかし、最も衝撃を受けたのはHawaiiFIVEOのテーマが流れたとき。これってベッンチャーズじゃないの?!よく調べてみると、ベンチャーズはカバーしただけで、それがヒットしたから彼らの作品のようになっているけれど、もとのテーマを演奏していたのは違う面々、そうまさにレッキング・クルーだったということなのか?!だとしたら、あまりに報われない職人集団であると思わざるを得ない。映画を作って何とか世に知らしめようとした、トミー・テデスコの息子の気持ちが痛いほど分かる。
結果、オールディーズファンにとってたまらないドキュメンタリー映画であった。
火の山のマリア
火の山のマリア(2015年/グアテマラ・フランス合作)
原題:Ixcanul
公開日:(仏)2015年11月27日 (日)2016年2月13日
配給:(仏)ARP Sélection (日)エスパース・サロウ
時間:93分
監督:ハイロ・ブスタマンテ
脚本:ハイロ・ブスタマンテ
制作:イネス・ノフエンテス、マリーナ・ペラルタ、ピラール・ペレード、エドガルド・テネンバウム
出演:マリア・メルセデス・コロイ(マリア)、マリア・テロン(フアナ)ほか
編集:ルイス・アルマンド・アルテアガ
音楽:パスクアル・レジェス
鑑賞日:2016年2月16日
場所:岩波ホール C-6(※全席自由席)
■ ストーリー
舞台は、太古の昔マヤ文明が繁栄したグアテマラの高地。火山付近で暮らす先住民は、肥沃な土地で農業を営み、常に土地の神へ感謝と畏怖の念を抱いている。
先住民マリアは父と母の3人暮らし。借地でコーヒー農園を営み生計を立てている。農園は毒ヘビの発生に悩まされていて、思うように収穫を確保できず、生活は困窮していた。
そんな中、マリアの両親は地主とマリアとの婚約を決めてしまう。マリアには恋心を抱く若者がいたが、そんな気持ちなど全く無視。
マリアは結婚前に恋する若者に処女を捧げる。そしてその若者と共にアメリカに夢を求めて逃走しようと心に決める。しかし、若者には置いていかれて、それを追いかけたマリアは婚約者に発見され、結局家へと送り返されてしまう。
しばらくして、マリアの妊娠が発覚する。農薬を飲んだり、あらゆる神事を用いたものの、子供を堕胎することができない。ついに、マリアはすべてを公にし、子供を産むことを決意する。それを知った婚約者の態度は一変した。一家の農地をとりあげ、追い出そうとする。
先住民はカクチケル語を話し、グアテマラの公用語はスペイン語であったため、役所の手続きや病院などの対応には通訳が必要であった。一家の通訳は農園の地主一人がすべて行っている。一家がスペイン語を理解できないことをいいことに、地主の都合のいいようにでたらめの通訳も頻繁に行われていた。
そんな中、マリアが毒ヘビにかまれて病院に担ぎ込まれる。そこでも、地主の通訳でやりとりが行われ、それが悲劇へとつながっていく─
グアテマラ出身のハイロ・ブスタマンテ監督の初長編映画。2015年ベルリン国際映画祭で銀熊賞受賞。グアテマラの社会問題を浮き彫りにした作品。
▶ 映画館環境
岩波ホールは座席数220のいわゆるミニシアターと呼ばれるもの。座席とスクリーンの間が離れているので、なるべく前方の席を取った方がいい。最前列も悪くはないが、やはり見上げが甚だしい。今回は前から3列目のC-6を選択。通路側で、スクリーン向かってかなり左寄り。座席間があまり広くないので、個人的には真ん中の席は取りたくない。位置は3列目がベスト。多少見上げだが、4列目以降は画面が小さい印象を受ける。
平日の午前の上映、かなりの客数、しかもほぼ高齢者。
ミニシアターとして有名な場所だから、何度か足を運んでいるが、昔からこの劇場は好きではない。チケット売場も変な位置にあり、空いてないときもあるし、劇場がオフィスビルの10階なのでエレベーターの待ち時間が長い。スクリーンは小さいし、座席スペースも狭いし、自販機の値段も割高だし、トイレに小階段があったりと、本当に客のことを考えているのかどうか疑問だ。
見たい映画がなければ決して行きたくない。でも、たまにここでしかやってない、見たい映画があるんだなーこれが…。
▶ 作品レビュー
見ていて結構つらい映画だった。退屈とか駄作とかそういった意味ではなく、内容が直視できないところがあった。
呪術とかしきたりに縛られる先住民の生活に嫌悪感を覚えるし、先住民が先住民を搾取する現実とか、家畜をバラすシーンとか(バラしているものを我々も食べているわけだから目をそらしてはいけないと凝視したけれど─)、毒ヘビとか、男尊女卑とか子供は親の道具でしかないとか、描かれている内容は醜悪なものが多い。
映像そのものはなかなか素晴らしい。それらは、大自然や先住民のエスニック要素によるものが大で、政府が助成金を出してまで保護しようとする意義も理解できる。
そもそも、保護といいながら果たしてしっかりと保護されているのかどうか大いに疑問。結局、生活を変えないでくれと言われる先住民が不利益を被るだけではないのかと思わざるを得ない。
今の世の中、さらにその先、電気や水道などの現代的インフラが全く整備されていない環境など考えられない。過去の文化や風俗を残していくこと、それは記録とか形式とかでしか成り立たないのではないだろうか。
マリアは悲惨な犠牲者だ。先住民という弱者が被っている現状、そして、女であるがゆえの卑下、それらすべてを彼女が代弁している。電気も水道もない貧しい環境での暮らし、十分な助成金も行き届かず、教育も十分でない様子もうかがえる。そして、家の中では、単なる労働力であり、結婚も勝手に決められてしまい、そして女性は家事の一切をこなす…、若者が夢を求めてアメリカなどに向かう現状にも頷ける。
マリアの身に起こる出来事が、あまりにも悲惨で馬鹿げたものであり、常に嫌な思いで見続けた。それでも、最後まで見るだけのストーリー展開の面白さはあったし、何よりも見続けなければならない責任も感じた。
近代的な生活をすることこそが幸せに繋がるわけではないとは思うが、呪術を重んじたり、赤ん坊を簡単に流産させるといった悲劇をつくってはならない。それら害がなくならないというのであれば、その古い文化・風俗など残す意味は全くない。
雄大な自然、牧歌的な風俗、それら映像に魅せられつつ、その内情は悲惨極まりないという現状を突きつけられると、非常に複雑な感情になってしまう。奇麗に着飾るマリアの姿を良しとするか否か、その判断が難しい。
文化を残すにしても変えるにしても、本当に当事者のことを思っての対応をしなければならないと、いまさらながら、気づかされたといったところ。社会的意識をかき立てられる映画であった。
原題:Ixcanul
公開日:(仏)2015年11月27日 (日)2016年2月13日
配給:(仏)ARP Sélection (日)エスパース・サロウ
時間:93分
監督:ハイロ・ブスタマンテ
脚本:ハイロ・ブスタマンテ
制作:イネス・ノフエンテス、マリーナ・ペラルタ、ピラール・ペレード、エドガルド・テネンバウム
出演:マリア・メルセデス・コロイ(マリア)、マリア・テロン(フアナ)ほか
編集:ルイス・アルマンド・アルテアガ
音楽:パスクアル・レジェス
鑑賞日:2016年2月16日
場所:岩波ホール C-6(※全席自由席)
■ ストーリー
舞台は、太古の昔マヤ文明が繁栄したグアテマラの高地。火山付近で暮らす先住民は、肥沃な土地で農業を営み、常に土地の神へ感謝と畏怖の念を抱いている。
先住民マリアは父と母の3人暮らし。借地でコーヒー農園を営み生計を立てている。農園は毒ヘビの発生に悩まされていて、思うように収穫を確保できず、生活は困窮していた。
そんな中、マリアの両親は地主とマリアとの婚約を決めてしまう。マリアには恋心を抱く若者がいたが、そんな気持ちなど全く無視。
マリアは結婚前に恋する若者に処女を捧げる。そしてその若者と共にアメリカに夢を求めて逃走しようと心に決める。しかし、若者には置いていかれて、それを追いかけたマリアは婚約者に発見され、結局家へと送り返されてしまう。
しばらくして、マリアの妊娠が発覚する。農薬を飲んだり、あらゆる神事を用いたものの、子供を堕胎することができない。ついに、マリアはすべてを公にし、子供を産むことを決意する。それを知った婚約者の態度は一変した。一家の農地をとりあげ、追い出そうとする。
先住民はカクチケル語を話し、グアテマラの公用語はスペイン語であったため、役所の手続きや病院などの対応には通訳が必要であった。一家の通訳は農園の地主一人がすべて行っている。一家がスペイン語を理解できないことをいいことに、地主の都合のいいようにでたらめの通訳も頻繁に行われていた。
そんな中、マリアが毒ヘビにかまれて病院に担ぎ込まれる。そこでも、地主の通訳でやりとりが行われ、それが悲劇へとつながっていく─
グアテマラ出身のハイロ・ブスタマンテ監督の初長編映画。2015年ベルリン国際映画祭で銀熊賞受賞。グアテマラの社会問題を浮き彫りにした作品。
▶ 映画館環境
岩波ホールは座席数220のいわゆるミニシアターと呼ばれるもの。座席とスクリーンの間が離れているので、なるべく前方の席を取った方がいい。最前列も悪くはないが、やはり見上げが甚だしい。今回は前から3列目のC-6を選択。通路側で、スクリーン向かってかなり左寄り。座席間があまり広くないので、個人的には真ん中の席は取りたくない。位置は3列目がベスト。多少見上げだが、4列目以降は画面が小さい印象を受ける。
平日の午前の上映、かなりの客数、しかもほぼ高齢者。
ミニシアターとして有名な場所だから、何度か足を運んでいるが、昔からこの劇場は好きではない。チケット売場も変な位置にあり、空いてないときもあるし、劇場がオフィスビルの10階なのでエレベーターの待ち時間が長い。スクリーンは小さいし、座席スペースも狭いし、自販機の値段も割高だし、トイレに小階段があったりと、本当に客のことを考えているのかどうか疑問だ。
見たい映画がなければ決して行きたくない。でも、たまにここでしかやってない、見たい映画があるんだなーこれが…。
▶ 作品レビュー
見ていて結構つらい映画だった。退屈とか駄作とかそういった意味ではなく、内容が直視できないところがあった。
呪術とかしきたりに縛られる先住民の生活に嫌悪感を覚えるし、先住民が先住民を搾取する現実とか、家畜をバラすシーンとか(バラしているものを我々も食べているわけだから目をそらしてはいけないと凝視したけれど─)、毒ヘビとか、男尊女卑とか子供は親の道具でしかないとか、描かれている内容は醜悪なものが多い。
映像そのものはなかなか素晴らしい。それらは、大自然や先住民のエスニック要素によるものが大で、政府が助成金を出してまで保護しようとする意義も理解できる。
そもそも、保護といいながら果たしてしっかりと保護されているのかどうか大いに疑問。結局、生活を変えないでくれと言われる先住民が不利益を被るだけではないのかと思わざるを得ない。
今の世の中、さらにその先、電気や水道などの現代的インフラが全く整備されていない環境など考えられない。過去の文化や風俗を残していくこと、それは記録とか形式とかでしか成り立たないのではないだろうか。
マリアは悲惨な犠牲者だ。先住民という弱者が被っている現状、そして、女であるがゆえの卑下、それらすべてを彼女が代弁している。電気も水道もない貧しい環境での暮らし、十分な助成金も行き届かず、教育も十分でない様子もうかがえる。そして、家の中では、単なる労働力であり、結婚も勝手に決められてしまい、そして女性は家事の一切をこなす…、若者が夢を求めてアメリカなどに向かう現状にも頷ける。
マリアの身に起こる出来事が、あまりにも悲惨で馬鹿げたものであり、常に嫌な思いで見続けた。それでも、最後まで見るだけのストーリー展開の面白さはあったし、何よりも見続けなければならない責任も感じた。
近代的な生活をすることこそが幸せに繋がるわけではないとは思うが、呪術を重んじたり、赤ん坊を簡単に流産させるといった悲劇をつくってはならない。それら害がなくならないというのであれば、その古い文化・風俗など残す意味は全くない。
雄大な自然、牧歌的な風俗、それら映像に魅せられつつ、その内情は悲惨極まりないという現状を突きつけられると、非常に複雑な感情になってしまう。奇麗に着飾るマリアの姿を良しとするか否か、その判断が難しい。
文化を残すにしても変えるにしても、本当に当事者のことを思っての対応をしなければならないと、いまさらながら、気づかされたといったところ。社会的意識をかき立てられる映画であった。
ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る
ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る(2014年・オランダ)
原題:Om de wereld in 50 concerten
公開日:(蘭)2014年11月27日 (日)2016年1月30日
配給:(Netherlands)Cinemien (日)S・D・P
時間:98分
監督:エディ・ホニグマン
脚本:エディ・ホニグマン
制作:カルメン・コボス、ケース・ライニンクス
撮影:フフト・ヒルタイ
編集:ダニエル・ダニエル
鑑賞日:2016年2月16日
場所:ユーロスペース スクリーン2
■ プロット
ベルリン・フィル、ウィーン・フィルとともに世界三大オーケストラとして並び評されるロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(RCO)。2013年に創立125周年記念ツアーを行い、1年間に世界各地で50の公演をこなした。それを、アムステルダム、アルゼンチン、南アフリカ、ロシアの公演を中心にまとめたものが本作。楽団員に対して深く切り込むと同時に、各地の観賞者にもスポットを当てながら展開していく。
▶ 映画館環境
ユーロスペースのスクリーン2は座席数145。
スクリーンサイズがスタンダード(1:1.37)2.9×3.9m、
ヨーロピアン・ビスタ(1:1.66)2.9×4.814m、
アメリカン・ビスタ(1:1.85)2.9×5.365m、
シネマスコープ(1:2.35)2.9×6.815m、
いわゆるミニシアター。
どこに座っても問題なく観賞できるので、結構好きな劇場。
平日午後イチの上映、客数もそこそこ。相当数の上映回数だったので、予想外の客の多さ。単館、ネームバリューといった要素が大きいのだろうか。
▶ 作品レビュー
ブルックナー交響曲第7番から始まり、マーラーをへて、ストラビンスキーで締めくくってくれたこの映画、個人的にはそれだけでもう満足。世界ナンバーワンと評されている楽団でもって、好きな楽曲を存分に流してもらえただけで、すばらしい映画だったわけです、みんなぜひ見てください、終わり! とはいかないでしょう─…
楽団員が語る楽曲・楽器への思いも、演奏を見に来た人が語る音楽への思いも、そしてまた、楽団員と観客との場外での交流など、非常に興味深いエピソードが展開される。
楽団員の語りで印象的だったのは、コントラバス奏者のエピソード。バイオリンなどよりも演奏者がいないため、演奏会のたびに声がかかるという理由からコントラバスを始めて、本格的に傾倒していったのはショスタコーヴィチの交響曲第10番を弾いてからだという。その理由は、それまでテンポを刻むための楽器だと思っていたコントラバスだが、10番冒頭でコントラバスがメロディーを響かせるという体験をした時、身震いがするほどの衝撃を受けたという。それ以来、コントラバスに取り憑かれたようで、その交響曲第10番を題材に、コントラバスがいかに活躍するかを説明するその姿に、ただただ頷いてその演奏を聴き入るのみ。とはいえ、やっぱこのデカイ楽器は移動に不便だから、やっぱバイオリンとかの方が人気なんだろうなぁと思わざるを得なかった。
その機動性豊かなバイオリンを引き下げて、コンマスと女性バイオリニストが演奏会に来ることができなかった知り合いの元に生演奏をしに行くというシーンなどには、じんわり涙腺を濡らしてしまった。粋な計らいプラス素晴らしい演奏─、あれをやられたら、自分だったら号泣だろう、まぁそんなこと望むべくもないけれど…。
今回、オランダ、アルゼンチン、南アフリカ、ロシアでの模様を収めたこの映画は、単に偉大な音楽を提示するという目論見にとどまらず、人々と音楽の携わり方というのも垣間見せてくれている。それを見るにつけ、つくづく思うのは、欧米やアフリカにおいて音楽というものは、まさにその地に根づいた文化であるということ。そして常にそれを羨望の眼差しで見る自分がいる。
日本における音楽というものは、何か別次元のものであり、その土地に根ざしているとは言い難い。唯一、沖縄の音楽などは完全に土着の文化と成り得ている観はあるが、日本の音楽は往々にしてそういう感覚は希薄だと思ってしまう。
アムステルダムの運河でのコンサートや、南アフリカのスティールドラム演奏などを見ていると、住民ほぼ全員が自分たちの音楽をこよなく愛しているという思いが否応なく伝わってくる。そしてその憧憬にただ涙するしかないのである。
単なる憧れでもいい、高尚なる芸術を眺めるだけでもいい、とにかく、彼らが奏でる音楽、願わくば、マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィチ、ストラビンスキー、いずれかの交響曲を生で聴きたいと思ってしまう映画であった。まぁ蓋然的帰結ではあるのだけれども、西洋クラシカル音楽に興味を持たぬ者は、たぶん寝るだろう、爆睡必至。
興味を持ったからって、オランダへ行っても生で聴けるかどうか分からないし、だいいち、どれだけのコストがかかるのかっていう話。そしてたとえ運良く来日公演に遭遇したとしても、その前に座ることさえ難しいのだから、何ともまぁ、悩ましいドキュメンタリーだなぁ…
原題:Om de wereld in 50 concerten
公開日:(蘭)2014年11月27日 (日)2016年1月30日
配給:(Netherlands)Cinemien (日)S・D・P
時間:98分
監督:エディ・ホニグマン
脚本:エディ・ホニグマン
制作:カルメン・コボス、ケース・ライニンクス
撮影:フフト・ヒルタイ
編集:ダニエル・ダニエル
鑑賞日:2016年2月16日
場所:ユーロスペース スクリーン2
■ プロット
ベルリン・フィル、ウィーン・フィルとともに世界三大オーケストラとして並び評されるロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(RCO)。2013年に創立125周年記念ツアーを行い、1年間に世界各地で50の公演をこなした。それを、アムステルダム、アルゼンチン、南アフリカ、ロシアの公演を中心にまとめたものが本作。楽団員に対して深く切り込むと同時に、各地の観賞者にもスポットを当てながら展開していく。
▶ 映画館環境
ユーロスペースのスクリーン2は座席数145。
スクリーンサイズがスタンダード(1:1.37)2.9×3.9m、
ヨーロピアン・ビスタ(1:1.66)2.9×4.814m、
アメリカン・ビスタ(1:1.85)2.9×5.365m、
シネマスコープ(1:2.35)2.9×6.815m、
いわゆるミニシアター。
どこに座っても問題なく観賞できるので、結構好きな劇場。
平日午後イチの上映、客数もそこそこ。相当数の上映回数だったので、予想外の客の多さ。単館、ネームバリューといった要素が大きいのだろうか。
▶ 作品レビュー
ブルックナー交響曲第7番から始まり、マーラーをへて、ストラビンスキーで締めくくってくれたこの映画、個人的にはそれだけでもう満足。世界ナンバーワンと評されている楽団でもって、好きな楽曲を存分に流してもらえただけで、すばらしい映画だったわけです、みんなぜひ見てください、終わり! とはいかないでしょう─…
楽団員が語る楽曲・楽器への思いも、演奏を見に来た人が語る音楽への思いも、そしてまた、楽団員と観客との場外での交流など、非常に興味深いエピソードが展開される。
楽団員の語りで印象的だったのは、コントラバス奏者のエピソード。バイオリンなどよりも演奏者がいないため、演奏会のたびに声がかかるという理由からコントラバスを始めて、本格的に傾倒していったのはショスタコーヴィチの交響曲第10番を弾いてからだという。その理由は、それまでテンポを刻むための楽器だと思っていたコントラバスだが、10番冒頭でコントラバスがメロディーを響かせるという体験をした時、身震いがするほどの衝撃を受けたという。それ以来、コントラバスに取り憑かれたようで、その交響曲第10番を題材に、コントラバスがいかに活躍するかを説明するその姿に、ただただ頷いてその演奏を聴き入るのみ。とはいえ、やっぱこのデカイ楽器は移動に不便だから、やっぱバイオリンとかの方が人気なんだろうなぁと思わざるを得なかった。
その機動性豊かなバイオリンを引き下げて、コンマスと女性バイオリニストが演奏会に来ることができなかった知り合いの元に生演奏をしに行くというシーンなどには、じんわり涙腺を濡らしてしまった。粋な計らいプラス素晴らしい演奏─、あれをやられたら、自分だったら号泣だろう、まぁそんなこと望むべくもないけれど…。
今回、オランダ、アルゼンチン、南アフリカ、ロシアでの模様を収めたこの映画は、単に偉大な音楽を提示するという目論見にとどまらず、人々と音楽の携わり方というのも垣間見せてくれている。それを見るにつけ、つくづく思うのは、欧米やアフリカにおいて音楽というものは、まさにその地に根づいた文化であるということ。そして常にそれを羨望の眼差しで見る自分がいる。
日本における音楽というものは、何か別次元のものであり、その土地に根ざしているとは言い難い。唯一、沖縄の音楽などは完全に土着の文化と成り得ている観はあるが、日本の音楽は往々にしてそういう感覚は希薄だと思ってしまう。
アムステルダムの運河でのコンサートや、南アフリカのスティールドラム演奏などを見ていると、住民ほぼ全員が自分たちの音楽をこよなく愛しているという思いが否応なく伝わってくる。そしてその憧憬にただ涙するしかないのである。
単なる憧れでもいい、高尚なる芸術を眺めるだけでもいい、とにかく、彼らが奏でる音楽、願わくば、マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィチ、ストラビンスキー、いずれかの交響曲を生で聴きたいと思ってしまう映画であった。まぁ蓋然的帰結ではあるのだけれども、西洋クラシカル音楽に興味を持たぬ者は、たぶん寝るだろう、爆睡必至。
興味を持ったからって、オランダへ行っても生で聴けるかどうか分からないし、だいいち、どれだけのコストがかかるのかっていう話。そしてたとえ運良く来日公演に遭遇したとしても、その前に座ることさえ難しいのだから、何ともまぁ、悩ましいドキュメンタリーだなぁ…
ドラゴン・ブレイド
ドラゴン・ブレイド(2014年/中国・香港合作)
原題:天将雄師 Dragon Blade
公開日:(中国)2015年2月19日 (日本)2016年2月12日
配給:(World-wide)Golden Network Asia (日)ツイン
時間:103分 ※国際版125分
監督:ダニエル・リー
脚本:ダニエル・リー
出演:ジャッキー・チェン(フォ・アン)、ジョン・キューザック(ルシウス)、エイドリアン・ブロディ(ティベリウス)ほか
撮影:トニー・チャン
美術:ダニエル・リー
編集:ヤウ・チーワイ
音楽:ヘンリー・ライ
鑑賞日:2016年2月13日
場所:TOHOシネマズ六本木 スクリーン5 D-10
■ ストーリー
前漢時代の中国。シルクロードでは、広大な砂漠地帯で36の部族が領土や利権をめぐり紛争を続けていた。国境防衛隊とその地域の治安維持を任されている西域警備隊の隊長フォ・アン(ジャッキー・チェン)は、西域の平和実現のために日夜各地の警備に当たっていたが、陰謀によって反逆者の汚名を着せられ、部下と共に西域辺境の関所・雁門関に送られてしまう。一方、ローマ帝国の将軍ルシウス(ジョン・キューザック)は、暗殺された執政官クラッススの末息子で、暗殺者から命を狙われているプブリウスを守り自らの軍勢を引き連れてシルクロードに逃れてくる。雁門関で運命の出会いを果たし、国の違いを越えて友情を深め合うフォ・アンとルシウス。
ルシウスはローマの最新的な建築技術を用いて雁門関の砦の修復工事を成し遂げる。だが、そこにルシウスを追って、父を殺し、弟プブリウスの命をも狙うクラッススの長男ティベリウス(エイドリアン・ブロディ)がローマ帝国最強の軍勢を率いて攻め込んでくる。
そして、ティベリウスの真の狙いは中国侵略にあった。フォ・アンは、一致団結してローマ帝国と戦おうと、いがみ合う36部族の共闘を提案するが…、果たして彼らは国と人命を守り向けるのだろうか?
※日本語公式HPより
構想10年、中国映画として最高の制作費4億元(約70億円)をかけた超大作!
▶ 映画館環境
TOHOシネマズ六本木のスクリーン5は収容人数110でスクリーンサイズ3.0×7.3mと比較的小さな劇場。座席がいやな朱色。しかし各列スペースが広いため、ゆったりとみることができる。今回座ったD-10は前から4列目。画面に向かってやや右寄りの通路側の席。多少見上げになるが、スクリーンも大きくないので、結果ベストポジションであった。欲をいえばE列が良かったかもしれない。
週末の夜、大都市での上映にもかかわらず、空席が目立った。ガラガラというほどでもないが予想外に客が少ないことに一抹の不安。
▶ 作品レビュー
いまだかつて、歴史的事実を題材にしながら、こんなにも理解できなかった映画を見たことがない。とにかくストーリーそのものが理解できなかった。歴史的背景などを文字情報でたくさん説明していたけれども、展開上において細かなが全く理解できなかった。
基本的なストーリーテリングにおいて、明らかに欠陥を感じてしまう。5W1Hというものが全く考慮されておらず、時系列や場所、位置関係がとにかく目茶苦茶。説明するために突然回想が入り込んできたりするのだが、それが全然説明になっておらず、単にイメージ映像が挿入されている印象でしかなく、見ているこちらは混乱するばかり。
一番やりたかったことはアクションだろうことは明白。それならば、もっとシンプルな話でいいはずだが、どうも単純な話にしたくはないらしい。余計な裏切りやらどんでん返しが多すぎて、基本的な筋が分からなくなってくる。そもそも、基本的な筋なんてもともと無いに等しいと言った方が正しいかもしれないが─。
シルクロードを守るのが目的なのか、関所を守るのが目的なのか、幼き逃亡者を助けるのが目的なのか、ローマ軍を倒すのが目的なのか、全く分からない。おそらくその全てということなのだろう。大河ドラマじゃあるまいし、とても2時間では語りきれるとは思えない。
まあいい。全てを網羅した超大作なのだから、かなりのスケールで描かれている。それは認めよう。しかし、いったいフォ・アンが住む場所と活躍する場の位置関係というのはどうなっているのか。そして、36の部族はどこから湧いて出てくるのか、また、ルシアスはどこから来て、それを追うローマ軍はいったいどこから湧いて出てくるのか、全てにわたって位置関係が全く理解できない。故に、目の前の画面はただの平面でしかなく、空間といったものが全く感じられない。
ある物語を映像で見る場合、人物がどこから来てどこに行って、そして今そこがどこなのか違和感なく見ていることがほとんどだと思う。それなりのプロフェッショナルが作っているものであれば、それら空間表現のためにあらゆる努力をしているはずで、その甲斐あって観賞者は違和感なく自然に物語を受け入れることができる。こんなことを書かねばならないとは、全くバカらしいのだが、この基本的なストーリーテリングが全くできていない作品に出会ってしまったのだから、仕方がない。
この映画を見終わった直後は、何と酷いものを見てしまったのだろうかという思いしかなかったのだが、いま思い返してみると、単に導入部分の基本的な説明が雑すぎたのではと思う。ボロボロにやられながらも決して倒れることがない、これぞジャッキーという表現に鳥肌立ったし、36部族が独自の音をかき鳴らしながらローマ軍に立ち向かう場面など面白いアイデアだと思ったし、なんといってもジョン・キューザックが酷い拷問を受けたあたりの描写など笑ったなぁ、─という具合に、かなりいい場面もあったわけで、それを素直に楽しめなかったのは常に頭の中につきまとう疑問符のためだった。
全てをティベリウス(エイドリアン・ブロディ)の悪に集約していくやり方は分かりやすく、いかにも超大作っていう感じで非常にいい。だがしかし─・・・
自分が見たこの映画は103分、しかし国際版は125分、その差が20分以上もある。どこがどう削られているか分からないけれども、前半の説明的な部分などならばかなり致命的だと思ったりする。ただ、それを補ったとしても、もはや自分の中ではこの映画は最低な映画だという結論は揺るがない。
鳥の大群がローマ軍を襲うことで状況が変わったり、敵の大将を倒すことで全てが解決するといった語り口に、決して妥協などできない。確かに超大作らしいなぁーと思ったりするのだが、超大作という鳴り物を背負っているがために、なおさら駄作のレッテルを貼らざるを得ない。オープニングの「ドラゴン・ブレイド」とカタカナで記された邦題も酷かったなー。敢えてヘタウマ的なものを狙ったのかどうか分からないけれども、70億円もかけて“ある意味笑える”映画など作らないだろう。まぁこの邦題をつけているのは日本の配給会社であるから、ジャッキーの意向を無視して悪ふざけをしてしまったという想像はできるけれども。
最後に─これも悪口になってしまうのだけれども─英語と中国語で展開される中途半端さにも残念な気持ちのみ。別に36部族の言語を使い分けろとか、そんな非現実的なリアリティーは求めないし、それらは中国語で我慢できよう。だが、ローマ人がイングリッシュとか都合のいいバイリンガルとか、違和感が甚だしい。ストーリーを楽しめないと尚更だ。登場してくるパルティアの人々は英語だったか中国語だったかもはや記憶すらない。中国映画なんだからローマ人も中国語でいいのに。ジョーン・キューザックやエイドリアン・ブロディも中国語で演技すれば笑えたのに─、決して笑わせようとしていないところが非常に痛い。
あの「グラディエーター」は偉大な映画だったのだなー…
原題:天将雄師 Dragon Blade
公開日:(中国)2015年2月19日 (日本)2016年2月12日
配給:(World-wide)Golden Network Asia (日)ツイン
時間:103分 ※国際版125分
監督:ダニエル・リー
脚本:ダニエル・リー
出演:ジャッキー・チェン(フォ・アン)、ジョン・キューザック(ルシウス)、エイドリアン・ブロディ(ティベリウス)ほか
撮影:トニー・チャン
美術:ダニエル・リー
編集:ヤウ・チーワイ
音楽:ヘンリー・ライ
鑑賞日:2016年2月13日
場所:TOHOシネマズ六本木 スクリーン5 D-10
■ ストーリー
前漢時代の中国。シルクロードでは、広大な砂漠地帯で36の部族が領土や利権をめぐり紛争を続けていた。国境防衛隊とその地域の治安維持を任されている西域警備隊の隊長フォ・アン(ジャッキー・チェン)は、西域の平和実現のために日夜各地の警備に当たっていたが、陰謀によって反逆者の汚名を着せられ、部下と共に西域辺境の関所・雁門関に送られてしまう。一方、ローマ帝国の将軍ルシウス(ジョン・キューザック)は、暗殺された執政官クラッススの末息子で、暗殺者から命を狙われているプブリウスを守り自らの軍勢を引き連れてシルクロードに逃れてくる。雁門関で運命の出会いを果たし、国の違いを越えて友情を深め合うフォ・アンとルシウス。
ルシウスはローマの最新的な建築技術を用いて雁門関の砦の修復工事を成し遂げる。だが、そこにルシウスを追って、父を殺し、弟プブリウスの命をも狙うクラッススの長男ティベリウス(エイドリアン・ブロディ)がローマ帝国最強の軍勢を率いて攻め込んでくる。
そして、ティベリウスの真の狙いは中国侵略にあった。フォ・アンは、一致団結してローマ帝国と戦おうと、いがみ合う36部族の共闘を提案するが…、果たして彼らは国と人命を守り向けるのだろうか?
※日本語公式HPより
構想10年、中国映画として最高の制作費4億元(約70億円)をかけた超大作!
▶ 映画館環境
TOHOシネマズ六本木のスクリーン5は収容人数110でスクリーンサイズ3.0×7.3mと比較的小さな劇場。座席がいやな朱色。しかし各列スペースが広いため、ゆったりとみることができる。今回座ったD-10は前から4列目。画面に向かってやや右寄りの通路側の席。多少見上げになるが、スクリーンも大きくないので、結果ベストポジションであった。欲をいえばE列が良かったかもしれない。
週末の夜、大都市での上映にもかかわらず、空席が目立った。ガラガラというほどでもないが予想外に客が少ないことに一抹の不安。
▶ 作品レビュー
いまだかつて、歴史的事実を題材にしながら、こんなにも理解できなかった映画を見たことがない。とにかくストーリーそのものが理解できなかった。歴史的背景などを文字情報でたくさん説明していたけれども、展開上において細かなが全く理解できなかった。
基本的なストーリーテリングにおいて、明らかに欠陥を感じてしまう。5W1Hというものが全く考慮されておらず、時系列や場所、位置関係がとにかく目茶苦茶。説明するために突然回想が入り込んできたりするのだが、それが全然説明になっておらず、単にイメージ映像が挿入されている印象でしかなく、見ているこちらは混乱するばかり。
一番やりたかったことはアクションだろうことは明白。それならば、もっとシンプルな話でいいはずだが、どうも単純な話にしたくはないらしい。余計な裏切りやらどんでん返しが多すぎて、基本的な筋が分からなくなってくる。そもそも、基本的な筋なんてもともと無いに等しいと言った方が正しいかもしれないが─。
シルクロードを守るのが目的なのか、関所を守るのが目的なのか、幼き逃亡者を助けるのが目的なのか、ローマ軍を倒すのが目的なのか、全く分からない。おそらくその全てということなのだろう。大河ドラマじゃあるまいし、とても2時間では語りきれるとは思えない。
まあいい。全てを網羅した超大作なのだから、かなりのスケールで描かれている。それは認めよう。しかし、いったいフォ・アンが住む場所と活躍する場の位置関係というのはどうなっているのか。そして、36の部族はどこから湧いて出てくるのか、また、ルシアスはどこから来て、それを追うローマ軍はいったいどこから湧いて出てくるのか、全てにわたって位置関係が全く理解できない。故に、目の前の画面はただの平面でしかなく、空間といったものが全く感じられない。
ある物語を映像で見る場合、人物がどこから来てどこに行って、そして今そこがどこなのか違和感なく見ていることがほとんどだと思う。それなりのプロフェッショナルが作っているものであれば、それら空間表現のためにあらゆる努力をしているはずで、その甲斐あって観賞者は違和感なく自然に物語を受け入れることができる。こんなことを書かねばならないとは、全くバカらしいのだが、この基本的なストーリーテリングが全くできていない作品に出会ってしまったのだから、仕方がない。
この映画を見終わった直後は、何と酷いものを見てしまったのだろうかという思いしかなかったのだが、いま思い返してみると、単に導入部分の基本的な説明が雑すぎたのではと思う。ボロボロにやられながらも決して倒れることがない、これぞジャッキーという表現に鳥肌立ったし、36部族が独自の音をかき鳴らしながらローマ軍に立ち向かう場面など面白いアイデアだと思ったし、なんといってもジョン・キューザックが酷い拷問を受けたあたりの描写など笑ったなぁ、─という具合に、かなりいい場面もあったわけで、それを素直に楽しめなかったのは常に頭の中につきまとう疑問符のためだった。
全てをティベリウス(エイドリアン・ブロディ)の悪に集約していくやり方は分かりやすく、いかにも超大作っていう感じで非常にいい。だがしかし─・・・
自分が見たこの映画は103分、しかし国際版は125分、その差が20分以上もある。どこがどう削られているか分からないけれども、前半の説明的な部分などならばかなり致命的だと思ったりする。ただ、それを補ったとしても、もはや自分の中ではこの映画は最低な映画だという結論は揺るがない。
鳥の大群がローマ軍を襲うことで状況が変わったり、敵の大将を倒すことで全てが解決するといった語り口に、決して妥協などできない。確かに超大作らしいなぁーと思ったりするのだが、超大作という鳴り物を背負っているがために、なおさら駄作のレッテルを貼らざるを得ない。オープニングの「ドラゴン・ブレイド」とカタカナで記された邦題も酷かったなー。敢えてヘタウマ的なものを狙ったのかどうか分からないけれども、70億円もかけて“ある意味笑える”映画など作らないだろう。まぁこの邦題をつけているのは日本の配給会社であるから、ジャッキーの意向を無視して悪ふざけをしてしまったという想像はできるけれども。
最後に─これも悪口になってしまうのだけれども─英語と中国語で展開される中途半端さにも残念な気持ちのみ。別に36部族の言語を使い分けろとか、そんな非現実的なリアリティーは求めないし、それらは中国語で我慢できよう。だが、ローマ人がイングリッシュとか都合のいいバイリンガルとか、違和感が甚だしい。ストーリーを楽しめないと尚更だ。登場してくるパルティアの人々は英語だったか中国語だったかもはや記憶すらない。中国映画なんだからローマ人も中国語でいいのに。ジョーン・キューザックやエイドリアン・ブロディも中国語で演技すれば笑えたのに─、決して笑わせようとしていないところが非常に痛い。
あの「グラディエーター」は偉大な映画だったのだなー…
キャロル
キャロル(2015年・アメリカ)
原題:Carol
公開日:(米)2015年11月20日 (日)2016年2月11日
配給:(米)ワインスタイン・カンパニー (日)ファントム・フィルム
時間:118分
監督:トッド・ヘインズ
制作:エリザベス・カールセン
スティーブン・ウーリー
クリスティーン・ベイコン
製作総指揮:テッサ・ロス
ドロシー・バーウィン
トーステン・シュマッカー
ボブ・ワインスタイン
ハーベイ・ワインスタイン
ダニー・パーキンス
ケイト・ブランシェット
アンドリュー・アプトン
ロバート・ジョリフ
原作:パトリシア・ハイスミス
脚本:フィリス・ナジー
出演:ケイト・ブランシェット(キャロル・エアード)
ルーニー・マーラ(テレーズ・ベリベット)
サラ・ポールソン(アビー・ゲーハード)ほか
撮影:エド・ラックマン
美術:ジュディ・ベッカー
衣装:サンディ・パウエル
編集:アフォンソ・ゴンサウベス
音楽:カーター・バーウェル
鑑賞日:2016年2月13日
場所:TOHOシネマズ六本木 スクリーン9 D-15
■ ストーリー
1952年、ニューヨーク。
カメラマンを目指しながら高級百貨店でアルバイトをするテレーズ(ルーニー・マーラ)は、クリスマスで賑わう玩具売場でひとりの女性と目と目が合う。
彼女の名はキャロル(ケート・ブランシェット)、娘のためのプレゼントを選んでいた。キャロルはテレーズに何がいいのか相談して、テレーズ自身が気に入っているという限定の鉄道模型セットを購入してその場を去る。その時、キャロルが革の手袋を忘れてしまう。それに気づいたテレーズだったが、もうキャロルの姿はない。
テレーズは、玩具を購入したキャロルから届け先として住所を聞いていたので、置き忘れていった手袋を郵送でキャロルのもとへと届けた。
キャロルは、心遣いの感謝としてテレーズをランチに誘う。
テレーズは、恋人や男性からの誘いに今一歩踏み出せないでいた。一方、キャロルも夫と離婚する段階にあり、娘の親権をめぐって争っていくことになる。男女の関係に違和感を持つふたりは、互いに惹かれ合っていく。
二人は旅に出て、そしてついに関係を持つことになる。しかし、その情事をキャロルの夫が密かに送り込んでいた探偵によって録音されてしまう。それは、親権を争う上でキャロルに不利になってしまう証拠であった。
娘を選ぶかテレーズを選ぶか─、キャロルが選択したのは、テレーズを自分の手の内から解放するという道だった。互いに心が打ち砕かれものの、キャロルは娘に会うことができて、テレーズは念願だった大手雑誌のカメラマンとして契約することができた。
願いは叶った。しかし、自らの気持ちを抑え込んでいる。その気持ちを公言することが恥であり、間違ったこととして偽ろうとする。
揺れ動く心、すれ違う思い、キャロルとテレーズはいったいどんな道を歩むのか…
自らレズビアンだった作家パトリシア・ハイスミスが1952年に刊行した「ザ・プライス・オブ・ソルト」をトッド・ヘインズ監督で映画化。1952年当時の時代背景を見事に再現している。
第68回カンヌ国際映画祭コンペティション部門でノミネート。ルーニー・マーラが女優賞を受賞するなど、非常に評価が高い作品。
▶ 映画館環境
TOHOシネマズ六本木のスクリーン9は収容人数258でスクリーンサイズ5.3×12.7mと比較的大きな劇場。前方3列、後方9列といった座席構成。後方5列目のH列がプレミア席。自分が座ったD列15番は、後方の最前列、画面向かって左寄りの席。画面が大きいため、迫力があって良い席だが、できたらD列ならばど真ん中を選びたい。前の手すりがあまりにも邪魔なので、プレミア席前のEFG列も悪くないだろう。
夜遅い時間帯の上映。半分席が埋まっているかどうかの客入り。評価が高いとはいえ、万人受けするような作品ではないと思うので、まずまずの集客状況といえるだろう。
▶ 作品レビュー
作品の根本テーマなどを考えるよりも、まずはこの映画そのものの美しさこそを感じて欲しい。1950年代のアメリカを丁寧に構築した絵づくりにただただ感銘するばかり。
登場する二人の女優があまりに美しく、あまりに馴染んでいるために、ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラという名前が完全に消え去り、そこにはキャロルとテレーズが存在するのみ。
個人的には「ブルー・ジャスミン」においてケイト・ブランシェットの凄さを感じたものだが、今回のキャロルで似て非なる人物像を完全につくりあげているその姿に、改めてこの人の実力を見たように思う。玲瓏な容姿の中に潜む強さや優しさ、テレーズから見たら完璧な対象を演じきっている。
でも見ているこちらが恋してしまうのは、テレーズの方なのだ。何となくピュアな印象を受け、普通とはどことなく変わっていて、都会と周りに溶け込もうと無理をする感じ─、何とも絶妙であり魅せられてしまう。
当初からこの映画は、賞レースという観点から女優対決という触れ込みがあったと記憶する。確かに甲乙つけがたい互いの演技ではあるが、繊細さを醸し出している面で、ルーニー・マーラがやや上かな、いや単なる好みでマーラが上かな、と思ったりする。
それにしても、実力ある俳優というのは恐ろしいものである。プライベートではLGBTでなくとも、LGBTの演技を求められ、なおかつ本当にそういう人なのではと思わせてしまう。いまさら言うべき事ではないけれど、女性同士の恋心に心を揺さぶられたら改めてそう思わずにはいられなかった。
女優2人の存在感がすべてだといえるこの映画だが、それを最大限に引き立てているのは、やはり画面の質感であろう。どことなく古臭く仕立て上げられているその絵が、幻想的な世界観を創り出しており、過去の時代がまるでお伽話のように展開していく。その中に、完全にこちら側も巻き込んでしまうわけで、そうなると、あくまで人間としての思いがこちらに伝わってくる。どういった人に恋をしようが、その感情は、全人類、それほど大差ないのかなと思ってしまう。もしかしたら恋心というものこそが、人間の感情において、普遍的なものなのかもしれない。
感情の昂ぶりをもってこの映画は終了する。こちらが興奮させられた瞬間にうまく終演させられると、強く印象に残ってしまう。最近でいえば「黄金のアデーレ」などもそうだった。過去のもので思い出してみると「父の祈りを」とか、ジャッキーのカンフー映画とかがその最たるもの、あくまでも個人的な意見ではあるけれど─。
キャロルとテレーズはこの後どうなるだろうと思ってしまう、それはすなわちこの映画の大勝利ということを意味している。映画が閉じてもさらに思考や想いが続いていく。そして、その物語に続く物語を夢想してしまう。そういう目論見で作られた映画は多々あるとは思うが、これほどまで見事にそれを成し得ている映画は希少であろう。黒で遮断されたはずが、決して切られてしまったという印象すら持つことができない。次に続く物語はそれぞれの胸の内に育まれ、どういったかたちであれ、いつの日かそれが花開くこともあるのだろう。
原題:Carol
公開日:(米)2015年11月20日 (日)2016年2月11日
配給:(米)ワインスタイン・カンパニー (日)ファントム・フィルム
時間:118分
監督:トッド・ヘインズ
制作:エリザベス・カールセン
スティーブン・ウーリー
クリスティーン・ベイコン
製作総指揮:テッサ・ロス
ドロシー・バーウィン
トーステン・シュマッカー
ボブ・ワインスタイン
ハーベイ・ワインスタイン
ダニー・パーキンス
ケイト・ブランシェット
アンドリュー・アプトン
ロバート・ジョリフ
原作:パトリシア・ハイスミス
脚本:フィリス・ナジー
出演:ケイト・ブランシェット(キャロル・エアード)
ルーニー・マーラ(テレーズ・ベリベット)
サラ・ポールソン(アビー・ゲーハード)ほか
撮影:エド・ラックマン
美術:ジュディ・ベッカー
衣装:サンディ・パウエル
編集:アフォンソ・ゴンサウベス
音楽:カーター・バーウェル
鑑賞日:2016年2月13日
場所:TOHOシネマズ六本木 スクリーン9 D-15
■ ストーリー
1952年、ニューヨーク。
カメラマンを目指しながら高級百貨店でアルバイトをするテレーズ(ルーニー・マーラ)は、クリスマスで賑わう玩具売場でひとりの女性と目と目が合う。
彼女の名はキャロル(ケート・ブランシェット)、娘のためのプレゼントを選んでいた。キャロルはテレーズに何がいいのか相談して、テレーズ自身が気に入っているという限定の鉄道模型セットを購入してその場を去る。その時、キャロルが革の手袋を忘れてしまう。それに気づいたテレーズだったが、もうキャロルの姿はない。
テレーズは、玩具を購入したキャロルから届け先として住所を聞いていたので、置き忘れていった手袋を郵送でキャロルのもとへと届けた。
キャロルは、心遣いの感謝としてテレーズをランチに誘う。
テレーズは、恋人や男性からの誘いに今一歩踏み出せないでいた。一方、キャロルも夫と離婚する段階にあり、娘の親権をめぐって争っていくことになる。男女の関係に違和感を持つふたりは、互いに惹かれ合っていく。
二人は旅に出て、そしてついに関係を持つことになる。しかし、その情事をキャロルの夫が密かに送り込んでいた探偵によって録音されてしまう。それは、親権を争う上でキャロルに不利になってしまう証拠であった。
娘を選ぶかテレーズを選ぶか─、キャロルが選択したのは、テレーズを自分の手の内から解放するという道だった。互いに心が打ち砕かれものの、キャロルは娘に会うことができて、テレーズは念願だった大手雑誌のカメラマンとして契約することができた。
願いは叶った。しかし、自らの気持ちを抑え込んでいる。その気持ちを公言することが恥であり、間違ったこととして偽ろうとする。
揺れ動く心、すれ違う思い、キャロルとテレーズはいったいどんな道を歩むのか…
自らレズビアンだった作家パトリシア・ハイスミスが1952年に刊行した「ザ・プライス・オブ・ソルト」をトッド・ヘインズ監督で映画化。1952年当時の時代背景を見事に再現している。
第68回カンヌ国際映画祭コンペティション部門でノミネート。ルーニー・マーラが女優賞を受賞するなど、非常に評価が高い作品。
▶ 映画館環境
TOHOシネマズ六本木のスクリーン9は収容人数258でスクリーンサイズ5.3×12.7mと比較的大きな劇場。前方3列、後方9列といった座席構成。後方5列目のH列がプレミア席。自分が座ったD列15番は、後方の最前列、画面向かって左寄りの席。画面が大きいため、迫力があって良い席だが、できたらD列ならばど真ん中を選びたい。前の手すりがあまりにも邪魔なので、プレミア席前のEFG列も悪くないだろう。
夜遅い時間帯の上映。半分席が埋まっているかどうかの客入り。評価が高いとはいえ、万人受けするような作品ではないと思うので、まずまずの集客状況といえるだろう。
▶ 作品レビュー
作品の根本テーマなどを考えるよりも、まずはこの映画そのものの美しさこそを感じて欲しい。1950年代のアメリカを丁寧に構築した絵づくりにただただ感銘するばかり。
登場する二人の女優があまりに美しく、あまりに馴染んでいるために、ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラという名前が完全に消え去り、そこにはキャロルとテレーズが存在するのみ。
個人的には「ブルー・ジャスミン」においてケイト・ブランシェットの凄さを感じたものだが、今回のキャロルで似て非なる人物像を完全につくりあげているその姿に、改めてこの人の実力を見たように思う。玲瓏な容姿の中に潜む強さや優しさ、テレーズから見たら完璧な対象を演じきっている。
でも見ているこちらが恋してしまうのは、テレーズの方なのだ。何となくピュアな印象を受け、普通とはどことなく変わっていて、都会と周りに溶け込もうと無理をする感じ─、何とも絶妙であり魅せられてしまう。
当初からこの映画は、賞レースという観点から女優対決という触れ込みがあったと記憶する。確かに甲乙つけがたい互いの演技ではあるが、繊細さを醸し出している面で、ルーニー・マーラがやや上かな、いや単なる好みでマーラが上かな、と思ったりする。
それにしても、実力ある俳優というのは恐ろしいものである。プライベートではLGBTでなくとも、LGBTの演技を求められ、なおかつ本当にそういう人なのではと思わせてしまう。いまさら言うべき事ではないけれど、女性同士の恋心に心を揺さぶられたら改めてそう思わずにはいられなかった。
女優2人の存在感がすべてだといえるこの映画だが、それを最大限に引き立てているのは、やはり画面の質感であろう。どことなく古臭く仕立て上げられているその絵が、幻想的な世界観を創り出しており、過去の時代がまるでお伽話のように展開していく。その中に、完全にこちら側も巻き込んでしまうわけで、そうなると、あくまで人間としての思いがこちらに伝わってくる。どういった人に恋をしようが、その感情は、全人類、それほど大差ないのかなと思ってしまう。もしかしたら恋心というものこそが、人間の感情において、普遍的なものなのかもしれない。
感情の昂ぶりをもってこの映画は終了する。こちらが興奮させられた瞬間にうまく終演させられると、強く印象に残ってしまう。最近でいえば「黄金のアデーレ」などもそうだった。過去のもので思い出してみると「父の祈りを」とか、ジャッキーのカンフー映画とかがその最たるもの、あくまでも個人的な意見ではあるけれど─。
キャロルとテレーズはこの後どうなるだろうと思ってしまう、それはすなわちこの映画の大勝利ということを意味している。映画が閉じてもさらに思考や想いが続いていく。そして、その物語に続く物語を夢想してしまう。そういう目論見で作られた映画は多々あるとは思うが、これほどまで見事にそれを成し得ている映画は希少であろう。黒で遮断されたはずが、決して切られてしまったという印象すら持つことができない。次に続く物語はそれぞれの胸の内に育まれ、どういったかたちであれ、いつの日かそれが花開くこともあるのだろう。
ディーパンの闘い
ディーパンの闘い(2015年・フランス)
原題:Dheepan
公開日:(仏)2015年8月26日 (日)2016年2月12日
配給:(日)ロングライド
時間:115分
監督:ジャック・オーディアール
脚本:ノエ・ドゥブレ、トーマス・ビデガン、ジャック・オーディアール
出演:アントニーターサン・ジェスターサン(ディーパン)
カレアスワリ・スリニバサン(ヤリニ)
カラウタヤニ・ビナシタンビ(イラヤル)
バンサン・ロティエ(ブラヒム)ほか
音楽:ニコラス・ジャー
鑑賞日:2016年2月12日
場所:TOHOシネマズシャンテ スクリーン1 E-9
■ ストーリー
スリランカの内戦で多くを失った元武装組織の兵士ディーパン。政府との武装闘争に破れて、半ば敗走する形で祖国を脱出しようとする。
彼は偽の家族をつくって他国へ難民として逃れる。ヤリニが偽の妻となり、イラヤルが偽の娘として、偽装3人家族はフランスに入国し、新たな生活が始まる。
当然偏見がある。その一方で人との温かい交流もある。すべてが自分たちとは違った世界、自分たちも他人同士、孤立していたディーパンの世界が徐々に広がり出す。
平和に過ぎてゆく生活のなかに、亡霊のごとく過去の武装組織の影がちらつき始める。同時に、まわりの犯罪者グループのいざこざにも巻き込まれてゆく。
ディーパンにとって、それが思い込みとか錯覚と言われようとも、もはや偽りの家族はかけがえのない存在となっており、何があろうとも守るべき存在となっていた。故に、そこに銃口を向けられたとき、彼の兵士としての闘争心が燃えたぎる─
ディーパン役のアントニーターサン・ジェスターサンは実際にタミル・イラーム解放のトラに従軍しており、その後逃亡、タイに逃れ4年間を過ごし、フランスに亡命。作家として活動。映画出演は今回が初。
フランスの名匠ジャック・オーディアールが監督し、第68回カンヌ映画祭で最高賞となるパルムドールを受賞。
▶ 映画館環境
TOHOシネマズシャンテのスクリーン1は収容人数225でスクリーンサイズが3.5×8.2m、中規模の劇場。座席配置の傾斜がかなり大きいため、列の前後で見た目の差が激しい。また、それ故に、どの列に座ってもスクリーンをしっかりと見ることができる。
最前列はかなり見上げ。最後方もかなり画面が小さく感じる。
今回の座席E-9は前から5列目の中央部。中央に通路があるため、ちょうど通路側の席となった。なかなか良い位置。ほんの少し見上げ、F列がベストだと感じた。G列だと多少画面が離れてしまう感覚になるはず。いずれにしてもEFG列の中央通路側が最高の位置。
週末の夜の上映であったので客入りもまあまあ。それにしても、カンヌパルムドール作品の割に空席が目立ったというのが正直な感想。カンヌ、ベルリン、ベネチアの受賞作品というのは意外と興収に結びつかないような気がする。面白さにバラツキがあるような気もするし、個人的な意見としてではあるけれども─。
▶ 作品レビュー
国際情勢を取り扱った印象があるこの映画、確かにそれは間違った見方ではないけれども、それは決して正確なレッテルではなく、むしろカッコイイ娯楽映画と見るべきなのかもしれない。
情報が氾濫している今の世の中にあっては、特別に知識を持っていなくても、単純なストーリーテリングを楽しむばかりでなく、多面的にこの作品を堪能することは可能だろう。むしろ情報過多の状況を利用してやろうという作り手側の意図を強く感じた。なかなか狡猾な作品である。
冒頭の映像がオシャレに演出されていて、この作品は時事ネタ映画ではないと主張している印象を受ける。それでも次に展開される映像は明らかにどこぞの紛争後を思わせるもの。やはりこれは時事ネタではとの思いが蘇る。個人的に、国際情勢を扱った映画で全く問題ないし、この映画を見に来ている人の多くは、同様の思いであるはず。でもこの映画は、頑なにそういった見方を否定しようとする。
主人公のディーパンが、うっすらと浮き上がるタイトルバックと共に、光る猫耳の玩具をつけながら表れた瞬間、正直、戸惑いを隠せない。これは、笑うべきところなのか否か─。今にして思うと、笑っていいかどうか迷う場面がこれ以外にも多々あったように思う。それは、自分自身が勝手にこの映画を社会派と決めつけていた故の戸惑いであり、娯楽だと思っていれば、何のことない、素直にほくそ笑んでしまうところが数多くあったということだ。
融通の利かない堅物として描かれているディーパンだが、その主人公ばかりに心を寄せていると、せっかくのユーモアを見過ごしてしまう。まぁ、それも狙いなんだろうけれど。
見ていると、いま沸き起こっているヨーロッパでの難民問題などをどうしても想起してしまうのだが、単なる偶然に過ぎないし、つくりもその問題をどうこうしようという意図が薄い。だから、あまりに国際情勢とこの映画をリンクさせようとすると、何か物足りない、薄っぺらな印象を受ける恐れがある。しかし、それは正当な評価ではないだろう。なぜなら、この映画はあくまで娯楽作品なのだから。
ディーパン役のアントニーターサン・ジェスターサンは、実際にタミル・イラーム解放のトラの戦闘員であったわけだし、映画初出演とはいえ、かなりリアリティーをもった演技をしている。果たしてこれは実際にあったことを映画化しているのでは?という妄想をしてしまう。あくまでフィクション、実際には有り得ないような話、しかしそれが社会問題を取り扱うかのような映画に見えてしまうことこそが、この映画が絶賛される所以なのだろう。
戦闘シーンはかなりリアルで、とてつもない恐怖を感じてしまった。実際の殺戮というのはこのように行われるのでは、と思えるほど。カメラワークや音、さらには特殊効果まで用いて幻想的な仕立て上げられたその映像の質感は、非常に冷たい。まるで、本当の死というのはこんなにも冷たいものなんだぞ、と言わんばかり。まさに、あらゆる死地をくぐり抜けてきた生真面目ディーパンがあってこその映像だ。
この映画は様々な伏線が提示されて、それらが紡ぎ合わされてひとつの大きな結果となっていく。最終的な戦闘シーンは、それまで語られてきたあらゆる事柄がひとつにまとまって爆発している。そして大団円のエンディングへとそれがつながる。
エンディングを見ながらふと思う。果たして、この幻想はどこから始まっていたのだろうか。そして、それは劇中においてどこまでが現実でどこまでが夢想なのか。それは捉え方次第ということなのだろうが、個人的には、いくらエンターテインメント映画だからとはいえ、現実はあんな夢のような世界で終わっているとは思えない。しかし、それは多くのタミル人が夢見る世界なのだろうと勝手に夢想し、勝手に哀を感じ、そして勝手に涙した。
それぞれが自由に捉えて、好き勝手に泣き笑いすればいいのだろう。何せこれは娯楽映画なのだから…
原題:Dheepan
公開日:(仏)2015年8月26日 (日)2016年2月12日
配給:(日)ロングライド
時間:115分
監督:ジャック・オーディアール
脚本:ノエ・ドゥブレ、トーマス・ビデガン、ジャック・オーディアール
出演:アントニーターサン・ジェスターサン(ディーパン)
カレアスワリ・スリニバサン(ヤリニ)
カラウタヤニ・ビナシタンビ(イラヤル)
バンサン・ロティエ(ブラヒム)ほか
音楽:ニコラス・ジャー
鑑賞日:2016年2月12日
場所:TOHOシネマズシャンテ スクリーン1 E-9
■ ストーリー
スリランカの内戦で多くを失った元武装組織の兵士ディーパン。政府との武装闘争に破れて、半ば敗走する形で祖国を脱出しようとする。
彼は偽の家族をつくって他国へ難民として逃れる。ヤリニが偽の妻となり、イラヤルが偽の娘として、偽装3人家族はフランスに入国し、新たな生活が始まる。
当然偏見がある。その一方で人との温かい交流もある。すべてが自分たちとは違った世界、自分たちも他人同士、孤立していたディーパンの世界が徐々に広がり出す。
平和に過ぎてゆく生活のなかに、亡霊のごとく過去の武装組織の影がちらつき始める。同時に、まわりの犯罪者グループのいざこざにも巻き込まれてゆく。
ディーパンにとって、それが思い込みとか錯覚と言われようとも、もはや偽りの家族はかけがえのない存在となっており、何があろうとも守るべき存在となっていた。故に、そこに銃口を向けられたとき、彼の兵士としての闘争心が燃えたぎる─
ディーパン役のアントニーターサン・ジェスターサンは実際にタミル・イラーム解放のトラに従軍しており、その後逃亡、タイに逃れ4年間を過ごし、フランスに亡命。作家として活動。映画出演は今回が初。
フランスの名匠ジャック・オーディアールが監督し、第68回カンヌ映画祭で最高賞となるパルムドールを受賞。
▶ 映画館環境
TOHOシネマズシャンテのスクリーン1は収容人数225でスクリーンサイズが3.5×8.2m、中規模の劇場。座席配置の傾斜がかなり大きいため、列の前後で見た目の差が激しい。また、それ故に、どの列に座ってもスクリーンをしっかりと見ることができる。
最前列はかなり見上げ。最後方もかなり画面が小さく感じる。
今回の座席E-9は前から5列目の中央部。中央に通路があるため、ちょうど通路側の席となった。なかなか良い位置。ほんの少し見上げ、F列がベストだと感じた。G列だと多少画面が離れてしまう感覚になるはず。いずれにしてもEFG列の中央通路側が最高の位置。
週末の夜の上映であったので客入りもまあまあ。それにしても、カンヌパルムドール作品の割に空席が目立ったというのが正直な感想。カンヌ、ベルリン、ベネチアの受賞作品というのは意外と興収に結びつかないような気がする。面白さにバラツキがあるような気もするし、個人的な意見としてではあるけれども─。
▶ 作品レビュー
国際情勢を取り扱った印象があるこの映画、確かにそれは間違った見方ではないけれども、それは決して正確なレッテルではなく、むしろカッコイイ娯楽映画と見るべきなのかもしれない。
情報が氾濫している今の世の中にあっては、特別に知識を持っていなくても、単純なストーリーテリングを楽しむばかりでなく、多面的にこの作品を堪能することは可能だろう。むしろ情報過多の状況を利用してやろうという作り手側の意図を強く感じた。なかなか狡猾な作品である。
冒頭の映像がオシャレに演出されていて、この作品は時事ネタ映画ではないと主張している印象を受ける。それでも次に展開される映像は明らかにどこぞの紛争後を思わせるもの。やはりこれは時事ネタではとの思いが蘇る。個人的に、国際情勢を扱った映画で全く問題ないし、この映画を見に来ている人の多くは、同様の思いであるはず。でもこの映画は、頑なにそういった見方を否定しようとする。
主人公のディーパンが、うっすらと浮き上がるタイトルバックと共に、光る猫耳の玩具をつけながら表れた瞬間、正直、戸惑いを隠せない。これは、笑うべきところなのか否か─。今にして思うと、笑っていいかどうか迷う場面がこれ以外にも多々あったように思う。それは、自分自身が勝手にこの映画を社会派と決めつけていた故の戸惑いであり、娯楽だと思っていれば、何のことない、素直にほくそ笑んでしまうところが数多くあったということだ。
融通の利かない堅物として描かれているディーパンだが、その主人公ばかりに心を寄せていると、せっかくのユーモアを見過ごしてしまう。まぁ、それも狙いなんだろうけれど。
見ていると、いま沸き起こっているヨーロッパでの難民問題などをどうしても想起してしまうのだが、単なる偶然に過ぎないし、つくりもその問題をどうこうしようという意図が薄い。だから、あまりに国際情勢とこの映画をリンクさせようとすると、何か物足りない、薄っぺらな印象を受ける恐れがある。しかし、それは正当な評価ではないだろう。なぜなら、この映画はあくまで娯楽作品なのだから。
ディーパン役のアントニーターサン・ジェスターサンは、実際にタミル・イラーム解放のトラの戦闘員であったわけだし、映画初出演とはいえ、かなりリアリティーをもった演技をしている。果たしてこれは実際にあったことを映画化しているのでは?という妄想をしてしまう。あくまでフィクション、実際には有り得ないような話、しかしそれが社会問題を取り扱うかのような映画に見えてしまうことこそが、この映画が絶賛される所以なのだろう。
戦闘シーンはかなりリアルで、とてつもない恐怖を感じてしまった。実際の殺戮というのはこのように行われるのでは、と思えるほど。カメラワークや音、さらには特殊効果まで用いて幻想的な仕立て上げられたその映像の質感は、非常に冷たい。まるで、本当の死というのはこんなにも冷たいものなんだぞ、と言わんばかり。まさに、あらゆる死地をくぐり抜けてきた生真面目ディーパンがあってこその映像だ。
この映画は様々な伏線が提示されて、それらが紡ぎ合わされてひとつの大きな結果となっていく。最終的な戦闘シーンは、それまで語られてきたあらゆる事柄がひとつにまとまって爆発している。そして大団円のエンディングへとそれがつながる。
エンディングを見ながらふと思う。果たして、この幻想はどこから始まっていたのだろうか。そして、それは劇中においてどこまでが現実でどこまでが夢想なのか。それは捉え方次第ということなのだろうが、個人的には、いくらエンターテインメント映画だからとはいえ、現実はあんな夢のような世界で終わっているとは思えない。しかし、それは多くのタミル人が夢見る世界なのだろうと勝手に夢想し、勝手に哀を感じ、そして勝手に涙した。
それぞれが自由に捉えて、好き勝手に泣き笑いすればいいのだろう。何せこれは娯楽映画なのだから…
コードギアス 亡国のアキト 最終章「愛シキモノタチヘ」
コードギアス 亡国のアキト 最終章「愛シキモノタチヘ」(2016年・日本)
公開日:2016年2月6日
配給:ショウゲート
時間:59分
監督:赤根和樹
原作:サンライズ、大河内一楼、谷口悟朗
脚本:大野木寛、赤根和樹
演出:渡辺正樹、三宅和男、山下明彦、間嶋崇寛、大石康之
出演:入野自由(日向アキト)、
坂本真綾(レイラ・マルカル)、
日野聡(佐山リョウ)、
松岡禎丞(成瀬ユキヤ)、
日笠陽子(香坂アヤノ)、
藤原啓治(クラウス・ウォリック)、
茅野愛衣(アンナ・クレマン)、
甲斐田裕子(ソフィ・ランドル)、
川田紳司(ジョウ・ワイズ)、
森久保祥太郎(オスカー・ハメル)、
石塚運昇(ジィーン・スマイラス)、
寺島拓篤(アシュレイ・アシュラ)、
伊瀬茉莉也(ジャン・ロウ)、
松風雅也(シン・ヒュウガ・シャイング)、
工藤晴香時(空の管理者)、
櫻井孝宏(枢木スザク)、
福山潤(ジュリアス・キングスレイ)ほか
キャラクターデザイン原案:CLAMP
キャラクターデザイン:木村貴宏
制作総指揮:島村秀一、吉川真帆、嘉手苅睦
メカ総作画監督:前田清明
ナイトメアデザイン原案:安田朗
メカデザイン:宮本崇、アストレイズ、沙倉拓実、寺岡賢司、片貝文洋、高倉武史、カトキハジメ
3DCGアニメーションディレクター:井野元英二、佐藤号宙
3DCG:オレンジ
音楽:橋本一子
鑑賞日:2016年2月7日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン1 C-10
■ ストーリー
アニメ「コードギアス 反逆のルルーシュ」のアナザーストーリー「コードギアス 亡国のアキト」、シリーズ5作目となる本作が最終章。
ユキアの放った爆弾でユーロ・ブリタニア軍の3分の2が消えた。しかし、ヴァイスボルフ城を包囲されたwZERO部隊は圧倒的に不利な状況。シンの部下であったアシュレイがwZERO部隊に加わり、敵の情報を得るものの、状況に変わりはない。
一方、痛手を受けたユーロ・ブリタニアだったが、聖ミカエル騎士団を統率するシンの指揮は衰えるどころか、苛烈さを極める。
最終決戦に臨むべく、アキトは兄シンとの戦いに挑んでゆく。そこでシンは「この世界を滅ぼすことが俺の目的だよ」そう言い放つ。ついにギアスが暴走し始めたのだ。
ギアスの暴走、それは人間にはギアスを扱えないということなのか─。
ヴァイスボルフ城の司令部では司令官のレイラが窮地に立たされていた。その時、時空の管理者が彼女の前に現れる。そして語る─、シンのギアスの暴走を止めることが出来るのであれば、人間にも可能性があるということを─。
レイラはアキトのもとへ─そして、すべての思いがアキトのもとへと集まってゆく。果たしてアキト、レイラ、シンの運命は!?ギアスと人間の行く末はどうなってゆくのか!?ついにシリーズが完結を迎える!!
▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン1は座席数130で、スクリーンサイズが10.1×4.2mとやや大きめの劇場。前方2列、後方7列の構成。後方最前列には手すりなどの柵がなく、スペースでいうと魅力的だが、若干前過ぎるのとスクリーンも大きめなので、見上げの苦しさを伴ってしまう。今回のC-10はまさにその列。真ん中とはいえ非常に疲れた。見やすさ重視ならばEFGあたりの列を選ぶのがベストかもしれない。
週末、夜からの上映で、本日初日、しかも最終章とあって場内ほぼ満席。男子が圧倒的多数。確かにこのシリーズはメカニカル重視だったような気がするから、その影響か─。
▶ 作品レビュー
なんとなく最後まで見てしまったなー、というのが正直な感想。ストーリー展開も内容の深さも「反逆のルルーシュ」に及びにもつかない。勝っていたのは、メカニカルの面だけであろう。出てくるナイトメアがあまりにもリアルな表情を見せるために、人物キャラクターの描写がかえって嘘っぽく見える。アニメーションの作画であるわけだから、非現実的で全く構わないとは思う。しかし、CGがあまりにリアル過ぎているため、2Dと3Dのバランスがうまく取れていないと、最終章になって感じてしまった。こんな違和感もちたくはなかったのだけれど…
とはいえ、シンが搭乗するナイトメアフレーム「ヴェルキンゲトリクス」は、金ピカで超カッコイイと思ってしまう。何ものにも勝るくらいの装飾と精密さによって異彩を放っている。だから惹かれるわけであり、そのこだわりこそがこのシリーズの欠点といえるのかもしれない。
思えば、コードギアス反逆のルルーシュが始まった当初、それほどロボットというかナイトメアが活躍しない展開に歯がゆい思いをしたものだが、そもそもこのお話はギアスというものが話の核であり、ロボ…じゃなくてナイトメア…、それが付属的な役割と考えるのが妥当だろう。話が進むにつれて、ギアス中心の展開に納得したし、それが話の深みとなっていた。途中、ナイトメアが大いに活躍する場面があったものの、話の帰結するところはギアスが拠り所となっていた。だからこそ面白いと思ったし、メカが二の次で何だか贅沢な感じさえしたものだ。
それが「亡国のアキト」ではメカニカル推しになっているような印象で、意外とひいてしまった。内容にしても、第1章などは全く話が理解できずに終わった気がしたし、この最終章の締めくくり方には全く納得がいかない。
かなりのハッピーエンドで、愛しきあの人は死なずにみんな幸せに暮らしたとさー、という終わり方が果たして今の時代に受け入れられるのだろうか?まぁ所詮アニメ、清く正しく美しければいいのかなー…。
しかも、あれだけメカ推しでありながら最後の最後は超アナログで、シリーズを一生懸命見続けたファンの欲求不満が募るのも当然かもしれない。
今にして思えば、戦いというものから多少離れた第3章あたりが一番面白かったのかもと思ってしまう。といっても、まだマシという程度のもの。
第2章で枢木スザクとジュリアス・キングスレイが登場した時には心が高鳴ったものだが、悪くいえばそれは単なる「反逆のルルーシュ」の亡霊みたいなものだし、それを超えることができなければ結局は満足いかないんだろうなぁということも想像はできた。
決してつまらないはとはまでは言わないが、ただ単純なアニメだったという印象。それでもファンはまだ決して離れていないと思うし、むしろまだ何かを期待し待ち望んでいる感じがする。そういう自分もその例外ではない。
このシリーズで半ば放置されて終わった観のある枢木スザクとジュリアス・キングスレイはどうなるんだろう? 今度は正面切ってギアスと対峙してくれる物語を期待したいものだが、果たして作ってくれるかどうか…といいつつも必ず作るものと信じている自分がここにいる。
公開日:2016年2月6日
配給:ショウゲート
時間:59分
監督:赤根和樹
原作:サンライズ、大河内一楼、谷口悟朗
脚本:大野木寛、赤根和樹
演出:渡辺正樹、三宅和男、山下明彦、間嶋崇寛、大石康之
出演:入野自由(日向アキト)、
坂本真綾(レイラ・マルカル)、
日野聡(佐山リョウ)、
松岡禎丞(成瀬ユキヤ)、
日笠陽子(香坂アヤノ)、
藤原啓治(クラウス・ウォリック)、
茅野愛衣(アンナ・クレマン)、
甲斐田裕子(ソフィ・ランドル)、
川田紳司(ジョウ・ワイズ)、
森久保祥太郎(オスカー・ハメル)、
石塚運昇(ジィーン・スマイラス)、
寺島拓篤(アシュレイ・アシュラ)、
伊瀬茉莉也(ジャン・ロウ)、
松風雅也(シン・ヒュウガ・シャイング)、
工藤晴香時(空の管理者)、
櫻井孝宏(枢木スザク)、
福山潤(ジュリアス・キングスレイ)ほか
キャラクターデザイン原案:CLAMP
キャラクターデザイン:木村貴宏
制作総指揮:島村秀一、吉川真帆、嘉手苅睦
メカ総作画監督:前田清明
ナイトメアデザイン原案:安田朗
メカデザイン:宮本崇、アストレイズ、沙倉拓実、寺岡賢司、片貝文洋、高倉武史、カトキハジメ
3DCGアニメーションディレクター:井野元英二、佐藤号宙
3DCG:オレンジ
音楽:橋本一子
鑑賞日:2016年2月7日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン1 C-10
■ ストーリー
アニメ「コードギアス 反逆のルルーシュ」のアナザーストーリー「コードギアス 亡国のアキト」、シリーズ5作目となる本作が最終章。
ユキアの放った爆弾でユーロ・ブリタニア軍の3分の2が消えた。しかし、ヴァイスボルフ城を包囲されたwZERO部隊は圧倒的に不利な状況。シンの部下であったアシュレイがwZERO部隊に加わり、敵の情報を得るものの、状況に変わりはない。
一方、痛手を受けたユーロ・ブリタニアだったが、聖ミカエル騎士団を統率するシンの指揮は衰えるどころか、苛烈さを極める。
最終決戦に臨むべく、アキトは兄シンとの戦いに挑んでゆく。そこでシンは「この世界を滅ぼすことが俺の目的だよ」そう言い放つ。ついにギアスが暴走し始めたのだ。
ギアスの暴走、それは人間にはギアスを扱えないということなのか─。
ヴァイスボルフ城の司令部では司令官のレイラが窮地に立たされていた。その時、時空の管理者が彼女の前に現れる。そして語る─、シンのギアスの暴走を止めることが出来るのであれば、人間にも可能性があるということを─。
レイラはアキトのもとへ─そして、すべての思いがアキトのもとへと集まってゆく。果たしてアキト、レイラ、シンの運命は!?ギアスと人間の行く末はどうなってゆくのか!?ついにシリーズが完結を迎える!!
▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン1は座席数130で、スクリーンサイズが10.1×4.2mとやや大きめの劇場。前方2列、後方7列の構成。後方最前列には手すりなどの柵がなく、スペースでいうと魅力的だが、若干前過ぎるのとスクリーンも大きめなので、見上げの苦しさを伴ってしまう。今回のC-10はまさにその列。真ん中とはいえ非常に疲れた。見やすさ重視ならばEFGあたりの列を選ぶのがベストかもしれない。
週末、夜からの上映で、本日初日、しかも最終章とあって場内ほぼ満席。男子が圧倒的多数。確かにこのシリーズはメカニカル重視だったような気がするから、その影響か─。
▶ 作品レビュー
なんとなく最後まで見てしまったなー、というのが正直な感想。ストーリー展開も内容の深さも「反逆のルルーシュ」に及びにもつかない。勝っていたのは、メカニカルの面だけであろう。出てくるナイトメアがあまりにもリアルな表情を見せるために、人物キャラクターの描写がかえって嘘っぽく見える。アニメーションの作画であるわけだから、非現実的で全く構わないとは思う。しかし、CGがあまりにリアル過ぎているため、2Dと3Dのバランスがうまく取れていないと、最終章になって感じてしまった。こんな違和感もちたくはなかったのだけれど…
とはいえ、シンが搭乗するナイトメアフレーム「ヴェルキンゲトリクス」は、金ピカで超カッコイイと思ってしまう。何ものにも勝るくらいの装飾と精密さによって異彩を放っている。だから惹かれるわけであり、そのこだわりこそがこのシリーズの欠点といえるのかもしれない。
思えば、コードギアス反逆のルルーシュが始まった当初、それほどロボットというかナイトメアが活躍しない展開に歯がゆい思いをしたものだが、そもそもこのお話はギアスというものが話の核であり、ロボ…じゃなくてナイトメア…、それが付属的な役割と考えるのが妥当だろう。話が進むにつれて、ギアス中心の展開に納得したし、それが話の深みとなっていた。途中、ナイトメアが大いに活躍する場面があったものの、話の帰結するところはギアスが拠り所となっていた。だからこそ面白いと思ったし、メカが二の次で何だか贅沢な感じさえしたものだ。
それが「亡国のアキト」ではメカニカル推しになっているような印象で、意外とひいてしまった。内容にしても、第1章などは全く話が理解できずに終わった気がしたし、この最終章の締めくくり方には全く納得がいかない。
かなりのハッピーエンドで、愛しきあの人は死なずにみんな幸せに暮らしたとさー、という終わり方が果たして今の時代に受け入れられるのだろうか?まぁ所詮アニメ、清く正しく美しければいいのかなー…。
しかも、あれだけメカ推しでありながら最後の最後は超アナログで、シリーズを一生懸命見続けたファンの欲求不満が募るのも当然かもしれない。
今にして思えば、戦いというものから多少離れた第3章あたりが一番面白かったのかもと思ってしまう。といっても、まだマシという程度のもの。
第2章で枢木スザクとジュリアス・キングスレイが登場した時には心が高鳴ったものだが、悪くいえばそれは単なる「反逆のルルーシュ」の亡霊みたいなものだし、それを超えることができなければ結局は満足いかないんだろうなぁということも想像はできた。
決してつまらないはとはまでは言わないが、ただ単純なアニメだったという印象。それでもファンはまだ決して離れていないと思うし、むしろまだ何かを期待し待ち望んでいる感じがする。そういう自分もその例外ではない。
このシリーズで半ば放置されて終わった観のある枢木スザクとジュリアス・キングスレイはどうなるんだろう? 今度は正面切ってギアスと対峙してくれる物語を期待したいものだが、果たして作ってくれるかどうか…といいつつも必ず作るものと信じている自分がここにいる。
オデッセイ
オデッセイ(2015年・アメリカ)
原題:The Martian
公開日:(米)2015年10月2日 (日)2016年2月5日
配給:20世紀フォックス
時間:142分
監督:リドリー・スコット
制作:サイモン・キンバーグ、リドリー・スコット、マイケル・シェイファー、アディタヤ・スード、マーク・ハッファム
原作:アンディ・ウィアー
脚本:ドリュー・ゴダード
出演:マット・デイモン(マーク・ワトニー)
ジェシカ・チャステイン(メリッサ・ルイス)
クリステン・ウィグ(アニー・モントローズ)
ジェフ・ダニエルズ(テディ・サンダース)
マイケル・ペーニャ(リック・マルティネス)
ショーン・ビーン(ミッチ・ヘンダーソン)
ケイト・マーラ(ベス・ヨハンセン)
セバスチャン・スタン(クリス・ベック)
アクセル・ヘニー(アレックス・フォーゲル)
キウェテル・イジョフォー(ビンセント・カプーア)ほか
編集:ピエトロ・スカリア
音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ
鑑賞日:2016年2月6日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン7 F-18
■ ストーリー
限りなく今に近い未来、火星でNASAから派遣されたあるチームによる有人探査が行われていた。その最中、嵐に襲われたクルーは火星地表から一時離れるべく、MAV(Mars Ascent Vehicle)という簡易宇宙船に待避しようとする。しかし、運悪くクルーの1人マーク・ワトニー(マット・デイモン)が飛来物にぶつかり、チームからはぐれ、姿を消してしまう。危機的状況のチームはマークの捜索を断念、火星地表から脱出、火星軌道上の母船ヘルメス号へと戻っていく。その報告を受けたNASAはマークの死亡を発表する。
死んだと思われていたマークは奇跡的に火星で生きていた。ひとり火星に残されたマーク─ベースキャンプに残された酸素と食料だけではわずかな命であるという現実を知る。しかし、植物学者であったマークは自らの知識を生かし、ベースキャンプ内で植物を育て、酸素や水なども作り出す方法などを探り出し、なんとか数年生き延びる方策を考え出す。同時に、何とかして地球のNASAとのコンタクトを取ろうと考える日々。
一方、NASAでは火星のベースキャンプの異変に気づく者がいた。にわかには信じがたいことであったが、観測を続けた結果、何らかの干渉があるという結論に至る。それがマークかもしれないと─。
火星のマークは、過去に任務を終えているマーズ・パスファインダーを見つけ出し、それを通信器機として再利用、ついに地球との交信を確立する。
マークの生存を隠し続けたNASAも、ついにそれを公表し、それから一気にマークの救出作戦が模索され出す。地球上の知識を結集しながら短期間での救出を探る。描かれ出された救出作戦はミッションとして逐一マークのもとへと届けられ、その指示に連動する形でマークも行動する。
順調に見えた救出作戦も、思いがけない困難がマークを襲い、そのすべてが頓挫しかかる。しかし、中国の宇宙事業をも巻き込み、そして何よりヘルメス号のクルーらの強力なバックアップを得ることによって、新たな救出が試みられることになる。
ヘルメス号のクルーはマークを置き去りにしてしまったことを後悔していた。だから、彼らの身にも危険が及ぶかもしれない救出作戦を選択した。
そしてついにマーク救出作戦が実行される。想定外の事態の連続。果たしてマークとヘルメス号のクルーたちの運命はどうなるのか!?
コンピュータープログラマーから作家へ転身したアンディ・ウィアーのオンライン小説を名匠リドリー・スコットが映画化。ゴールデングローブ賞作品賞受賞、アカデミー賞ノミネート。
▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン7は座席数406、スクリーンサイズ18.7×7.9mTCXと大きな劇場。A列からE列までが前方ブロック、F列からO列が後方ブロック、H列とI列がプレミアシートという構成。ブロックごとの手すりも柵もないので、後方ブロック最前列となるF列が最高の席と考える。選んだF-18はそのど真ん中。ベストポジションであった。
公開2日目、週末の夜、ゴールデングローブ賞授賞、有名俳優有名監督、客を惹きつける要素が十二分であり、場内8割方席が埋まっていた。
▶ 作品レビュー
面白い、確かに面白かった、けれども何がそれほど良かったのか、なかなか思い出して記すことができないでいる。
不可能なことを徐々に成し遂げていく過程とか、暗中模索だったものが徐々に道が開けていく過程とか、そういったストーリー展開が良かったのだろうか。
ひとり火星の人となって奮闘するマット・デイモンや、それを必死に救おうとする取り巻きたちの演技演出が良かったのだろうか。
リアリティーのある火星の風景、リアルな宇宙やリアルな宇宙船・ビークル、NASAやマーズパスファインダーといった現実世界に即した設定に共感を持ったのだろうか。
分からん…
地味ながらもヘルメス号の無重力表現とか気に入ったけれど、それほど新しい表現でもないわけだし、リアルさをもった近未来宇宙映画など数多くあるわけだし、全般的に新しさは全く感じなかった。表現され尽くされたものであるけれども、それらをしっかりと用いて構成していた、というところか。
不思議と、漠然であるけれども「2001年宇宙の旅」のことを想起した。ストーリーも設定もまったく違うものであるけれども、絵の質感というか、雰囲気が似ていると思った。それが面白さにつながっているのかどうかは分からないけれど、ビジュアル的な喜びは確実にあったように思う。
そもそもストーリーが良かったのだろう。火星で自給自足を試みる展開や、通信というものがいかに大事なものになっているかを知らしめるその内容に、強く惹かれていったのは確かなことだ。しかも、マーズパスファインダーとかNASA長官、CNN風のニュース映像といった現実世界の事柄をリアルに用いることによって、情報社会に支配されてしまっている自分などのような者を虜にしてしまっている。
リアルな世界に忠実であろうとしている分、気になったところもある。中国の宇宙当局の描写などはその際たるもの。まぁベールに包まれている部分であるわけだから、表現が難しいことは確かなことだが、分からないなら無理に表現しなくてもいいのにと思ってしまう。あの表現がなくても作品に対する影響は皆無であると想像できるから、なおさらそう感じる。そしてさらに、あのラストは最悪だ。ハッピーエンドを鼻で笑ってしまう自分がいるわけで、なんでこんな皮肉れた思いをしなければならないんだと思ってしまった。結局はナショナリズム、ちょっとでもそう思わせてしまうような結末はやめてほしい。
基本的に火星にひとり取り残された人の話だが、不思議と全く閉塞感がない。孤独になってもそれを補うメディアや通信というものが存在する。それらアイテムはずいぶんと都合よく並べ立てられているけれども、孤独という定義も一昔前とはかなり様変わりしていると感じさせてくれる。器械やテクノロジーがどんなにか孤独を紛らわしてくれていることか─。
しかし、所詮それは一瞬の紛らわしでしかなく、本当の孤独は決して消えるものではないと誰しもが思っていることで、マークとその取り巻きとの交流を見つめることでそれが痛いほど再確認できる。喜怒哀楽、それらを沸き起こしてくれる最たる対象、それはいまだ人間だということが映画の涙でよく分かる。
つまり自分は、現実に即したヒューマン宇宙ドラマに感動した、という結論に至る。
何とか絞り出した。それにしても、見終わったあとはかなり面白いという思いだったが、今こうして振り返ってみると、果たしてそれほどのものであったかどうか…
原題:The Martian
公開日:(米)2015年10月2日 (日)2016年2月5日
配給:20世紀フォックス
時間:142分
監督:リドリー・スコット
制作:サイモン・キンバーグ、リドリー・スコット、マイケル・シェイファー、アディタヤ・スード、マーク・ハッファム
原作:アンディ・ウィアー
脚本:ドリュー・ゴダード
出演:マット・デイモン(マーク・ワトニー)
ジェシカ・チャステイン(メリッサ・ルイス)
クリステン・ウィグ(アニー・モントローズ)
ジェフ・ダニエルズ(テディ・サンダース)
マイケル・ペーニャ(リック・マルティネス)
ショーン・ビーン(ミッチ・ヘンダーソン)
ケイト・マーラ(ベス・ヨハンセン)
セバスチャン・スタン(クリス・ベック)
アクセル・ヘニー(アレックス・フォーゲル)
キウェテル・イジョフォー(ビンセント・カプーア)ほか
編集:ピエトロ・スカリア
音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ
鑑賞日:2016年2月6日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン7 F-18
■ ストーリー
限りなく今に近い未来、火星でNASAから派遣されたあるチームによる有人探査が行われていた。その最中、嵐に襲われたクルーは火星地表から一時離れるべく、MAV(Mars Ascent Vehicle)という簡易宇宙船に待避しようとする。しかし、運悪くクルーの1人マーク・ワトニー(マット・デイモン)が飛来物にぶつかり、チームからはぐれ、姿を消してしまう。危機的状況のチームはマークの捜索を断念、火星地表から脱出、火星軌道上の母船ヘルメス号へと戻っていく。その報告を受けたNASAはマークの死亡を発表する。
死んだと思われていたマークは奇跡的に火星で生きていた。ひとり火星に残されたマーク─ベースキャンプに残された酸素と食料だけではわずかな命であるという現実を知る。しかし、植物学者であったマークは自らの知識を生かし、ベースキャンプ内で植物を育て、酸素や水なども作り出す方法などを探り出し、なんとか数年生き延びる方策を考え出す。同時に、何とかして地球のNASAとのコンタクトを取ろうと考える日々。
一方、NASAでは火星のベースキャンプの異変に気づく者がいた。にわかには信じがたいことであったが、観測を続けた結果、何らかの干渉があるという結論に至る。それがマークかもしれないと─。
火星のマークは、過去に任務を終えているマーズ・パスファインダーを見つけ出し、それを通信器機として再利用、ついに地球との交信を確立する。
マークの生存を隠し続けたNASAも、ついにそれを公表し、それから一気にマークの救出作戦が模索され出す。地球上の知識を結集しながら短期間での救出を探る。描かれ出された救出作戦はミッションとして逐一マークのもとへと届けられ、その指示に連動する形でマークも行動する。
順調に見えた救出作戦も、思いがけない困難がマークを襲い、そのすべてが頓挫しかかる。しかし、中国の宇宙事業をも巻き込み、そして何よりヘルメス号のクルーらの強力なバックアップを得ることによって、新たな救出が試みられることになる。
ヘルメス号のクルーはマークを置き去りにしてしまったことを後悔していた。だから、彼らの身にも危険が及ぶかもしれない救出作戦を選択した。
そしてついにマーク救出作戦が実行される。想定外の事態の連続。果たしてマークとヘルメス号のクルーたちの運命はどうなるのか!?
コンピュータープログラマーから作家へ転身したアンディ・ウィアーのオンライン小説を名匠リドリー・スコットが映画化。ゴールデングローブ賞作品賞受賞、アカデミー賞ノミネート。
▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン7は座席数406、スクリーンサイズ18.7×7.9mTCXと大きな劇場。A列からE列までが前方ブロック、F列からO列が後方ブロック、H列とI列がプレミアシートという構成。ブロックごとの手すりも柵もないので、後方ブロック最前列となるF列が最高の席と考える。選んだF-18はそのど真ん中。ベストポジションであった。
公開2日目、週末の夜、ゴールデングローブ賞授賞、有名俳優有名監督、客を惹きつける要素が十二分であり、場内8割方席が埋まっていた。
▶ 作品レビュー
面白い、確かに面白かった、けれども何がそれほど良かったのか、なかなか思い出して記すことができないでいる。
不可能なことを徐々に成し遂げていく過程とか、暗中模索だったものが徐々に道が開けていく過程とか、そういったストーリー展開が良かったのだろうか。
ひとり火星の人となって奮闘するマット・デイモンや、それを必死に救おうとする取り巻きたちの演技演出が良かったのだろうか。
リアリティーのある火星の風景、リアルな宇宙やリアルな宇宙船・ビークル、NASAやマーズパスファインダーといった現実世界に即した設定に共感を持ったのだろうか。
分からん…
地味ながらもヘルメス号の無重力表現とか気に入ったけれど、それほど新しい表現でもないわけだし、リアルさをもった近未来宇宙映画など数多くあるわけだし、全般的に新しさは全く感じなかった。表現され尽くされたものであるけれども、それらをしっかりと用いて構成していた、というところか。
不思議と、漠然であるけれども「2001年宇宙の旅」のことを想起した。ストーリーも設定もまったく違うものであるけれども、絵の質感というか、雰囲気が似ていると思った。それが面白さにつながっているのかどうかは分からないけれど、ビジュアル的な喜びは確実にあったように思う。
そもそもストーリーが良かったのだろう。火星で自給自足を試みる展開や、通信というものがいかに大事なものになっているかを知らしめるその内容に、強く惹かれていったのは確かなことだ。しかも、マーズパスファインダーとかNASA長官、CNN風のニュース映像といった現実世界の事柄をリアルに用いることによって、情報社会に支配されてしまっている自分などのような者を虜にしてしまっている。
リアルな世界に忠実であろうとしている分、気になったところもある。中国の宇宙当局の描写などはその際たるもの。まぁベールに包まれている部分であるわけだから、表現が難しいことは確かなことだが、分からないなら無理に表現しなくてもいいのにと思ってしまう。あの表現がなくても作品に対する影響は皆無であると想像できるから、なおさらそう感じる。そしてさらに、あのラストは最悪だ。ハッピーエンドを鼻で笑ってしまう自分がいるわけで、なんでこんな皮肉れた思いをしなければならないんだと思ってしまった。結局はナショナリズム、ちょっとでもそう思わせてしまうような結末はやめてほしい。
基本的に火星にひとり取り残された人の話だが、不思議と全く閉塞感がない。孤独になってもそれを補うメディアや通信というものが存在する。それらアイテムはずいぶんと都合よく並べ立てられているけれども、孤独という定義も一昔前とはかなり様変わりしていると感じさせてくれる。器械やテクノロジーがどんなにか孤独を紛らわしてくれていることか─。
しかし、所詮それは一瞬の紛らわしでしかなく、本当の孤独は決して消えるものではないと誰しもが思っていることで、マークとその取り巻きとの交流を見つめることでそれが痛いほど再確認できる。喜怒哀楽、それらを沸き起こしてくれる最たる対象、それはいまだ人間だということが映画の涙でよく分かる。
つまり自分は、現実に即したヒューマン宇宙ドラマに感動した、という結論に至る。
何とか絞り出した。それにしても、見終わったあとはかなり面白いという思いだったが、今こうして振り返ってみると、果たしてそれほどのものであったかどうか…
マッドマックス 怒りのデス・ロード
マッドマックス 怒りのデス・ロード(2015年・アメリカ)
原題:Mad Max: Fury Road
公開日:(米)2015年5月15日 (日)2015年6月20日
配給:ワーナー・ブラザース
時間:120分
監督:ジョージ・ミラー
制作:ダグ・ミッチェル、ジョージ・ミラー、P・J・ボーテン
製作総指揮:イアイン・スミス、クリス・デファリア、コートニー・バレンティ、グレアム・バーク、ブルース・バーマン、スティーブン・ムニューチン
脚本:ジョージ・ミラー、ブレンダン・マッカーシー、ニコ・ラザウリス
出演:トム・ハーディ(マックス)、シャーリーズ・セロン(フュリオサ大隊長)、ニコラス・ホルト(ニュークス)、ヒュー・キース=バーン(イモータン・ジョー)、ゾーイ・クラビッツ(トースト)ほか
撮影:ジョン・シール
美術:コリン・ギブソン
衣装:ジェニー・ビーバン
編集:マーガレット・シクセル
音楽:じゃんきー・XL
視覚効果監修:アンドリュー・ジャクソン
鑑賞:2015年6月23日 TOHOシネマズ新宿IMAX3D F-10席、2016年2月2日 TOHOシネマズ新宿MX4D A-9席
■ ストーリー
核戦争後の未来、資源や水が枯渇し、文明も退化してしまったにおいて─
失った家族の幻影に悩まされながら彷徨い続けるマックス(トム・ハーディ)─
ある日マックスは、砂漠を支配するイモータン・ジョー(ヒュー・キース=バーン)の軍団に捕らわれてしまう。イモータン・ジョーは潤沢な地下水がある場所に砦を築き、水を独占することで砂漠を支配していた。その砦に連れて行かれたマックスは、戦闘集団ウォーボーイズのために血液を与える“血液袋”として拘束される。
そんな中、ジョーの部隊を指揮するフュリオサ大隊長(シャーリーズ・セロン)が石油の取引でトレーラーを運転しながら部隊を指揮することになった。それはフュリオサが待ち望んでいた逃亡計画の好機でもあった。
通常の運行ルートを変更したフュリオサの裏切り行為にイモータン・ジョーが気づく。しかも、彼が囲う5人の妻も姿を消していた。その中には貴重な妊婦もいる。怒り狂うジョーは、自ら主力のほぼすべてを率いてフュリオサの追跡に向かう。マックスも“血液袋”として、車のフロントに縛りつけられて参加することになる。
壮絶なカーチェイスや大規模な砂嵐など、幾多の困難を乗りこえ、フュリオサは何とか逃亡に成功する。そこに、九死に一生を得たマックスと一人のウォーボーイが現れる。フュリオサと共に逃亡した囲われ妻たちは、豊富な水などを持っており、マックスはトレーラーごと水なども奪おうとする。“血液袋”マックスは、血液を提供していたウォーボーイをなんとか振り切り、ひとりトレーラーで逃亡をはかる。しかし、トレーラーには細工があり、結局、フュリオサと逃げ出した妻らのと奇妙な協力関係を築きながら、しつこく追ってくるジョーの軍団から逃げていくことになる。そこに振り切ったはずのウォーボーイも潜んでいて、事態は複雑に絡み合いながら展開していく。
マックスとフュリオサは生き残るため完全な協力関係を結び、多方面から武力協力を得ながら進んでくるジョーの大部隊をなんとか退ける。そして、ついにフュリオサが目指していた生まれ故郷にたどり着く。しかし、そこはかつての場所とは一変していた…
目的の地を失ったフュリオサは、マックスと共にイモータン・ジョーに立ち向かうことを選択する。それは無謀にも近いことであった。
果たして、フュリオサやマックスに未来はあるのか─
マッドマックスシリーズの4作目、1985年「サンダードーム」以来の新作。過去3作同様、監督はジョージ・ミラー。国際批評家連盟賞ほか数々の映画賞を受賞、ゴールデングローブ賞やアカデミー賞の作品賞にもノミネートされ、その評価は極めて高い。
▶ 映画館環境
去年、TOHOシネマズ新宿スクリーン10IMAX3Dで干渉済みの作品。その時の席は、F-10席、正面向かってやや左より。それでもここのF列8〜26であればどこでもOK。その時の迫力と感動が強く印象に残っている。
今回は、TOHOシネマズ新宿スクリーン2MX4Dでの観賞。座席数110と劇場としては中規模なもの。スクリーンもそれほど巨大ではない。座席はA-9。最前列のど真ん中。かなりの見上げで、ミスチョイス。
朝9時からの上映でも結構な入り。確かに、評判はいいし、一度見るとMX4Dに最適なものではないだろうかと思ってしまう。
MX4Dは3度目の体験だが、個人的にはこれでMX4Dのメリットは全くないと実感できた。画面の迫力はIMAX3Dに及ばず、余計な動きとミストとフラッシュが邪魔で仕方がない。そして感動を覚えるのは映画そのものだということがよく分かった。
お高いMX4Dは、もやは、すすんで選択するようなことはないだろう。
▶ 作品レビュー
正直、今さらマッドマックスなって…と思いました。そして、いざ見ようというときになっても、トンデモ映画として笑い飛ばしてやろうという思いで臨みました。その見方は決して間違ったものではなかったのですが、予想外の面白さで、逆に感動してしまうほど。
おバカなキャラや設定などを大切にしながら、主役はしっかりカッコイイし、カーチェイスなどの激しいアクションは派手でリアル、娯楽以外に意味を成さないと思ってしまうけれども、映画はそれ以外に何の意味があるのか!と言わんばかりの姿勢で創っている意志がよく伝わってくるし、それ故、見ているこちらは迷いなく楽しめる作品。
冒頭から終始、文字データやナレーションなどの説明は一切ありません。突然話は始まり、唐突な展開でどんどん進んでいきます。何でマックスは一人放浪しているのか、そもそもこの男の名前が劇中で明示されるのは最後の最後の方だし、支配者イモータン・ジョーは何者だ!?そしてその部下フュリオサ大隊長というのは女?男?すごいの?湧き上がる疑問は尽きないが、そんなの関係ないくらいに分かりやすく話が推移していく。
とにかく悪い奴がいて、それから逃れようとする者がいる。逃げて、追って、戦い続ける。その構造が明確にあるだけで、あとは個人個人で中に潜む味付けを感じとっていけばいいわけだ。
そもそも、この映画はシリーズ4作目だから説明抜きでも分かりやすいのは当たり前。過去の作品を知っていれば、男の名はマックスで、この世界は核戦争後の未来なのだと言うことは周知のこと。そもそもこの世界観こそがマッドマックス最大の遺産。この世界観があれば、マックスがメル・ギブソンであろうがトム・ハーディであろうが、マッドマックスは成立するわけだ。
新作には、メル・ギブソンは出ていないけれども、1作目で暴走族のリーダー・トーカッター役だったヒュー・キース=バーンが今回はイモータン・ジョー役として出演しているという事実が笑える。といっても、トーカッターなんて記憶にないし、そもそも1作目がどんな話だったかも記憶にない。核戦争後という設定は2作目からだったという事実を確認するにあたり、我ながら記憶の曖昧さを痛感したりする。
マックス=メル・ギブソンという公式を納得できる自分だからこそ、すんなりと「怒りのデス・ロード」を楽しめたかも知れなけれど、ケンシロウしか知らないヤング、ケンシロウすら知らないキッズなどは、素直に楽しめるのか徐々に疑問になる。
あるレビューで“ケンシロウが出てくるような映画”というコメントを発見したとき、やっぱ世界観はしっかりと理解できるよね、何せ分かりやすいし─、でもマックスがいなかったらケンシロウもいないからねーと言いたくもなったし、逆に“知らない役者ばかりでつまらん”というコメントもあり、やっぱマックス=メル・ギブソンという思いが強いんだろうなあと、いろいろ思いが交錯してしまいました。
様々な感想があるだろうけれど、自分としては2度見て2度ともに感動してしまったわけで、とにかくも、その要因たるものを述べていきたいと思います。
まずはフュリオサ。格好良すぎる。あの義手があるからこそ一層強そうに見えるし、ウォーボーイズらのリーダーとしてトレーラーを運転していくその勇姿、億を稼ぐアカデミー賞俳優はやっぱ格が違うと思わざるを得ません。その力強さから一転、砂漠の中で泣き崩れる姿、佇まい、実に儚く美しい…、そこにはシャーリーズ・セロンの姿は皆無であり、まさしく強く逞しい悲しきヒロイン・フュオリサだけが存在している。
そして、自分が最も気に入っているキャラクターはドーフ・ウォーリアー。だれ?映画を見ていたとしても、そういう反応を示す人は多いことでしょう。そういう自分もそんな固有名詞を出されても???な感じになります。何せ、そんな固有名詞などはいま調べてようやく知り得たものですから…。分かりやすく言えば、火炎放射器付きのダブルネックギターをかき鳴らしていた赤い奴です。監督の趣味丸出しといった感じで、ハードロック好きの自分の心をくすぐります。何せ1作目2作目の音楽担当はブライアン・メイですからね。結局、ジョージ・ミラーはロック好きなんだと思うし、だから共感してしまう。
使い捨ての戦闘員、ウォーボーイズも良かったなぁ。死ぬために生き、名誉の死を臨む、人権なんてない、まさに生ける兵器、それがウォーボーイズ。そんな脇キャラに、命短し恋せよ男子と言わんばかりに、あるウォーボーイの運命の変遷を描いているところが、アクションばかりではない人間ドラマもあるのだぞという懐の深さを見せてくれる。といっても限りなく薄っぺらではありますが…それでも、死にたい死にたいと思っている時になかなか死ねなくて、もっと生きていたいと思い始めた途端、名誉の死を迎えるという心憎い演出には素直に感動してしまう。
結末はあっけないどんでん返しではあるのだけれど、あくまで正義は勝つ的な勧善懲悪の話なんだし、自分的には大団円バンザイです。あまりにもご都合主義的な展開だという意見にも納得ですが、フュリオサまで舞台から消え去っていたのであれば、この映画のエンターテインメントとしての評価は地に落ちていたことでしょう。
最初、IMAX3Dでこの映画を見た自分は、この感動は迫力ある大画面と3Dに適した視覚効果が功を奏したものと思っていた。しかし、MX4Dで再び観賞してみると、確かに迫力ある映像そのものに満足していたのもあるけれど、内容やストーリーそのものにも心を動かされていたという事実を確認できました。
改めて、この映画がゴールデングローブ賞やアカデミー賞にノミネートされる理由がよく分かる。それでも、アカデミー賞最優秀作品賞なんて無理だと思ってしまうのが正直なところ。この予想を覆してくれる結果を待ち望むところではあるけれども、果たして2016年閏年の結果やいかに。この映画が最優秀作品賞を取れば、ハリウッドの株も一層上がるように思うのは、自分だけでしょうか?逆に賞を取ってしまうと、この映画の魅力が削がれてしまうかもしれませんねー。
原題:Mad Max: Fury Road
公開日:(米)2015年5月15日 (日)2015年6月20日
配給:ワーナー・ブラザース
時間:120分
監督:ジョージ・ミラー
制作:ダグ・ミッチェル、ジョージ・ミラー、P・J・ボーテン
製作総指揮:イアイン・スミス、クリス・デファリア、コートニー・バレンティ、グレアム・バーク、ブルース・バーマン、スティーブン・ムニューチン
脚本:ジョージ・ミラー、ブレンダン・マッカーシー、ニコ・ラザウリス
出演:トム・ハーディ(マックス)、シャーリーズ・セロン(フュリオサ大隊長)、ニコラス・ホルト(ニュークス)、ヒュー・キース=バーン(イモータン・ジョー)、ゾーイ・クラビッツ(トースト)ほか
撮影:ジョン・シール
美術:コリン・ギブソン
衣装:ジェニー・ビーバン
編集:マーガレット・シクセル
音楽:じゃんきー・XL
視覚効果監修:アンドリュー・ジャクソン
鑑賞:2015年6月23日 TOHOシネマズ新宿IMAX3D F-10席、2016年2月2日 TOHOシネマズ新宿MX4D A-9席
■ ストーリー
核戦争後の未来、資源や水が枯渇し、文明も退化してしまったにおいて─
失った家族の幻影に悩まされながら彷徨い続けるマックス(トム・ハーディ)─
ある日マックスは、砂漠を支配するイモータン・ジョー(ヒュー・キース=バーン)の軍団に捕らわれてしまう。イモータン・ジョーは潤沢な地下水がある場所に砦を築き、水を独占することで砂漠を支配していた。その砦に連れて行かれたマックスは、戦闘集団ウォーボーイズのために血液を与える“血液袋”として拘束される。
そんな中、ジョーの部隊を指揮するフュリオサ大隊長(シャーリーズ・セロン)が石油の取引でトレーラーを運転しながら部隊を指揮することになった。それはフュリオサが待ち望んでいた逃亡計画の好機でもあった。
通常の運行ルートを変更したフュリオサの裏切り行為にイモータン・ジョーが気づく。しかも、彼が囲う5人の妻も姿を消していた。その中には貴重な妊婦もいる。怒り狂うジョーは、自ら主力のほぼすべてを率いてフュリオサの追跡に向かう。マックスも“血液袋”として、車のフロントに縛りつけられて参加することになる。
壮絶なカーチェイスや大規模な砂嵐など、幾多の困難を乗りこえ、フュリオサは何とか逃亡に成功する。そこに、九死に一生を得たマックスと一人のウォーボーイが現れる。フュリオサと共に逃亡した囲われ妻たちは、豊富な水などを持っており、マックスはトレーラーごと水なども奪おうとする。“血液袋”マックスは、血液を提供していたウォーボーイをなんとか振り切り、ひとりトレーラーで逃亡をはかる。しかし、トレーラーには細工があり、結局、フュリオサと逃げ出した妻らのと奇妙な協力関係を築きながら、しつこく追ってくるジョーの軍団から逃げていくことになる。そこに振り切ったはずのウォーボーイも潜んでいて、事態は複雑に絡み合いながら展開していく。
マックスとフュリオサは生き残るため完全な協力関係を結び、多方面から武力協力を得ながら進んでくるジョーの大部隊をなんとか退ける。そして、ついにフュリオサが目指していた生まれ故郷にたどり着く。しかし、そこはかつての場所とは一変していた…
目的の地を失ったフュリオサは、マックスと共にイモータン・ジョーに立ち向かうことを選択する。それは無謀にも近いことであった。
果たして、フュリオサやマックスに未来はあるのか─
マッドマックスシリーズの4作目、1985年「サンダードーム」以来の新作。過去3作同様、監督はジョージ・ミラー。国際批評家連盟賞ほか数々の映画賞を受賞、ゴールデングローブ賞やアカデミー賞の作品賞にもノミネートされ、その評価は極めて高い。
▶ 映画館環境
去年、TOHOシネマズ新宿スクリーン10IMAX3Dで干渉済みの作品。その時の席は、F-10席、正面向かってやや左より。それでもここのF列8〜26であればどこでもOK。その時の迫力と感動が強く印象に残っている。
今回は、TOHOシネマズ新宿スクリーン2MX4Dでの観賞。座席数110と劇場としては中規模なもの。スクリーンもそれほど巨大ではない。座席はA-9。最前列のど真ん中。かなりの見上げで、ミスチョイス。
朝9時からの上映でも結構な入り。確かに、評判はいいし、一度見るとMX4Dに最適なものではないだろうかと思ってしまう。
MX4Dは3度目の体験だが、個人的にはこれでMX4Dのメリットは全くないと実感できた。画面の迫力はIMAX3Dに及ばず、余計な動きとミストとフラッシュが邪魔で仕方がない。そして感動を覚えるのは映画そのものだということがよく分かった。
お高いMX4Dは、もやは、すすんで選択するようなことはないだろう。
▶ 作品レビュー
正直、今さらマッドマックスなって…と思いました。そして、いざ見ようというときになっても、トンデモ映画として笑い飛ばしてやろうという思いで臨みました。その見方は決して間違ったものではなかったのですが、予想外の面白さで、逆に感動してしまうほど。
おバカなキャラや設定などを大切にしながら、主役はしっかりカッコイイし、カーチェイスなどの激しいアクションは派手でリアル、娯楽以外に意味を成さないと思ってしまうけれども、映画はそれ以外に何の意味があるのか!と言わんばかりの姿勢で創っている意志がよく伝わってくるし、それ故、見ているこちらは迷いなく楽しめる作品。
冒頭から終始、文字データやナレーションなどの説明は一切ありません。突然話は始まり、唐突な展開でどんどん進んでいきます。何でマックスは一人放浪しているのか、そもそもこの男の名前が劇中で明示されるのは最後の最後の方だし、支配者イモータン・ジョーは何者だ!?そしてその部下フュリオサ大隊長というのは女?男?すごいの?湧き上がる疑問は尽きないが、そんなの関係ないくらいに分かりやすく話が推移していく。
とにかく悪い奴がいて、それから逃れようとする者がいる。逃げて、追って、戦い続ける。その構造が明確にあるだけで、あとは個人個人で中に潜む味付けを感じとっていけばいいわけだ。
そもそも、この映画はシリーズ4作目だから説明抜きでも分かりやすいのは当たり前。過去の作品を知っていれば、男の名はマックスで、この世界は核戦争後の未来なのだと言うことは周知のこと。そもそもこの世界観こそがマッドマックス最大の遺産。この世界観があれば、マックスがメル・ギブソンであろうがトム・ハーディであろうが、マッドマックスは成立するわけだ。
新作には、メル・ギブソンは出ていないけれども、1作目で暴走族のリーダー・トーカッター役だったヒュー・キース=バーンが今回はイモータン・ジョー役として出演しているという事実が笑える。といっても、トーカッターなんて記憶にないし、そもそも1作目がどんな話だったかも記憶にない。核戦争後という設定は2作目からだったという事実を確認するにあたり、我ながら記憶の曖昧さを痛感したりする。
マックス=メル・ギブソンという公式を納得できる自分だからこそ、すんなりと「怒りのデス・ロード」を楽しめたかも知れなけれど、ケンシロウしか知らないヤング、ケンシロウすら知らないキッズなどは、素直に楽しめるのか徐々に疑問になる。
あるレビューで“ケンシロウが出てくるような映画”というコメントを発見したとき、やっぱ世界観はしっかりと理解できるよね、何せ分かりやすいし─、でもマックスがいなかったらケンシロウもいないからねーと言いたくもなったし、逆に“知らない役者ばかりでつまらん”というコメントもあり、やっぱマックス=メル・ギブソンという思いが強いんだろうなあと、いろいろ思いが交錯してしまいました。
様々な感想があるだろうけれど、自分としては2度見て2度ともに感動してしまったわけで、とにかくも、その要因たるものを述べていきたいと思います。
まずはフュリオサ。格好良すぎる。あの義手があるからこそ一層強そうに見えるし、ウォーボーイズらのリーダーとしてトレーラーを運転していくその勇姿、億を稼ぐアカデミー賞俳優はやっぱ格が違うと思わざるを得ません。その力強さから一転、砂漠の中で泣き崩れる姿、佇まい、実に儚く美しい…、そこにはシャーリーズ・セロンの姿は皆無であり、まさしく強く逞しい悲しきヒロイン・フュオリサだけが存在している。
そして、自分が最も気に入っているキャラクターはドーフ・ウォーリアー。だれ?映画を見ていたとしても、そういう反応を示す人は多いことでしょう。そういう自分もそんな固有名詞を出されても???な感じになります。何せ、そんな固有名詞などはいま調べてようやく知り得たものですから…。分かりやすく言えば、火炎放射器付きのダブルネックギターをかき鳴らしていた赤い奴です。監督の趣味丸出しといった感じで、ハードロック好きの自分の心をくすぐります。何せ1作目2作目の音楽担当はブライアン・メイですからね。結局、ジョージ・ミラーはロック好きなんだと思うし、だから共感してしまう。
使い捨ての戦闘員、ウォーボーイズも良かったなぁ。死ぬために生き、名誉の死を臨む、人権なんてない、まさに生ける兵器、それがウォーボーイズ。そんな脇キャラに、命短し恋せよ男子と言わんばかりに、あるウォーボーイの運命の変遷を描いているところが、アクションばかりではない人間ドラマもあるのだぞという懐の深さを見せてくれる。といっても限りなく薄っぺらではありますが…それでも、死にたい死にたいと思っている時になかなか死ねなくて、もっと生きていたいと思い始めた途端、名誉の死を迎えるという心憎い演出には素直に感動してしまう。
結末はあっけないどんでん返しではあるのだけれど、あくまで正義は勝つ的な勧善懲悪の話なんだし、自分的には大団円バンザイです。あまりにもご都合主義的な展開だという意見にも納得ですが、フュリオサまで舞台から消え去っていたのであれば、この映画のエンターテインメントとしての評価は地に落ちていたことでしょう。
最初、IMAX3Dでこの映画を見た自分は、この感動は迫力ある大画面と3Dに適した視覚効果が功を奏したものと思っていた。しかし、MX4Dで再び観賞してみると、確かに迫力ある映像そのものに満足していたのもあるけれど、内容やストーリーそのものにも心を動かされていたという事実を確認できました。
改めて、この映画がゴールデングローブ賞やアカデミー賞にノミネートされる理由がよく分かる。それでも、アカデミー賞最優秀作品賞なんて無理だと思ってしまうのが正直なところ。この予想を覆してくれる結果を待ち望むところではあるけれども、果たして2016年閏年の結果やいかに。この映画が最優秀作品賞を取れば、ハリウッドの株も一層上がるように思うのは、自分だけでしょうか?逆に賞を取ってしまうと、この映画の魅力が削がれてしまうかもしれませんねー。
残穢 (ざんえ)住んではいけない部屋
残穢 (ざんえ)住んではいけない部屋(2016年・日本)
公開日:2016年1月30日
配給:松竹
時間:107分
監督:中村義洋
原作:小野不由美
脚本:鈴木健一
出演:竹内結子、橋本愛、佐々木蔵之介、滝藤賢一、坂口健太郎ほか
撮影:沖村志宏
照明:岡田佳樹
美術:丸尾知行
音楽:安川午朗
鑑賞日:2016年2月1日
場所:新宿ピカデリー シアター1 H−10
■ ストーリー
読者の体験談をもとに作品を書き続けている小説家(竹内結子)がいつものように目にした一通の手紙。ある女子大生(橋本愛)からのその手紙には、引っ越し先の奇妙な音に悩まされているとの内容が書かれていた。特別に目新しいものではなかったが、妙に気になるところがあった。それもそのはず、前にも同じような体験談があり、以前の手紙を掘り起こしてみると、住所のマンション名が同じであった。ただ部屋番号が違う。
小説家と女子大生は、手紙やメールのやり取りを手始めに、直接会って、ついに共に原因の究明をしていくことになる。
以前もらった手紙の送り主は既に引っ越していた。その後そこに住んでいる人を取材すると、やはり奇妙な出来事が起こっていた。そしてまた、引っ越していった前の住人の行方を探っていくと、奇妙な死を遂げていたことが判明。追えば追うほど暗い影が付きまとってくる。そして、その根は深く、過去にその地で起きた変死事件や自殺事件に行き当たり、ついには嬰児殺害事件にまでたどり着く。しかし、原因はそれだけでとどまることを知らず、精神障害があった者が閉じ込められていた座敷牢や、不吉な掛け軸の存在を知ることになる。
奇妙な連なりは次々わき起こり、追究はつづいていく。そして、ついには九州の炭鉱の時代にまで遡っていく。果たして、穢れの根を突き止めることはできるのか!?
第26回山本周五郎賞を受賞した小野不由美の同名小説を映画化
▶ 映画館環境
新宿ピカデリーのシアター1は582席、スクリーンサイズ7.2m×17.2mと大きな劇場。館内4階に位置して10あるシアターの中で最大。見た感じかなりの迫力。音響もこだわっていて、確かに空間表現が素晴らしかった。
席は前方部分7列、後方部分12列に分けられている。座ったH-10席は後方部分最前列の通路側。多少見上げになるものの、柵など一切ないので、この劇場のシアター1はH列がベストチョイスだということを記録。
夜遅くの上映。客もまぁまぁの入り。途中携帯のバイブが聞こえた。この劇場で携帯の通知を感知したのは2度目。前は思いっきりメロディーが鳴って周りから叱責されていた。たまたまかもしれないけれど、松竹系の映画を見にくる客は時代に追いついていない。偏見であることは承知の上で敢えて記す。
▶ 作品レビュー
いろんな予告を見て、これは単純なホラー映画ではないと思ったので、興味がわく。ある意味そうだったし、しかし結果紛れもないホラーだった。だから、何だか言い知れない残念感。ホラーと思って見に来たならば、むしろスッキリだったのかもしれない。とは言え、ホラーだと分かっていれば見に来なかった可能性の方が強いのだが…これは結果面白くなかったという単なる言い訳かもしれない。
逆にどうしたらこの映画を見に来たことを肯定できるのか探ってみる。すると竹内結子と橋本愛を見に来たかったのだという思いに至る。あの二人は不思議とこの映画には合っていた気がする。ルーズにメガネをかける竹内結子のほくろ顔に見とれ、彫刻のような橋本愛の目鼻立ちうっとり─、それプラス竹内結子のたる~い語り口と橋本愛の若々しい声音に快感─、ホラーとかサスペンス関係なしに、ひとり萌えていました。
もともと竹内結子のファンでも橋本愛のファンでもありません。なので二人見たさという理由も後付けでしかないのですけれどねー。
別に全てにわたってつまらなかったわけではありません。むしろ、女優二人含め、楽しめた要素の方が多かった。
特に怪奇現象の原因を徹底的に取材していく過程には、食い入るように見ていました。一見、科学的なようで全くそうではなく、むしろ非科学的なものを肯定した前提で追究が成されているんですが、多面的なものが一つの事柄に集約してくることで、追究している非科学的な出来事は決して絵空事ではないという説得力を与えてくれる。
自分には霊感など全くない。でも、霊的現象はあると思っているし、見える人と見えない人、見えるときと見えないときがあるのだと信じている。だから、霊を無理に見せてくれなくても、思わせぶりで十分リアルなホラーを感じことができる。だから、この映画のように怪奇現象を追究していながら、実際の霊なるものがほとんど出てこない展開に何だか好感が持てる気がして見てました。
霊を実際に登場させる場合は、回想とか人づての話とかで処理するあたりも、うまいなと思いながら感心していたんですけど、最終的にお化け登場でガッカリ。その描写もうまくない。まぁ霊感がない自分にはそれがリアルなのかどうなのか、判断できないけれども。
最初から絵のこだわりなども感じなかったし、結局はホラーだったし、中途半端な怪談話だし、いったい何がしたかったんだろうこの映画、というのが率直な感想。
個人的には竹内結子と橋本愛のお化け追究で終始して欲しかったなぁという思い。それが解決しようがしまいがどうだっていいんです。そんなの追求してたら、使い捨て映画になるだけなのに…
何だか女優の話ばかりでいやらしいので、男優の話もしておくと、滝藤賢一と佐々木蔵之介は遊山臭さ満載で非常に良かったです。竹内結子の夫役の滝藤賢一は、お化けはビジネス意外興味ないっていう雰囲気が伝わってくるし、有名な作家役の佐々木蔵之介は霊感ないけどお化け大好き感丸出しで非常に面白かった。坂口健太郎は…あまり効果的ではなかった気がします、個人的にあまり好みじゃない役者なんでそう思ってしまっただけ。
結局は結構楽しめた映画だったんですけど、終わり方があまりにも納得いかなかったので、いろんは不平不満がつのります。当初は結果ホラーだったことがその原因だと考え、ここでもそう述べてきたんですけど、よくよく考えてみると、ホラー映画だと銘打っているわけだから結果ホラーが正しいわけで、それにあれこれ文句をいう自分などのような輩が間違っているわけです。自分としても霊体は出てくるんだろうなという思いで見ていたわけだし、それがホラーというよりはどちらかといえばミステリー寄りの展開に、いつの間にか通常のホラーとは違う結末を求めていて、それが肩すかしのような感じになった─…と思っていたけれど、単に終わり方が良くなかっただけだということに、今ようやく気が付きました。遅すぎますけど…。
どうせ霊体を出すならば、主要な登場人物のところへ向かわせるべきなんじゃないかなーと思うわけです。どうでもいい脇が襲われようがどうなろうが、見ているこちらだってどうでもいいと思うわけです。もしかして、あそこから竹内結子や橋本愛へと穢れが忍び寄っていくということを、暗に示していただろうか?そうであったとしても、決してそうは捉えることができなかった。だから、いろんな意味で肩すかしを食らった印象だったのかもしれません。
ホラー好きにもそうでない映画ファンにとっても、中途半端に映ってしまう、少し残念な作品であることは間違いないと思います。
公開日:2016年1月30日
配給:松竹
時間:107分
監督:中村義洋
原作:小野不由美
脚本:鈴木健一
出演:竹内結子、橋本愛、佐々木蔵之介、滝藤賢一、坂口健太郎ほか
撮影:沖村志宏
照明:岡田佳樹
美術:丸尾知行
音楽:安川午朗
鑑賞日:2016年2月1日
場所:新宿ピカデリー シアター1 H−10
■ ストーリー
読者の体験談をもとに作品を書き続けている小説家(竹内結子)がいつものように目にした一通の手紙。ある女子大生(橋本愛)からのその手紙には、引っ越し先の奇妙な音に悩まされているとの内容が書かれていた。特別に目新しいものではなかったが、妙に気になるところがあった。それもそのはず、前にも同じような体験談があり、以前の手紙を掘り起こしてみると、住所のマンション名が同じであった。ただ部屋番号が違う。
小説家と女子大生は、手紙やメールのやり取りを手始めに、直接会って、ついに共に原因の究明をしていくことになる。
以前もらった手紙の送り主は既に引っ越していた。その後そこに住んでいる人を取材すると、やはり奇妙な出来事が起こっていた。そしてまた、引っ越していった前の住人の行方を探っていくと、奇妙な死を遂げていたことが判明。追えば追うほど暗い影が付きまとってくる。そして、その根は深く、過去にその地で起きた変死事件や自殺事件に行き当たり、ついには嬰児殺害事件にまでたどり着く。しかし、原因はそれだけでとどまることを知らず、精神障害があった者が閉じ込められていた座敷牢や、不吉な掛け軸の存在を知ることになる。
奇妙な連なりは次々わき起こり、追究はつづいていく。そして、ついには九州の炭鉱の時代にまで遡っていく。果たして、穢れの根を突き止めることはできるのか!?
第26回山本周五郎賞を受賞した小野不由美の同名小説を映画化
▶ 映画館環境
新宿ピカデリーのシアター1は582席、スクリーンサイズ7.2m×17.2mと大きな劇場。館内4階に位置して10あるシアターの中で最大。見た感じかなりの迫力。音響もこだわっていて、確かに空間表現が素晴らしかった。
席は前方部分7列、後方部分12列に分けられている。座ったH-10席は後方部分最前列の通路側。多少見上げになるものの、柵など一切ないので、この劇場のシアター1はH列がベストチョイスだということを記録。
夜遅くの上映。客もまぁまぁの入り。途中携帯のバイブが聞こえた。この劇場で携帯の通知を感知したのは2度目。前は思いっきりメロディーが鳴って周りから叱責されていた。たまたまかもしれないけれど、松竹系の映画を見にくる客は時代に追いついていない。偏見であることは承知の上で敢えて記す。
▶ 作品レビュー
いろんな予告を見て、これは単純なホラー映画ではないと思ったので、興味がわく。ある意味そうだったし、しかし結果紛れもないホラーだった。だから、何だか言い知れない残念感。ホラーと思って見に来たならば、むしろスッキリだったのかもしれない。とは言え、ホラーだと分かっていれば見に来なかった可能性の方が強いのだが…これは結果面白くなかったという単なる言い訳かもしれない。
逆にどうしたらこの映画を見に来たことを肯定できるのか探ってみる。すると竹内結子と橋本愛を見に来たかったのだという思いに至る。あの二人は不思議とこの映画には合っていた気がする。ルーズにメガネをかける竹内結子のほくろ顔に見とれ、彫刻のような橋本愛の目鼻立ちうっとり─、それプラス竹内結子のたる~い語り口と橋本愛の若々しい声音に快感─、ホラーとかサスペンス関係なしに、ひとり萌えていました。
もともと竹内結子のファンでも橋本愛のファンでもありません。なので二人見たさという理由も後付けでしかないのですけれどねー。
別に全てにわたってつまらなかったわけではありません。むしろ、女優二人含め、楽しめた要素の方が多かった。
特に怪奇現象の原因を徹底的に取材していく過程には、食い入るように見ていました。一見、科学的なようで全くそうではなく、むしろ非科学的なものを肯定した前提で追究が成されているんですが、多面的なものが一つの事柄に集約してくることで、追究している非科学的な出来事は決して絵空事ではないという説得力を与えてくれる。
自分には霊感など全くない。でも、霊的現象はあると思っているし、見える人と見えない人、見えるときと見えないときがあるのだと信じている。だから、霊を無理に見せてくれなくても、思わせぶりで十分リアルなホラーを感じことができる。だから、この映画のように怪奇現象を追究していながら、実際の霊なるものがほとんど出てこない展開に何だか好感が持てる気がして見てました。
霊を実際に登場させる場合は、回想とか人づての話とかで処理するあたりも、うまいなと思いながら感心していたんですけど、最終的にお化け登場でガッカリ。その描写もうまくない。まぁ霊感がない自分にはそれがリアルなのかどうなのか、判断できないけれども。
最初から絵のこだわりなども感じなかったし、結局はホラーだったし、中途半端な怪談話だし、いったい何がしたかったんだろうこの映画、というのが率直な感想。
個人的には竹内結子と橋本愛のお化け追究で終始して欲しかったなぁという思い。それが解決しようがしまいがどうだっていいんです。そんなの追求してたら、使い捨て映画になるだけなのに…
何だか女優の話ばかりでいやらしいので、男優の話もしておくと、滝藤賢一と佐々木蔵之介は遊山臭さ満載で非常に良かったです。竹内結子の夫役の滝藤賢一は、お化けはビジネス意外興味ないっていう雰囲気が伝わってくるし、有名な作家役の佐々木蔵之介は霊感ないけどお化け大好き感丸出しで非常に面白かった。坂口健太郎は…あまり効果的ではなかった気がします、個人的にあまり好みじゃない役者なんでそう思ってしまっただけ。
結局は結構楽しめた映画だったんですけど、終わり方があまりにも納得いかなかったので、いろんは不平不満がつのります。当初は結果ホラーだったことがその原因だと考え、ここでもそう述べてきたんですけど、よくよく考えてみると、ホラー映画だと銘打っているわけだから結果ホラーが正しいわけで、それにあれこれ文句をいう自分などのような輩が間違っているわけです。自分としても霊体は出てくるんだろうなという思いで見ていたわけだし、それがホラーというよりはどちらかといえばミステリー寄りの展開に、いつの間にか通常のホラーとは違う結末を求めていて、それが肩すかしのような感じになった─…と思っていたけれど、単に終わり方が良くなかっただけだということに、今ようやく気が付きました。遅すぎますけど…。
どうせ霊体を出すならば、主要な登場人物のところへ向かわせるべきなんじゃないかなーと思うわけです。どうでもいい脇が襲われようがどうなろうが、見ているこちらだってどうでもいいと思うわけです。もしかして、あそこから竹内結子や橋本愛へと穢れが忍び寄っていくということを、暗に示していただろうか?そうであったとしても、決してそうは捉えることができなかった。だから、いろんな意味で肩すかしを食らった印象だったのかもしれません。
ホラー好きにもそうでない映画ファンにとっても、中途半端に映ってしまう、少し残念な作品であることは間違いないと思います。
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