お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました

お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました(2015年・日本)
公開日:2016年1月23日
配給:シマフィルム
時間:102分

監督:遠藤ミチロウ
プロデューサー:志摩敏樹
出演:遠藤ミチロウ、THE STALIN Z、THE STALIN 246、三角みづ紀、盛島貴男、竹原ピストル、大友良英、AZUMI、遠藤家のみなさま、遠藤チエほか
撮影:高木風太
録音:松野泉
製作進行:酒井力
撮影協力:柴田剛

鑑賞日:2016年1月26日
場所:K's cinema 自由席


■ ストーリー
1980年にザ・スターリンを結成し、豚の臓物、爆竹を客席に投下、全裸でステージから放尿、といった過激なパフォーマンスを繰り広げたミュージシャン遠藤ミチロウ。吉本隆明などが評価し、多くの後進の世代をも魅了した。バンドを解散した後も、現在に至るまで、ソロを中心に音楽活動を続けている。
60才を迎えた2011年、ザ・スターリン復活ライブを決行し、そして全国を巡る自身の還暦ソロツアーを敢行する。そのさなか、東日本大震災が発生、それまで故郷を顧みることがなかった遠藤は、故郷の地で同郷の仲間とプロジェクトFUKUSHIMA!を始動させる。
自身のアイデンティティたる家族へ眼差しを向け、第二次大戦でガダルカナル、フィリピンと激戦地に赴いた父への畏敬にみちた思い、自身の代表曲「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました。」にも強烈に込められた母へのアンビバレントな感情が赤裸々に語られる。
現在も盛んにライブ活動をする遠藤ミチロウ。行く先々での人々との対話も描かれる。
時代をつくり、駆け抜け続ける遠藤ミチロウというミュージシャン=ひとりの人間としてのシンプルにして力強い生き様は、今も多くの人々を強烈に惹きつけ続ける。
血肉を引き裂くようなヴォイスシャウト。還暦(60才)を超えてもなお躍動する、その肉体と声。
なぜ歌い続けるのか?なぜ旅を続けるのか?
過激なライブパフォーマンスと相反するかのような実直な語りで、男は明かす。

遠藤は、膠原病を患い入院。一時はライブ活動の長期的停止を余儀なくされたが、映画の公開を迎え、見事に復帰。「THE END」「羊歯明神」という新たなバンドも結成、様々な活動を始動し、生命を燃やし続ける。

▶ 映画館環境
K's cinemaは座席数84の小劇場。全席自由で、見た感じどこに座ってもいいような気がした。真ん中とか前とか後とか、あまり意味をなさないと思うので、空いていてゆったりできる席を選択するのがベスト。
平日、午後一の上映。20、30人はいただろうか。意外といたのでちょっとびっくり。ミュージシャンのカリスマ性なのか映画館のカリスマ性なのか…。

▶ 作品レビュー
遠藤ミチロウもThe Stalinもよく知らなかったし、登場してくるミュージシャンやアーティストも大友良英以外ほとんど知らない人ばかり。しかし、非常に面白いドキュメンタリー映画だったし、流れる音楽も気に入った。
遠藤ミチロウという人が何だか好きになりました。あ、恋とかじゃなくて人間的にっていう意味ですよ、あくまで。
何だか、言っている事とやっている事が矛盾していたり、例えば「オレ本当は人前に出たいとか思わない」という趣旨の発言をしていたと記憶するけど、映画に出て、しかもいまだに多くのライブ活動続けるその行動に全く説得力なし。でも、自分が持っている恥部とか逡巡なんかを吐露しているところを見ると、その言葉は嘘偽りないんだなーって理解できる。矛盾している世界を揺れながら生き続けている唯一無二のアーティスト。
といいながらも、ひとりアコギで熱く歌っている姿を見ると何だか某有名アーティストに見えてしまうんですけど…。あの細マッチョな肉体が似てるのかも─。
それにしても還暦を迎えた人とは思えない熱を感じるし、還暦らしい厚も感じるし、ぶっちゃけ圧も感じてしまう。シャウトが命の叫びにしか聞こえなくて、なんだか泣けちゃいました。
福島県あずま球場でのThe Stalin 246の映像などには心を打たれる。映像自体、ぶれるし揺れるし酷いもの。でも、演奏は素晴らしいし、遠藤ミチロウのパフォーマンスもキレキレで、この人ここで死んじゃうんじゃないかっていうくらいの勢い。観客がそれほど入っていなくて空席が目立つ中、それでも彼らを見に来てくれている人たちに懸命に応えているアーティストの姿に感動してしまった。
映像とか展開とかつなぎなんていうものは、この映画ではどうでもいい。ホントはどうでもよくないんだけど、遠藤ミチロウという個性を基準に構成していけば、成立してしまうところが、非常に面白いところ。
本当に自ら監督しているのかと疑問に思ってしまうくらいに、ありのままの自分をさらけ出す覚悟を持って臨んでいる姿勢を感じる。まさに、それが見事に映像に記録されているわけだから、あとはもう上手いこと仕上げればいいだけだし、そういった意味で技術的なことは二の次でいいと感じたわけだ。
そうはいっても、音だけには何かしらのこだわりを感じる。インタビューにしろ音楽にしろ、音をメインにしている意図は伝わってくる。いつの間にか、耳でよく聴き、目で補うという捉え方をしていたように思う。悪くいえば、それは絵的にそれほど面白さを感じなかったということなんだけど、監督にしてみたらまず音ありきなんだろうから、これはこれで良しなんだろう。
実際に流れてきた音楽も本当にいいと感じたし、個人的には、竹原ピストルの「カノン」とかThe Stalin 246の「虫」とか「ワルシャワの幻想」とか、最高だったなー。
自分も東北の田舎もんだし、里帰りする・しないとか親不孝ものとか、そんな感情がよく理解できたし、実際に遠藤ミチロウが実家に帰って母親などと会話するシーンなどは本当に笑えた。自分には、とてもじゃないけどあんな風には曝せない。
遠藤ミチロウのとてつもない勇気と行動力がこの映画にはある。いや、すべてがあるといっても言い過ぎじゃないだろう。
遠藤ミチロウの魂を受け取りに行け!と言いたいところなんだけれど、まぁ、何かに飽き飽きしているんだったら、これを見に行って刺激を受けてくれ!っていう方が無難かな。


ザ・ウォーク

ザ・ウォーク(2015年・アメリカ)
原題:The Walk
公開日:(米)2015年9月30日 (日)2016年1月23日
配給:ソニーピクチャーズ・エンタテインメント
時間:123分

監督:ロバート・ゼメキス
脚本:ロバート・ゼメキス、クリストファー・ブラウン
原作:フィリップ・プティ「マン・オン・ワイヤー」
製作:スティーブ・スターキー、ロバート・ゼメキス、ジャック・ラプケ
製作総指揮:シェリラン・マーティン、ジャクリーン・ラビーン、ベン・ワイズバーン
出演:ジョセフ・ゴードン=レビット、ベン・キングズレー、シャルロット・ルボン、クレマン・シボニー、セザール・ドンボイほか
撮影:ダリウス・フォルスキー
美術:ナオミ・ショーハン
編集:ジェレマイア・オドリスコル
音楽:アラン・シルベストリ

鑑賞日:2016年1月26日
場所:TOHOシネマズ新宿 スクリーン10 IMAX3D F−15


■ ストーリー
1974年、当時世界一の高さを誇っていたワールドトレードセンター。高さ411mで最上階が110階。そのツインタワーの間にワイヤー1本だけを張って、命綱なしで渡りきろうとした強者がいた。それがフランス人の大道芸人フィリップ・プティだ。
許可の見込みのない非合法な計画は、秘密裏に、着々と進められる。まずは自らの英語を鍛え上げ、並行して、熟練した大道芸人から綱渡りの極意を伝授してもらいながら技も鍛える。資金が貯まった段階でアメリカに渡り、恐らく犯罪になるであろうこの馬鹿げた計画の共犯者を探し出す。ある程度の共犯者と計画が出来上がってきて、いよいよニューヨークに乗り込む。
ツインタワーの一方は完成しすでに営業が始まっていたが、もう一方はまだ工事中。チャンスは完成前。それまでに何度もツインタワーへ赴き、人の動きやビルの動きなどをつぶさに監察し計画を練っていく。新たな協力者も加わり、ようやく実行の日取りが決定された。
果たして、フィリップ・プティと共犯たちのとんでもない計画はうまくいくのだろうか?そして、フィリップ・プティの運命やいかに!?
この綱渡りの実話は、ドキュメンタリー映画「マン・オン・ワイヤー」(2008年・米)として一度描かれていて、第81回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞している。今回はそれをドラマ映画化したもの。

▶ 映画館環境
TOHOシネマズ新宿のスクリーン10は座席数311のIMAXシアター。個人的に今最も好きな劇場。特にF列は足元が広くて手すりなど障害物もないので、必ずその列の席を取ることにしている。今回もF−15をゲット。かなり真ん中寄りの席。F列の8〜26であればどこでも満足いく迫力を堪能できる。面白いか否かは、その映画次第だが。
平日の朝一の上映でも、人気作品であるからなのか、かなりの客数。「スター・ウォーズ フォースの覚醒」や「マッドマックス 怒りのデスロード」ほどの盛況ではなかったけれども、「進撃の巨人」の時よりは人がいたような気がする。

▶ 作品レビュー
昨年の東京国際映画祭にてオープニング(2015年10月22日)を飾った作品。その時に見ること叶わず、3ヵ月待ってようやく観賞。
観賞する際は3Dで見ようと決めていたのだが、その思いは正しかったと確認できた。上から、下から、3Dを意識した映像づくりで、臨場感がハンパない。上から棒が降ってきた場面なんか思わず体がビクッとなってしまったし、高層ビルからのぞき込む映像などには足元が立ちすくむ。あまりの臨場感に、本当にワールドトレードセンターはもう無いんだよなー、と有り得ない疑問さえ浮かんできた。
メインは間違いなく、WTCのCGやVFX。それを見るだけでも価値がある。確かに、主演のジョセフ・ゴードン=レビットは相当綱渡りを練習したんだろうなとか、ロバート・ゼメキスらしいコミカルでハートフルなストーリーとか、楽しめる箇所は数多くあるけれど、決してこれ見よがしではない物凄いCG・VFXには驚愕してしまう。ビジュアル効果ありきの映像づくりではなく、あくまでどんな表現でどう伝えたいのかという前提があっての特殊効果だと感じることができる。
一方でこの映画は、ごく普通の伝記とかドラマにしか見えないかもしれない。だから、高所が苦手だとか無意味な行為は気に入らないとか思っている人にとっては、嫌悪感しか覚えないかもしれない。何せ、ビルの上から見下ろす世界やビルそのものも全くCGには見えないのだから…。
大画面の3Dを存分に味わっている中で、果たしてこれをスマホとかで見たとしても本当に面白さが伝わるのだろうかと、大いに疑問に思った。結末は分かっているし、話もそれほど凝ったものではない。単純明快ではあるけれど、もしかしたら退屈な作品に思えるかもと─。とはいえ、個人的には、強烈な個性が様々な手助けを受けながら、とてつもないことをなし得たそのストーリーに感動したし、個人プレーがいつの間にかチームワークに変わっていく様に共感できた。分かりやすいが故に、純粋にお話しを楽しめたところもある。それでも、単に話を追うだけじゃもったいない映画であることは間違いない。
それにしても、WTCというものは全く数奇な運命をたどった建物なんだなーとあらためて実感してしまう。もはや存在しないこのビルを、911という形ではなく、こうした痛快な出来事で再現する方がよっぽどいい気がする。さりげなくあの悲劇のことも思い出されたりして、郷愁的なものも誘うだろうし。仮にWTCが倒壊する映画が作られたとしても、個人的には見る気はしない。
この作品は、フィリップ・プティの伝記であると同時に、WTCの雄姿を伝えるものでもある。そう捉えながら観賞すると、全く違った印象になるかもしれない。

ガラスの花と壊す世界

ガラスの花と壊す世界(2015年・日本)
公開日:2016年1月9日
配給:ポニーキャニオン
時間:67分

監督:石浜真史
原案:Physics Point
脚本:志茂文彦
出演:花守ゆみり(リモ)、種田梨沙(デュアル)、佐倉綾音(ドロシー)、茅野愛衣(スミレ)ほか
キャラクターデザイン:瀬川真矢
音楽:横山克
主題歌:A-1 Pictures

鑑賞日:2016年1月26日
場所:新宿バルト9 シアター8 D-10席


■ ストーリー
2073年、コンピューターを管轄する基本的ソフトウェア、ヴァイオレット・オペレーションシステム「ViOS(ヴァイオス)」が開発される。
2100年、地球環境を管理・維持するためのプログラム「マザー(mother.exe)」が開発される。マザーはViOS上で動く。理想の人間を作り出すことを目的として、地球上の歴史や場所の記録(バックアップ)を取り始める。
そのバックアップをため込む場所が「知識の箱」と呼ばれるもの─。
デュアルとドロシーは、「知識の箱」にインストールされた、アンチウイルスプログラム。「知識の箱」に侵食してくるウイルスを消去することが2人の使命、必要とあらばウイルスに汚染されてしまったバックアップの消去などもしなければならない。
ある時、デュアルとドロシーはウイルスに攻撃されているリモを発見し、救い出すことに成功する。救出したはいいが、リモはいったいどこから来て、何ものなのか全く分からない。唯一リモの記憶の中にお花畑というものがあった。それを頼りに、彼女らはあらゆるバックアップの中を探って行く。
そして、そのお花畑こそが、ウイルスがどこからくるのか、そしてリモが何ものでその存在の目的などが説き明かされるキーとなっていく─。

2013年「アニメ化大賞 powered by ポニーキャニオン」にて、多数の応募の中から大賞を勝ち取った「D.backup(ディードットバックアップ)」(創作ユニット「Physics Point(フィジックスポイント)」によるシナリオ&イラストレーション作品)を原案とした作品。

▶ 映画館環境
座席数251とやや広めの劇場。選択した座席は前から3列目。近すぎるかなと思ったものの、むしろこれぐらいの近さが迫力があってちょうどいい。少々見上げになるが、全く気にならない程度。座席前の手すりが非常に邪魔。
早朝1発目の上映、もしかしたら1人かなと思ったりしたが、10人ほどいた。

▶ 作品レビュー
ストーリーはかなり練られている印象がしたし、キャラクターも洗練されていて、楽しめたことは間違いない。だが、キャラクターや演出が、世の中で流れているアニメを組み合わせただけという印象を強く持ってしまった。
アンチウイルスを女の子という形で擬人化するアイデアそのものは、非常に面白いと思うし、成功していると思う。それを分かりやすくとか親しみやすいとか、そういうものを追求するあまりに、作品そのものがステレオタイプという印象を持たれてしまうのではと危惧する。
はっきり言ってしまうと、何とかアイドルが魔法を使って悪者を撃退しているアニメーションになってしまっているのだ。
コンピューターに詰め込まれたバーチャル世界というコンセプトを前面に打ち出すよりも、女の子の物語を前面に押し出した方が受けがいいだろうし、むしろ新しいのだという気持ちは理解できる。前者のコンセプトなんてやり尽くされて、もう古くさくなってしまっているし─。
女の子のキャラそのものには別に不満はない。むしろ、性格付けや姿形は、オリジナリティーがないとはいえ、作品の中で生かされていたように思う。
また、時代背景や環境を自在に変えることが可能という設定も、かなり面白いと思ったし、その描写自体サラッとこなしていたけれども、その利点をうまく活用することもできたように思う。
よくよく考えてみると、ウイルスの表現があまりよろしくなかったような気がする。あれが、某有名魔法少女を想起させてしまって、それだけでこの作品自体のオリジナリティーのなさが露呈してしまっている。
大衆に受けるような記号を使いながら構成していく手法にケチをつけるものではない。それが分かりやすさにつながるだろうし、多くの人にそれが受け入れられれば、大衆的なシンボルだったものがもしかしたら作品そのもののシンボルにもなり得るかもしれない。
ただ、あまりにも大衆用の記号ばかりを集め過ぎなように感じてしまう。唯一「知識の箱」だけがこの作品のオリジナル要素で、あとはすべて何かの借り物のような印象。
よくできていて、楽しめるアニメーションなんだけど─。
多くのレビューで「おしい!」といった趣旨の意見が目立つ。それは、映画としては短いなどという単純な理由からではなく、「ガラスの花と壊す世界」というオリジナリティーあふれるタイトルそのものに、中身が追いついていないという不満が表れているように感じる。
アニメファンが求めるアニメは、決して洗練されたものではないという原点的な考えを、もっと権力者に持ってほしいものである。



サウルの息子

サウルの息子(2015年・ハンガリー)
原題:Saul fia
公開日:(ハンガリー)2015年6月11日 (日)2016年2月23日
配給:(ハンガリー)Mozinet (日)ファインフィルムズ
時間:107分

監督:ネメシュ・ラースロー
脚本:ネメシュ・ラースロー、クララ・ロワイエ
出演:ルーリグ・ゲーザ(サウル),モルナール・レべンテ(アブラハム),ユルス・レチン(ビーダーマン),トッド・シャルモン(顎鬚の男),ジョーテール・シャーンドル(医者)ほか
撮影:エルデーイ・マーチャーシュ
美術:ライク・ラースロー
編集:マチェー・タポニエ
音楽:メリシュ・ラースロー

鑑賞日:2016年1月23日
場所:ヒューマントラストシネマ有楽町 シアター1 F−17席


■ ストーリー
1944年10月、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ハンガリー系ユダヤ人のサウルはゾンダーコマンドとして働いていた。
ゾンダーコマンドとはドイツ語で“特別部隊”を意味する。収容所でのそれは、ナチスが選抜したユダヤ人による特殊部隊のことで、収容所での同胞の遺体処理に従事していた。
ある日、サウルはガス室で遺体処理中にかろうじて生き残っていた少年を目にする。よく見ると、どうも自分の息子のようだ。しかし、どうすることもできない。すぐに自分以外の者の手によって、目の前で、静かに、息子らしきその少年は殺されてしまう。
ガス室の遺体は焼かれて、完全に灰燼と化してしまう。ユダヤ教では火葬すると復活というものが絶たれてしまうという理由から、火葬は禁じられている。ゾンダーコマンドは生き残るために自分の信条や感情を押し殺しながら、ただ自らの仕事を淡々とこなすほかなかった。
亡骸となった息子と思われる少年の遺体─、サウルはそれがどうなるかよく知っている。せめて、ユダヤ教の教義に則って埋葬したいと思った彼は、なんとかラビ(ユダヤ教の聖職者)を捜し出そうとする。
遺体の持ち出し、ラビの捜索、埋葬場所、そこにあらゆる困難が立ちはだかる。そしていつの間にか、ゾンダーコマンドの一部で進んでいた収容所脱走計画にも巻き込まれていく─。
アウシュヴィッツ解放70周年を記念して製作されたハンガリー映画。2015年・第68回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。

▶ 映画館環境
ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1は座席数162席、スクリーンサイズ(ビスタサイズ)5.9×3.2m/(シネスコ)7.6×3.2m、この作品はスタンダードサイズの上映だった。座った席はF-17。ここのシアターはF列であればどこでもいい。今回は敢えて右端を選択。ここはいつも人がそれなりに入っている印象。この日もまぁまぁの入り。

▶ 作品レビュー
全編にわたって、主人公のクロースショットをメインに展開していく。サウスの寄りの映像を中心に据え、ときにサウスの目線になったり、またサウスの肩越しの映像になったりと、近景の連なりで構成されている。それ故にかなりの閉塞感を覚えるし、それをより一層強調するためにスタンダードサイズになっていると想像できる。
内容そのものはかなりショッキングなもの。虐殺された亡骸も散見するし、それらが灰になって原形が全く想像できない状態にまでなっている。今さら語るまでもないのだが─。その上、この作品では、瀕死の息子を目撃し、それを目の前で殺されてしまうわけだから、筆舌に尽くしがたい。
しかし、一見すると、映像そのものにはその衝撃度は微塵も感じられず、意外とあっさりとしているという印象。息子の死を目撃したサウルに、悲しみや怒りなどは感じとることができず、ちょっとした恐怖を感じるだけ。それが本当にサウルの息子なのかどうかすらさえ疑いたくなる。そして、その遺体を執拗に持ち運ぶ様や、サウル自身が生に固執していることは明白なのに亡骸のために危険を冒すその様に、イライラ感や理解不能といった感情に陥ってしまう。
確かにその内容を具体的に分析しながら捉えていくと、凄惨極まりない話。だが、画面からそれがほとんど伝わっていない。必死に動き回るサウルは、果たして何のために動き回っているのか─、やっているのはただ一つ、息子を埋葬するために奔走しているだが、時間が経つにつれてその目的すら見えなくなる。彼は単に懸命に生き残るために動き回っているとしか思えない、そう思ったら、サウルが持ち歩くあのモノは何なんだ、ラビはいなければならないのか、すべて捨ててしまえば何もかも楽になるだろうにー…まさに全く感情移入もできず、無理解極まりない自分に今さらながらガッカリしてしまう。
なんだろうこの辛い感覚は─。大量殺戮が行われている現場において、わが子の死を必死に弔おうとしているだけなのに、無駄な迷惑行為としか思えないのだ。それがモラルに反する感情であろうとも、この映像を見せられることで、自分の中の不条理が前面に表れてくる感覚だ。
戦争の当事者とはまさにこんな感覚なのか、大量殺戮者というのはこんな感覚なのか、とにかく生き続けるということはあらゆる物事を捨て去るということなのか─。
あらゆる問題提起がこの作品の中には存在することであろう。しかし、辛い、ただひたすらに辛い。決して面白い映画ではない。見ながらあらゆる事と葛藤しなければならない。
確かにカンヌ映画祭グランプリにふさわしいと内容だとは思う。だが、多くの人を惹きつけることはないだろう。むしろ人が拒絶してしまうような内容であり、見た人は何かしらの拒絶を覚えることだろう。つくる意義は大いに感じるし、意味はあると思う。ただしかし、人が見たがるようにしむけなければ、主義主張は伝わっていかないのではなかろうか。
興味を持った人だけが見てくれればいいとか、分かってくれる人だけに伝わればいいとか、そういったレベルの物語ではないだけに、評価されている作品でありながらも、大いに疑問を感じた。
辛い物事を幅広く多くの人に伝えることの難しさを感じざるを得ない。映画という高尚な形にし、しかも評価の頂点に立てばその存在を知らしめることはできるだろうけれど、人を惹きつける内容でなければ、伝えたいことも伝わっていかないのではないだろうか。

いろいろ考えさせられる映画でだった。

神なるオオカミ

神なるオオカミ(2015年/中国・フランス合作)
原題:狼图腾 Wolf Totem
公開日:(中)2015年2月19日 (日)2016年1月12日
配給:(中)中国电影集团公司 (日)ツイン
時間:121分

監督:ジャン=ジャック・アノー
脚本:アラン・ゴダール、ジャン=ジャック・アノー、ルー・ウェイ、ジョン・コリー
出演:ウィリアム・フォン、ショーン・ドウ、バーサンジャブ、アンヒニヤミ・ラグチャアほか
撮影:ジャン=マリー・ドルージュ
音楽:ジェームズ・ホーナー
原作:神なるオオカミ 姜戎(ジャン・ロン)著

鑑賞日:2016年1月22日
場所:ヒューマントラストシネマ渋谷 シアター3 D−1席


■ ストーリー
文化大革命の時代の1967年、北京に住む若者チャン・ジェン(ウィリアム・フォン)が内モンゴルへと下放させられる。チャンは遊牧民と触れ合う内に、オオカミに強くひかれていき、いずれは子どものオオカミを手に入れて自らの手で育て上げたいと思うようになる。しかし、遊牧民とオオカミは、互いに一定の距離を保ち、そして互いに畏怖し合いながら生活していることを知り、チャンの願望は困難なものだと知る。
そんな中でも、偶然ではあったが、子どものオオカミを見つけ出し、遊牧民たちに隠れて自らの手でそれを育てることになった。
オオカミを害獣としか捉えない中央政府の役人は、それらとの共存など頭にあるわけもなく、オオカミと対立を生み出す行為ばかりを繰り広げる。オオカミの狩り場を奪い、そこで駿馬を育て上げようと多くの馬を放ち、それを遊牧民たちに管理させたのだった。
ある夜、嵐がその地を襲う。それを待っていたかのようにオオカミが、馬と遊牧民に牙をむく。馬はほぼ全滅し、遊牧民からも犠牲者が出てしまう。
馬を全滅させた遊牧民たちに、政府から責任を問う声があがった。幸いにもお咎めなしという結果に落ち着こうとして折りに、チャンが隠し育て続けていたオオカミが見つかってしまう。猛反発を受けるチャンであったが、オオカミの生態研究を主張することで、政府役人から飼育の許しが出る。だが、オオカミのせいで犠牲者を出した遊牧民たちの反応は冷たいものだった。
どうにか公然とオオカミを育てられるようになったチャンだったが、オオカミに家畜などを襲われ続ける遊牧民たちの怒りは激しかった。それでも粘り強く育て続けていたのだが、そのオオカミもついに遊牧民に牙をむく。それは事故のようなものだったが、チェンはオオカミと人間との共存は難しいという現実を思い知らされる。
ついに、オオカミ掃討作戦が始まった。オオカミの知識を蓄え続けていたチェンも、参加するように命じられる。チェンとオオカミ、その運命はいかに─

▶ 映画館環境
ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3は座席数60と小さな劇場。スクリーンサイズも(ビスタサイズ)2.9×1.6m /(シネスコサイズ)3.7×1.6mと大きくない。座席は縦長に配置されているため、最後列だとやや迫力にかけるかもしれない。
今回ゲットした座席D−1は前から4列目の左端。段段がD列から始まっているので、D列以降を選択するべき。前の3列はかなりの見上げ。試しに最前列に座ってみたら、首がやばかった。ぱっと見はGの7、8が良さそうに思うが、ちょっと遠すぎで端過ぎるかも。
平日の昼間の上映にもなかなかの入り。E列は埋まっていて、Fも結構座っていた。その2列が真ん中でベストポジションとの触れ込みが多い。
スクリーンの質もあまりよくなかった印象で、できることならここのシアター3は選択したくはない。

▶ 作品レビュー
「未体験ゾーンの映画たち2016」という企画で上映中の映画。マイナー作品を怒濤のごとく上映しているこの企画はなんぞや? 
【未体験ゾーンの映画たち】は、様々な理由で日本での劇場公開が見送られてしまう傑作・怪作の数々を「スクリーンで鑑賞して欲しい!」という、ただそれだけの願いから、ヒューマントラストシネマ渋谷が、2012年より毎年開催している劇場発信型の映画祭!
大好評につき年々規模が拡大し、記念すべき第5回目となる2016年は、各国のあらゆるジャンルから厳選した50本が大集結!
ということは、ここで見なければ劇場で見る確率はかなり減ってしまうということを物語っている。興味がある作品、無理をしてでも見なければと思う。
とはいえ、今の時代、環境的に満足のいかない映画館で見ることに、果たして意味はあるのだろうかと思ってしまうのだが、レンタルとかセルなどにもならないかもしれないとの思いで足を運んで良ければラッキー!と思ったりするのだが、良ければ再上映・レンタル・セルの確率は上がるもんだよなーと思ったりするわけで…

さて─

監督はジャン=ジャック・アノー、フランス出身の監督で、代表作は「薔薇の名前」「子熊物語」「愛人ラマン」「セブン・イヤーズ・イン・チベット」などがある。なかなかのネームバリュー。製作にも脚本にも監督の名前がしっかりあるので、酷すぎることはないと思った。結果、予想通り、そう予想通り…
決して悪くはなかった。むしろいい方。でも好きな映画とは言い切れないので、とりあえずダメだなと思ったことをはき出してしまおう。
とにかく人間の描かれ方がひどい。敢えてなのかどうか理解しかねるが、出てくる人全員エゴの塊でしかないのだ。人間というものはそんなもんだろうけど、それでも全てが全て嫌いになることはないと思う。現実世界がそうだから─。でも、この映画の中の人全員嫌いだわー、と本当に思ってしまった。とくに主役のチャン(ウィリアム・フォン)には怒りすら覚えた。
ここまで人間を卑下して描いているのは、やはりオオカミを神々しく見せたいがためだろう。肯定的に捉えれば、その描写は大成功だ。
そして、オオカミはどこまでもカッコイイ。堂々と峻嶮な岩山に立つ姿、美しくどこまでも響き渡る遠吠え、大草原を俊敏に駆け抜ける姿、どんなに傷を負っても獲物を追いかける姿、最後の最後まで何ものにも屈しようとしない威厳、すべて素晴らしく表現されている。オオカミこそを描きたかったのだと納得。これらオオカミの表現を見るだけでも価値ある映画だと思う。
あまりにも見事で、オオカミに感情移入してしまい、映画の中の人間が憎くて仕方がない気持ちになった。全員喰われてしまえと思ったほどだ。
オオカミに涙した。あまりにも悲しすぎる。
中途半端な人間のオオカミへの愛情みたいな表現がむしろ嫌悪感を覚える。徹底的に人間を悪として描ききってくれたのならば、文句なしにこの作品を評価するところだが、救われないオオカミを放置しておいて、クズみたいな人間どもを救済しようとしている描き方が、どうしても納得がいかない。
チャンはいったいオオカミを育て上げて何をしたかったのだろう。ペットにでもしたかったのだろうか? ペットにしようとして、失敗し、単に逃げられたに過ぎないのではないか。それを強引にまで育まれた愛情のようなものを作り出そうとしている意図を、どうしても感じてしまう。まぁ原作ありきの映画だから、原作者の手前、そこまで主人公を悪く描くこともできなかったのかもしれない。これが最大限の人間批判だったのだろうか。
根底に潜むコンセプトはよく表現されている作品ではあったが、どうも好きになれない映画である。




最愛の子

最愛の子(2014年・中国)
原題:親愛的 Dearest
公開日:(中)2014年9月25日 (日)2016年1月16日
配給:ハピネット、ビターズ・エンド
時間:130分

監督:ピーター・チャン
制作:ピーター・チャン
脚本:チャン・ジー
出演:ビッキー・チャオ、ホアン・ボー、トン・ダーウェイ、ハオ・レイ、チャン・イー、キティ・チャンほか
音楽:レオン・コー

鑑賞日:2016年1月20日
場所:シネスイッチ銀座 シネスイッチ1 2階P−12


■ ストーリー
2009年7月18日、中国・深圳。3歳の男の子が姿を消した。
男の子の両親は離婚していたが、協力しながら必死にわが子を捜す。懸賞金をかけて情報を集めるものの、すべて金銭目的の詐欺ばかり。しかし時が経つにつれて偽の情報すら入らなくなってしまう。
諦めずに捜索し続けて3年、農村に似た子供がいるとの情報が入る。情報をもとにそこへ行くと、まさに捜し求めていたわが子であった。誘拐されて、血のつながらない女の子と兄妹として育てられていたのだ。必死にわが子を取り戻したものの、3年の間にすっかり別の子になってしまっていた。
農村で兄妹を育てていたのは女性は、すでに夫と死別していた。彼女が言うには、夫が男の子と女の子を拾ってきたのだという。男の子は誘拐されたものとは思っていなかったが、防犯カメラなどに映っていた男の子と夫の姿を見せられて愕然とする。そして、誘拐犯の妻として扱われ、育てた女の子も取り上げられて児童施設に入れられる。
農村の女性は誘拐の事実を知らなかったため、数カ月で釈放される。子供らを諦めきれない彼女は、一目会いたいとの思いで深圳に赴く。あわよくば取り戻そうと目論んで─。

子供の誘拐と人身売買という問題、それに中国におけるひとりっ子政策というものを絡めながら、複雑かつ一筋縄でいかない物語が展開される。

▶ 映画館環境
シネスイッチ1の2階最前列やや右寄りの席。2階P−8がベストポジションかももしれない。残念ながらそこはすでに抑えられていた。ただ、ゲットした2階P−12は、右扉を出るとすぐにトイレがあるし、それほど悪くはない。とにかく2階の最前列こそが狙い目。1階であればIー12などがいい席かもしれない。

夜からの上映にもかかわらず、観客はまばら。よほど注目度がない限り、中国映画って実は人気がないのかもしれない。

シネスイッチは、アップルストアを目印に曲がる。曲がったその通りにある。いつも忘れるから記録。

▶ 作品レビュー
事実をもとにしたストーリーとは思えないぐらい、凄まじい内容。そもそも、3歳の子供が誘拐されて売られて、別の子供として育てられるという理解しがたい事実に驚きを隠せない。
しかし、よくよく調べてみると、子供の失踪というのは意外と多く、日本では年間約5000人ほどが行方不明となっているという。実に多い数字と思ってしまうが、中国の場合では年間約20万人ともいわれていて、さらに、アメリカでは実に年間80万人近くの子供が姿を消しているそうだ。桁が違う…そしてあり得ない…
なんでそんなに誘拐されるのかというと、臓器売買や悪魔崇拝の犠牲になっているケースが多いという。それはアメリカに限った話。
中国で子供の誘拐が多発する大きな要因は、後継ぎや働き手を得るためだという。それはひとりっ子政策が大きく関わっているということが映画を見るとよく分かる。
この映画は2014年に制作されたものであって、2015年すでに中国共産党はひとりっ子政策を完全に廃止しているのではあるが─。
話はかなりズレてしまった。

誘拐された子供が戻ってきても、決してハッピーエンドではない。誘拐そのものに何のメリットも無く、あるとすれば犯罪者の利益だけ。その誘拐後の無意味な悲しみが丁寧に描かれて、強烈な無常感に襲われる。
際立っているのは、役者陣の演技ではなかろうか。子役の子から、誘拐する側・される側、どちらの親役も素晴らしい演技で、見ているこちらの心をえぐる。
半ば過剰演出のような印象も受けてしまうが、その内容の凄まじさと問題の重大さを提示されると、その過剰さが至極自然に見えてしまう。
ビッキー・チャオ、ホアン・ボー、ハオ・レイ、この3人の親役が特にすごい。子供を奪い合う場面などは、親の愛情を超越していて、綱引きされている子供が本当に可哀想になってくる。この悲劇は親の感情を中心に描かざるを得ない題材だとは思うけれど、一番の被害者は子供だということがよく分かる。

ビッキー・チャオは今年40歳かー、少林サッカーのイメージが強かったけれど、今回は完全に中年のおばちゃんだったなぁ。年相応の役どころとはいえ、そんなに年いっているとも思えないくらい若々しい。見事なおばちゃんを演じているけれども、やっぱまだ可愛く見えちゃいます。そのせいで同情とか特別な感情移入とかにはならなかったけれど─。

この映画では産みの親ジュアン(ハオ・レイ)がアウディを乗り回し高級マンションに住んでいるが、そこが話の中心になることはない。父親ティエン(ホアン・ボー)は事業で失敗し、雑居市場でネットカフェのような店を細々と経営している。話の中心となるのは、主にこの店。育ての母親リー(ビッキー・チャオ)は粗末な家に住みながら農業を営んでいる。三者三様、所得格差も目に見える。つまり、現代中国のあらゆる社会問題を詰め込むだけ詰め込んだ映画。決して娯楽に向いているとはいえない。実際に劇場も空いていたし─。

ひとりっ子政策が完全に撤廃されたいま、果たして中国での子供の誘拐は減っていくのだろうか。ならんだろうなー。むしろ子宝という意識が薄れていき、いまよりもっとひどい状況になりそうな気がする。誘拐大国のアメリカがそれを物語っている。

どうも内容よりも、中国が抱える問題について意識がいってしまう。所詮は他国の問題であり、日本に住む自分らが口を挟んだとしても、大きなお世話なだけだ。
それだけ問題意識を生み出す作品ともいえるのだが、興味を持って見る人も少ないんだろうし、まぁ見ればそれなりに真摯に色々考えるだろう。しかし、それがどこまで行動につながるのかは大いに疑問。見て大きな問題意識を抱えながら、いつの間にか忘れてしまうだけだろう。

最後のエピローグ的な映像はいらなかった気がする。無理やり啓発っぽく仕上げている感がするからだ。そんなことしなくても、見れば強烈に響くと思うんだけどなー、あくまで見ればの話だけど。





縁(えにし)The Bride of Izumo

縁(えにし)The Bride of Izumo (2015年・日本)
公開日:2016年1月16日
配給:OSMANDエンターテインメント、トリプルアップ
時間:110分

監督:堀内博志
脚本:堀内博志、川原田サキ、樋口隆則、佐藤智恵
出演:佐々木希、井坂俊哉、平岡祐太、りりィ、藤本敏史(FUJIWARA)、根岸季衣、いしだ壱成、佐野史郎、国広富之ほか
撮影:クリストファー・ドイル
音楽:金子隆博
主題歌:朝崎郁恵

鑑賞日:2016年1月20日
場所:シネ・リーブル池袋 シアター2 N-7席


■ ストーリー
神々の国そして神話のふるさと鳥取県出雲市。
縁結びの神、大国主大神(おおくにぬしのみこと)が祀られている出雲大社を舞台にしたヒューマンドラマ。
東京の出版社で働く真紀(佐々木希)は、結婚直前に育ての親である祖母を亡くす。遺品を整理する中で、白無垢に紛れて無数の婚姻届を発見する。夫の欄に「秋国宗一」という名前が常に書かれていた。真紀は祖母にそのような人がいることなど聞かされたことがない。祖母にとってその人は重要な人だと感じた真紀は、祖母の死を知らせようと、書かれていた住所を手がかりに、その人物を捜し出そうとする。
捜索が難航する中、出雲の人たちが真紀を手助けしてくれる。特に充(井坂俊哉)には車であらゆる場所へと連れて行ってもらう。
様々な縁(えにし)が掘り起こされていきながら、さらに縁が生まれて、そしてそれまであった縁が揺れ動いていく。
果たして真紀は、追い求めるものを見つけ出すことができるのか─

▶ 映画館環境
シネ・リーブル池袋はルミネの8階にあるために、アクセス的には非常に便利。スクリーン2は座席数130でスクリーンサイズが(ビスタ)5.2×2.8m/(シネスコ)5.2×2.1mと比較的小規模の劇場。座ったN-7は最後列の真ん中に位置する。スクリーンがかなり遠く感じてしまう。最前列だとかなりの見上げになってしまうので、中程の列がベストであろうか。劇場をざっと見た感じ、ベストな座席は見いだせなかった。
午後3時以降の上映。それほど混んではいなかったが、そこそこの客入り。

▶ 作品レビュー
小劇場の最後尾で見たことが少し悔やまれる。というのも、映像自体、なかなか美しいものだったからだ。大画面の中に包み込まれるような感覚を求めてしまう映像美であった。
ただ、光がやや足らなさすぎるのではと思ってしまった。それ故になおさら、見づらさを覚えてしまった。劇場の中の暗さも足りなかったかもしれない。誘導灯が非常に邪魔だったなぁー。この作品を見る際は、あまり遠すぎず、なるべく暗い場所を選ぶべきだろう。いきなり本題からズレてしまった─。

出雲の風景を基調としたヒューマンドラマ。
個人的には、神話とか神社とか全く興味を持てない分野なので、少々忍耐を要した。ヒューマンドラマに関しても、非常に淡々としているため、全編楽しめたわけでもない。出雲そのものが主体となっているため、敢えてストーリーをシンプルにしているところは感じる。それだけに、日本古代の神秘性というものに興味を持てない者にとって、それほど面白い作品ではないわけだ。
真紀(佐々木希)の揺れる心、充(井坂俊哉)の揺れる心、揺れ動く縁(えにし)がドラマの見どころであり、見ている者を最も惹きつける要素だと思うけれども、意外性は全くないので、斬新なものを求める観賞者にとって退屈極まりない。逆に、ストーリーはしっかりしているし、演技演出も自然に仕上がっているので、安心安全な作品を求める観賞者にとってしてみれば、ラストなどは号泣するところだろう。

日本らしい映画を作ろうとしていたのは確かで、その狙いは成功していると思う。
最も日本らしさを感じたのは、不思議と空・海・大地といった自然の映像。白無垢や出雲大社など、ザ日本というアイテム満載ではあるけれども、日本というものが形成されてずっと残っているのは大自然なのだと、改めて思い知らされた。日本海の波の形、山陰地方の山並み、等々、言い知れぬ郷愁すら感じてしまう。それらに対して、日本式建造物や大しめ縄、あるいは白無垢とか神楽などには、日本らしさを感じることができない。それは変化し続けているものであるからなのか、あるいは自分が日本人だからなのか─まぁ外国人にしてみれば、変化した白無垢も神楽も日本そのものにしか見えないとは思うが…。

こうして滔々とそれらしいきれい事を並べ立ててきているものの、正直、我ながらつまらん事を書いているなと思ってしまう。つまり、それほど面白い映画ではなかったわけだ。
面白さを感じなかったとはいえ、決してだめ出しするような映画でもなく、むしろ意義深い作品であると思う。
単純に、ストーリーがつまらない。分かりやすいストーリーを入れ込みたかったのならば、もっと面白くしてくれないと、全てが全てつまらない作品に見えてしまう。コンセプトすらチープに思える。
ストーリー的に納得できたのは、充が廃校の中で回想するシーンと、ラストの真紀の白無垢姿だけ。その2ヵ所は最も説明がなくて、一番分かりづらいところだったかもしれない。しかし、そこが強く印象に残っていることを考えると、下手に説明的なストーリーなどは必要なかったのかもしれない。
せっかく出雲というビジュアル的に力強い対象があったわけだから、縁(えにし)というコンセプトをもとに、ストーリーは二の次に映像重視で構成してもよかったのではと思ってしまう。まぁ、制作側の苦労を知らない第三者の戯言でしかないけれど─。





カリキュレーター

カリキュレーター(2014年・ロシア)
原題:Vychislitel
公開日:(露)2,014年10月18日 (日)2016年1月9日
配給:(日)インターフィルム
時間:86分

監督:ドミトリー・グラチョフ
制作:アンドレイ・クツザ、ドミトリー・メドニコフ、ドミトリー・ルドブスキー、フョードル・ボンダルチュク
出演:エブゲーニイ・ミローノフ、アンナ・シポスカヤ、ビニー・ジョーンズ、ニキータ・パンフィーロフ、キリル・コザコブほか
撮影:イバン・グドコフ
音楽:アレクセイ・アイギ

鑑賞日:2016年1月13日
場所:ヒューマントラストシネマ渋谷 シアター2 0-1席


■ ストーリー
人類が他の惑星に移住し始めて1000年が経ったという設定。
移住した数々の惑星の中に、惑星XT59という名のものがある。その惑星には一つの巨大な居住空間しか存在せず、それ以外の場所は不毛の地。しかも危険な未知なる生物が潜んでいる。
その星で重い罪に問われると、居住空間から遠く離れた監獄へと送られ、危険極まりない荒れ果てた地へと放たれてしまう。そうなってしまうと生き残る術はない。生きるための唯一の方法は300㎞離れた“伝説の島”に自らの足でたどり着くこと。生きてそこへ行けば無罪放免となる。しかし、その可能性はゼロに等しく、実質的な死刑とまで言われていた。
そして新たに囚人10人が野に放たれた。そこから命をかけた逃避行が始まる。どこにあるのか分からない“伝説の島”を目指して彼ら彼女らは進む。そもそも“伝説の島”があるのかどうかすらも妖しい。それでも進まなければ生きる術はないのだ。
協力し合い、時に愛し合い、裏切ったり裏切られたり、あるいは素性がバレたり、そして思いもよらない生き物や敵と戦いながら─、果たして“伝説の島”にたどり着くことができるのか!?

▶ 映画館環境 
ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2は座席数173、スクリーンサイズはビスタサイズ 5.9×3.2m /シネスコ 5.9×2.5m と比較的小規模な劇場。
O列は一番後ろの列。O−1席は劇場左隅の席。スクリーンが大きくないだけにやや遠すぎる感あり。ただ、前に行けば行くほどスクリーンを見上げるようになるので、あまり前過ぎない方がいいようだ。
平日昼すぎからの観賞。未体験ゾーンの映画たち2016という企画で上映されている作品。2、3日に1回という頻度であるためか、マイナーすぎる映画にもかかわらず、ほどよく観賞者がいた。

▶ 作品レビュー
映画のキービジュアルに惹かれて足を運んでしまった作品。奇妙な生き物、シンプルな衣装、角張った飛行体…など、自分が思い描く魅力的なロシア美がそこに存在していた。
実際見始めると、確かに、あの「ストーカー」や「ソラリス」の世界観は存在していた。その上ハリウッド的なテイストもうまく加わっていて、淡い期待が湧き上がる。しかし、それはすぐに消えていた。なぜか分からないまま、いつの間にか、ロシア語を用いているつまらないSF映画だという認識に変わっていた。
あらゆる困難が起こるけれども、全くハラハラドキドキしない。囚人の素性が徐々に明らかになっていくけれども、バックグラウンドなどの描写など足らなさすぎて、儚く散っていく彼ら彼女らに、同情も憎しみも生まれてこない。
多くの人が死んでいくけれども、あっけなく目的の地にたどり着いた印象が拭えず、その地にもほとんど特別感を感じない。
ここを開けるにはパスワードが必要だ。最後の一桁が分からない。2回しか間違うことができないから0〜9まで試すわけにはいかない。
悩んだ末に適切な数字を導き出すのだが、その導き方も何だか非常に曖昧極まりなく、もはやその詳細すら思えていない。つまり、どうでもいい理由だから、もうあっさり開けちまえばいいわけなんですよ。
開けるとそこには宇宙船。これでこんなひどい星ともおさらばだという結末。でもこの船は一人乗り…
お前だけが行け
いや!私も残る!!
…結局ふたり仲良く乗って脱出。めでたしめでたし。……な、何なんだよ!お前らそれ乗ってどこへ行くっていうんだよ!そもそも二人乗れるんだったら意味ない譲り合いはやめろ。お前ら宇宙の塵となってしまえ!!─という気持ちになりました。

ちょっと変わったデザインの代物が出てきただけ。ありふれた物語で、目新しさは何もなし。90分もない作品なのに、異様に長い時間が流れていた。
こんなステレオタイプなSFなんて、ロシア映画と呼びたくない。

見てつまらないとか、怒りがこみ上げるくらいひどいとか、そういったものでもない。見ればそれなりに理解できるし。物語としても成立している。
もの足りない人には非常にもの足らなく感じるというだけ。であるから、勧めもしない。興味が湧いた人だけ見ればいい。

世紀の光

世紀の光(2006年/タイ・フランス・オーストリア合作)
原題:Sang sattawat
公開日:(米)2015年3月27日 (日)2016年1月8日
配給:(タイ)Fortissimo Films (日)ムヴィオラ
時間:105分

監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
脚本:アピチャッポン・ウィーラセタクン
出演:ナンタラット・サワッディクン、ジャールチャイ・イアムアラーム、ソーポン・プーカノックほか
撮影:サヨムプー・ムックディープロム
編集:リー・チャータメーティクン
音響デザイン:清水宏一、アクリットチャルーム・カンヤーナミット

鑑賞日:2016年1月13日
場所:イメージフォーラム シアター1


■ ストーリー
前半は地方の緑豊かな病院、後半は近代的な白い病院が舞台。
微妙に違う似通った話が前半と後半という形で反復される。
自然の光と人工の光。過去の記憶と未来への慄き。変わりゆく人間と変わらない人間。
繰り返されるストーリーから、繫がりと変化を感じとるように仕組まれており、それをどう判断するかは見ている者に委ねられる。
ラストを飾る音楽は日本のバンド「NEIL&IRAIZA」のポップソング。それまでの映画のテイストとは全く違ったメロディーを、果たしてあなたはどう感じることだろう。
タイの天才が贈る“微笑み”と“驚き”の傑作、それが『世紀の光』。
2006年の作品でありながら、ようやく日本での劇場初公開となった。

▶ 映画館環境 
イメージフォーラムのシアター1は座席数64の小劇場。全席自由席。
いつもながら幅広い年齢層が観賞している。平日の夜からの上映で、20〜30人ほど見ていただろうか。まぁまぁの入り。
施設や設備がそれほど新しくもなく、最新の器機を使用している感じもしないけれど、個人的には建物自体の雰囲気など非常に気に入っている映画館。見たいと思って足を運び、失敗したという思いに至ったことがない。良くも悪くも自分にとっては意義ある作品ばかりに出会えている気がする。自分と相性のいい映画館。

▶ 作品レビュー
非常にゆったりとした映画。長めのフィックスを多用し、ズームやパンも常に超スロー。映像は不思議と白いイメージに包まれていて、透明感が溢れている。
恋のエピソードを中心に据えて話が展開していく。恋そのものがユーモアや分かりやすさというものを生み出していて、抽象的な印象がするこの映画のアクセントとなっている。
繰り返されるストーリーに、輪廻の思想を感じた。仏教国であるタイならではの作品だという個人的な認識。
監督の見解によると、特段、輪廻という思想は出てこない。過去に対する執着と、想像するものすべてが過去からのものだという意識が強いようだ。過去のものが繰り返されたり、過去のものが変化したり、過去にはなかったことが起こったり、─過去を基準にしながら普遍性を表現することを目指しているそうだ。
前半部分で舞台となる病院は、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督が生まれ育ったタイ北東部コーンケンにあったものを思い出しながら再構築したものだという。
監督は断言する「(記憶が)唯一の(映画制作の)衝動といえるくらいですよ!すべては記憶の中にあり、映画というものの本質もそこにあると思います」と─。
前半部分は監督の記憶をたどった結果であり、後半部分はそれがさらに再構築されたものと考えると、非常に納得がいく。
とはいえ、やはり個人的には、タイ特有の仏教思想が反映した作品だと考える。登場する、僧侶、軍服の男性、仏像、草木、どれをとってもタイの社会そのものが表現されていると感じる。どこまでも続いていくという普遍的な思想がタイの中には根づいているような気がした。それが果たして、本当にタイの根源的な思想なのかあるいは監督独自の思想なのか明確な判断はできないけれども、この映画の世界観は輪廻転生そのものだ。
知的で映像的に優れた映画だとは思う。ただ、もう少し楽しませてくれる演出を欲してしまう。輪廻を描くにしても、もっと違ったストーリーを展開させても良かったのではと思ってしまう。それは監督の志に反することかもしれないが、客観的に面白くさせようという考えをもっと持ってくれると、非常に好きな監督になりそうな気がする。これからもっと、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の他の作品を見てから判断したいところ。
この作品のエンディングは非常に気に入っている。それまでとは一転、軽やかな音楽と映像が繰り広げられて、清々しく終わってくれる。これを見ると、この映画は明らかに監督の好き勝手に創り上げられたものだと判断できる。ここまで独自の世界を構築できるのであれば、それはそれで結構なこと。しかし、この非凡なる才能を持っているからこそなおさら、自らを一歩離れた視点を映画の中に盛り込んでほしいと思ってしまう。
かなり評価されている監督であるから、客観的な視点で以て作品をつくり上げていることは間違いないだろう。しかし、この映画は明らかに独りよがりが強い。それでも自分は楽しむことはできたけれども、これを否定する人は少なくないだろう。
果たしてアピチャッポン・ウィーラセタクン監督はどこまで進化しているのか、これから公開される最新作「光りの墓」などを見て、またあれこれ述べてみたい。



モンスターズ/新種襲来

モンスターズ/新種襲来(2014年・イギリス)
原題:Monsters: Dark Continent
公開日:(英)2015年5月1日 (日)2016年1月9日
配給:(英)Vertigo Films (日)アスミック・エース
時間:119分

制作総指揮:ルパート・プレルトン、ニック・ラブ、ナイジェル・ウィルアムズ、デビッド・ピュー、スクート・マクネイリー、ギャレス・エドワーズ
監督:トム・グリーン
製作:アラン・ニブロ、ジェームズ・リチャードソン、ロリー・エイトキン、ベン・ピュー
脚本:ジェイ・パス、トム・グリーン
出演:ジョニー・ハリス、サム・キーリー、カイル・ソラー、パーカー・ソーヤ、ソフィア・ブテラ

鑑賞日:2016年1月12日
場所:新宿シネマカリテ スクリーン1 C15席


■ ストーリー
ギャレス・エドワーズが監督した「モンスターズ/地球外生命体」の続編。前作の内容は、地球外生命体を乗せたNASAの探査機が空中大破し、メキシコにモンスターが住み着いたというもので、本作はそれから10年が経過して世界各地にモンスターが繁殖しているという設定。どのようにこの話が続いているのかという丁寧な説明がないので、前作を見ていないと内容を把握しづらい。

中東でモンスター退治をしていたアメリカ軍。その最中、ある部隊からの消息が途絶える。捜索部隊が駆り出され、消息が絶った地点へと向かう。途中モンスターに遭遇するが、ほとんど攻撃などは受けない。むしろ過激派武装組織からの攻撃が激しく、次々と捜索隊メンバーが命を落としていく。それでも何とか問題解決に向けて進みつつあったアメリカ軍兵士─、彼らが目撃したものはいったい何だったのか!?

▶ 映画館環境
平日夕方の小劇場、座席は3分の1ほど埋まっていただろうか。自分の座席C15は前方から三列目の右端の席。
スクリーンは大きくない。最前列とスクリーンとの距離も結構ある。もしかしたら最前列の真ん中が最高の席なのかもしれない、柵もないし─。なるべく前目の席を取るべき劇場だと記録しておこう。
音の響きはいい。かなりの重低音が体に響く。上映前は外の雑音が聞こえるなぁと一抹の不安を覚えたが、これぐらい音が響いてくれると心配無用。

▶ 作品レビュー
制作スタッフに目を通していて、気付いたというか呆れてしまったことがある。それは制作総指揮と制作名義の多さ。監督の名前が埋もれてしまうくらいの人だかり。
だいたい制作総指揮が6人ということはどういうことなのか。集団での総指揮という概念は自分の中にはない。その6人に制作数名。要するにプロデューサーと名のつく面々が10人ほど存在している、ひどい映画だったわけだ。
ギャレス・エドワーズが監督した前作は、制作費150万円ほどの驚くべき低予算であって、しかも高評価を得ている。その甲斐あってのギャレス・エドワーズGodzilla抜擢だったわけだ。今回ギャレスは制作総指揮に名を連ねている。ほぼほぼどういうことなのか想像がつく。
気になるその予算だが、調べてみてもよく分からない。ただ、ウィキに気になる数字があった。Box Office$228,710─これって、興収2,700万円ほどということになるのだろうか…今回の映画の質感を見るに、大赤字であること間違いなし!

金がすべてではない。

でも、ストーリーもひどいものなんですよ、これが。※あくまで個人的見解

エイリアンや巨大怪獣を中東紛争に結びつけるという斬新さは大いに惹かれる。でも、単に二つのものをくっつけただけ。二つの要素が並行して展開して行くが、平行していくだけで、決して関連性や整合性が導き出されない。まぁ、怪獣どもを動く草木と考えれば、これまでとはひと味違った中東紛争映画だと捉えることも可能かもしれない。となるとこれはハート・ロッカーの悪ふざけでしかなくなる気がするのだが、他の人の見解はいかがなものか─?
だいたい、あれだけのプロデューサーが本当に存在するのならば、話がまとまるはずがない気がする。現にストーリーはバラバラだったし。
まず冒頭はアメリカン・スナイパーから始まり、ハート・ロッカーに突入、最終的にナウシカという結末。ほかにも要素があったろうか、思い出すのも徒労だし、そもそもそんな無駄な記憶を蓄えておくことがもったいない。
面白いものを寄せ集めたって、決して良くなるわけがないということがよく分かる。
そうはいっても全部が全部だめだとは思わない。映画の質感は非常にいいし、主役級のモンスターもよく表現されている。ハート・ロッカーばりの迫力映像も散見するし、お金は稼ぎたいという思いは伝わってくる。
ストーリー展開とか世界情勢とか真面目に考えながら見てはいけないのかもしれない。異次元のフィクション映画だという思いで見れば、もしかしたら面白い作品なのかもしれない。今までの映画を寄せ集めつつ今までにない映画を作り出している。その良し悪しは自らの目で判断してほしい。




ピンクとグレー

ピンクとグレー(2015年・日本)
原作:「ピンクとグレー」(2012年、発行:角川書店、著作:加藤シゲアキ)
公開日:2016年1月9日
配給:アスミック・エース
時間:119分

監督:行定 勲
脚本:蓬菜竜太、行定 勲
出演:中島裕翔、菅田将暉、夏帆、柳楽優弥ほか
撮影:今井貴博
音楽:半野喜弘

鑑賞日:2016年1月12日
場所:TOHOシネマズ新宿 スクリーン4 E18席



■ ストーリー
人気絶頂だった芸能人、白木蓮吾が自殺した。
彼の死を最初に発見したのは、幼い頃からの親友、河田大貴だった。
蓮吾からの遺書を読んだ大貴は、二人の伝記を書き、それが話題になり映画化もされて、スターの座を引き継ぐかたちとなる。
幼馴染みの蓮吾と大貴、それにサリー(夏帆)を加えた3人は、大の仲良しで常に一緒だった。高校時代にギターを手にした蓮吾と大貴は、互いに“ごっち”と“リバちゃん”と呼び合い、それぞれポールとジョンに憧れる。そんな中、サリーは引っ越しをし、バレリーナだった蓮吾の姉が舞台上で悲劇の死を迎えるという、いくつかの別れもあった。
都会へと出た蓮吾と大貴は、雑誌の取材をきっかけに芸能事務所に所属することになる。それを機に蓮吾はどんどん注目されて、スターの道を歩み出す。一方、大貴はいつまでもアルバイト中心の生活で、二人の差は開いていくばかりだった。
蓮吾と大貴は、偶然にもサリーと再会していて、再び3人が交流を持ち始めていた。しかし、蓮吾が有名になるにつれて、その3人の関係性もギクシャクし始める。そして、それが決定的な分裂を迎えた時期、蓮吾の自殺が起こってしまう。
残された大貴は蓮吾の辿った道を追いかける。幼い頃を追想し、スターの道を体験し、そして親友の死の真相を知ることになる。

私個人は原作を読んでないが、解説などによると、行定監督が原作を大胆にアレンジしていて、原作とはひと味違ったものになっているようだ。

▶ 映画館環境 
TOHOシネマズ新宿スクリーン4は定員202で、スクリーンサイズが5.2×12.6mとやや大きめ。ちょうど中央列にプレミアシートがあって、E列はその前。E18席はスクリーンを前にすると右通路側の位置にある。中央列であれば、スクリーン自体が大きいため、席が左右に寄っていたとしてもそれほど気にならない。
最前列は柵がないため、脚を伸ばせるというメリットはあるものの、あまりにも近すぎる感がある。
平日の19時上映であったためか、ほぼ満席の入り。若い女性がかなり多くて、さすがジャニーズの力は凄いものだと改めて実感する。

▶ 作品レビュー
ピンク部分とグレー部分が同じように流れて、非常に長く感じた。すべてにおいて面白さを感じたならば、それほど時間を気にすることもなかっただろう。しかし、とかくグレーの部分が楽しめず、退屈に思ってしまった。
アイデア自体は素晴らしく思う。ピンクからグレーに移行した後、しばらくの間、感心しながら見ていたけれども、グレー部分の話自体を楽しむことができなくて、個人的には出オチのように感じてしまった。敢えて、ピンクのところを面白おかしく作って、グレーをしょうもないように作っていると感じとることはできたのだが、しょうもないものを長々と見せられても辛いものがある。
怒りの感情表現も不快極まりなかった。ただキレるだけの怒りで、見るに堪えない。そう感じさせることが狙いならば、お見事というほかないが、そういった表現の意味付けなど微塵も感じることはできなかった。
ただ、ピンク部分は本当に面白く堪能した。誰しもが経験するであろう、もしくは経験したいと夢想したであろう青春像が生き生きと描かれていて、まさに劇映画だからこそ楽しめるものだなぁと、ほくそ笑みながら眺めていた。きれい事と罵られていたけれども、まぁきれい事だろうなぁという思いで見ていたし、「それがどうした!」っていう一言で片づけて良さそうなものだったけれども、清く正しき若者はなかなかそう割り切れないんだろうなー…。
菅田将暉という役者─前々から気にはなっていたけれど、やっぱコイツはいい。三枚目役・親しまれ役から一転、二枚目役・憎まれ役をそつなくこなすあたり、実に素晴らしい。真逆の役柄でありながら、どちらも見事にはまっているところに天性を感じる。
中島裕翔というアイドル起用も納得。内容的にはまっていた。でも、やっぱあのキレる演技にはガッカリだった。もっとテイクを重ねてもよかったのでは?20テイクぐらい。その上で3テイク目を使用するとか─。夏帆も似たような台詞を喋っていたっけ、エロい格好しながら。胸が見えるか見えないか…血眼でその頂点を追い求めたけど、たどり着けなかった…、残念! そう私が変なおじさんです。
グレーの部分、あれはやっぱり行定勲監督自ら出ていたんだよね?みうらじゅんじゃないよね? あの長髪の、“らしき”出演は、分かりやすいといえば分かりやすいけれども、ちょくちょく登場してくるから気になって気になって仕方がなかった…1度だけで理解できますから…
中島裕翔のあとに柳楽優弥が登場してきても、まったく同一視できなかった。アイドルと役者というのは違うものなんだと改めて実感。中島裕翔は確かに煌びやかなスターに見えたけれど、柳楽優弥はなんだか地味? 自分としては役者の柳楽優弥の方に一目置いているものの、この映画に関しては何だか見劣りを感じる。観客のジャニーズ女子たちもそう思っていたに違いあるまい。
文句から始まり、皮肉れた見方を述べてきてはいるが、何だかんだ言いつつも結構この映画を楽しむことができたわけで、要はもっとコンパクトにしてほしいということだけ。ピンクと“ちょびっと”グレーでよかったのでは?というとこの作品への冒涜かもしれないけれど─。
ピンクの部分、グレーの部分、「それっていったい何なんだよ!」
映画や原作未観賞でこのレビューを辛抱強く読んでくれた人の叫びが聞こえてきそうだが、それを具体的に語ってしまうと未体験の人の楽しみを奪ってしまうわけで、どうしても気になる人は自ら映画や原作で体験してほしい。



イット・フォローズ

イット・フォローズ(2014年・アメリカ)
原題:It Follows
公開日:(米)2015年3月27日 (日)2016年1月8日
配給:ポニーキャニオン
時間:100分

監督:デビッド・ロバート・ミッチェル
脚本:デビッド・ロバート・ミッチェル
出演:マイカ・モンロー、キーア・ギルクリスト、ジェイク・ウィリアーほか
撮影:マイケル・ジオラキス
編集:マイケル・カーン
音楽:リッチ・ブリーランド(Disasterpeace

鑑賞日:2016年1月9日
場所:TOHOシネマズ六本木 スクリーン3 H19席


■ ストーリー
セックスをすることで“あるモノ”が感染する。“それ”は感染した者にしか見ることができない。そして“それ”は一度感染すると、どこまでもゆっくりと歩いて近づいてくる。“それ”に捕まったら必ず死がまっている。
ジェイ(マリカ・モンロー)は好意を寄せる男の子ヒュー(ジェイク・ウィリアー)と関係を持ち、“それ”を感染させられる。「誰かと関係を持って“それ”をうつせば、うつされたやつが死ぬまで自分に戻ってくることはない。絶対に死なないでくれ、お前が死ねば“それ”は自分に戻ってくる」─そう言い放って、ヒューは姿を消してしまう。
ほどなくジェイに“それ”が歩み寄ってくる。最初は何なのか分からなかった彼女も、次第にその恐ろしさを理解する。
彼女の言動を異常に感じていた幼馴染みの友人たちも、徐々に彼女が見舞われている恐怖が分かってきた。そして彼女を何とか“それ”から助け出そうと奔走する。中には“それ”を共有することによって戦おうとする者もいたのだが…。
果たして“それ”から逃れることができるのか─。

▶ 映画館環境 
TOHOシネマズ六本木のスクリーン3の収容数は140でそれほど広くない。スクリーンサイズは4.0×9.7m、スクリーン7のTCXに比べたら半分のサイズではあるが、迫力は十分ある。
H19席は9列あるうちの7列目、スクリーンを前に右から2列目、通路側の席。前は手すりで、前席などは気にすることなくゆったりとできる。ただ、手すりが視界に入ってくる感じがするのがやや難。スクリーン3の最前列にも手すりが設けられているところが気に入らない。
週末の夜の上映ということもあってか、かなりの客入りだった。

▶ 作品レビュー
スティーブン・キングの世界観、あるいはナイト・シャマランの映画、それとも映画「サスペリア」とか「13日の金曜日」というべきなのだろうか、あまりオリジナル性を見いだせない、あらゆるホラー的な要素をコラージュしたような印象。
有名役者が出ているわけでもなく、画面の構図が優れていたり絵そのものが美しかったり優れていたりするでもなく、小型カメラもたくさん使用されていたし、ストイックな映像というものは縁遠い。それもそのはず、2億円ともいわれる低予算で仕上げた映画であり、所謂B級ホラーというカテゴリーに類するものかと思う。
セックスによってインビジブルな奴にとりつかれるという発想がこの映画の全て。“奴ら”は常に歩いて近づくという設定も、かなり面白い。じわじわと迫ってくる恐怖を、よく表現できていると思う。
かのタランティーノ絶賛という触れ込みで、相当な評価をされている。しかし、斬新なのはセックス感染と歩くだけという設定のみ。あとは全て何かの焼き写しのように見える。
制作側は大作など作るつもりなど毛頭なかったように思う。ただ予算内で面白くするにはどうすればいいのか、それだけを考えながら作られた作品のような気がする。
映画芸術などといった堅苦しい考えでいうと、こんな作品は全く評価できるものではない。セックス描写ありきであり、半ばパクリだらけの映画なのだから、これを未来に残す意義なんていうものは皆無である。
しかし、映画は大衆の娯楽としてこそ成り立つ面が大いにあるわけで、そういったエンタメ性においては非常に優れた作品だといえる。ドキドキハラハラさせ多くの観客を引きつけている。同時期に見たスピルバーグの「ブリッジ・オブ・スパイ」と比べたとき、観客の数においてこの作品が圧勝していたという現実を目の当たりにし、低予算のパクリだらけの面白い映画が多額の金をつぎ込んだ大作を凌駕するという痛快さを感じないわけには行かない。そして同時に悲しくもあるのだが…。
低予算でアイデア勝負というのは非常に評価できる。あとはもっとオリジナティーを追求して欲しいところではあった。オマージュとかリスペクトという言葉を用いるならばキレイに収まりそうだが、あまりに過去のものに似すぎている気がしてしまう。
ただ仮にこういった低予算のパクリ的な手法を繰り返して作り続けていったなら(もちろんアイデア抜群で面白いということが前提ではあるけれど)、ひとつの映画製作の手法が確立されるかもしれない。それがB級ホラーとかいったものだよ言われると返す言葉もない。
いずれにしろ、不思議な魅力と可能性を秘めた作品なのかもしれない。

ブリッジ・オブ・スパイ

ブリッジ・オブ・スパイ(2015年・アメリカ)
原題:Bridge of Spies
公開日:(米)2015年10月16日 (日)2016年1月8日
配給:(米)ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ (日)20世紀フォックス
時間:142分

監督:スティーブン・スピルバーグ
脚本:マット・チャーマン、イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン
出演:トム・ハンクス、マーク・ライランスほか
撮影:ヤヌス・カミンスキー
編集:マイケル・カーン
音楽:トーマス・ニューマン

鑑賞日:2016年1月8日
場所:ユナイテッド・シネマ豊洲 スクリーン10 E19席


■ ストーリー          
アメリカとソ連が冷戦状態にあった1950〜60年代。
保険の分野でキャリアを積み上げてきたジェームズ・ドノヴァン(トム・ハンクス)は、ソ連のスパイ、アドルフ・アベル(マーク・ライランス)の弁護を引き受けたことをきっかけに、世界の平和を左右する重大な任務を委ねられる。それは、自分が弁護したソ連のスパイと、U2撃墜事件でソ連に捕らえられたアメリカ人スパイの交換を成し遂げることだった。
ベルリンの壁が造られようとしているまさにその瞬間に、ドノヴァンはドイツに赴き、難しい交渉を強いられる。
実際に起こった史実をもとにした歴史・伝記ドラマ。
タイトル、ブリッジ・オブ・スパイのブリッジ=橋とは、スパイ交換が行われたグリーニッケ橋のことであり、現在でも存在し、観光名所となっている。
巨匠スティーブン・スピルバーグ監督がメガホンを取り、マット・チャーマンとコーエン兄弟が脚本を担当し、名優トム・ハンクスが主演を務める。

▶ 映画館環境 
ユナイテッド・シネマ豊洲スクリーン10は定員415人と広いキャパ。
スクリーンサイズは22.6m×9.7m(シネマスコープ)と極めて大。
座席は前方と後方の2ブロックに配置されていて、E列は2ブロック目の最前列。座ったE19席はちょうどスクリーンの真ん中付近。スクリーンの大きさに対して若干近すぎるかもしれないが、迫力は満点。前に手すりなどもなく、ゆったりと観賞。
金曜の夕方からの上映、公開初日、アカデミー賞最有力といわれている作品、意外にも観客は少なめ。頭を使う作品は敬遠されるものなのか…確かにかなりの集中力を持っての観賞であった。
007スペクターも同劇場同スクリーン同列(13番)での観賞だった。あの時はかなりの席が埋まっていた。プレミア先行上映とはいえ、やはり思考をあまり必要としない作品の方が興行的に成功するという悲しい現実か…。

▶ 作品レビュー 
冒頭の絵画的表現、光と影の力強さ、それだけでもうこの作品を楽しめると確信した。絵と構図がしっかりとしていれば、どんなにストーリーや展開が納得いかなくても、素晴らしい作品として捉えることができる。
いきなり話はわき道にそれてしまうが、あの“フォースの覚醒”、個人的に素晴らしい作品と見なすことができなかったのだが、それはストーリーのまずさもさることながら、絵や構図もそれほど決まっていなかったように思ってしまったからだ。
ブリッジ・オブ・スパイには揺るぎのない絵がある。絵画などを鑑賞する場合を思い出すと分かりやすいと思うが、その素晴らしさを感じるのは意味や背景などではなく、絵そのものであるはず。そうは言っても、それは古典的な絵画における鑑賞法であり、現代美術などしか楽しむことができないという強者などは、退屈な作品だと切り捨ててしまうかもしれない。
それでもなお、絵の素晴らしさを主張したい。絵だけを見ていると、不思議とスピルバーグ監督の過去の名作が蘇ってくる。未知との遭遇、ジュラシック・パーク、シンドラーのリスト、プライベート・ライアン、マイノリティ・リポートなど、人によって想起するものは違うかもしれないが、光りや影を眺めていると、アーティストたるスピルバーグの意志をそこに感じる。
そもそも歴史的な事実を扱っているわけだから、結末はすでに決まっているわけで、いわばストーリーよりもほかのもので勝負しなくてはならない。と同時に、確固たるストーリーが既にあるわけだから、絵作りに注力できるとも言える。だからこそ巨匠の腕前が存分に発揮できるのではなかろうか。
ひと目見ただけで冷戦時代に誘われ、極寒の東ドイツへと見ている我々を導いてくれる。そこには、リアリティーを超えた創造が確実に存在する。
トム・ハンクス以下、役者の演技は決して力むことがなく、淡々と推移する。あたかも、スピルバーグの力量に身を委ねているといった印象。役者側と制作側の信頼関係が強固でなければ、これほどまでにナチュラルな映像は作ることができないだろう。どちらの側が力んでもだめ。ハリウッド映画を見ていると、両者のバランスが絶妙であると感じてしまう。まさにプロフェッショナル同士が自らの仕事を淡々とこなしている、良くも悪くもそんな印象がする。
分かりやすいストーリーテリングであり、歴史背景などを理解できなくとも、多くの観賞者に伝わる内容ではあった。しかし、拘束されるアメリカ人パイロットの扱い方と東西冷戦下の東側の描き方が気に入らない。
マーク・ライランス演じるアベルは練達したソ連のスパイであり、重厚かつ丁寧に描かれている。故に、ある種の人間ドラマが生まれてくるのだが、一方でU2偵察機に乗ってスパイ活動を試みたところを撃墜されたアメリカ人パイロットの描かれ方というはあまりにも軽すぎる。故に、政治上の道具、あるいは映画の中での単なるピースに過ぎず、まるで命とモノとの交換が行われているように感じてしまった。
そしてまた、東側の枠内では全体主義こそがすべてであり、個人のことなど二の次だという、まさに西側目線だけによるソ連や東ドイツの描かれ方がなされており(実際そうだたのかもしれないけれど)、一方的な視点で描かれてしまうとリアリティーが損なわれてしまう。歴史的事実を扱っているだけに、そこは致命的な欠点のように思ってしまう。
そうはいっても、モノのように扱われていたアメリカ人パイロットが帰ってくると命あるものとして歓迎されて、命あるものとして必死に守られていたソ連のスパイが帰っていくと単なるピースとしてしか扱われなくなるという、非常に分かりやすい演出が繰り広げられて、それが映画を面白くしている要素であると理解できるところではあるけれども、すんなりと納得できるものではない。
全体として、“比較”というもの巧みに利用しながら展開していく。ストーリー自体も東と西という大きな対比で描かれているわけで、それを軸に、細かな演出においても二つの物事を比較しながら進んでいく。その比較が非常に分かりやすく、笑いなども誘うエンターテインメント的な要素を生み出している。個人的には、西側で飲むウイスキーと東側で飲むブランデーの演出がなかなか面白いと思った。
話自体、淡々と進んでいって、特別に劇的な展開もないので、涙や感動といったものとは縁遠い作品かもしれない。そもそも、感情的に振り切れる作品だからといって良いものとは言えないのではないか。終始冷静に凝視できた作品にこそ、適切な判断を示すことができるように思える。
この作品は決して泣かそうとか笑わせようとか、そういう意図では作られていないはずだ。目指すところは一つの世界の構築であり、それを見事になし得ている。それ故に、この作品を大いに評価したい。
最後に、音楽について付け加えておく。というのも、流れていた音楽が効果的だったというか、自分の好みで合っていたので、少しだけ言及しておきたい。
当初、音楽はジョン・ウイリアムズが担当するはずだったが、健康上の理由で、トーマス・ニューマンに変更されたという。確か、ジョン・ウイリアムズは「フォースの覚醒」において音楽を担当していたはずだ。あの音楽も決して好ましいとは言えなかった(あくまで個人的な見解であるけれども)。結果的に、トーマス・ニューマンで良かったように思ってしまう。
ニューマンという響きに耳覚えがあったので、よく調べてみると、ランディ・ニューマンの従弟だということが分かった。彼は、ロバート・レッドフォード主演の映画「ナチュラル」の音楽を担当している。個人的に、あの映画の内容も音楽も非常に思い入れがあるので、より一層この映画に好感を持ってしまったわけだ。この音楽に関しては、単なる個人的な戯言でしかないのだが─。
さて、このあとの興味としては、この映画が果たしてアカデミー賞を受賞するかどうかであるのだが、いかにもショーレースにふさわしい映画すぎて、作品賞なんか受賞したら逆に「つまらん」などと思ってしまうんだろうなぁと想像してしまう。面白い結果を夢想するに、作品賞が「怒りのデス・ロード」で監督賞がスピルバーグといったところか─。どちらも現実味に欠けるところではあるが…。
映画監督というものは死ぬまで衰えることはないのかも、と昨今の山田洋次やこのスピルバーグの作品を見て強く思うところである。