サウルの息子

サウルの息子(2015年・ハンガリー)
原題:Saul fia
公開日:(ハンガリー)2015年6月11日 (日)2016年2月23日
配給:(ハンガリー)Mozinet (日)ファインフィルムズ
時間:107分

監督:ネメシュ・ラースロー
脚本:ネメシュ・ラースロー、クララ・ロワイエ
出演:ルーリグ・ゲーザ(サウル),モルナール・レべンテ(アブラハム),ユルス・レチン(ビーダーマン),トッド・シャルモン(顎鬚の男),ジョーテール・シャーンドル(医者)ほか
撮影:エルデーイ・マーチャーシュ
美術:ライク・ラースロー
編集:マチェー・タポニエ
音楽:メリシュ・ラースロー

鑑賞日:2016年1月23日
場所:ヒューマントラストシネマ有楽町 シアター1 F−17席


■ ストーリー
1944年10月、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ハンガリー系ユダヤ人のサウルはゾンダーコマンドとして働いていた。
ゾンダーコマンドとはドイツ語で“特別部隊”を意味する。収容所でのそれは、ナチスが選抜したユダヤ人による特殊部隊のことで、収容所での同胞の遺体処理に従事していた。
ある日、サウルはガス室で遺体処理中にかろうじて生き残っていた少年を目にする。よく見ると、どうも自分の息子のようだ。しかし、どうすることもできない。すぐに自分以外の者の手によって、目の前で、静かに、息子らしきその少年は殺されてしまう。
ガス室の遺体は焼かれて、完全に灰燼と化してしまう。ユダヤ教では火葬すると復活というものが絶たれてしまうという理由から、火葬は禁じられている。ゾンダーコマンドは生き残るために自分の信条や感情を押し殺しながら、ただ自らの仕事を淡々とこなすほかなかった。
亡骸となった息子と思われる少年の遺体─、サウルはそれがどうなるかよく知っている。せめて、ユダヤ教の教義に則って埋葬したいと思った彼は、なんとかラビ(ユダヤ教の聖職者)を捜し出そうとする。
遺体の持ち出し、ラビの捜索、埋葬場所、そこにあらゆる困難が立ちはだかる。そしていつの間にか、ゾンダーコマンドの一部で進んでいた収容所脱走計画にも巻き込まれていく─。
アウシュヴィッツ解放70周年を記念して製作されたハンガリー映画。2015年・第68回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。

▶ 映画館環境
ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1は座席数162席、スクリーンサイズ(ビスタサイズ)5.9×3.2m/(シネスコ)7.6×3.2m、この作品はスタンダードサイズの上映だった。座った席はF-17。ここのシアターはF列であればどこでもいい。今回は敢えて右端を選択。ここはいつも人がそれなりに入っている印象。この日もまぁまぁの入り。

▶ 作品レビュー
全編にわたって、主人公のクロースショットをメインに展開していく。サウスの寄りの映像を中心に据え、ときにサウスの目線になったり、またサウスの肩越しの映像になったりと、近景の連なりで構成されている。それ故にかなりの閉塞感を覚えるし、それをより一層強調するためにスタンダードサイズになっていると想像できる。
内容そのものはかなりショッキングなもの。虐殺された亡骸も散見するし、それらが灰になって原形が全く想像できない状態にまでなっている。今さら語るまでもないのだが─。その上、この作品では、瀕死の息子を目撃し、それを目の前で殺されてしまうわけだから、筆舌に尽くしがたい。
しかし、一見すると、映像そのものにはその衝撃度は微塵も感じられず、意外とあっさりとしているという印象。息子の死を目撃したサウルに、悲しみや怒りなどは感じとることができず、ちょっとした恐怖を感じるだけ。それが本当にサウルの息子なのかどうかすらさえ疑いたくなる。そして、その遺体を執拗に持ち運ぶ様や、サウル自身が生に固執していることは明白なのに亡骸のために危険を冒すその様に、イライラ感や理解不能といった感情に陥ってしまう。
確かにその内容を具体的に分析しながら捉えていくと、凄惨極まりない話。だが、画面からそれがほとんど伝わっていない。必死に動き回るサウルは、果たして何のために動き回っているのか─、やっているのはただ一つ、息子を埋葬するために奔走しているだが、時間が経つにつれてその目的すら見えなくなる。彼は単に懸命に生き残るために動き回っているとしか思えない、そう思ったら、サウルが持ち歩くあのモノは何なんだ、ラビはいなければならないのか、すべて捨ててしまえば何もかも楽になるだろうにー…まさに全く感情移入もできず、無理解極まりない自分に今さらながらガッカリしてしまう。
なんだろうこの辛い感覚は─。大量殺戮が行われている現場において、わが子の死を必死に弔おうとしているだけなのに、無駄な迷惑行為としか思えないのだ。それがモラルに反する感情であろうとも、この映像を見せられることで、自分の中の不条理が前面に表れてくる感覚だ。
戦争の当事者とはまさにこんな感覚なのか、大量殺戮者というのはこんな感覚なのか、とにかく生き続けるということはあらゆる物事を捨て去るということなのか─。
あらゆる問題提起がこの作品の中には存在することであろう。しかし、辛い、ただひたすらに辛い。決して面白い映画ではない。見ながらあらゆる事と葛藤しなければならない。
確かにカンヌ映画祭グランプリにふさわしいと内容だとは思う。だが、多くの人を惹きつけることはないだろう。むしろ人が拒絶してしまうような内容であり、見た人は何かしらの拒絶を覚えることだろう。つくる意義は大いに感じるし、意味はあると思う。ただしかし、人が見たがるようにしむけなければ、主義主張は伝わっていかないのではなかろうか。
興味を持った人だけが見てくれればいいとか、分かってくれる人だけに伝わればいいとか、そういったレベルの物語ではないだけに、評価されている作品でありながらも、大いに疑問を感じた。
辛い物事を幅広く多くの人に伝えることの難しさを感じざるを得ない。映画という高尚な形にし、しかも評価の頂点に立てばその存在を知らしめることはできるだろうけれど、人を惹きつける内容でなければ、伝えたいことも伝わっていかないのではないだろうか。

いろいろ考えさせられる映画でだった。

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