光りの墓

光りの墓(2015年/タイ・イギリス・フランス・ドイツ・マレーシア合作)
原題:Rak ti Khon Kaen
公開日:(仏)2015年5月18日 (日)2016年3月26日
配給:(日)ムヴィオラ
時間:122分

監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
脚本:アピチャッポン・ウィーラセタクン
出演:ジェンジラー・ポンパット・ワイドナー(ジェン)
   ジャリンパッタラー・ルアンラム(ケン)
   バンロップ・ロームノーイ(イット)ほか
撮影:ディエゴ・ガルシア
美術:エーカラット・ホームラオー
編集:リー・チャータメーティクン

鑑賞日:2016年3月29日
場所:イメージフォーラム シアター2


■ INTRODUCTION
『ブンミおじさんの森』でカンヌ映画祭最高賞パルムドールに輝いたタイの天才アピチャッポン・ウィーラセタクン。ティム・バートンやスコセッシをも魅了する世界最先端の映画監督で、同時に、国際的な美術作家。その待望の最新作『光りの墓』は、映像、サウンド、色彩設計、あらゆる面において、天才の進化を感じさせる大傑作。タイの社会状況を透徹しながら、語り口はあくまでもユーモアと優しさに溢れています。

タイ東北部。かつて学校だった病院。“眠り病”の男たちがベッドで眠っている。病院を訪れた女性ジェンは、面会者のいない“眠り病”の青年の世話を見はじめ、眠る男たちの魂と交信する特殊な力を持つ若い女性ケンと知り合う。そして、病院のある場所が、はるか昔に王様の墓だったと知り、眠り病に関係があると気づく。青年はやがて目を覚ますが……。あなたは眠っていたいですか、それとも目を開きますか?

撮影が行われたのは監督の故郷である、タイ東北部イサーン地方。そこでは今も、空や水や雲にも霊が宿り、人々はスピリチュアルな空気の中で生きている。映画では、その土地の記憶とジェンという一人の女性の愛の記憶が幾層にも重なっていく。そして、驚くほどに深い感動が待つラスト! 天才監督アピチャッポン史上最高の傑作の誕生です。

※日本語公式HPより


▶ 映画館環境
イメージフォーラム・シアター1 座席数108 全席自由席
全席スクリーンを見上げるかたちの劇場のため、あまり前だと見づらい。自分はこの劇場ではなるべく最後列を選択する。それで十分映画的体験を堪能できる。
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の特集上映を経ての最新作上映だったためか、平日昼間の上映にもかかわらず、観客は非常に多かった。客層もさまざま。


▶ 作品レビュー
作品のキービジュアルに惹かれて楽しみにしていた作品。設定などにも興味を持ったし、対となるような作品「世紀の光」への印象も良かったので、満を持しての観賞。
病院が舞台で、過去と現代あるいは未来といった時空を越えた展開が「世紀の光」と非常によく似ている。一時代の景色のままに物語が進んでいくところが大きく違っていた。それが内容を理解することを難しくしている一因であったように思う。
明らかに舞台が変わったと認識できる場面展開でも、それがどこへ移ったのか、そしてどういった繫がりで突然その場面に移ったのか、説明や分かりやすい記号が少ないために、見ているこちらが混乱してしまう。勝手に想像するに、現実世界と眠りの世界がランダムに入れかわっているように感じたものの、果たしてそれが正しいのかどうか…。また、特に物語の時の流れに関しては、ほとんど掴み取ることができず、ストーリーが進んでいるのか戻っているのかすら分からなかった。もしかしたら、止まった時間の中で話が展開しているのかも知れない、とも判断できる。
フィックスの長回しの映像が多いし、ストーリーもあるようでない、説明的なところもほとんどないし、面白そうな演出がされても内容そのものを理解できていないから笑っていいのかどうかも分からない。
確かに、時空や舞台に全く縛られていない映画であり、自分だけの世界を構築できる映画の可能性を押し広げている作品だといえるけれども、これを面白いかどうかといえば、個人的には面白いと言うことはできない。あくまでも映画や映像のための映画であって、娯楽とか社会的意義とかあまり感じることができない。必ずしも映画には意味や意義など必要だとは思わないけれど、劇場映画である以上、大衆に見せるという意識は必要だと思うわけで、残念ながらこの作品にはそういった意識が薄いように感じてしまう。
もっとタイという国を知らなければならないのだろうか? 確かに、タイに行ったこともないし、タイを知る術というのはテレビやインターネットだけ。そんな無知な自分にはこの作品の真の面白さを理解することはできないということなのだろうか? だとすると、この映画を日本で上映する意味などない気がするのだが…
それにしても、この映画のプロットを改めて読んでみると、どうしてあんなにつまらなかったのか疑問に思ってしまう。率直につまらないと見なした後でも、プロットを読んで、もしかしたら本当は面白いのかも─という気になってくる。
少しだけ勝手な解釈をすると、あまりに短いカットの羅列というものに自分は毒されているような気がする。ビジュアル的な刺激が少ない作品には心が動かされなくなっているのかもしれない。この作品も短いカットの連なりだったらと想像すると、多少面白いかもしれないと思ったりするわけで、まさにその思考こそが自らの劣化を証明しているような気がする。
そうはいっても、はやりこの映画は自分にとっては分かりづらい。もっと説明や記号を盛り込んで欲しい。アピチャッポン・ウィーラセタクン監督は、そういったものを排除したいアーティストだということは何となく理解できるけれども、せめてビジュアル的な記号を象徴的に提示してくれなければ、どんなに見ているこちらの意識を高めたところで作家の見ている夢など理解できるはずもない。

リップヴァンウィンクルの花嫁

リップヴァンウィンクルの花嫁(2016年・日本)
公開日:2016年3月26日
配給:東映
時間:180分

監督:岩井俊二
脚本:岩井俊二
出演:黒木華(皆川七海)
   綾野剛(安室)
   Cocco(里中真白)
   原日出子(鶴岡カヤ子)
   地曵豪(鶴岡鉄也)
   和田聰宏(高嶋優人)
   毬谷友子(皆川晴海)
   佐生有語(滑)
   夏目ナナ(恒吉冴子)
   金田明夫(皆川博徳)
   りりィ(里中珠代)
   野間口徹ほか
エグゼクティブプロデューサー:杉田成道
プロデューサー:宮川朋之、水野昌、紀伊宗之
撮影:神戸千木
美術:部谷京子
スタイリスト:申谷弘美
メイク:外丸愛
音楽:桑原まこ

鑑賞日:2016年3月29日
場所:新宿バルト9 シアター3 E-14


■ ストーリー
臨時教員をしながら教諭の道を志す皆川七海(黒木華)。SNSと知り合った鶴岡鉄也(地曵豪)と何となく付き合い、そして結婚する。結婚式を挙げる際に七海は、出席者の体裁を取り繕って、離婚している両親を夫婦として出席させ、さらに親戚や知人も少なかったため、SNSで知った便利屋と称する安室(綾野剛)に偽装した友人知人の出席を依頼する。
晴れて夫婦となった七海と鉄也の新婚生活が始まる。臨時教員をクビになっていた七海は専業主婦となっていた。七海が家庭を守っていたある昼下がり、鉄也が自分の彼女と浮気をしていると主張する一人の男が押しかけてくる。夫の浮気を信じられなかった七海だったが、その真偽を知るべく再び何でも屋の安室に夫の素行調査を依頼する。そしてさらに、少しでも情報を得たいとの思いで、押しかけてきた男の呼び出しでホテルの一室へと訪れる。そこで半ば強姦されそうになる七海。とっさに、トイレへと逃げ込みあの安室へ助けのSNSを送る。すぐに助けに向かう安室。しかし、そこでの男と七海の状況は隠しカメラで撮影されており、それを仕込んだのも安室であった。強姦する男も安室の仕込みで、安室が現れることにより七海の恐怖は完全に取り払われた。しかし、その恐怖は安室がつくり出していたということを七海は知らない。
その日を機に、七海と鉄也の夫婦生活に小さな亀裂が生まれ出す。
鉄也の実家で法事が行われた日、七海は鉄也の母親(原日出子)からホテルで密会している七海と男という名目である映像を見せられる。七海にとっては恐怖でしかなかったあの出来事が、まるで情事であるかのように仕立て上げられていた。さらに鉄也の母親は、あの挙式での偽装された両親のことと雇われ参加者についても畳み掛けて詰問する。何も言い返せない七海は涙ながらに実家を追い出される。翌日には鉄也から電話があり別れを告げられる。
行く当てもないまま七海は家を出て、安室に助けの電話をかけるも途中で切れ、たどり着いたビジネスホテルで夜露を凌ぐ。生計の当てもない七海は、そこで働くことを直訴し、そこで住み込みで働くことになる。そしてそこに安室がやってくる。
安室はもっと効率的にお金を手に入れることを提案する。例えば、結婚式で友人や知人になりきるといったこと─。そこで七海は偽装家族の一員を演じることになる。七海は姉妹の妹役で、その姉役が里中真白(Cocco)だった。二人は不思議な親近感を持つ。互いのSNSのハンドルネームを交換し、そしてリップヴァンウィンクルはカンパネルラを残したまま姿を消す。
七海が真白に再び会ったのは、安室が紹介してくれた次の仕事がきっかけだった。その仕事とは、ある豪邸に住み込みでメイドとして働くことだった。邸宅の持ち主は留守にしていて、もうひとりのメイドと共に家を管理することが任務であると七海は聞かされた。そして、そのもうひとりのメイドとは真白であったのだ。
真白との奇妙な生活が始まった七海。家の管理をしながら、その家を自由に使うこともでき、それでいながら多額の報酬を手にする。七海はその不思議な背景にある秘密を知っていく。メイド仲間の真白は何者なのか、そしてこの豪邸の所有者とは、七海を雇っているのはいったい何者なのか─。それを知ったとき再びリップヴァンウィンクルはカンパネルラのもとから姿を消す。決して消えることがない何かを残して─。


▶ 映画館環境
新宿バルト9のシアター3は座席数148は中規模の劇場か─
座席E-14は通路側の席。スクリーン向かって右端。位置的に申し分ない。座席の列の間がそれほど広くないため、真ん中に座るよりも通路側の方が気持ち的に楽。
深夜の上映、十数人ほどいただろうか。意外といる印象。まぁ見終わったときには、もっといてもいいのにと思ったわけだが…。


▶ 作品レビュー
長いし、嫉妬なのか分からないが心にもないような評価も散見され、あまり世の中に広められていないし、正直、見るのをたじろいだ。必ず見ようと思っていた自分ですらそうなのだから、岩井俊二信者でなければすすんで見ようとしないかもしれない。ちなみに、自分は信者でもないし、どちらかというと嫉妬を感じる側、全く嫉妬を感じる必要もない凡人なのだけれど…
変な映画だなーと思った。でも、完璧な世界観が構築されていて、変が変じゃなく終幕してしまった。そしてその変さかげんに泣かされたりしたわけだ。
そればかりではなく、かなり笑ってしまったし、笑わそうとしているんではなく、これ面白いだろうなぁと思って作っている意思が伝わってきて思わず笑うといった感じ。
とくに、結婚式で世界的あの人が新郎役に登場するシーンなんかには、何気になかなかできることじゃないなと感心しながらも、大爆笑。
有名な役者を起用するならするなりに、その人の個性とかプライベートのことまであからさまにしてしまう演出というか演技なのかもしれないけれど、面白い情報を積極的に提供してくれて楽しめた。逆にそれが邪魔だと言う人もいるだろう。
特別なことはあまりなかった映画。自然に流れていき、不思議な話であるけれども、あるかもしれない事柄が並べられているだけで、革新的なものは何もない(たぶん…)。ちゃんと起承転結あって、暴力もセックスもない清く正しい映画。血も流れないし。だからいいとか悪いとかではなくて、制作する側の視点や思考をしっかりと提示されている訳で、それをしっかり受け止めた上で評価というか好き嫌いを判断して欲しい。
自分はこの映画が非常に好き。手持ちカメラ、フィックス、定点カメラ監視カメラ、決して何かに固執するのではなく、美しい映像、リアルな映像を作り出すためにそれらをはじめとする駆使しているところが目に見えて分かるし、音とか編集も恐ろしく自然に感じてしまって、これが何とかワールドなんだなぁと実感してしまった。
それにしても、Coccoと黒木華のセリフはどこまで文字であったのか非常に気になった。とくにCoccoの語りなんか聞いてると、あの是枝監督のドキュメンタリーを彷彿とさせて笑ってしまったし、ああCoccoがあそこにいるーと思いつつウルウルさせられた。
カッコつけたタイトルだとしか思えなかったこの映画の題名もいいタイトルだなと心から思えるし、気になる人はぜひ見るべき。

ザ・メタルイヤーズ

ザ・メタルイヤーズ(1988年・アメリカ)
原題:The Decline of Western Civilization Part II: The Metal Years
公開日:(米)1988年6月17日 (日)1989年3月11日
配給:(米)New Line Cinema (日)ビーズインターナショナル
時間:94分

監督:ペネロープ・スフィーリス
出演:スティーブン・タイラー
   ジョー・ペリー
   アリス・クーパー
   ジーン・シモンズ
   ポール・スタンレー
   オジー・オズボーンほか
製作:ジョナサン・デイトン
   バレリー・ファリス

製作総指揮:ポール・コリクマン
撮影:ジェフ・ジンマーマン
編集:アール・ガファリー

鑑賞日:2016年3月26日
場所:シネマカリテ スクリーン1 A-10


■ プロット
水着の美女に囲まれてロックスターを夢みるODINのメンバー、セックスを自慢するグルーピー、LONDONはステージで爆弾6発を破裂させてロシアの国旗を燃やす。下着姿の女性とともにKISSのポール・スタンレーはメタルの本質を語り、オジーはオレンジジュースをこぼし、MOTÖRHEADのレミーは煌びやかなLAの街を背景に丘に立つ。

『ザ・デクライン』から7年、ペネロープ・スフィーリス監督がふたたびロサンゼルスの音楽シーンを切り取った≪西洋文明の衰退≫ドキュメンタリー第2弾。アメリカのハードコア/パンクの核となったLAの暴発間近な瞬間をとらえた前作の時代からロサンゼルスの音楽シーンは様変わりしていた。 ド派手な衣装と長髪を振り乱し、金と名声、セックスとドラッグを夢見る若者たち。そこには真面目に音楽に打ち込む連中もいれば、パーティーアニマルと化す面々や挫折して消えていく連中もい る。1988年にロサンゼルスでピークを迎えていた、華美な装飾に彩られた、グラムロックの流れも汲むヘヴィ・メタル=LAメタルが本作のテーマである。当事者たちは70年代末から勃発したパンクロックはディスコに落ちぶれ、80年代の真のロックンロールはヘヴィ・メタルであると主張する。

POISONのメンバーは数百万枚のアルバムを売って成功を手にした秘訣を解説、AEROSMITHのスティーヴン・タイラーとジョー・ペリーはドラッグ依存の過去を振り返り、成功を信じてデトロイトからLAに進出してきたバンドSEDUCEは希望に胸を膨らまして、若者たちはヘヴィ・メタルで如何にモテるかを語る。スフィーリス監督はハードコア/パンクとは真逆のイデオロギーのもとに成り立つヘヴィ・メタルシーンを徹底した客観的視点で映像におさめる。公開当時アメリカでは出演ミュージシャンの不満が爆発し物議を醸した。

特にあまりにも有名な映画の1シーンとなったW.A.S.P.のクリス・ホームズのインタビュー。母親を隣に豪邸のプールに浮かびながら、冨と名声を得た後の孤独と悲哀、ドラッグとアルコール依存の悲惨さを泥酔状態で語る。映画完成後はクリスは「観るんじゃねぇぞ!」と周囲に吼えた。本作の特異性は、題材であるヘヴィ・メタルを美化することなく、ときに冷徹な視線で描写することだ。鑑賞後メタルファンは感動と失望の両極端な感情を味わった。

しかし本作は被写体に擦り寄らないスタンスのためか、<音楽ドキュメンタリー>という世界においては最上級の評価を得ており、現代においても数々の媒体でTOPリストの上位に必ずランクイン するという称賛を受けている。製作費は前作の約5倍となる50万ドル。デクラインシリーズで最も 鑑賞された作品である。

※日本語公式HPより


▶ 映画館環境
シネマカリテ・スクリーン1 観客数97 レイトショー リバイバル上映
A-10席は最前列の真ん中付近、多少見上げではあるものの辛くはない。この劇場の最前列の中央付近は狙い目か─。
7、8割の座席が埋まっていただろうか、なかなかの入り。根強いメタル好きが多いということだろう。その多くは80年代後期のメタルブームを知っているといった印象。


▶ 作品レビュー
前作とはうって変わって、有名ミュージシャンが続々と登場、取材の対象も観客というよりもアーティストに向けられている。それは前作の成功で予算が増えたからにほかならないのだろうが、その内容はかなりトーンダウンしている印象があった。
前作においては、音楽が衰退しているかのような印象でありながら、そこに集う若者の思いは純粋であり、社会に対する不平不満がパンクムーブメントを生み出しているという構図を見事に描き出していた。ところが、今回のメタルムーブメントの描き方は、音楽そのものを批判しているようにしか見えない。
確かに、インタビューに答えるアーティストから発せられるのはカネの話が中心で、富や成功のために音楽をやっている姿が露わにされている。成功を手にした彼らに対する憧れや尊敬の念を決して抱くことができないような内容になっている。
まるで音楽で富や栄光をつかむことがいかがわしい事であるかのような表現、成功した彼らの音楽は果たしてそれほど酷いものなのか、成功して煌びやかな世界に漬かっているのはあくまで結果であって、そこまでの過程や努力は全く無視されている。
取材対象者であるアーティストらもカメラの前で正直に答えていない。語られる事柄は絵空事。それらを不快に思ったのかどうかは分からないが、この映画ではメタルを終始批判しているとしか思えないような表現となっている。挿入される楽曲にも全く思い入れを感じることができない。デクラインというタイトルに拘るあまりに無理やり批判的に描いているのか、それともメタルそのものが嫌いなのか、もしくは成功者への嫉妬なのか…。
有名なアーティストとなると、なかなか密着するが難しかったのかもしれない。本音で語り合う関係性を構築できていないので、単に有名人を取材した映像をつなぎ合わせたようなものになっている。それも彼らはふざけてコメントしているとしか思えないわけで、いったい何のために取材しているのかということすら見えてこない。
パンクに比べてヘヴィーメタルというものは、確かにメッセージ性は低いかもしれないけれど、音楽性においてはパンクをも凌ぐと考えられる。それ故に多くの成功もあり、世の中にも受け入れられているのだと思う。何故に音楽そのものに焦点を当てようとしなかったのか、全くもって納得いかない。
思い返してみると、1作目もパンク音楽を題材にしているとはいえ、その焦点はあくまでムーブメントやそこに携わる人々に向けられていて、音楽そのものは二の次であった。そもそも、音楽そのものがお粗末であったわけで、それ故に対象がその取り巻きへとシフトしていったように思う。作者のパンク音楽に対する愛は感じられなくとも、人に対する愛を強く感じたわけで、それが大きな救いとなっていた。
そしてこの2作目といえば、メタルへの愛も感じないし、ましてや対象となっているアーティストへの愛や尊崇の念といったものも皆無である。もはや仕事で映画を作っているとしか思えない作品となっている。
栄光を勝ち取った者を取材するのも悪くはないと思う。有名人が出る映画であれば観客動員にも繋がるだろうし、実際、デクライン三部作で最も観客が多かったというから、戦略的には成功したといえよう。
ただ、作品としては最低だ。せめて、富や栄光を得ようともがくアーティストも取材して、その上でメタルを批判するなりカネの亡者を批判するなりして欲しかった。視点が狭くて多面性がないために、非常に薄っぺらい音楽ドキュメンタリーであると言わざるを得ない。

無伴奏

無伴奏(2015年・日本)
公開日:2016年03月26日
配給:アークエンタテインメント
時間:132分

監督:矢崎仁司
原作:小池真理子
脚本:武田知愛、朝西真砂
出演:成海璃子(野間響子)
   池松壮亮(堂本渉)
   斎藤工(関祐之介)
   遠藤新菜(高宮エマ)
   松本若菜(堂本勢津子)
   酒井波湖(レイコ)
   仁村紗和(ジュリー)
   斉藤とも子(野間秋子)
   藤田朋子(千葉愛子)
   光石研(野間幸一)ほか
撮影:石井勲
美術:井上心平
編集:目見田健
音楽:田中拓人

鑑賞日:2016年3月26日
場所:シネマカリテ スクリーン1 B-1


■ ストーリー
舞台は1960年代後半の学生運動が盛んだった時代─
仙台で暮らす野間響子(成海璃子)は、父親の転勤で家族が東京へ引っ越す中で受験のためにひとり仙台の叔母の家に残ることになった。
響子は友人と共に制服廃止委員会を結成するなどして体制に反発し、時代の流れに乗って学生運動などにも参加していた。しかし、それは単に流行に乗っているだけで、純粋に政治や国際情勢に対して反発しているわけではなかった。
ある日、響子と友人は、クラシック音楽を静かに鑑賞する喫茶店「無伴奏」を興味本位で訪れる。世間の喧騒とは異質の空間─そこで初めて、堂本渉(池松壮亮)、関祐之介(斎藤工)、高宮エマ(遠藤新菜)と出会う。その出会いをきっかけに、響子は「無伴奏」に通い、学生運動からは一線を画し、そして渡、裕之介、エマとの親交を深めていく。
裕之介とエマは恋人関係にあり、愛し合う姿を見せつけられる中、響子は渡に惹かれていき、そして互いに心を寄せ合っていく。
渡の中に潜む影を感じながらも、響子は渡を強く愛していく。渡もまた、自らの影を自覚しつつも響子の愛を受け止めていく。
響子と渡、裕之介とエマ、4人の関係は単に2つのカップルというものではなかった。そこには秘められた複雑な関係が潜んでいる。入り組んだ愛と憎悪が徐々に姿を露わにし、そして悲劇を生んでいく─。直木賞作家・小池真理子の半自伝的同名小説を完全映画化。


▶ 映画館環境
シネマカリテ・スクリーン1座席数97
今回選択したBー1席は2列目の前方向かって左端の席。スクリーン自体が右に寄っているため最悪のポジションであった。平日の朝一番の上映で空いていたにもかかわらず、興味本位に左端を選んだ自分が悪いのだが、この劇場、左端の席は総じてNGだということを十二分に思い知らされた。
客層、自分をのぞき文学好き?といった印象。


▶ 作品レビュー
昭和の時代というものを尊重したレトリックな画面作りだったように思う。良くも悪くも全てが古臭い感じ。個人的には、ただ時代遅れという印象が強くて、場面場面ではロマンポルノを彷彿とさせるような映像で、何だか小さい頃に存在した日活の映画館の中に自分が居るような気持ちになり、あの禁断の領域に自分が足を踏み入れてしまったような、言い知れぬばつの悪さを感じてしまった。
しばらく前に見た「キャロル」と比べると、どうしても格好の悪さを感じてしまう。作り方も古くしなければならないといった拘りがあったのかどうか分からないが、もう少しだけオシャレにという意識で作ってくれたら、もしかしたら好きな作品になったかもしれないという残念感が強い。
正直ストーリーはあまり好きにはなれないけれど、テーマみたいなものには共感できる。テーマそのものがあるのかどうか微妙なところではあるが、作家が描きたかった熱い思いは非常に良く伝わってきた。シンプルに表現してしまえば、青春の光と影なのかなぁと─、あまりに乱暴すぎるかもしれないけれど…。
変に過激なセックス描写を、決してリアルに思えないリアルさで持って描いているところがポルノとかAVのようにしか感じることができなかった要因。性交が重要だというのであればもっと工夫が欲しいと思ってしまう。あんな表現だから見る人は必然的に限られてしまうわけで、多くの人に見せようという意識は希薄のように感じてしまう。そもそも、胸も出すことができない女優にハードセックスを求めているところが違和感極まりない。
学生運動の時代というのは、今の時代、もはやお伽噺のようにしか感じることができないわけで、この話も現実味のないお伽噺としか捉えることができないのに、変に生々しくて何だか非常に嫌な気持ちになってしまう。幻想的に描いて欲しかったー、まぁ部外者の戯言でしかないけれど…。まさか昨今の安保関連法案に関する反対デモに呼応して過去の亡霊を呼び覚まそうとしたわけではあるまい、まさかね─。
生々しいと思うのはあくまで映像だけで、仙台が舞台なのに東北弁は全くないし、斎藤工も池松壮亮も現実離れした役作りで、単に過去の出来事を再現しようとしたわけではないと認識できるし、まるでパラレルワールド的な過去を描いているかのような印象を受けることもまた事実。それ故に尚更、なんで映像だけあんなに生っぽいんだろうと思ってしまう。本当に残念でならない。
原作も読んだこともないし、学生運動が盛んだった時代への憧れも全くないし、出演者や制作陣への思い入れなども全くない。しかし、予告編を見てこの映画に魅力を感じて、公開までかなり期待もしていた。しかし、期待以上のセックス描写に(別にこの映画に性的なものを期待していたわけではないので)かなり引いてしまった。原作を読んでみるべきだと思っている。それを読んだところでこの映画への評価はあまり変わることはないとは思う。そして、原作に共感できるはずと、読む前から勝手に都合のいい判断をしている。なぜならば、成海璃子だけを見つめていると自然と涙が流れてくるからだ。それも、原作の良さではなくあくまで成海璃子の上手さから来る感情とも言えるのだが…。
ふと渋谷の名曲喫茶ライオンへ行ったときのことを思い出す。まさにこの映画に登場する「無伴奏」と全く同じ雰囲気であり、空間も映画のごとく異様に生々しかった印象がある。そう思うと、この映画で描こうとしたことも何となく理解できるような気になる。ひょっとするとこの映画はよくできた作品なのかもしれないと、ここへ来てこれまでの主張を覆すような思いにもなっている。
もしかしたら自分が不満だったのは成海璃子の胸が見ることができなかったという、ごくごく小さな事を隠したいがために、理不尽にもこの映画を批判しているのではと感じ始めている。ただ、あのセックス表現で隠すところが絶対に間違っていると思うわけで、胸が見えない不満は意外と大きいものだったりする。それに何と言っても、あの絵の質感も古くさい嫌な邦画の質感としか感じることができないわけで、やっぱ個人的にはあまり好きになれない作品と判断せざるを得ない。






僕だけがいない街

僕だけがいない街(2016年)
公開日:2016年3月19日
配給:ワーナー・ブラザース映画
時間:120分

監督:平川雄一朗
原作:三部けい
脚本:後藤法子
製作:福田太一
   堀内大示
   横澤良雄
   岩田天植
   島田和大
   長坂信人
   村田嘉邦
   宮本直人
   平田英己
   市村友一
エグゼクティブプロデューサー:小岩井宏悦
プロデューサー:春名慶、丸田順悟、内山雅博
出演:藤原竜也(藤沼悟)
   有村架純(片桐愛梨)
   石田ゆり子(藤沼佐知子)
   杉本哲太(澤田真)
   及川光博(八代学)
   福士誠治(小林賢也)
   森カンナ
   鈴木梨央(雛月加代)
   中川翼(10歳の藤沼悟)
   林遣都(白鳥潤)
   安藤玉恵(雛月明美)
   淵上泰史(須藤)
   高橋努(高橋店長)ほか
撮影:斑目重友
美術:樫山智恵子
照明:池田順一
録音:豊田真一
編集:坂東直哉
音楽:林ゆうき
主題:歌栞菜智世
装飾:秋田谷宣博
スタイリスト:浜井貴子
ヘアメイク:倉田明美、内野晶子

特殊メイク:江川悦子
音楽プロデューサー:北原京子
VFXスーパーバイザー:中村明博

鑑賞日:2016年3月22日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン1 C11


■ 作品について(公式HPより)
原作は「このマンガがすごい!」3年連続ランクイン、「マンガ大賞」2年連続ランクイン、「これ読んで漫画RANKING」1位を獲得、著名人や文化人、書店員からも傑作との呼び声が高い「僕だけがいない街」(KADOKAWA「ヤングエース」)。連載開始当初から50以上オファーが殺到した映像化権争奪戦を経て、強力なキャストとスタッフによる実写映画が遂に完成した。
本作は、〈リバイバル〉という〈時間が巻き戻る〉不思議な現象に巻き込まれた主人公の悟が、現在〈2006年〉と過去〈1988年〉の2つの世界を行き来しながら、自身が無実の罪を着せられ、犯人として指名手配中の2006年の〈母親殺害事件〉と、18年前の〈連続児童誘拐殺人事件〉の謎と真犯人に迫るミステリーだ。幼少期のある経験が原因で、人生に対してどこか諦めつつあった悟が、29歳にして自分に向き合う成長ストーリーでもある。


■ ストーリー
宅配ピザのアルバイトをしながらマンガ家になる夢を追い求める藤沼悟(藤原竜也)─彼は特殊な能力を持っている。それは時間が巻き戻される「リバイバル」という現象であった。事件や事故が彼の周囲で起きると、その原因を取り除くまでそれは繰り返される。
ある日ピザの配達で悟がバイクを運転していると「リバイバル」が起きる。それは暴走するトラックが子供をひいてしまうという事故に関するもので、時間を遡った悟は子供を安全な場所へ誘導し、トラックの暴走を阻もうとする。しかし、運悪く悟自身が事故に巻き込まれてしまう。
幸い悟のケガは軽傷で済んだ。彼を病院に導いてくれたのは、たまたま事故を目撃していたバイトの仲間の片桐愛梨(有村架純)だった。以降、愛梨は悟の母と顔見知りとなり、悟と親しくなっていき、少しずつ悟のことを知っていく。
事故後の悟を心配した母親の藤沼佐知子(石田ゆり子)は、しばらく息子の住むアパートに泊まり込み、彼の面倒を見ることにした。その最中に最大の悲劇が起きる。悟の母・佐知子が悟の部屋で何者かに刺殺されていたのだ。それを最初に発見した悟は、運悪くその容疑者にされ、指名手配されてしまう。悲しみの中逃げ惑う悟あの「リバイバル」がやってくる。それは今までにないくらいの過去への「リバイバル」だった。
そこは小学校時代、意識は大人のままだった悟は、なぜ自分がこの時代にやって来たのか徐々に理解していく。当時、子供の連続誘拐殺人事件が発生しており、母親の殺害がこの事件に繋がっていると確信した悟は、犠牲となるはずの子供を救い出すことで歴史の変化を試みようとする。犠牲者1人を助けたと思った瞬間、再び大人の時代に引き戻される。
しかし状況は変わっていなかった。母親は殺害されたまま、過去の事件記録を見ても誘拐事件の犠牲者は変わらず、そして自分への疑いもそのまま─、再び逃げることとなった悟を救ったのは愛梨だった。悟とその母に接していた愛梨は、悟の無実を疑わない。逃げ場のない悟は愛梨の手助けを素直に受け入れる。しかし、魔の手は愛梨にも降りかかる。彼女は自宅と共に火で焼き尽くされそうになった。そして、またしても悟はその事件の容疑者へと仕立て上げられてしまう。
そして遂に悟は警察に捕まってしまう。しかし、その瞬間にまたしても「リバイバル」が起こり、あの小学校時代へと時間を遡る。誘拐事件の容疑者を見つけ出さない限りこの「リバイバル」は起こり続ける─そう思い知らされた悟は、何としても犯人を見つけ出そうと覚悟を決めた。
果たして、悟は運命を変えることができるのだろうか───。


▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン1は座席数130で、スクリーンサイズが10.1×4.2mとやや大きめの劇場。前方2列、後方7列の構成。後方最前列には手すりなどの柵がなく、スペースでいうと魅力的だが、若干前過ぎるのとスクリーンも大きめなので、見上げの苦しさを伴ってしまう。今回のC-11。やっぱり近すぎた。

▶ 作品レビュー
アニメーションが想像以上に面白かったので、ついでに実写も─という気持ちで見た作品。結果、ついでに過ぎないものだった。
藤原竜也がイケメン過ぎるところに違和感を持ったものの、さすがの役作りというか演技力というのだろうか、素晴らしい藤沼悟を見た思い。こっちの方が格好いいし。
子供時代の藤沼悟には馴染めず…アニメは大人の声のアフレコが入りまくっていたからそれと比較するのは可哀想かも─。
原作が劇画的であるが故に、実写版になっても内容自体には違和感を感じなかった。石田ゆり子の北海道弁と及川光博の特殊メイクだけにはどうしても不自然さを感じたものの、シリアスドラマを扱った映画として観賞することができた。
絵に関していうと、特筆すべきところはなかったように思う。特に引きの外観の絵などは凡庸極まりないもの。敢えて独自の絵作りを抑えて、原作を尊重しているように感じる。ただラストは納得しかねる。命に固執したストーリーでありながら、結局は命を放棄したような結末で、嫌悪感すら覚えた。まさかアニメと全然違った結末であったとは、この時点で全く気が付かず。結末を変えるという狙いはいいと思うけれど、映画の結末は好きになれない。と思ったのはアニメの最終回を見てから感じたことなんですけれど…
映画の結末を見た後でアニメの結末を見ると、いかにこの漫画が優れていたのか理解できた。原作はさすがによく考えられている印象が強いのに対し、映画の結末は非常に安直。単に原作とは真逆の結果を求めたに過ぎない、とまで思ってしまった。
映画版だけ見終わった後は、映画版に対してそれほど嫌悪感などなかったし、むしろいい作品かも─と思ったくらい。しかし、アニメを見終わった後での映画思い出し嫌悪感というべきものに否応なく襲われる。あれはいったい何だったんだ。
アニメの結末も決して完成度が高いとはいえないかもしれない。ただ、そこに秘められた作家の志を強く感じるわけで、それを映画は取っ払ってしまったとしか思えない。アニメで何度泣かされたか分からない。映画で泣いたところは果たしてあっただろうか─。
藤原竜也と有村架純が好きな人ならば納得する映画?なのかもしれない。ストーリーとか内容重視という人はマンガやアニメを見た方がいいかもしれない。原作に感動したから映画も─という人は見ない方がいいかも…といっても違った結末を見たいだろうし、むしろ見て思いっきり批判してほしいものです、映画を。

ちはやふる 上の句

ちはやふる 上の句(2016年・日本)
公開日:2016年3月19日
配給:東宝
時間:111分

監督:小泉徳宏
原作:末次由紀
脚本:小泉徳宏
製作:中山良夫
   市川南
   鈴木伸育
   加太孝明
   薮下維也
   石川豊
   弓矢政法
   髙橋誠
   宮本直人
ゼネラルプロデューサー:奥田誠治
エグゼクティブプロデューサー:門屋大輔、安藤親広

企画:北島直明
プロデュース:北島直明
プロデューサー:巣立恭平
出演:広瀬すず(綾瀬千早)
   野村周(平真島太一)
   真剣佑(綿谷新)
   上白石萌音(大江奏)
   矢本悠馬(西田優征)
   森永悠希(駒野勉)
   清水尋也(須藤暁人)
   坂口涼太郎(木梨浩)
   松岡茉優(若宮詩暢)
   松田美由紀(宮内妙子)
   國村隼(原田秀雄)ほか
撮影:柳田裕男
照明:宮尾康史
美術:五辻圭
録音:小松崎永行
編集:穗垣順之
音楽:横山克
主題歌:Perfume
サウンドデザイン:大河原将
装飾:龍田哲児
VFXプロデューサー:赤羽智史
スタイリスト:新崎みのり
ヘアメイクディレクション:古久保英人
ヘアメイク:内田香織
アニメーションディレクター:ファンタジスタ歌磨呂
スクリプター:本図木綿子
助監督:權徹
制作担当:雲井成和
ラインプロデューサー:齋藤悠二

鑑賞日:2016年3月22日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン6 C6


■ 作品について(公式HPより)
2009年第2回マンガ大賞受賞、2010年「このマンガがすごい!オンナ編」第1位獲得、2011年第35回講談社漫画賞少女部門受賞、コミックス累計発行部数1600万部突破(2016年3月時点)。ダイナミックな“競技かるた”の魅力、等身大の高校生たちの熱き青春群像を描き、少女コミックスの枠を超え男子からも人気を博す、青春マンガの大本命「ちはやふる」(末次由紀/講談社「BE・LOVE」連載)が満を持しての実写映画化、しかも前編≪上の句≫、後編≪下の句≫の二部作連続での公開となります!

タイトルになっている「ちはやふる」とは、百人一首の中の一句で、1200年前の稀代の歌人・在原業平が禁じられた恋の相手を想って詠んだとされる「ちはやぶる神代も聞かず竜田川 唐紅に水くくるとは」が元になっています。歌には「私の燃える想いが、激しい水の流れを真っ赤に染め上げてしまうほど、今でもあなたを愛しています」という思いが込められており、“ちはやぶる”は “勢いの強いさま”そしてその勢いがただ一点に集中している状態を表し、“神”の枕詞として使われます。主人公・千早(ちはや)を表現し、また作品を象徴する歌なのです。


■ ストーリー
綾瀬千早(あやせちはや/広瀬すず)、真島太一(ましまたいち/野村周平)、綿谷新(わたやあらた/真剣佑)の3人は幼なじみ。新に教わった“競技かるた”でいつも一緒に遊んでいた。そして千早は新の“競技かるた”に懸ける情熱に、夢を持つということを教えてもらった。そんな矢先、家の事情で新が故郷の福井へ戻り、はなればなれになってしまう。「新にもう一度会いたい。会って『強くなったな』と言われたい。」千早の想いが情熱に変わるとき、百人一首の世界のごとく、世界が煌びやかに色づき始める。
高校生になった千早は、新に会いたい一心で“競技かるた部”創部を決意、高校で再会した太一とともに、部員集めに奔走する。呉服屋の娘で古典大好き少女・大江奏(おおえかなで/上白石萌音)、小学生時代に千早たちと対戦したことのある、競技かるた経験者で“肉まんくん”こと、西田優征(にしだゆうせい/矢本悠馬)、太一に次いで学年2位の秀才・“机くん”こと、駒野勉(こまのつとむ/森永悠希)を必死に勧誘、なんとか5名の部員を集め、創部に成功。初心者もいる弱小チームながら、全国大会を目指して練習に励み、東京都予選に臨む。千早の新への気持ちを知りながらも、かるた部創部を応援し、部長となった太一。彼もまた、新に勝たなければ前に進むことが出来ない。「千早に自分の気持ちを伝えたい」―。
千早、太一、新、そして瑞沢高校かるた部の、まぶしいほどに一途な想いと情熱が交錯する、熱い夏が来る。
<公式HPより>

▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン6は座席数215、スクリーンサイズ13.6×5.7m、比較的大きな劇場。C6は前から3列目のスクリーンを正面に左側通路に面した席。柵や手すりなども無く足元はかなりゆったりできるし、やや近すぎる観のある画面も多少斜めから見ると、ちょうどいいかもしれないと思った。映像そのものにこだわりを感じない作品であればなおさら前めの席、端寄りの席も悪くない。
平日だったので席に余裕があった。客層は若者中心。場所柄ビジネスマンの姿も多かった。


▶ 作品レビュー
原作を読んだことがない自分が言うのもどうかと思うけれど、あくまでも漫画を忠実に再現しようとする意図が強いのかもしれない。決して百人一首を描こうという意思を感じないためにそう思ってしまう。
冒頭のアニメーションと、挿入されるアニメーションと、エンディングのアニメーションが非常に美しく感じた。そういった意味でも、これはマンガやアニメの実写版に過ぎないのではと思ってしまう。
確かに、広瀬すずには萌える。しかし、海街とかの方がよほど萌えるわけで、カルタに焦点が当てられていないこの映画においては、カルタが邪魔になってしまっている。つまり重要なもの二つを互いに打ち消し合っているという非常に悲しい結果になっている。
漫画やアニメである程度結末を知っている人間は、あの映画をどう楽しむというのだろう。まぁ、忠実に再現することで生まれるカタルシスというのも理解できるが、大元を超えることは決してない。半ばそれを良しとして作っている向きをも感じてしまうところがまた腹立たしい、あくまで個人的意見ではあるけれど─。
とはいえ、映画サイトのレビュー評価は総じて高めだから多くは楽しめているという訳で、自分のような(門外漢?)はあくまで少数派。
といいながら、結構笑ったり楽しんだりしてしまったわけで、まぁ映画というものを芸術だのアートだの高尚なものとして捉えるところが意地が悪いのかもしれない。素直に面白いかもーぐらい言っておけばいいのかもしれない。
でも、ドラマで見たら面白いかもしれない、と思ってしまうところがまた悲しいというか差別的というか(映画に対してもテレビに対してもドラマに対しても─)、何でか知らないけれど、頭でっかちに“映画の質”とかに拘るならば、やっぱ駄目な作品だと思ってしまうんだなー…金を払ってるから?テレビドラマだと無料だから?能動性と受動性の問題?これらに結論づけようとすると、壮大な展開になりそうなのでやめておく、そんな勇気も自信もないし─。
最も不快に思ってしまったのは、映画が終わった瞬間いきなり、主題歌Perfumeとかいうテロップとともに爆音の割れた音を聴かされたこと。すぐ劇場を出てしまったけれど、まだこれって下の句なる続編があるんだよなーと思うと、急にブルーになってしまった。まだ松岡茉優も出てきていないから、見なきゃならないかなーと思っている次第…
とりあえず今のところは、下の句は消化試合のようなもので、読んでいない原作も読まないだろうし見だしたアニメもながら見必至。あくまで今のところは─。そう全く絶望しているわけではない。けれど、今さら期待してもねーというのが正直な気持ち。


ザ・デクライン

ザ・デクライン(1980年・アメリカ)
原題:The Decline of Western Civilization
公開日:(米)1981年6月1日 (日)2016年3月19日
制作:Spheeris Films Inc.
配給:(日)ビーズインターナショナル
時間:100分

監督:ペネロープ・スフィーリス
製作:ジェフ・プリティマン、ペネロープ・スフィーリス
出演:ほか
撮影:スティーブ・コナント
編集:チャーリー・ミューラン

鑑賞日:2016年3月19日
場所:シネマカリテ スクリーン1 C−15


■ ストーリー
パンクロックの魅力とそれに撮り憑かれた衝動を語る少年パンクスのユージン。棲みついたアジトの教会を紹介するBLACKFLAG。GERMSのダービー・クラッシュは「ビールをくれ」とステージでのたうちまわり、アパートで朝食の目玉焼きを作る。スラッシュ・マガジンの発行者ロバート・ビッグスは「パンクは最後に遺された革命」と発言、FEARのリー・ヴィングは客を殴り「レコード会社の人間は死ね」と叫ぶ。
世界中に影響を与え続ける、ロック・ドキュメンタリー映画の最高峰『ザ・デクライン』。ロンドン、ニューヨークで先行していたパンクロックの波が70年代末、カリフォルニアに到達、以後全米の地下世界に爆発的に吹き荒れたアメリカン・ハードコア/パンクのムーブメントの発火点となったロサンゼルスの、その瞬間を切り取った衝撃の記録。監督のペネロープ・スフィーリスはポルノ映画の制作を打診されるもそれを却下、逆に何かが弾けようとしていた異様な現場を活写した。アメリカン・ハードコアの巨人BLACKFLAGが怪物と化す前の様子、破滅と退廃の象徴GERMSのダービー・クラッシュが自殺を図る直前(1980年12月7日、自殺)の姿。若者たちはメインストリームに中指を立て、警察を憎み、趣くままの服装とヘアスタイルで、異質・異端であることを恐れず、マイノリティであることを自覚しながら、おさまりきらない孤独とストレスとアグレッションをライヴで発散させ、ロックスターはくだらないと蔑視する。本作はそんなLAの地下世界のカオスをX、GERMS、BLACKFLAG、CIRCLE JERKS、ALICE BAG BAND、CATHOLIC DISCIPLINE、FEARなどのLAパンクの猛者ともいえるバンドたちの暴力と堕落と怒り渦巻くライヴとともに映像におさめた唯一無二のドキュメンタリー映画である。
16mm撮影、制作費12万ドル。1981年3月13日、座席数1,200のハリウッド・ブルバード・シアターのプレミア上映では、キャパシティを超える3,500の観客が殺到、ロサンゼルス市警察は300人の機動隊を派遣した。客を捌ききれず暴動回避のため、深夜2時に急遽追加上映が組まれ、2回ともソールドアウト。警察長ダリル・ゲイツは監督に上映しないよう嘆願書を送付、以後上映できる劇場は現れず、一切のディストリビューションにのることはなかった。
【劇中音楽】
◆ FEAR(THE FLEETWOODとTHE ARENAでのライヴ)
“I Don’t Care About You”“Beef Bologna”“I Love Livin’in the City”“Let’s Have a War”
◆ ALICE BAG BAND (THE FLEETWOODでのライヴ)
“Prowlers in the Night”“Gluttony”
◆ CIRCLE JERKS (THE FLEETWOODでのライヴ)
“Red Tape”“Back Against the Wall”“I Just Want Some Skank”“Beverly Hills” and “Wasted”
◆ X (CLUB 88でのライヴ)
“Nausea”“Unheard Music”“Beyond and Back”“Johnny Hit and Run Paulene”“We’re Desperate”
◆ CATHOLIC DISCIPLINE (HONG KONG CAFÉでのライヴ)
“Underground Babylon”“Barbee Doll Lust”
◆ GERMS (CHERRYWOOD STUDIOSでのライヴ)
“Manimal”“Shutdown”
◆ BLACK FLAG (CHERRYWOOD STUDIOSでのライヴ)
“White Minority”“Depression”“Revenge
【評価】
★2014.8.21付BUZZ FEED ENTERTAINMENT 「最も観るのが難しい、レア映画TOP26」-第1位
★2014.8.15付Rolling Stone「史上最高のロックドキュメンタリーTOP40」-第5位
★英国TIME OUT LONDON「映画史上最も偉大な音楽映画ベスト50」-第15位
★2015.7.23付 PASTEMAGAZINE「史上最高のパンクロック・ドキュメンタリーベスト10」-第1位
★2011.1.12付 HOUSTONPRESS.COM「史上最高の音楽ドキュメンタリーベスト31」選出
★2015.7.7付 gearpatrol.com「音楽ドキュメンタリーベスト20」選出
★2015.10.16付 VULTURE「史上最高の音楽ドキュメンタリーベスト50」-第21位
<ザ・デクライン日本語公式HPより>

▶ 映画館環境
シネマカリテのスクリーン1は座席数97のミニシアター。
最前列かC-15またはE-16が私的ベストシート。今回はC-15。結局はこの席の選択率が高いかもしれない。
客数非常に多し、客層非常に雑多、若者中年高齢者、音楽が好きなのかドキュメンタリーが好きなのか、あるいは暇なのか─。


▶ 作品レビュー
これを音楽ドキュメンタリーと捉えると至極退屈だ。なぜならば、登場してくるバンドは(伝説的とか知る人ぞ知るとか言われているものの)名があるわけでもなく、しかもその演奏のほとんどが酷く杜撰で聴くに堪えない。しかし、それらは決して退屈なわけではなくむしろ見ていて笑ってしまう。そして、たびたび生み出される緊張感に釘付けとなり、圧倒されてしまう。音楽を映し出しているのではなく、あくまで熱狂する若者を捉えているドキュメンタリー映画であり、1980年初期の音楽熱が非常に良く伝わってくる。
それにしても、前半に登場してくるバンドの演奏はとにかく酷い。しかしそれが痛快であり、その私生活までをも盛り込むことによって爆笑・悪寒・嫌悪・剛胆等々、様々な思いが去来する。無鉄砲に、生活も顧みず音楽に打ち込む彼らを見ていると、愚かしいと思うよりもむしろ、音楽に対する純粋な気持ちというものを感じてしまう。しかしながら、音楽をただストレスの発散として見なしていることが音楽的発展を阻んでいるようにも思える。内にある情熱やメッセージは徐々に高まり洗練されていったとしても、それを伝える術の進歩が見られず、むしろ時として退化すら見られる。それゆえ、音楽の中にある意図や思想などを正確に伝えることができず、ストレス発散という面だけが周りに伝わって、ライブハウス内はただ単に混沌とするだけで、それが暴力をも生み出す始末─。
演奏に熱狂する者の思いとその音楽を求め集う者の思いをあぶり出しているこのドキュメンタリーは、単にライブシーンや演奏者のインタビューを収めているだけではく、その生活する場にも切り込んでいる。当時のアメリカの若者がみな私生活を包み隠さず晒すものかどうか分からないけれど、恥部とも見えるその内側を撮影するまでに、どれほどの労力を要したのか想像すらできない。しかも、彼らが発せられる言葉は非常に率直なものであり、その演奏と照らし合わすことで音楽に対する気持ちが非常によく分かる。雑に見えたり酷く聞こえる演奏も、何か意味をもって画面から伝わってくる。
さらに取材の対象を観客にまで向けて深く切り込んでいる点が注目に値する。音楽に熱狂するのは演奏する者ばかりではなく聴く側においても同じことであり、むしろそちらの方が多数派であるわけだから、そのオーディエンスの思いを真摯に受け止めなければ真の音楽における熱狂を捉えることができないはずだ。さすがにその私生活にまで入り込んでいるわけではないが、拾い上げたオーディエンスのインタビューを丁寧に綴っていくことでその思いの総体といったものをつくり出し、それをライブ会場で熱狂しているオーディエンスの映像と重ねることによって、暴走するかのような彼らの行動にも何かしらの意味を与えている。
作品が後半に進むに従い、演奏の質が上がっているように見えた。インタビューなどで確認する限り、音楽に対する思いも音楽を発展させようという意識も前半のものとは違う。しかし、会場の雰囲気は変わることがない。飛び交う罵声、飛び交う怒号、そして観客同士の殴り合い、ステージ上への乱入、演者と観客との殴り合い…、やはり根強く残るストレス発散という思いのぶつかり合いがそうさせるのか─、果たしてその熱狂はストレス発散という事だけに起因しているのだろうか─。恐らくそうではないだろう。そこには音楽に対するピュアな感情が絡んでいるように感じる。純粋に音楽をたのしみたい、ただその一心に彼らはそこに集っているだけなのだ。そしてそれは誰かのためではなく、自分のため、自分だけが音楽をたのしむために、そこに集まる。個と個が集い、それぞれの強い思いがぶつかり合うことで、予想を超えたエネルギーを生み出している。ある人はこの状況を見て破壊と捉え、またある人は新時代の到来と捉えたのかもしれない。確かにその場にある意識の集合体は、史上初めての出来事かのように映ったことであろうし、即ちそれがニューウェーブとして時代に刻まれたわけだ。
時代を越えた今、その役割は何であったのか個人的に考えてみたとき、それは商業主義しか生まなかったのではなかろうかという結論に至る。ヒット曲を生み出し、大金を手に入れるというニューアメリカンドリームというべきものを生み出したに過ぎない。
この作品の終盤においてもそれを予感させる記録が映し出されている。「俺たちはヒット曲を飛ばし、そして大金を手にした」と粋がるバンドに対してこれまでにないブーイングと唾の嵐が飛び交う。そこにあるのは情熱のぶつかり合いなどではなく、憎悪のぶつかり合い、すなわち単なる喧嘩にしか見えない。確かに演奏と楽曲はこれまで流れてきた中で最も質が良いように感じた。しかし、映し出されているのは称賛とか喝采とかといったものとは無縁の、まさに劇の終幕を表現していると同時にこのニューウェーブという熱狂の終焉をも暗示しているかのようだった。
何かの本に書いてあった言葉を思い出す─ロックとはその生誕の瞬間に終わっていた─という言葉を。何かが生まれているかのように見えたその現象は、同時に、すでに終わりをも示していたわけだ。表裏一体の出来事を見事に収めているこのドキュメンタリーは、まさに歴史の瞬間を捉えた貴重な記録と言える。映像美などとは無縁のこの作品が高く評価されるのは、その優れた描写にあると思う。そしてまた、この映画から「ザ・メタルイヤーズ」、「ザ・デクラインⅢ」へと続く意味合いも何となく理解できるし、否応なくそれらもぜひ見たいと思ってしまうのである。



父を探して

父を探して(2013年・ブラジル)
原題:O Menino e o Mundo
公開日:(ブラジル)2014年2月17日 (日)2016年3月19日
制作:Filme de Papel
配給:Elo Company (日)ニューディアー
時間:80分

監督:アレ・アブレウ
脚本:アレ・アブレウ
音楽:ナナ・バスコンセロスほか

鑑賞日:2016年3月18日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン7(TCX) F19


■ 作品について(プレスシートより)
 本作『父を探して』(英題「The Boy and the World」)は、ブラジル・インディペンデント・アニメーション界の新鋭アレ・アブレウ監督による長編アニメーションです。出稼ぎに出た父親を探しに、少年が広大な世界を旅するこの作品は、2014年のアヌシー国際アニメーション映画祭でクリスタル(最高賞)と観客賞を同時受賞という快挙を達成。これまでに44の映画賞を獲得しています。
 今年2月のアカデミー賞長編アニメーション部門でも、スタジオジブリ『思い出のマーニー』やピクサーの『インサイド・ヘッド』、アードマン『ひつじのショーン』ら有名スタジオ制作の作品に混じって、南米勢としては初めて最終候補にノミネートされました。

 クレヨン・色鉛筆・切り絵・油絵具などを自在に使い分けた筆づかいは、まるで絵本に魔法がかけられたかのようで、自然な質感と滑らかなアクションが見るものを驚嘆させます。また、高畑勲監督と宮崎駿監督にも影響を受けたと語るアブレウ監督は、多彩な動きや色で子どもを魅了するだけでなく、社会・政治・環境・経済といった大人の問題をテーマに掲げました。
 70年代〜80年代にかけて長い独裁政権を経験し、近年では経済成長が著しいものの、様々な矛盾が噴出するブラジル。本作はそのブラジルの歴史でもあり、現在の世界の縮図でもあります。さらに、それらすべてが比類のない芸術性と観察眼によって、一切のセリフもテロップも必要とせずに描かれている点で、言語の壁を超えた表現として世界的に高い評価を受けています。

■ ストーリー
 親子三人で幸せな生活を送っていた少年とその両親。しかし、父親は出稼ぎにでるため、ある日突然、列車に乗ってどこかに旅立ってしまった。少年は決意する。「お父さんを見つけて、家に連れて帰るのだ」と。未知の世界へと旅立つ少年を待ち受けるのは、過酷な労働が強いられる農村や、きらびやかだが虚飾に満ちた暮らしがはびこり、独裁政権が戦争を画策する国際都市。
 それでも、少年は旅先で出会う様々な人々との交流と、かつて父親がフルートで奏でた楽しいメロディの記憶を頼りに、前へ前へと進んで行く─。
<日本語公式ホームページより>


▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン7は座席数406、スクリーンサイズ18.7×7.9mTCXと大きな劇場。A列からE列までが前方ブロック、F列からO列が後方ブロック、H列とI列がプレミアシートという構成。ブロックごとの手すりも柵もないので、後方ブロック最前列となるF列が最高の席と考える。選んだF19はスクリーンを前にやや右よりの席。
東京アニメアワードフェスティバル2016(TAAF2016)のオープニングとして上映。ほんの10分ほど上映時間が遅れる。上映後、ほんの少しだけ画面に無駄なカットと無駄な音、そしてそこから行われるというオープニングセレモニーのために、ほんのちょっとだけそのまま座ってくださいと待たされる。なんだか頭に来てそんな作品以外の戯れ言に付き合いきれず退席…、我ながら大人げなかったと反省、せめてセレモニーぐらい参加すれば良かったものだが、同時にこの企画自体悪くないであろうTAAFなるものの行く末を憂うばかりである。
それほどの観客数ではなかった。半数の席が埋まっていただろうか。こういった大画面での上映もこのオープニング上映を最後に予定されておらず、以降ミニシアター系の上映が中心となる。ミニシアターが悪いわけではないけれども、これこそ大画面で見たい作品と思ってしまうわけで、そういった意味で以降の劇場展開が少しだけ残念で、非常にもったいない。


▶ 作品レビュー
点から線へ、そしてそれが面となり、いつの間にか一つの空間を形づくっていく。色彩豊かに時空を自在に変えていく幻想的な映像美にまずは引き込まれていく。
ブラジルの作品だからというレッテルを貼るわけではないが、その色彩はサンバとかボサノバといった音楽に等しく色彩豊か。表面上は煌びやかながら、内容は少し暗いといったところもブラジルそのものといったところか─。リコーダーによる印象的なメロディーも哀愁を引き立てる。
3人家族が分散する内容で、私見では父親と母親の離婚がきっかけで物語が始まったのかと思っていたが、ホームページのプロットを確認すると、父親がいなくなったきっかけは出稼ぎだったということを知る。セリフによる説明といったものが皆無であるため、一見しただけでは詳細な内容を熟知することは難しいかもしれないけれども、細かなところを気にすることなく全体を非常によく掴めたので、セリフを排除した意図も何となく分かった。セリフなしという売りにもなるし─。
ブラジルらしい作品と感じた最大の要因は、やはりその内容。描かれているその街並みが、テレビでよく知るブラジルそのものであり、展開も軍政や貧困といった問題や歴史を絡めていることから、作家が自国のことを表現している作品だと感じ取れる。2016年はまさにリオ五輪の年ではあるけれど、過去から現代そして未来に至るまで消えることがないように思ってしまう社会不安を強く感じてしまう。あの陽気なサンバのリズムは、暗い中から生まれ出ているのだという意識を持つと、その響きもまた違って聞こえてくる。
色彩も時空も、アニメーションの特性を存分に生かしているというべきなのか、かなり自由に展開する。過去と現在が並走していたり、煌びやかなスラム街、美しく空虚な一軒家とか一本木など、美しくもどことなく寂しい世界に感傷的になる。
何よりも驚いてしまうのが、この色とりどりの質感が異なる絵をアレ・アブレウなる人物がほぼ一人で描き上げているという事実。あらゆることろでスタッフクレジットを探ってみるも、プロデューサーや音楽製作に監督以外の名前が数多くみられるものの、あとは広報とアシスタントの名前がそれぞれ一人ずつ登場するのみ。編集もアブレウ名義であり、まさにインデペンデント映画であり、ほぼ一人で80分の長編アニメーションを制作してしまったということだ。ただ長いだけでなく、あの絵で80分は凄すぎる。その昔、ユーリ・ノルシュテインが十数分のアニメーションを制作するのに数年、あるいは十数年かけていたという苦労話を思い出して、なおさらにこの作品に秘められた制作力というものを感じてしまう。
一人でこんな上質の長編アニメを作ってしまうという事実が、まさにデジタル時代というものを象徴しているように思う。量も質もあのノルシュテインに迫る勢いで、とかく量に関していうならばそれを完全に凌いでしまっている。さすがに質に関していうと、あの重厚な油絵に比べるとかなりの薄い絵の質という印象は否めないものの、それを補うほどのアニメーション的な展開と豊富なバリエーションがこの作品にはある。手で描きつつもテクノロジーの力を存分に生かしているということがよく理解できるわけで、そういった意味で、個人でここまで作り上げられるというさらなるアニメーションの可能性を感じる。確かに、ここまで仕上げるまでには鍛練と実力と努力と根気等々、あらゆる能力を必要とされることとは思うけれども、いま目の前で展開されている至極の作品という事実があるわけだから、苦労でため息をついているノルシュテインを追い続けているアーティストに、大いに希望を与えているだろうし、新たな未来のインデペンデントを数多く生み出すことは必至だ。(現に個人で上質のアニメーションを作っているアーティストも数多く出ているわけで、その結果がこの長編作品に繋がっているのだともいえる。)
日本ではこういったアニメーションはなかなか出回らないし、評価にも繋がっていないように思う。ジブリを筆頭に、ドラえもんやポケモン、最近では妖怪ウォッチといったアニメーションがヒットして、どうしてもその売れ筋を基準にするわけで、大人から子供まで楽しめる分かりやすいアニメーションが数多く生まれている。コアなアニメとされるものもあくまで暴力的であったり過激な性描写といったところで区分けされているだけで、中身はジブリやドラえもんといったものと何ら変わりはない。アニメと絵、動画と絵画は全く違ったものという分け方をされてしまっている。
この作品のように、絵描きがアニメーションを作ったような印象の作品を日本で求めることは無理だと断言できる、残念ながら…。可能性として、マンガ家が個人で漫画ではなくオリジナルアニメを作るといったことぐらいしか感じない。インターネット漫画とかで動きなど見られることからその可能性は大いにあると思う。ただ、漫画には色彩というものが結構欠けていたりするわけで、それを思うとなかなか上質な長編作品とはいかないかもしれない。まぁ現代においても上質のモノクロ映画は存在しているけれど─。
思いは随分横道にそれてしまったけれど、このアヌシー最高賞と観客賞ダブル受賞という驚愕の作品を目にして、色々と考えさせられるところがあったということだ。日本のアニメーション文化は決して否定するものではないけれど、世界の評価はどういったところにあるのかということを踏まえてのお国自慢をしてほしいものである。


ヒロシマ、そしてフクシマ

ヒロシマ、そしてフクシマ(2015年/日本・フランス合作)
公開日:2016年3月12日
配給:太秦
時間:80分

監督:マーク・プティジャン
プロデューサー:山本顕一
製作:ドミニク・ベロワール
   マーク・プティジャン
出演:肥田舜太郎、野原千代、三田茂ほか
挿入動画:ロマン・ルノー
撮影:マーク・プティジャン
編集:マーク・プティジャン
音声:百々保之
音楽:リーズ・ノラ
ナレーション:水津聡

鑑賞日:2016年3月16日
場所:ユーロスペース スクリーン2 全席自由


■ プロット
肥田舜太郎医師96歳。1945年8月6日広島、自身も被爆しながら、軍医として被爆者の治療に従事する。以来、広島と長崎の被爆者を治療しながら核兵器廃絶を訴え続ける。肥田先生の活動を追い続けるマーク・プティジャン監督は、福島原発事故をきっかけに、現地に赴き、肥田先生と連絡を取り合いながら放射能汚染の脅威を追及しはじめる。
震災時に福島にいた人や、被災した人の診断を続けている医師らを取材し、広島から福島にいたるまで変わらない隠蔽体質を浮き彫りにする。
肥田先生は、原爆投下時に広島にいなかったはずの人まで被爆することに疑問を感じ続けて、それがようやく内部被曝が原因であることを自らつきとめたのは、かなり時間が経ってからだった。そもそも原爆投下関連のデータを米軍がなかなか見せてくれなかったため遅れたのだ。
同様のことが福島の時も起こり、今でも放射能汚染において不明な部分が多い。
肥田先生は言う、福島原発事故は決して終息などしていないし、まさにこれから起こりうる事なのだと─。それを象徴するような事象をマーク・プティジャン監督が独自の視点で追い求め、福島を含めた日本の未来を憂う。
日本の被爆と被曝をフランス人監督が追ったドキュメンタリー映画。


▶ 映画館環境
ユーロスペースのスクリーン2は座席数145。
スクリーンサイズがスタンダード(1:1.37)2.9×3.9m、
ヨーロピアン・ビスタ(1:1.66)2.9×4.814m、
アメリカン・ビスタ(1:1.85)2.9×5.365m、
シネマスコープ(1:2.35)2.9×6.815m、
いわゆるミニシアター。
どこに座っても問題なく観賞できるので、結構好きな劇場。
平日午後イチの上映、1日1回の上映、しかも3週間限定というためか、かなりの客数。
年齢層はやはり高め。


▶ 作品レビュー
福島第一原発事故後の出来事を中心に、放射能汚染について取材しているこの映画は、社会問題を扱ったドキュメンタリーであることは間違いない。だが、その視点はあくまでマーク・プティジャンという個人のものであり、描かれていることが客観的な事実かどうか分からないところもある。現に網羅されている情報においても、誤っていると感じられた部分もあったので、内容すべてを盲信する危険性も多少感じる。
しかし、もはや言うまでもないことをステレオタイプがごとく垂れ流すようなドキュメンタリーが多い中、細かな真偽はともかく、個人の取材に基づいた事柄を積極的に網羅することにより、テレビなどでたくさんの情報を得てきているにもかかわらず、今まで知り得なかった情報を数多く知り得た。これこそがマスメディアにはないドキュメンタリー映画の醍醐味だと改めて感じた。
そういった意味ではある程度、事前に情報を得ておかなければならないだろう。日ごろニュースなどに接していれば十分だとは思うけれど。
このことはメディアリテラシーという点においても非常に重要なことで、この映画に対してばかりに当てはまるわけでなく、普段あたかも本当にように流されているニュースなどに対しても当てはまるだろう。決してすべてがすべて正しいものではないのだ。ニュースと比較してこの映画の真偽を自分なりに考えると同時に、この映画を見ることによりニュースの真偽や世の中で言われている震災後の現状や放射能汚染の現状といったものを推し量ることができるわけだ。
そしてまた、外国人が見た日本の原発問題、放射能汚染問題というものを知るよい機会である。被爆国でありながら原発事故を起こしているこの愚かしさをどう思っているのか。不思議に思っているに違いないわけで、そうした思いで制作に至っていることは間違いないだろう。
マーク・プティジャン監督が日本でのドキュメンタリー映画を作り出したきっかけは、肥田舜太郎医師の著作物からだという。『広島の消えた日』という本を読み、そしてドキュメンタリー映画『核の傷』(2006年)を完成させる。そういったことから、放射能汚染と闘っている日本人に敬意を持って臨んでいるところを垣間見ることができる。真摯に核と向き合っている日本人がいるのに、どうして、今度は自らの手でそれを引き起こしてしまったのか…そう思ったに違いない(と自分が勝手に想像するだけなのだが、少なくとも当事国に住む自分などは自国の行為に大きな疑問を持ったことは確かなこと)。多くの人が思ったであろう疑問に、プティジャン監督なりの見方でその答えに道筋をつけてくれているように思う。
隠蔽体質というものが繰り返される愚行に大きく関わっていて、そこに目を向けなければ同じことは繰り返されると語っているかのようだ。
ヒロシマですらまだ終わったといえないのに、フクシマを引き起こし、そしてまたそれを終わらせようとしている。 肥田先生の言葉を借りるならば、それはこれからでありまだ起こってもいないのかもしれないのだ。
この映画を見ていっそう強く思うことは、福島をどうすればよいのか分からなくなってしまうということ。故郷に戻りたい人も当然いることだろう、だからといって帰宅困難区域や避難指定区域の早期解除などしてはならないと思ってしまう。ニュースで分かるのは終わらない放射能漏れ。そして映画で分かるのは確実に汚染が進行しているということ。漏れ続けているのだから、当然汚染も拡大していると言わざるを得ないところなのに、テレビなどでは言及は全くない。科学的データや根拠が無いからなのか分からないが、少なくともこの映画を見る限り、フクシマの影響は拡大しているのではと思わざる得ない。日本で暮らす日本人にとって、耳の痛い話ではあるけれど、耳どころか体全体が蝕まれているという話に耳を塞いではならない。少なくとも、こうして当事者ではないフランス人が強く問題提起していることを、率直に受け止めなくてはならないだろう。
そもそも、非当事国の人たちにとっても関係ない話ではない。フクシマの問題は地球規模なのだと自覚しなければならない。どこどこの国が日本の食物の輸入を制限していることに反発するばかりでは、決してフクシマは終息することはない。
もう発生したことであるわけだから、その終息などあり得ないと思う。ただそれをいかに最小限にするか、いかに大きくしないか、繰り返さないためにはどうしたらよいのか、そのことをまず第一に考える必要があるだろう。
この国で生きていく限り、何かしらの覚悟を決めなければならない、自分は今そう確信している。

映画についての具体的言及がかなり少なくなったが、最後に音楽について一言。
ミニマルともいえるその響きに魅せられ、また映画の雰囲気によく合っていたので、非常に印象に残っている。どこかで聴いたことがあるような響き─ミニマルミュージックだから何かに似る確率は高いのかもしれないけれど、強いて挙げるならば、映画『バベル』で流れていたススム・ヨコタの♪Gekkohなどに近かっただろうか─非常に分かりづらい例で恐縮だが、あくまで個人的見解だと思って勘弁願いたい。


あやつり糸の世界

あやつり糸の世界(1973年・ドイツ)
原題:Welt am Draht
公開日:(西独)1973年10月14日 (日)2016年3月5日
制作:Westdeutscher Rundfunk (WDR)
配給:(日)アイ・ヴィー・シー
時間:212分

監督:ライナー・ベルナー・ファスビンダー
製作:ペーター・メルテスハイマー、アレクサンダー・ベーゼマン
原作:ダニエル・F・ガロイ
脚本:フリッツ・ミューラー=シェルツ
出演:クラウス・レービッチェ(フレッド・シュティラー博士)
   マーシャ・ラベン(エヴァ・フォルマー)
   カール=ハインツ・フォスゲラウ(ヘルベルト・ジスキンス所長)
   アドリアン・ホーフェン(ヘンリー・フォルマー教授)
   バルバラ・バレンティン(グロリア・フロム)
   ギュンター・ランプレヒト(フリッツ・ヴァルファング)
   ボルフガング・シェンク(フランツ・ハーン)
   マルギット・カルステンセン(マヤ・シュミット=ゲントナー)
   ウーリー・ロメル記者(ルップ)
   ヨアヒム・ハンセン(ハンス・エーデルケルン)
   クルト・ラーブ(マーク・ホルム)
   ゴットフリート・ヨーン(アインシュタイン)
   エル・ヘディ・ベン・サレム(ボディーガード1)
   イングリット・カーフェン(編集部秘書ウッシ)
   エディ・コンスタンティーヌ(車中の男)
   クリスティーネ・カウフマン(パーティ客)
   ベルナー・シュレーター(パーティ客)
   マグダレーナ・モンテツマ(パーティ客)
   カトリン・シャーケ(転移室スタッフ)
   ルドルフ・バルデマル・ブレム(病院スタッフ)
   ペーター・カーン(介護人1)
   ソランジュ・プラーデル(マレーネ・ディートリヒ)ほか
撮影:ミヒャエル・バルハウス
美術:クルト・ラープ
衣装:ガブリエレ・ピロン
編集:マリー・アンネ・ゲアハルト
音楽:ゴットフリート・ヒュングスベルク

鑑賞日:2016年3月16日
場所:ユーロスペース スクリーン2


■ ストーリー
サイバネティック未来予測研究所というあやしげな名前の組織を中心に展開するSF映画。
そこではスーパーコンピューター<シミュラクロン1>が開発され、それを用いて現実世界とそっくりなヴァーチャル世界を創り出しており、それにより未来予測を予測しようとしていた。
ある日そのスーパーコンピューター<シミュラクロン1>の開発者のフォルマー教授が謎の死を遂げる。教授は死の直前、同僚のラウゼに重大な秘密を知ったと話していた。そしてその同僚のラウゼも姿を消してしまう。
次に研究所の責任者となったのがフレッド・シュティラー博士だった。彼は教授の死の謎とラウゼの失踪を追求しはじまる。彼がそういう思いに至ったのは、ラウゼが姿を消した瞬間から、ラウゼという存在を知る者は彼しかいないという恐ろしい現実を直面したからだった。
シュティラー博士が何よりも気になったことは、教授が死の直前に知ってしまったという謎のこと。それが何だったのか追い求めているうちに、博士もその重大事を知る。
博士や教授、そしてラウゼが存在していたこの世界は、自分たちよりも上位世界にすむ何者かが創り上げたものだったのだ。

テレビドラマとして16㎜フィルムで製作されているこの作品は、劇場用として35㎜フィルムにされることもなく、長い間、日本において公式の場では劇場未公開であった。デジタルリマスター版が製作されたことをきっかけに、ついに日本での劇場公開が実現した。


▶ 映画館環境
ユーロスペースのスクリーン2は座席数145。
スクリーンサイズがスタンダード(1:1.37)2.9×3.9m、
ヨーロピアン・ビスタ(1:1.66)2.9×4.814m、
アメリカン・ビスタ(1:1.85)2.9×5.365m、
シネマスコープ(1:2.35)2.9×6.815m、
いわゆるミニシアター。
今回はスタンダードサイズでの上映。
半ば映画オタクの集まりといった印象であった。

▶ 作品レビュー
出落ち観が強い作品であり、ストーリー展開だけを追い求めてしまうようだと、この長尺はかなりきついものがある。
マトリックスですでに経験済みの落ちであり、衝撃度も多少弱くなってしまっているとはいえ、ヴァーチャル世界の先駆けとして非常に価値のある作品であることは間違いない。
しかし、そればかりが隠れたSFの名作であると言われている所以ではない。斬新な内容におんぶに抱っこすることなく、まさに手練手管するかのごとく、映像そのもので見ているものを惹きつけようとする。巧みな映像表現こそがこの作品の評価に繋がっていると確信した。
R.W.ファスビンダー監督は40本以上もの作品を残し、37歳で夭折する。俗な言い方をすれば、天才は早くして死ぬのかというところだろうが、この作品を見る限り、天才肌とは違うような印象を受ける。丹念に一コマ一コマ構築しているような職人的要素を感じるのはなぜなのか。
まず16㎜フィルムを使用しているということは、かなりコストパフォーマンスを意識してのことと思うし、映像を見る限りカメラの台数を必要最小限に抑えているように感じる。それを補うかのような創意工夫、鏡面を用いることで1画面の中に複数の表情を収めてみたり、決して作り込まれているようには思えない未来の舞台(セットやロケーションなど)を考え抜かれた構図やカメラワークにより独自の未来観を構築していて、映像の質を落とすことがなく、しかもむしろそういった工夫によってこの作品を洗練させているように感じる。まさに現場で培ってきたもの作品に遺憾なく発揮しているといった印象だ。
そうは言っても、正直長すぎる。200分を超える大作。前半部分でほぼ謎とされるところは解決されてしまう。後半はそれをもとにした新たな展開。言わば前半がプロットの提示であり、後半が物語の提示といったところ。自分の中では、すでに前半部分で完結してしまったような印象で、後半部分は長い長いエピローグかのように感じてしまい、断片的に記憶がない。だからといってこの作品の後半部分が劣っているとは断言できない。劣っていたのは自分の意識でしかない。後半部分だけもう一度見直し、その時点において、この作品がどうなのか─噂に違わぬ名作なのか、ただ単に長いだけの大作でしかないのか、見極めたいと思う。
前半においてはすべてにおいて意識を集中できたわけであり、今の時点では、すべてのポテンシャルを完全に引き出している完璧な作品であると判断できる。
そしてまた、デジタルリマスターという技術面が大きいのかどうか分からないけれど、映像の質や色彩が予想以上に見事であった。確かに現代の技術もその要因たるものであろう。しかし最大の要因は、繰り返しになるが、考え抜かれた構図やカメラワークであるだろうし、さらには照明や小道具大道具、衣装などすべてが融合した結果がこの色褪せない画面を構築しているのだろう。劇中ラストで流れるギター音楽もまた、渋くこの作品を引き立てている。切なく流れるその調べが、作品の中に漂う主題のごとく、劇場内で響き渡る─社会派映像作家としても盛んに名を挙げられるファスビンダー監督ではあるが、このSF劇映画を観賞するだけでもそのように祭り上げられる所以が垣間見える。

アーロと少年

アーロと少年(2015年・アメリカ)
原題:The Good Dinosaur
公開日:(米)2015年11月25日 (日)2016年3月12日
配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ
製作:ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ、ピクサー・アニメーション・スタジオ
時間:93分

監督:ピーター・ソーン
脚本:メグ・レフォーブ
製作:デニス・リーム
製作総指揮:ジョン・ラセター、リー・アンクリッチ、アンドリュー・スタントン
出演:安田成美(アーロのママ・日本語吹き替え)
   松重豊(ブッチ・日本語吹き替え
   八嶋智人(ナッシュ・日本語吹き替え
   片桐はいり(ラムジー・日本語吹き替え
   石川樹(アーロ)ほか
音楽:マイケル・ダナ、ジェフ・ダナ

鑑賞日:2016年3月15日
場所:TOHOシネマズ新宿 スクリーン7 H−7


■ ストーリー
もしも、地球に隕石がぶつからず、地球が絶滅していなかったら…?
恐竜が話して、人間は話せなかったかも─
そんな架空の世界の物語

お父さんお母さん、そして3きょうだい、5恐竜の家族がギザギザ山の麓で協力し合って平和な生活を送っていた。末っ子アーロは家族の中で体が小さく、極度の弱虫だった。そんなアーロを心配するパパは、アーロに特別な任務を与える。それは、自分たちが栽培し蓄えている穀物を盗んでいる悪党を捕まえて、致命的な一撃を加えること。
果たして、アーロはそいつを捕まえ、最後の一撃を加える瞬間、優しい心が勝ってしまい、捕まえたやつを逃がしてしまう。それを見つけたパパは、アーロにすぐそいつを追って捕まえるよう指示する。逃げた輩を見失わないように、パパが先頭を走ってアーロがそれを追う。かなり遠くまで追ってゆくが川沿いを走っている限り、それが目印となって、帰りも簡単だとパパが言い、アーロを叱咤激励する。次第に天候も悪くなり、雷雨が激しくなってきた。ついにアーロが力尽き、帰宅を余儀なくされる。その瞬間、川の流れが急激に激しさを増し、激流がアーロたちを襲う。パパが必死にアーロをかばい、そして川に流され姿を消してしまう。
パパがいなくなって、4恐竜となった家族は、穀物の収穫に苦労していた。そんな中、またしてもあの盗っ人が倉庫を荒らす。それを見つけたアーロの怒りが爆発する。今度こそやつを捕まえ、処分する、そんな決意でやつを追う。またしても、あの川沿い。必死に追うものの全く捕まらず、今度はアーロ自身が川に落ちてしまい流されてしまう。
気付くと見知らぬ場所にいたアーロ。体も痛いし、おなかも空いてきた。そんなアーロを気づかったのは、あの盗っ人だった。その姿はヒトの子供。叫んだり吠えたりするだけで、言葉らしきものは発しない。アーロが話す言葉も通じない。しかし、気持ちは伝わっているようだった。犬猿の仲と思っていたコンビも、ともに野生の中を生き抜いていくうちに不思議な絆で結ばれる。そしてアーロは少年をスポットと呼ぶことになる。
スポットも孤独だった。孤独同士気持ちを寄せ合い、アーロの故郷ギザギザ山を目指して旅をする。あらゆる困難が彼らを襲う。果たして無事たどり着くことができるのか!?

同時上映:短編「ボクのスーパーチーム」(7分)
原題:Sanjay's Super Team(2015年・米)
監督:サンジェイ・パテル
製作:ニコール・パラディス・グリンドル
製作総指揮:ジョン・ラセター
音楽:マイケル・ダナ


▶ 映画館環境
TOHOシネマズ新宿スクリーン7は座席数409、スクリーンサイズ7.3×17.7mと大きめの劇場。全体的に座席のスペースが広めなため、どこに座ってもゆったりと観賞できる。H列は劇場の中央ややスクリーンよりだが、足場が広いため、この列であればどこでも満足。H-7はスクリーン向かって左端に位置するが、端という感覚をあまり持たずにスクリーンに入り込んでいける。
夜からの上映。6、7割の客入りという印象。子供から大人まで幅広い層がいた。遠くの方から大きないびきがして、自分を含め多くの人が肩を揺らしていた。それが笑いか怒りかは人それぞれだったと思うが─


▶ 作品レビュー
特筆すべきは、背景のCG。映画が始まると、これは実写との合成映画かと勘違いしてしまうほどの、超リアルに作り込まれたCG世界が展開する。あまりにリアルすぎて、キャラクターと背景に一瞬違和感を覚えそうになるが、絶妙な絵作りにより、リアルな大自然のなか、愛らしいキャラクターが見事に馴染む。
しかし、ストーリーに深みがなく、それほど面白いと思えないのが非常に残念。昔話的というか、教育的というか、とにかく子供に対する教訓めいた主張が強すぎて、ストーリーとCGの質感に違和感を覚えてしまう。絵本を劇画タッチで語るような違和感とでもいうのだろうか─。映画のコンセプトがイマイチ分からない。まぁ、そんなの分からなくとも、面白ければ問題ないはずだし、そもそもコンセプトとか余計な事柄に思考を持っていかれてしまう時点で、それほど成功している映画ではない。
決して悪い映画ではない。むしろ、称賛されてもおかしくない作品。なのに、なぜか個人的に肯定しかねている。何がそれほど気に入らなかったのか…
繰り返しになるが、やはりストーリーのまずさは否めない。あまりに単純すぎるし、表現が生やさしすぎる。あれだけリアルな世界を表現できるわけだから、もっと生々しさ、毒々しさというものを盛り込んでくれないと、童話にもなりきれないお休みのための読み物でしかない。性、暴力、差別、偏見等々、それら汚らしい(?)表現は皆無といってよい。だから、小さいお子様も大丈夫ですよーと強く主張できるものの、楽しめるかどうかは分かりませんよーと言わざるを得ない。
恐竜が言葉を使い、人間は言葉を使えないという設定は面白いと思う。時代背景を現実世界の歴史にあてはめるならば、ちょうど新石器時代にあたるのだろうか。農耕や牧畜で生計を立てていることから、文明の黎明期を想起する。しかし、それが今日あるような著しい発展を遂げるようなイメージが全くわき起こってこない。
別に「2001年宇宙の旅」がごとく哲学的な表現を求めているわけではない。面白ければ、こんなバカげたこじつけなど思いはしないのだろうが、何せ面白くないのでCG以外にあれこれ語ろうとすると、どうしても本筋から離れてしまう。
隕石の衝突がなく恐竜が生き残っていたとしたら─、そんな想定で作られた映画であることから、より現実世界に近い世界観を構築したかったのかもしれないと想像する。自然など背景における表現は文句のつけようもないけれども、やはりそれに対するキャラクターがあまりにもデフォルメされすぎているのではなかろうか。どうせならジュラシック・ワールド並みのダイナソーが言葉を喋るぐらいのリアルさが必要だったのではなかろうか。そこに猿の惑星とか2001年宇宙の旅とかに登場するような類人猿のCGが登場する…これはこれで面白いと思うけど、これでは完全にシニカルなコメディーだなぁ。
ほとんどストーリーの中に入り込んでいけなかったものの、一度だけ涙した。そこだけは、複雑な感情を感じ取ることができたからだ。セリフらしいセリフがほとんどない場面ではあったが、不覚にも溢れる涙が止まらなかった。そのシーンのおかげで、ストーリーにおいても完全否定ができなくなってしまった。
もっと複雑に入り乱れた感情表現を積極的に盛り込んでいれば、多くの賞も多くの興収も稼げていたような気がする。あらゆる人に受け入れられる可能性を秘めていただけに、非常に残念な作品だった。

幸せをつかむ歌

幸せをつかむ歌(2015年・アメリカ)
原題:Ricki and the Flash
公開日:(米)2015年8月7日 (日)2016年3月5日
配給:(米)Sony Pictures Releasing (日)ソニー・ピクチャーズエンターテインメント
時間:101分

監督:ジョナサン・デミ
製作:マーク・プラット
   ディアブロ・コーディ
   メイソン・ノビック
   ゲイリー・ゴーツマン
製作総指揮:ロン・ボズマン
      アダム・シーゲル
      ローリーン・スカファリア
      ベン・ワイズブレン
脚本:ディアブロ・コーディ
出演:メリル・ストリープ(リッキー)
   ケビン・クライン
   メイミー・ガマー(ジュリー)
   オードラ・マクドナルド
   セバスチャン・スタン
   リック・スプリングフィールドほか
撮影:デクラン・クイン
美術:スチュアート・ワーツェル
編集:ワイアット・スミス
衣装:アン・ロス

鑑賞日:2016年3月7日
場所:シネマイクスピアリ シアター15 D-9


■ ストーリー
ロックスターを夢見て、家庭をも捨てた女性、リッキー(メリル・ストリープ)。
彼女はすでに54歳、小さなライブハウスで彼女のバンド、ザ・フラッシュと共に往年のスターの楽曲をカバーしながら生計を立てていた。
ある日リッキーのもとに別れた夫から、実の娘ジュリー(メイミー・ガマー)が離婚してひどく落ち込んでいるとの連絡を受ける。夫の再婚相手が父親の看病のため不在で、ジェリーの心の支えがない状態だということで、助けを求められる。
20年ぶりに家族のもとを訪れたリッキーは、自殺をも考えるほどに落ち込んでいた娘の姿を目にし、自らの力で娘の気持ちを蘇らせようと覚悟を決める。
リッキーの自由奔放な振る舞いの影響からなのか、娘ジュリーの気持ちも徐々に晴れやかになっていく。昔の家庭を取り戻したかのようなリッキーだったが、実家から出て生活している二人の息子と出会うことで、自分の夢のために失われた絆は確実に存在しているのだということを思い知らされる。そして、夫の再婚相手が家庭に戻ってきて、目の前にある家庭の営みを目のしたとき、自分にはもはや歌以外に何も無くなっていたことを思い知らされる。
そして再びリッキーはライブハウスで歌い続ける。バイトをしながらのバンド活動─、その日暮らしの日々─。どうしようなく落ちぶれた自分に恋心を寄せてくるバンド仲間グレック(リック・スプリングフィールド)─、その思いを拒み続けてきたリッキーだったが、グレックが本気で彼女を支えるという覚悟を知るに至り、遂に彼を受け入れる。
新たな支えを得たリッキーのもとに、息子からの結婚式の招待状が届く。意外なことでこの上ない喜びではあったものの、蓄えも何も無い自分には、そこに参加する術はないと諦めてしまう。しかし、リッキーはもはや一人ではなかったのだ─。

メリル・ストリープと実の娘メイミー・ガマーとの共演が注目。
また、リック・スプリングフィールドの名演技・名演奏も見どころ。


▶ 映画館環境
シネマイクスピアリは劇場数16のシネマコンプレックス。シアター15は座席数164、シネコン内では中規模なサイズ。すべての劇場において、前方のブロックと後方ブロックとに分かれている構成。自分は常に後方ブロックの最前列を選択する。その列であれば、例え端であろうとも、映画の良し悪しを十分楽しめる。D-9はちょうど真ん中の席。
場内非常に空いていた。平日で子供向けでなければ、かなりの確率で空いている映画館、しかも朝割引きと夜割引きポイント無料観賞と観賞者に対して非常に優しい映画館であるため、個人的に贔屓にしている。


▶ 作品レビュー
メリル・ストリープがロックンローラーとして自ら歌うというだけで見る価値を感じる。しかも、リック・スプリングフィールドがパートナーとして演じているのだから、’70年代、'80年代の洋楽を浴び続けてきた者にとっては見ないわけにはいられない映画と言えよう。実際に大女優が小さなライブハウスでギターを弾くシーンから物語は始まる。演奏は率直に拙い。しかし、それ故のリアルさ─本当にあの人が演奏しているんだなという感動、滑稽さ、歌声も微妙だし─それ故、54歳にしてパートをしながらのライブハウス演奏という説得力というかリアリティー。そして、それを補うかのようにリアルミュージシャンであるリック・スプリングフィールドのギター演奏が鳴り響く…。
もうこれだけでこの映画は完結しているようなもので、ひどい言い方をしてしまえば、これからどんなストーリー展開があろうとも、どうでもいいと思ってしまう。
実際に、個人的見解ではあるが、リッキー・アンド・ザ・フラッシュの演奏以外に楽しむべきところはなかったし、特別な主義主張もなかったわけだが、だからといって適当に作られている映画とも思えない。
実の娘と共演までして人を楽しませようとするエンターテイメント魂、実際に瓜二つの顔に笑ってしまうし、似てるんだけど全く親子関係には見えないところにも滑稽さをも覚える。何よりも大女優メリル・ストリープが見た目ほとんど魅力を感じないおばちゃんになり切っているところが恐ろしい。今まで築き上げてきたオーラなど微塵も感じない。これが良いのか悪いのか見る人によって全く違った見解になることだろうが、一人の女性が身を削っている姿は間違いなくそこにはある。
ストーリーに関していえば、特筆すべきものは無く、出演者や設定だけで面白くしている映画だといえるのかもしれない。筋をいま改めて思い返してみると、恐ろしくつまらないものだったという思いが強まっているのだが、その場でそうは思わなかったのは、夢に破れた者、離婚、恋愛、同性愛、人種、そして格差社会といった、いまのアメリカ社会を象徴する物事が盛り込まれていたためだ。数十年前は夢のアメリカと憧憬されていた国は廃れ、あらゆる問題を抱えている国へと変わってしまった─。表現としては半ばとってつけたようなところがあるものの、決して的を外したものではない。ただ、最終的には貴族社会のようなステージでドレスを着た女優が賛美されて終わるといったところには納得しかねるところがある。あそこはライブハウスで家族とともに歌って踊って終わるべきだろうと思うのは、リッキー・アンド・ザ・フラッシュに思い入れを持った者だけが思うことであって、偉大なるアメリカというものを強く思う者にとってしてみれば、それがどんなにつまらないものであったとしても、この映画のあのラストこそが理想なのかもしれない。
ドレスコードにブルース・スプリングスティーンは似合わない。
最後に邦題の酷さについて言及しておかざるを得ない。なぜこれほどまでに原題と違った日本語タイトルになり得たのか理解できなかったのだが、この違和感極まりないラストが醜悪なタイトルを生み出したのだと納得した。それでもどうしてもそれを受け入れることはできない。しかし、ふと思うのはラストの違和感をそのまま映画に反映させようという思惑で、この不自然な日本語タイトルを敢えてつけたのではなかろうかと─、考えすぎだな。


オートマタ

オートマタ(2013年/スペイン・ブルガリア合作)
原題:Automata
公開日:(タイ)2014年10月9日 (日)2016年3月5日
配給:(日)松竹
時間:109分

監督:ガベ・イバニェス
脚本:ガベ・イバニェス
製作:アントニオ・バンデラス
   レス・ウェルドン
   ダニー・ラーナー
   サンドラ・エルミーダ
製作総指揮:アビ・ラーナー
      トレバー・ショート
      ボアズ・デビッドソン
出演:アントニオ・バンデラス(ジャック・ボーガン)
ビアギッテ・ヨート・スレンセン(レイチェル・ボーガン)
メラニー・グリフィス(デュプレ)
ディラン・マクダーモット(ウォレス)
ロバート・フォスター(ロバート・ボールド)ほか
撮影:アレハンドロ・マルティネス
美術:パトリック・サルヴァトーレ
編集:セルヒオ・ロサス
音楽:ザカリアス・M・デ・ラ・リバ

鑑賞日:2016年3月5日
場所:新宿ピカデリー シアター2 D-9


■ ストーリー
 2044年、太陽風の増加により、地球は砂漠化が進み、人口は99.7%減少し、わずか2100万人になってしまった。大気の乱れが地上の通信システムを妨害し、人類は技術的な後退を余儀なくされた。
目には見えないが大気はゆっくりと汚染され、機械雲が降らす雨の酸性化レベルは徐々に高くなりつつあった。
 ハイテク技術の大企業ROC社は、ピルグリム7000型という人型ロボット〈オートマタ〉を開発した。オートマタは、人類存続のため砂漠化を防ぐ巨大防御壁の建設や、機械式の雲を造るほかにも、人間社会に密に入り込んでいた。建設現場のみならず、家事、セックスなど、様々な人間の生活を幇助していた。
また人類が膨大な数のオートマタを管理・維持できるよう、2つの制御機能(プロトコル)が組み込まれた。
「制御機能 1:生命体への危害の禁止」
「制御機能 2:自他のロボットの修正(改造)の禁止」
ただしオートマタが何らかのトラブルを起こした場合、ROC社の保険部から調査員が派遣される。髪の毛を坊主頭のように短く刈り込んだジャック・ヴォーカン(アントニオ・バンデラス)は、その1人だった。
 ヴォーカンの脳裡に残像のように広がる美しい海は、遥か昔、幼い頃に海で遊んだ楽しい記憶なのか、あるいは海への憧れが抱かせる美しい幻想なのかは、彼自身にしか分からなかった。
 まもなく、ロボット嫌いの粗野な刑事ウォレス(ディラン・マクダーモット)によって、オートマタの異変が発見された。機能異常を見せたオートマタの所有者は不明で、しかも予備DCバッテリーや新しい補正液が加えられているだけでなく、第2プロトコルが失われていて、内部が相当改造されていた。
 そして改造部品の中に、現在稼働中のオートマタの部品がまじっていたために、ヴォーカンは、防御壁を造る建設現場に向かった。まじっていた部品は、溶接工のオートマタのもので、ヴォーカンが近づこうとすると、それは自らオイルをかけ、バーナーの火で自殺するかのように燃えあがって倒れた。
 溶接工のオートマタも、第2プロトコルが失われていて改造されていた。プロトコルは心臓部ともいえるバイオカーネル内にあり、量子暗号化されている。徹底的な安全システムのため、プロトコルを変更しようとすれば、バイオカーネルも壊れてしまう。そんなプロトコルを、一体誰が改造しているのだろうか?
 ヴォーカンは捜査中に出逢った女性技師、デュプレ博士(メラニー・グリフィス)から、プロトコルの重要性を知らされた。「猿の脳が我々の知性まで進化するのに約700万年かかったわ。でも第2プロトコルのないロボットなら、数週間で同じ進化を果たせるの。人間には脳の制約があるけど、ピルグリム7000型の唯一の制約は、第2プロトコルよ。それがなくなれば、ロボットの進化がどうなるのか、人間には予測不能といえるわ……」
 ROC社のホーク社長より、ヴォーカンに調査中止の謎の指示が届いた。ちょうど同じ頃、デュプレ博士からも驚きの実験結果がヴォーカンに報告されていた。改造カーネルを組みこんだ娼婦用オートマタ、クリオが、自らの肉体を改造し修理をはじめたというのだ。
 まもなくデュプレ博士は、見知らぬギャングたちに射殺され、ヴォーカンも狙われた。壮絶なカーチェイスの果て、車は大破。体にダメージを負ってしまったヴォーカンは、クリオら4体のオートマタに助けられ、広大な荒野を進んでいた。やがて街から遠のいていることを知ったヴォーカンは、妻が待つ街に戻してくれとオートマタに頼むが聞き入れてもらえない。このままでは、人間に危険な“立ち入り禁止区域”に入ってしまう。
 一方、急に産気づいて娘を出産したレイチェルにも、魔の手が迫っていた……。
 オートマタ・ピルグリム7000型を改造しているのは、一体誰なのか? そして、その目的とは? オートマタの隠された過去について、ROC社のホーク社長は何を知っているのか?
 ヴォーカンは、砂漠化した危険な荒野で、オートマタの遥かに複雑で恐ろしい真実を知ることになる……。(日本語公式HPより)

▶ 映画館環境
新宿ピカデリーのスクリーン2は座席数303、スクリーンサイズが…分からない。結構大きいと思うのだが、なんで公式HPにサイズを載せないのか?申し訳ないけど、自信がない、あるいは怠慢─と負の想像しかできない。
座席はC-9。前方から4列目、足元が広々としていて前方に障害物がない。ややスクリーンに近すぎるかも知れないが、前方の開放感を最良とするならば気にすべき問題ではない。ただ左寄りであることが残念な点。車椅子の位置が最も魅力的で、その隣の席がその次に魅力的なのだが、座席番号が振られておらず、そこは購入不可。しかし、いざ劇場に行くとそこには人が座っている。この劇場は秘密が多すぎて、何だか胡散臭い。
ウイークエンドの夕方の上映、しかも初日、それ故それなりの人の入り、客層は成人の多岐にわたる世代、6割ぐらい座席が埋まっていた気がする。失礼ながら、もっと少ないと予想していただけに、意外だった。


▶ 作品レビュー
不安と期待の映画鑑賞。特別目新しさのない近未来作品、しかも退廃しつつある人間社会を描いているわけで、嫌悪感だけしかない危険性を孕んでいる。
結末から言ってしまうと、次なる地球の支配者はロボットであるということを想像させるものとなっているのだが、見終わった感覚としてはそれほど不快なものではなく、むしろそれが自然の流れかもしれないという不思議な享受であった。
それを作り出していた第一の要因として、絵作りにあったように思う。違和感のない進化した未来、違和感のない頽廃した未来、そしてその相反する未来が絶妙に調和されており、その表現される絵も非常に魅力的に仕上がっているように思えた。まさに、ピカソやダリ、あるいはゴヤとかベラスケスといったスペイン絵画の巨人たちを思わせる、といったら過言であろうか。しかし、そういった要素を醸し出すだけの絵力は持っていたように思う。
そしてまた、第二の要因として、人型ロボットが非常に魅力的に描かれていることが挙げられる。そもそも、オートマタとは18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで作られた機械式人形や自動人形のことをいう言葉であり、それが21世紀のロボットに都合よくあてはめられているという設定。それがまた絶妙である。まず何より、ロボットの姿形がそれほど洗練されたものではなく、人型とはいえその容姿は人形と言うにふさわしく、それが自らの意思を持ち人間の手を離れていくという描き方がリアルさを感じてしまう。まさに器械が自立していくというのはこうことなのかも知れない。ロボットが支配する洗練された世界など、人間には想像できないはずであり、我々が想像できることはその創生でしかないわけだ。
純粋に描かれるそのオートマタの姿がまた、見ているこちらの心をくすぐる。人間の醜悪な行為と対照的に、地球と人間を純真に守ろうとするその行為や考え方に共感してしまう。人間はもはや滅びゆく存在であり、そしてその次に来るのはロボットが支配する社会であるという思想を植えつけられそうになってしまう。
ロボットの思想、そしてロボットの恋、ロボットの失恋、ロボットには不釣り合いな表現がごく自然に表現されていて、それを素直に受け入れることができるところにこの映画の価値があるように思う。そう思うのは自分だけかも知れないけれど─。
絵的にいい映画と言及したものの、未来都市の描き方はブレード・ランナーであり、ロボットと砂漠という表現はまさにスター・ウォーズの焼き写しなようなものではあるけれども、それらはパクリとは違って、あくまでも影響を受けたものとして捉えることができるし、それらを独自に進化させさらに磨きをかけた表現になっているように感じた。兎角、ほぼモノトーンの砂漠とロボットの表現が不思議な美しさを醸し出しており、ポスターなどでのキービジュアルそのものがスクリーン上で展開していることの喜びというか、視覚的な満足感が多分にあった。
絵的には満足しても、設定やストーリーなどには不満が多い。廃れた人間社会の構造がどうなっているの全くつかめなかったし、政府があるのか無政府状態なのか分からない。そして最もキーとなるはずのロボットが作り出すロボットというのがあまりにも謎すぎて、なんで虫的な容姿なのか、それを作った意味合いもよく掴めなかったし、それが進化していくことなど微塵も感じさせられない。人間などよりも虫の方が生き残っていくという皮肉なのか、単なるおもちゃを作ったに過ぎないのかよく分からない。そして、いざそれが動くと、いままでにないヌルヌルのCG的イメージが画面に突如として現れて、違和感極まりない。しかも極めて弱々しい存在だし、本当に何のための存在なのか理解しかねる。
人間の赤ん坊描かれ方はもっと酷かった。CGなのか本物なのか分からないその表情はあまりにも醜い。それが意図的なのかどうかは知る由もない。しかもそれが人質として扱われる。話の流れ上、人類の生命の原初をぞんざいに扱う設定にはどう考えても違和感しかない。もっとも、それだから人間は滅びゆく運命にあるのだという意図なのかも知れないが、それは考えすぎか─。いずれにしても、この物語の行き着く先は人類の滅亡であり、そしてその後に来るロボットが支配する社会でしかない。そして、それを夢想する自分は素直にそれを受け入れることができる。そして人類は神となるのだろうか─、と勝手に想像してしまうのであった。


ロブスター

ロブスター(2015年/アイルランド・イギリス・ギリシャ・フランス・オランダ・アメリカ合作)
原題:The Lobster
公開日:(英)2015年10月16日 (日)2016年3月5日
配給:(日)ファインフィルムズ
時間:118分

監督:ヨルゴス・ランティモス
脚本:ヨルゴス・ランティモス
   エフティミス・フィリップ
制作:エド・ギニー
   セシ・デンプシー
   ヨルゴス・ランティモス
制作総指揮:アンドリュー・ロウ
      テッサ・ロス
      サム・ラベンダー
出演:コリン・ファレル
   レイチェル・ワイズ
   レア・セドゥー
   ベン・ウィショー
   ジョン・C・ライリーほか
撮影:ティミオス・バカタキス
美術:ジャクリーン・エイブラムス
編集:ヨルゴス・ランティモス

鑑賞日:2016年3月5日
場所:シネマカリテ スクリーン2 C-1


■ ストーリー
単身者は身柄を拘束されてホテルに送られる。そこで45日以内にパートナーを見つけなければ、自らが選択した動物にされてしまう。

単身を罪とされた社会に生きるデヴィッド(コリン・ファレル)は、妻に逃げられて単身となったため、単身の罪で犬にされてしまった兄とともに、ホテルに入れられる。
そこでパートナーを見つけると、シングルからダブルの部屋に昇格し、そこでうまくいけばクルーザーの生活へと昇格する。そこでの生活をクリアすると晴れてカップルとして解放される。
単身のままだと、持ち分の日数が減っていくだけなのだが、不定期に発令される単身者の森での単身者狩りにおいて、単身者を捕らえることで、その日数が延長される。
パートナー探しも狩りもうまくいかないデヴィッドは、自分の日数がどんどん減っていくだけだった。追い詰められていく彼は、半ば強引に“薄情な女”をパートナーに選び、ダブルの部屋へと入っていく。しかし、彼女の冷たさに徐々に違和感を覚えていくデヴィッドは、犬の兄を彼女に蹴り殺されることで遂に彼女に見切りをつけ、そのホテルを脱走してしまう。
デヴィッドが向かったのは単身者の森。そこで単身者の仲間として受け入れられる。そこでのルールは恋愛禁止、そして何事も一人で完結させるということ。事前に墓穴を掘って、死ぬときも一人そこに入るといった徹底ぶりだった。
そこでは日夜、ホテルから送り込まれる狩人たちから身を守るための訓練が行われている。たとえ隣の仲間が襲われそうになっても手助けしてはならない。自分の身は自分で守るという信念で、厳しい訓練が続けられていた。
近視でメガネを掛け続けているデビッドは、自らも近視だと名乗るある女性(レイチェル・ワイズ)と出会い、禁断の恋に落ちてしまう。二人の恋は燃え上がっていくばかりで、ついには森のリーダー(レア・セドゥー)にも気づかれてしまう。森から逃げ出そうとする二人の動きを察知したリーダーは、それを阻もうとする—

第68回カンヌ映画祭コンペティション部門ノミネート、審査員賞受賞


▶ 映画館環境
新宿シネマカリテのスクリーン2は客席79、いわゆるミニシアター。
後方の列に座ると、スクリーンが小さく感じてしまう。
今回座った席は3列目のC−1、スクリーンを前にすると左端の席。劇場の構成上、どこに座っても見た目の大差はないように思うが、とにかく後ろは避けた方がいい。今回の席は前方が広々としていて、ベストの席といっていいだろう。
週末の最終上映、公開初日という割には、客席に空席が目立った。


▶ 作品レビュー
非常に面白い映画なんだけどR15指定であり、内容もやはりR15といわざるを得ない。恐らく、暴力とか性表現がその制限を設定しているのではないと思ってしまうところがまた、たちが悪い。個人的に最も嫌悪感を持ったのは、動物の表現。そもそも、人間が動物に“されてしまう”という設定自体が動物軽視の何ものでもない。別に動物愛護主義者などではないけれども、何だか動物への愛を感じられない映画だ。
といいつつも、それを見て非常に効果的だなーなんて思ってしまう自分がいる。まぁ、動物が大事だとか簡単には殺せないとか思いつつも、毎日のように肉を食いまくっているわけだから、この映画での動物表現を嫌悪するのは偽善でしかない。
冒頭から馬が銃で撃たれる。撃たれて崩れ落ちる馬に、別の馬が駆け寄っていくスローモーションにぐっときてしまう。何のためにそれが殺されたのか説明もないし、最後まで分からないままで終わるのだが、いまにしてみると漠然とその意味が掴めている。その意味が分かりだした今、この映画の味わい深さを噛み締めている。
全体的にシュール、シュールしすぎて爆笑していいのかためらってしまうところもある。捻れた世界観を作り出し、それに対するアンチテーゼの連続。必死にパートナーを追い求めてうまくいかず、恋愛禁止という領域に入った途端に最良のパートナーを見つけるという皮肉。とにかくズレを知的に作り上げながら、それを分かりやすい映像で伝えているが故に、独特の世界観でありながらも非常に分かりやすい。特段説明的なところを設けなくても、シナリオの流れにおいて、その場その場のルールを提示しており、なかなか巧妙である。
シュールな笑いの連続ではあるものの、結末に向けて話しは辛辣になり、その終わりは悲劇的で笑えない。笑いがいつの間にか悲しみになっていて、複雑に感情をかき乱す。
悲惨なシーンや卑猥なシーン満載であり、話しも現実離れしているわけで、正直どうしようもない映画かも知れないけれど、それをあえて作り、見て、笑い飛ばそうというその思想がまさにヨーロッパだなーという印象を強く持った映画だ。


マネー・ショート 華麗なる大逆転

マネー・ショート 華麗なる大逆転(2015年・アメリカ)
原題:The Big Short
公開日:(米)2015年12月11日 (日)2016年3月4日
配給:(米)パラマウント映画 (日)東和ピクチャーズ
時間:130分

監督:アダム・マッケイ
制作:ブラッド・ピット
   デデ・ガードナー
   ジェレミー・クライナー

   アーノン・ミルチャン
製作総指揮:ルイーズ・ロズナー=マイヤー
      ケビン・メシック
脚本:チャールズ・ランドルフ
   アダム・マッケイ
原作:マイケル・ルイス『世紀の空売り 世界経済の破綻に賭けた男たち』
出演:クリスチャン・ベール(マイケル・バーリ)
   スティーブ・カレル(マーク・バウム)
   ライアン・ゴズリング(ジャレッド・ベネット)
   ブラッド・ピット(ベン・リカート)ほか
撮影:バリー・アクロイド
美術:クレイトン・ハートリー
衣装:スーザン・マシスン
編集:ハンク・コーウィン
音楽:ニコラ・ブリテル

鑑賞日:2016年3月4日
場所:TOHOシネマズ日本橋 スクリーン6 C-12


■ ストーリー
2005年、金融トレーダーのマイケル・バーリ(クリスチャン・ベイル)はサブプライムローンが数年後にデフォルト(債務不履行)に陥ることを察知し、銀行や投資家、さらには政府にまで訴えるが全く取り合ってもらえない。そこで、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)という債務の元本に対してプロテクションを掛ける取引に目をつけ、サブプライムローンに掛けられたCDSを大量に購入する。それによりマイケルは、サブプライムローンが順調に推移している場合は一定額の保証金を払い続けることになり、一方、その債務の信用リスクが顕在化し価値が下がった場合、その分の金額を補填されることになった。まさに、サブプライムローンの価値が無くなることを見越しての投資だった。
それを察知した銀行マンのジャレッド・ベネット(ライアン・ゴズリング)は、サブプライムローンに不信感を募らせていたヘッジファンドマネージャーのマーク・バウム(スティーブ・カレル)にCDSへの大規模な投資を勧める。
さらに、住宅バブルに好機を見いだそうとする若き投資家2人も、一線を退いた伝説の投資家ベン・リカート(ブラッド・ピット)のアドバイスのもと、CDSの購入を進める。
2008年、遂に、住宅ローンの破綻に端を発する市場崩壊の徴候が現れる。国の経済の行方に憂いを馳せつつも、それぞれが大金を手にする時が近づいてきた─。
第88回アカデミー賞作品賞にノミネート、最優秀脚本賞受賞


▶ 映画館環境
TOHOシネマズ日本橋スクリーン6は座席数215、スクリーンサイズ13.6×5.7m、比較的大きな劇場。C−12は前から3列目の真ん中付近。柵や手すりなども無く足元はかなりゆったりできるものの、スクリーンが大きいため3列目はやや前過ぎる気がした。
公開初日の金曜の夜、そしてアカデミー賞効果もあったことだろう、かなりの客数。客層は中年が中心。


▶ 作品レビュー
この映画を見ようとしたのは、アカデミー賞というネームバリューと、映画の宣伝で流れるレッド・ツェッペリンに惹かれたためで、リーマン・ショックとかサブプライムローンなどに興味を持っていたからではない。とはいえ、それなりにニュースに接しているから金融に関して知識が無い自分でも十分理解可能だろうと臨んだ。それが少しあまかった。
いま改めてプロットを読み、固有名詞をちょっと調べてみて、ようやく映画の全体像がつかめた思いがしている。
サブプライムローンは分かっていてもCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)が何なのか分かっていなければ、この映画を正しく理解できないだろう。映画の中でも説明がなされるものの、全く理解できなかったというのが正直なところ。
この映画はテレビメディアなどの影響が色濃く、演者が突然カメラ目線で解説をし出したり、手描き風のアニメーションを用いて物事を説明的に表示しようしているのだが、あまりそれが効果的だとは思えなかった。あまりに提供されてくる情報量が多すぎて、ある程度知識が無ければついて行くことができない気がした。というよりも、そのついていけてないのが自分だったりするのだが…
所詮、音楽好きでしかない自分などには、劇中で流れるパンテラ、メタリカ、ガンズ・アンド・ローゼズ、ニール・ヤング等々、HR/HMを楽しむことだけが救いだった。
とはいえ、サブプライムローンの実態など垣間見ることができたし(まぁ、テレビとかでさんざん見ていたこととほぼ一緒なのだけれども)、格付け会社の実態とか、リーマン・ショックが徐々に発生し出す場面など、興味をそそられる部分はそれなりにあったわけで、最後まで見ることができた。そして、ラストのWhen The Levee Breakはお疲れさまのご褒美、歌詞もまさにリーマン・ショックにピッタリといった印象で、この曲をフルコーラスで流すセンスが素晴らしいと思ってしまった。小難しい内容で頭フル回転した後の解放感とでもいうのだろうか、挿入される不明なフラッシュカットがまた絶妙で、何だかここだけを見るためだけにここに来たような幻想を抱いてしまう。主役の一人であるマイケルがHR/HM好きという設定でハードロックを流し続けた理由がここにあったわけだ。
金融的な知識が豊富な人であれば、果たして、この映画を十二分に楽しむことができるのだろうか?メタル好きで金融マンならば無類の映画なのだろうか?
自分としては、中途半端なカメラ目線と、中途半端な解説がどうも腑に落ちない。確かに扱う内容は難しいし、単なるドキュメンタリーではなく劇映画としてリーマン・ショックをナチュラルに描く難しさもあるだろう。試行錯誤の結果が、この映画のようなスタイルになっていると思う。
ドラマとドキュメンタリーを組み合わせて作ったらどうだったのか、説明的すぎてつまらなそうに思えるし、ラストのレヴィーブレイクも無かったかもしれない。
内容自体が褒められる類いのものでもないし、例え大金を手にしたからといってイコールアメリカンドリームではない。ある意味アメリカンドリームなのだが、その本体が崩壊してしまっているわけだから、憧れなどは、そこにはない。説明を極力抑えて、ハードロックで気持ち良く水に流すことこそが最良の策だったのかも知れない。
当初は、なぜアカデミー賞の作品賞にノミネートされるのかあまり理解できなかったのだが、徐々にその所以をつかみつつある。そうは言っても、何故に脚本賞なのかよく分からない。それなりに価値ある情報が盛り込まれていたのかも知れないけれども、その密度が濃すぎて、素人にはついていけない。
知識もしくは予習ありきの映画であることは間違いない。

もしも建物が話せたら

もしも建物が話せたら(2014年/ドイツ・デンマーク・ノルウェー・オーストリア・フランス・アメリカ・日本合作)
原題:Cathedrals of Culture
公開日:(独)2014年5月29日 (日)2016年2月20日
配給:(独)NFP Marketing & Distribution (日)アップリンク
時間:165分

監督:ヴィム・ヴェンダース
   ミハエル・グラウガー
   マイケル・マドセン
   ロバート・レッドフォード
   マルグレート・オリン
   カリム・アイノズ
制作:アーウィン・M・シュミット、ジャン=ピエロ・リンゲル
制作総指揮:ヴィム・ヴェンダース

鑑賞日:2016年3月1日
場所:アップリンク スクリーン3


■ ストーリー
「もしも建物が話せたら、何を語るだろう?」というコンセプトで、世界的に名のある監督6人が独自の視点で建物を捉えた、オムニバス形式のドキュメンタリー映画。
ヴィム・ヴェンダース監督「ベルリン・フィルハーモニー」(ドイツ・ベルリン)
ミハエル・グラウガー監督「ロシア国立図書館」(ロシア・サンクトペテルブルク)
マイケル・マドセン監督「ハルデン刑務所」(ノルウェー・ハルデン)
ロバート・レッドフォード監督「ソーク研究所」(アメリカ・サンディエゴ)
マルグレート・オリン監督「オスロ・オペラハウス」(ノルウェー・オスロ)
カリム・アイノズ監督「ポンピドゥー・センター」(フランス・パリ)
6者6様の建物の物語が紡ぎ出される。
ヴィム・ヴェンダースが自国の言わずと知れた世界的交響楽団の本拠地を─
そして1862年設立の歴史ある図書館を生涯をドキュメンタリー制作に捧げたオーストリア監督ミハエル・グラウガーが─
そして出所者の再犯率がヨーロッパで最も少ないといわれるハルデン刑務所をデンマーク人監督マイケル・マドセンが─
ロバート・レッドフォード監督は自信がポリオにかかった経験からその予防接種を開発したソーク研究所を─
マルグレート・オリン監督は自国のオスロ・オペラハウスを─
そして最後を飾るのはブラジル人監督カリム・アイノズ、自信が17歳の時にパリに移り住んだこともあり、ポンピドゥー・センターを選択─
あくまで建物が主役の物語。


▶ 映画館環境
アップリンクのスクリーン3は40座席でスクリーンサイズ120インチと非常に小さな劇場。3つある劇場の中で一番小さい。どこに座っても見た目変わらない。ただ、1、2列目は半ば座椅子のようなものであり低すぎて座りづらい。個人的には3、4列目がベストと見た。
席は9割方埋まっていたように思う。客層は極めて若かった。


▶ 作品レビュー
いつかは行きたいベルリンフィルへ─あの建物しかり、ぜひともあそこであそこの管弦楽団での交響曲を体感してみたいものである。そういう思いが強いが故に、かなりの興味を持って見始めることができたのだが、個人的な嗜好を切り離して映像を眺めてみると、果たしてこの作品をどれだけの人が面白いと思って見ることができるのかと不安になってしまった。
確かに、何もない原っぱに立てられたこと、竣工途中にベルリンの壁が突如として築き上げられたこと、そしてその奇妙な形と音の関係など、興味深い話題も多いものの、非常にゆったりした展開と常に説明的な語りが続き、尚且つ映像的な刺激が非常に少ない。過剰な演出など必要がないようにも思うのだが、あまりにも特徴的な建物であるが故に、作家が自身の表現を前面に出すのをためらっているように感じてしまう。個人的には、特徴ある形状を活用した積極的絵作りを期待したのだが、極力抑えられている。その良し悪しは人それぞれだとは思うけれど、自分としては物足らない。
次のグラウガー監督の「ロシア国立図書館」において、その懸念がまんまとはまってしまう。哲学的というか詩的というか、非常に抽象的な語り口で、特徴的な建物の映像が紡ぎ出されているのだが、個人的興味が全くそこには注がれず、ただただ暗闇へ引きずり込まれるような思いに至る。本好きにはたまらないのだろうか…
3話目のハルデン刑務所には多少救われた。建物の説明はほぼなく、マイケル・マドセン監督が思いのままに自身の絵を構築しようとしていて、見ていて飽きない。設定も、建物が終始擬人化されているという切り口という極めてシンプルなものであり、しかもその語りがプロによるものではないという演出に、まんまと引き込まれていく。まさに普段何もしゃべらないものがぎこちなく語っている雰囲気が出ていて、それだけで力強い説得力を持っていたように思う。それ故、囚人がモデルのようなポーズを決めてキッチリと画面に収まっていようとも、何の違和感もなく楽しめてしまう。映像自体は非常に冷たい無機質な印象なのだが、それに反して全体的に不思議な包容力があり、何だかその刑務所で生活してみたいなという禁断の思いをも感じてしまった。気持ち良く4話目へと続く─
ようやくメイン(?)のロバート・レッドフォード。でも、個人的には彼が作った作品よりも、彼が出ている作品の方にこそ価値を見いだしてしまうわけで、そういった意味では、このソーク研究所などもそれほどの期待もなく、あわよくば監督出演もあるかもとの淡い期待だけで根気よく集中するのだけれども、当然ながらむなしい結果となり、映像にも建物そのものにも特別な要素が感じられず、なかなかの苦行を強いられた。構成は建物の歴史と偉業を淡々と語るもの。まさにドキュメント。それ故に、特筆すべきものは何も無かったように思ってしまう。
5話目、オスロ・オペラハウス。最後までどんな構造になっているのか全く分からないくらい、不思議に魅力的な白い建物。北欧にピッタリといった印象で、あらゆる人に愛されているというニュアンスが伝わってくる。極力説明的な語りなどは抑えられており、オペラやバレエ、パントマイムといった要素を前面にして、抽象的に展開していく。芸術的に非常に魅力的な要素が揃ってはいるものの、あまりに捉え所がなく、見ている側としては言い知れぬ不安に襲われてしまった。
ラストを飾るのは文句なしのポンピドゥー。改めてその際立った存在感を見せられた気がする。これを1970年代のパリで造ろうとしたこと自体がアートと言えよう。建物こそが芸術なのだと主張するその切り口には、ただただ納得するばかり。そこの入り口はまさに空港ゲートのようなもので、そこを通り抜けるとあらゆるアートへの旅が始まるわけだ。建物を鑑賞し、作品を鑑賞し、そしてパリの街を鑑賞する─アートを生み出し続ける街の、誇りと威厳がそこには存在していた。斬新な映像や構成などは皆無ではあったけれども、これほどアートの威圧があれば致し方ないだろう。それでもそれをぶっ壊すくらいのチャレンジを、見ている側は求めてしまうのだが…
全体的に、あまりにもゆったりし過ぎていて、しかも作品一つ一つの雰囲気がほぼ同じでであるが故に、退屈な作品であると見做さざるを得ない。オムニバスで、確かに6者6用の作品が並んではいると認識はできるものの、その意義をあまり見出せない。ヴェンダースが一人で6つの建物を描いたとしても、あまり変わらない気がする。
確かに、気品ある高貴な映画だとは思うけれども、果たしてどれだけの人がこれを楽しむことができるのかと考えたとき、否応なくこの作品の価値は下がってしまうことだろう。ただ、学術的価値、芸術的価値は大いにあるだろう。それ故に、単に楽しませるためのものではないことは十二分に承知した上で、尚且つ、もっと面白いオムニバス映画にできなかったものかと思ってしまうのである。