無伴奏(2015年・日本)
公開日:2016年03月26日
配給:アークエンタテインメント
時間:132分
監督:矢崎仁司
原作:小池真理子
脚本:武田知愛、朝西真砂
出演:成海璃子(野間響子)
池松壮亮(堂本渉)
斎藤工(関祐之介)
遠藤新菜(高宮エマ)
松本若菜(堂本勢津子)
酒井波湖(レイコ)
仁村紗和(ジュリー)
斉藤とも子(野間秋子)
藤田朋子(千葉愛子)
光石研(野間幸一)ほか
撮影:石井勲
美術:井上心平
編集:目見田健
音楽:田中拓人
鑑賞日:2016年3月26日
場所:シネマカリテ スクリーン1 B-1
■ ストーリー
舞台は1960年代後半の学生運動が盛んだった時代─
仙台で暮らす野間響子(成海璃子)は、父親の転勤で家族が東京へ引っ越す中で受験のためにひとり仙台の叔母の家に残ることになった。
響子は友人と共に制服廃止委員会を結成するなどして体制に反発し、時代の流れに乗って学生運動などにも参加していた。しかし、それは単に流行に乗っているだけで、純粋に政治や国際情勢に対して反発しているわけではなかった。
ある日、響子と友人は、クラシック音楽を静かに鑑賞する喫茶店「無伴奏」を興味本位で訪れる。世間の喧騒とは異質の空間─そこで初めて、堂本渉(池松壮亮)、関祐之介(斎藤工)、高宮エマ(遠藤新菜)と出会う。その出会いをきっかけに、響子は「無伴奏」に通い、学生運動からは一線を画し、そして渡、裕之介、エマとの親交を深めていく。
裕之介とエマは恋人関係にあり、愛し合う姿を見せつけられる中、響子は渡に惹かれていき、そして互いに心を寄せ合っていく。
渡の中に潜む影を感じながらも、響子は渡を強く愛していく。渡もまた、自らの影を自覚しつつも響子の愛を受け止めていく。
響子と渡、裕之介とエマ、4人の関係は単に2つのカップルというものではなかった。そこには秘められた複雑な関係が潜んでいる。入り組んだ愛と憎悪が徐々に姿を露わにし、そして悲劇を生んでいく─。直木賞作家・小池真理子の半自伝的同名小説を完全映画化。
▶ 映画館環境
シネマカリテ・スクリーン1座席数97
今回選択したBー1席は2列目の前方向かって左端の席。スクリーン自体が右に寄っているため最悪のポジションであった。平日の朝一番の上映で空いていたにもかかわらず、興味本位に左端を選んだ自分が悪いのだが、この劇場、左端の席は総じてNGだということを十二分に思い知らされた。
客層、自分をのぞき文学好き?といった印象。
▶ 作品レビュー
昭和の時代というものを尊重したレトリックな画面作りだったように思う。良くも悪くも全てが古臭い感じ。個人的には、ただ時代遅れという印象が強くて、場面場面ではロマンポルノを彷彿とさせるような映像で、何だか小さい頃に存在した日活の映画館の中に自分が居るような気持ちになり、あの禁断の領域に自分が足を踏み入れてしまったような、言い知れぬばつの悪さを感じてしまった。
しばらく前に見た「キャロル」と比べると、どうしても格好の悪さを感じてしまう。作り方も古くしなければならないといった拘りがあったのかどうか分からないが、もう少しだけオシャレにという意識で作ってくれたら、もしかしたら好きな作品になったかもしれないという残念感が強い。
正直ストーリーはあまり好きにはなれないけれど、テーマみたいなものには共感できる。テーマそのものがあるのかどうか微妙なところではあるが、作家が描きたかった熱い思いは非常に良く伝わってきた。シンプルに表現してしまえば、青春の光と影なのかなぁと─、あまりに乱暴すぎるかもしれないけれど…。
変に過激なセックス描写を、決してリアルに思えないリアルさで持って描いているところがポルノとかAVのようにしか感じることができなかった要因。性交が重要だというのであればもっと工夫が欲しいと思ってしまう。あんな表現だから見る人は必然的に限られてしまうわけで、多くの人に見せようという意識は希薄のように感じてしまう。そもそも、胸も出すことができない女優にハードセックスを求めているところが違和感極まりない。
学生運動の時代というのは、今の時代、もはやお伽噺のようにしか感じることができないわけで、この話も現実味のないお伽噺としか捉えることができないのに、変に生々しくて何だか非常に嫌な気持ちになってしまう。幻想的に描いて欲しかったー、まぁ部外者の戯言でしかないけれど…。まさか昨今の安保関連法案に関する反対デモに呼応して過去の亡霊を呼び覚まそうとしたわけではあるまい、まさかね─。
生々しいと思うのはあくまで映像だけで、仙台が舞台なのに東北弁は全くないし、斎藤工も池松壮亮も現実離れした役作りで、単に過去の出来事を再現しようとしたわけではないと認識できるし、まるでパラレルワールド的な過去を描いているかのような印象を受けることもまた事実。それ故に尚更、なんで映像だけあんなに生っぽいんだろうと思ってしまう。本当に残念でならない。
原作も読んだこともないし、学生運動が盛んだった時代への憧れも全くないし、出演者や制作陣への思い入れなども全くない。しかし、予告編を見てこの映画に魅力を感じて、公開までかなり期待もしていた。しかし、期待以上のセックス描写に(別にこの映画に性的なものを期待していたわけではないので)かなり引いてしまった。原作を読んでみるべきだと思っている。それを読んだところでこの映画への評価はあまり変わることはないとは思う。そして、原作に共感できるはずと、読む前から勝手に都合のいい判断をしている。なぜならば、成海璃子だけを見つめていると自然と涙が流れてくるからだ。それも、原作の良さではなくあくまで成海璃子の上手さから来る感情とも言えるのだが…。
ふと渋谷の名曲喫茶ライオンへ行ったときのことを思い出す。まさにこの映画に登場する「無伴奏」と全く同じ雰囲気であり、空間も映画のごとく異様に生々しかった印象がある。そう思うと、この映画で描こうとしたことも何となく理解できるような気になる。ひょっとするとこの映画はよくできた作品なのかもしれないと、ここへ来てこれまでの主張を覆すような思いにもなっている。
もしかしたら自分が不満だったのは成海璃子の胸が見ることができなかったという、ごくごく小さな事を隠したいがために、理不尽にもこの映画を批判しているのではと感じ始めている。ただ、あのセックス表現で隠すところが絶対に間違っていると思うわけで、胸が見えない不満は意外と大きいものだったりする。それに何と言っても、あの絵の質感も古くさい嫌な邦画の質感としか感じることができないわけで、やっぱ個人的にはあまり好きになれない作品と判断せざるを得ない。
0 件のコメント:
コメントを投稿