原題:La femme de la plaque argentique
公開日:2016年10月15日
配給:ビターズ・エンド
時間:131分
監督:黒沢清
脚本:黒沢清
出演:タハール・ラヒム(ジャン)
コンスタンス・ルソー(マリー)
オリビエ・グルメ(ステファン)
マチュー・アマルリック(ヴァンサン)
マリック・ジディ(トマ)
バレリ・シビラ(ドゥーニーズ)
ジャック・コラール(ルイ)
プロデューサー:吉武美知子、ジェローム・ドプフェール
共同製作:ジャン=イブ・ルーバン、定井勇二、オリビエ・ペール、レミ・ビュラ
脚本コンサルタント:黒沢弘美
撮影:アレクシ・カビルシン
美術:パスカル・コンシニ、セバスティアン・ダノス
衣装:エリザベス・メウ
編集:ベロニク・ランジュ
音楽:グレゴワール・エッツェル
メイキング:熊切和嘉
鑑賞日:2016年11月1日
場所:ヒューマントラストシネマ有楽町 シアター2 D-2
■ Introduction イントロダクション (公式HPより)
数々の国際映画で高い評価を受け続け、
世界中に熱狂的な“キヨシスト”を持つカリスマ、
黒沢清が初めて振り上げたフランス映画。
カンヌ、ヴェネチア、ベルリンといった世界最大映画祭に出品され、ヨーロッパを中心に世界中で高い評価を得ている黒沢清監督。2015年カンヌ国際映画祭ある視点部門で『岸辺の旅』が監督賞を受賞し、本年も『クリーピー 偽りの隣人』がベルリン国際映画祭に出品され、好評を博した。
その黒沢監督がオールフランスロケ、外国人キャスト、全編フランス語のオリジナルストーリーで挑んだ初めての海外進出作品『ダゲレオタイプの女』。監督以外はキャストも含めすべてが現地スタッフの中、撮影は行われた。
主人公のひとりとも思えるほどにこだわり抜いたロケーション、不穏さを漂わせる空気さえ映し込んだような画面……。ホラーでいてヒューマンドラマ、ジャンルも、生死も、国境を越えた、まぎれもない黒沢印の新たな傑作が誕生した。
世界最古の写真撮影方法“ダゲレオタイプ”が引き寄せる愛と死。
愛が命を削り、命が幻影を見せ、愛が悲劇を呼ぶ。
ダゲレオタイプの写真家ステファンのアシスタントに偶然なったジャン。その撮影方法の不思議さに惹かれ、ダゲレオタイプのモデルを務めるステファンの娘マリーに恋心を募らせる。しかし、その撮影は「愛」だけではなく苦痛を伴うものだった……。芸術と愛情を混同したアーティストである写真家のエゴイスティックさ、父を慕いながらも拘束され続ける撮影と家の離れ自らの人生をつかみたいマリーの想い、撮影に魅了されながらもただマリーとともに生きたいジャンの願い、そして、自らの命を絶っていたステファンの妻の幻影……愛が命を削り、愛が幻影を見せ、愛が悲劇を呼ぶ。世界最古の撮影を通して交わされる愛の物語、愛から始まる取り返しのつかない悲劇。これまでにないクラシカルで端正なホラー・ラブロマンスが誕生した。
ヨーロッパを代表する名優たちによる豪華競演。
黒沢世界を構築したグレゴワール・エッツェルの耽美な映画音楽。
主人公を演じるのはジャック・オディアール監督作品『預言者』でセザール賞の主演男優賞と有望若手男優賞をダブル受賞したほか数々の映画賞を受賞、アスガー・ファルハディ、ファティ・アキンなど名匠とのタッグが続く実力派俳優、タハール・ラヒム。ダゲレオタイプに魅かれ、やがて悲劇にのまれる男、ジャンを存在感たっぷりに演じた。ジャンが恋心を抱くヒロインには『女っ気なし』で注目を集めた女優コンスタンス・ルソー。写真家の娘マリーを愛らしく、儚く、そして、魅力的に演じる。そして、ダルデンヌ兄弟作品で知られるオリヴィエ・グルメがダゲレオタイプの写真家ステファンの傲慢さと苦悩を体現し、さらには数々の名作に出演しているマチュー・アマルリックが脇を固めている。フランス映画界のみならず、世界の映画界を支える名優たちが競演し、『ダゲレオタイプの女』の世界を見事に形にした。
映画音楽を担当したのはデブレシャン監督作品で知られるグレゴワール・エッツェル。数々の映画音楽を手掛けてきたエッツェルが本作のためにアビーロードスタジオで映画音楽を収録、唯一無二の黒沢世界を美しく彩っている。
■ Historic ストーリー (公式HPより)
その撮影は永遠の命を与える愛。
パリ郊外、再開発中の街の一角、古い路地に佇む屋敷。
ジャンは、そこに住む気難しそうな中年の写真家ステファンの助手として働きはじめた。
「これこそが本来の写真だ!」等身大の銀板には、ドレスを着て空虚な表情を浮かべるステンファンの娘マリーが写っている。ステファンは娘をモデルに、ダゲレオタイプという170年前の撮影方法を再現していたのだ。露光時間の長い撮影のため、動かぬように、手、腰、頭……と拘束器具で固定されていくマリー。
「今日の露光時間は70分だ!」ステファンの声が響く。
ダゲレオタイプの撮影は生きているものの息遣いさえも銀板に閉じ込めるかのようだ。
この屋敷ではかつてステファンの妻でマリーの母ドゥーニーズもダゲレオタイプのモデルをしていた。ドゥーニーズは今はもうこの世にいない。しかし彼女の姿は銀板に閉じ込められ、永遠を得たのだ。
ダゲレオタイプに魅入られたステファン。そんな芸術家の狂気を受け止めながらも、父から離れて自分自身の人生を手に入れたマリー。そんな彼女に惹かれ、やがて共に生きたいと願うジャン。
ダゲレオタイプの撮影を通して、曖昧になっていく生と死の境界線。
3人のいびつな関係は、やがてある出来事をきっかけに思いもよらぬ方向へと動き出す──。
▶ 映画館環境
ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2
スクリーンサイズ(m):VV 3.5×1.8 /CS 4.0×1.6 座席数:63
D−2は前から4列目、左端の席。小劇場で、どこに座っても大丈夫のような気がした。極論、最前列でも可。4列目以降が段がついて、やはり真ん中付近がベストのような気がした。
▶ 作品レビュー
目には見えないけれど何ものかが存在するような恐怖感、あるいは、目に見えているのに何も存在しないような恐怖感、独特の空気感が常に作品を包み込む。
命あるものをストイックなまでに写真の中に静止させようとする行為そのものに恐怖を感じるし、こだわり抜いて完成された人物大の白黒写真はリアルで生々しく、まさしく生あるものが全く動かないという異様な空気感を感じると同時に気持ち悪さを感じてしまう。確かにダゲレオタイプで撮影される巨大な写真は芸術作品と呼ぶに相応しい。仮に、映画の中に出てきたダゲレオタイプの写真を目の前にしたなら、おそらく称賛の気持ちしか生まれないのではないだろうかと想像できる。しかし、物語が進むにつれて、その写真に向けられていた想いが大きく変化していく、称賛から恐怖へと──。
結末の衝撃度からすると考えられないくらいに、内容は非常に静かにゆっくりと流れていくという印象。誰もいない空間、その場所を固定カメラで長回し、まさに静的な映像が多用され、それがこの映画の長さにもつながっている。正直、それら動きが欠如した映像が連続すると退屈感を感じてしまうし、酷い場合は眠気まで催す。しかし、それは激しい映像に毒された自分が悪いのであって、この作品にはそれら数多くの静なる空間が必要不可欠であり、この作品を受け止めるには自らの中で湧き起こってくる怠惰な気持ちを克服しなければならない。
映画の中の違和感には気づきつつも、その違和感を受け止めようとしない主人公ジャンの気持ちが何となく理解できるわけで、夢の中で事を進める愚かなジャンに共感さえしてしまう。非現実的だと思っても自らの欲望と合致するところが多ければ、いつまでもそこに浸ろうとする、現に自分も映画という非現実的な世界に浸り続けているわけで、ジャンが突然現実に引き戻されるその気持ちというものは、まさしく自分が見ていた映画が終わってしまったものと似ているわけだ。もっとも、ジャンが感じた絶望感は自分が感じた悲しい気持ちとは比較にならないくらいに大きいものだったろうけれど…。
舞台が日本でもフランスでも関係なく、映像はまさしく黒沢清監督そのものであると感じた。それを良いとか悪いとか安易には言及できないけれど、確固たるスタイルを確立していると強く感じた。
日本の幽霊とヨーロッパの幽霊を比較すると、歴然とした違いがあるわけで、それを題材にした映画にしても明確な違いを常に感じるものだが、黒沢清映画に関しては黒沢清の空間があり、強いて言うなら黒沢清のお化け屋敷がそこにあるといった印象を持った。
ただ単に怖いだけではない、不思議な暗澹たる危懼とか寒慄といった感覚を覚える幽霊映画は他に見出せない。もっとも、こういった類いの映画はホラー映画とかミステリー映画などと呼ばれているわけだが、敢えて幽霊映画などと言ってしまうのにはそれ相応の理由がある、むしろそういった見方を見出した。
とはいえ、ヨーロッパが舞台になることで映像の華麗さが増したように感じた。いわゆるジャパニーズホラーと呼ばれるものに往々にしてある生々しさはほとんど感じることなく、その代わりというのか、見た目の美しさがその穴を埋めているといった印象。「ダゲレオタイプの女」という華麗な題名が物語っているように、今回の映画は映像そのものの華麗さが際立っていたように思う。故に今まで以上に乾いた印象を持ったし、同時に戦慄というものがやや薄れているという気がした。だからこそ、黒沢映画の特徴がより際立っているように思うし、こういった華麗で暗澹たる危懼・寒慄といったものが監督が目指していたものでは? と勝手に感じている。
命あるものをストイックなまでに写真の中に静止させようとする行為そのものに恐怖を感じるし、こだわり抜いて完成された人物大の白黒写真はリアルで生々しく、まさしく生あるものが全く動かないという異様な空気感を感じると同時に気持ち悪さを感じてしまう。確かにダゲレオタイプで撮影される巨大な写真は芸術作品と呼ぶに相応しい。仮に、映画の中に出てきたダゲレオタイプの写真を目の前にしたなら、おそらく称賛の気持ちしか生まれないのではないだろうかと想像できる。しかし、物語が進むにつれて、その写真に向けられていた想いが大きく変化していく、称賛から恐怖へと──。
結末の衝撃度からすると考えられないくらいに、内容は非常に静かにゆっくりと流れていくという印象。誰もいない空間、その場所を固定カメラで長回し、まさに静的な映像が多用され、それがこの映画の長さにもつながっている。正直、それら動きが欠如した映像が連続すると退屈感を感じてしまうし、酷い場合は眠気まで催す。しかし、それは激しい映像に毒された自分が悪いのであって、この作品にはそれら数多くの静なる空間が必要不可欠であり、この作品を受け止めるには自らの中で湧き起こってくる怠惰な気持ちを克服しなければならない。
映画の中の違和感には気づきつつも、その違和感を受け止めようとしない主人公ジャンの気持ちが何となく理解できるわけで、夢の中で事を進める愚かなジャンに共感さえしてしまう。非現実的だと思っても自らの欲望と合致するところが多ければ、いつまでもそこに浸ろうとする、現に自分も映画という非現実的な世界に浸り続けているわけで、ジャンが突然現実に引き戻されるその気持ちというものは、まさしく自分が見ていた映画が終わってしまったものと似ているわけだ。もっとも、ジャンが感じた絶望感は自分が感じた悲しい気持ちとは比較にならないくらいに大きいものだったろうけれど…。
舞台が日本でもフランスでも関係なく、映像はまさしく黒沢清監督そのものであると感じた。それを良いとか悪いとか安易には言及できないけれど、確固たるスタイルを確立していると強く感じた。
日本の幽霊とヨーロッパの幽霊を比較すると、歴然とした違いがあるわけで、それを題材にした映画にしても明確な違いを常に感じるものだが、黒沢清映画に関しては黒沢清の空間があり、強いて言うなら黒沢清のお化け屋敷がそこにあるといった印象を持った。
ただ単に怖いだけではない、不思議な暗澹たる危懼とか寒慄といった感覚を覚える幽霊映画は他に見出せない。もっとも、こういった類いの映画はホラー映画とかミステリー映画などと呼ばれているわけだが、敢えて幽霊映画などと言ってしまうのにはそれ相応の理由がある、むしろそういった見方を見出した。
とはいえ、ヨーロッパが舞台になることで映像の華麗さが増したように感じた。いわゆるジャパニーズホラーと呼ばれるものに往々にしてある生々しさはほとんど感じることなく、その代わりというのか、見た目の美しさがその穴を埋めているといった印象。「ダゲレオタイプの女」という華麗な題名が物語っているように、今回の映画は映像そのものの華麗さが際立っていたように思う。故に今まで以上に乾いた印象を持ったし、同時に戦慄というものがやや薄れているという気がした。だからこそ、黒沢映画の特徴がより際立っているように思うし、こういった華麗で暗澹たる危懼・寒慄といったものが監督が目指していたものでは? と勝手に感じている。
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